三和銀行:競合排除のための資本再編
昭和金融恐慌後の淘汰から三行合同の調印へ
1912年〜大銀行主義の政策と大戦景気下の株式組織への改組
政府は大銀行主義を掲げていた。1911年10月、大蔵省は地方長官あてに銀行合併促進の通達を出し、翌1912年春の関西銀行大会では、蔵相山本達雄氏が大銀行主義の必要とその手段としての合同促進を説き、人口10万以上の都市では資本金100万円以上でなければ認可しない方針を示している『今日なお不確実なる銀行そのあとを絶たず、小銀行地方に分立して小区域に競争するは時勢の要求に添わざるものあり、銀行の合併を奨励してその基礎の鞏固を図り、支店制度を拡張して有無相通ぜしむるの必要あり』。しかし実績は乏しく、1901年から1913年までに消滅した普通銀行374行のうち合同によるものは53行にとどまり、残る321行は解散と破産だった。合同に加わったのはきわめて小規模の銀行ばかりで、本格的な展開は大正後半期を待つことになる。銀行の数はむしろ増え続け、1920年末には全国で1326行・2796店舗を数えた。監督の側も手を強め、1916年には大臣官房の一課にすぎなかった銀行課を廃して銀行局を新設し、銀行条例の改正で大蔵大臣に業務停止の処分権を与えている。
- 日本産業史(日経文庫)第1巻 金融・商業「銀行-中小銀行に苦難」
- [1]1911年10月に大蔵省が地方長官あて銀行合併促進の通達を出し、1912年春の関西銀行大会で蔵相山本達雄氏が大銀行主義と合同促進を説き、人口10万以上の都会では資本金100万円以上でなければ認可しない方針を示した
- [2]1911年10月に大蔵省が地方長官あて銀行合併促進の通達を出し、1912年春の関西銀行大会で蔵相山本達雄氏が大銀行主義と合同促進を説き、人口10万以上の都会では資本金100万円以上でなければ認可しない方針を示した
- [3]1901年から1913年までに消滅した普通銀行374行のうち合同によるものは53行、他の321行は解散・破産
- [4]この時期の銀行合同に参加したのはきわめて小規模の銀行であり、銀行合同の本格的な展開は大正後半期以降になった
- [6]1916年に大臣官房の一課に過ぎなかった銀行課を廃して銀行局が新設され、同年の銀行条例改正で大蔵大臣に業務停止などの処分権が与えられた
- 大和銀行四十年史(大和銀行、1958年)
- [5]銀行数は1920年末に1326行・2796店舗となっていた
第一次大戦を契機とするブームが、異常な金融の膨張をもたらした。各行は競って預金利子を引き上げ、定期預金に8分5厘という高率を支払うものさえ現れている。弊害が大きくなると銀行間の協定が求められ、1918年12月、蔵相高橋是清氏の勧奨で預金利子の協定が成立し、まず主要6都市から実行に移されて全国へ広まった。この協定は1947年10月に独占禁止法に触れるとして廃止されるまで、およそ30年にわたり金融史上の役割を果たした。大戦が終わっても貿易は惰性的に好調を保ち、通貨の膨張は衰えず物価は昂騰を続けたが、金融界はその反動を見越しておおむね警戒していた。
- 企業の現代史「あなたの銀行(三和銀行)」(1963年)
- [7]第一次大戦を契機とするブームは異常な金融の膨張をもたらしたが、戦後の反動期に適切な経済政策がとられず、累積した矛盾が1927年の恐慌となって爆発した
- 大和銀行四十年史(大和銀行、1958年)
- [8]大戦期には各行が競って預金利子を引き上げ、定期預金に8分5厘という高率を支払うものもあった
- [9]1918年12月、蔵相高橋是清氏の勧奨で預金利子の協定が成立し、まず六大都市から実行に移され全国へ普及した
- [10]預金利子協定は1947年10月に独占禁止法に触れるとして廃止されるまで約30年続いた
- [11]大戦終結後も貿易は惰性的に好調で通貨の膨張は衰えず物価は昂騰を続けたが、金融界は反動を予見しておおむね警戒気味であった
山口銀行が株式会社へ組織を改めたのは1917年で、以後は三十四銀行と肩を並べる有力行として大阪の財界で重んじられた。鴻池銀行も1919年にこれに続き、古くからの地盤と信用の厚さで老舗の格を保った。両行が個人経営から離れた時期は、ちょうどこの膨張の局面に重なる。ただ組織を改めても三行の規模には開きが残り、1918年8月末の在阪普通銀行の払込資本金は住友銀行の2250万円が首位で、三十四銀行1397万5000円、浪速銀行1125万円、山口銀行1000万円、大阪野村銀行1000万円が続き、鴻池銀行は300万円にとどまった。名門としての信用の厚さと、預かる資金の量は別のものである。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三和銀行」の項
- [12]山口銀行は1917年(大正6)に株式組織へ改組し、三十四銀行と雁行する有力銀行として大阪財界に重きをなした
- [13]鴻池銀行は1919年(大正8)に株式組織へ改組し、古い地盤と厚い信用をもって名門銀行の貫禄を示した
- [14]山口銀行は1917年(大正6)に株式組織へ改組し、三十四銀行と雁行する有力銀行として大阪財界に重きをなした
- [15]鴻池銀行は1919年(大正8)に株式組織へ改組し、古い地盤と厚い信用をもって名門銀行の貫禄を示した
- 大和銀行四十年史(大和銀行、1958年)
- [16]1918年8月末の在阪普通銀行の払込資本金は住友銀行2250万円、三十四銀行1397万5000円、浪速銀行1125万円、山口銀行1000万円、大阪野村銀行1000万円、鴻池銀行300万円であった
参考文献[1]-[16]
- 日本産業史(日経文庫)第1巻 金融・商業「銀行-中小銀行に苦難」
- [1]1911年10月に大蔵省が地方長官あて銀行合併促進の通達を出し、1912年春の関西銀行大会で蔵相山本達雄氏が大銀行主義と合同促進を説き、人口10万以上の都会では資本金100万円以上でなければ認可しない方針を示した
- [2]1911年10月に大蔵省が地方長官あて銀行合併促進の通達を出し、1912年春の関西銀行大会で蔵相山本達雄氏が大銀行主義と合同促進を説き、人口10万以上の都会では資本金100万円以上でなければ認可しない方針を示した
- [3]1901年から1913年までに消滅した普通銀行374行のうち合同によるものは53行、他の321行は解散・破産
- [4]この時期の銀行合同に参加したのはきわめて小規模の銀行であり、銀行合同の本格的な展開は大正後半期以降になった
- [6]1916年に大臣官房の一課に過ぎなかった銀行課を廃して銀行局が新設され、同年の銀行条例改正で大蔵大臣に業務停止などの処分権が与えられた
- 大和銀行四十年史(大和銀行、1958年)
- [5]銀行数は1920年末に1326行・2796店舗となっていた
- [8]大戦期には各行が競って預金利子を引き上げ、定期預金に8分5厘という高率を支払うものもあった
- [9]1918年12月、蔵相高橋是清氏の勧奨で預金利子の協定が成立し、まず六大都市から実行に移され全国へ普及した
- [10]預金利子協定は1947年10月に独占禁止法に触れるとして廃止されるまで約30年続いた
- [11]大戦終結後も貿易は惰性的に好調で通貨の膨張は衰えず物価は昂騰を続けたが、金融界は反動を予見しておおむね警戒気味であった
- [16]1918年8月末の在阪普通銀行の払込資本金は住友銀行2250万円、三十四銀行1397万5000円、浪速銀行1125万円、山口銀行1000万円、大阪野村銀行1000万円、鴻池銀行300万円であった
- 企業の現代史「あなたの銀行(三和銀行)」(1963年)
- [7]第一次大戦を契機とするブームは異常な金融の膨張をもたらしたが、戦後の反動期に適切な経済政策がとられず、累積した矛盾が1927年の恐慌となって爆発した
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三和銀行」の項
- [12]山口銀行は1917年(大正6)に株式組織へ改組し、三十四銀行と雁行する有力銀行として大阪財界に重きをなした
- [13]鴻池銀行は1919年(大正8)に株式組織へ改組し、古い地盤と厚い信用をもって名門銀行の貫禄を示した
- [14]山口銀行は1917年(大正6)に株式組織へ改組し、三十四銀行と雁行する有力銀行として大阪財界に重きをなした
- [15]鴻池銀行は1919年(大正8)に株式組織へ改組し、古い地盤と厚い信用をもって名門銀行の貫禄を示した
1927年〜昭和金融恐慌と銀行法による在阪老舗銀行の淘汰
1927年の金融恐慌は、大阪の老舗銀行を退出させた。近江銀行、加島銀行、藤田銀行といった先輩諸銀行が閉店あるいは経営の挫折に至っている。いずれも1918年の払込資本金では在阪12行のうちに数えられた行で、近江700万円、藤田512万5000円、加島500万円という規模を持っていた。第一次大戦後の反動期に適切な経済政策がとられなかったため、累積した矛盾がこの年の恐慌となって爆発したのである。恐慌の後、預金の一部は郵便貯金や信託へ流れたが、銀行の信用回復とともにこの異常な資金移動は止まった。1918年に払込資本金を並べた在阪12行のうち3行が、10年を経ずに市場から退出したことになる。
- 大和銀行四十年史(大和銀行、1958年)
- [17]1927年の金融恐慌で大阪の近江銀行・加島銀行・藤田銀行などの先輩諸銀行が閉店あるいは経営挫折した
- [18]1927年の金融恐慌で大阪の近江銀行・加島銀行・藤田銀行などの先輩諸銀行が閉店あるいは経営挫折した
- [19]1918年8月末の在阪普通銀行の払込資本金は近江銀行700万円、藤田銀行512万5000円、加島銀行500万円であった
- [21]金融恐慌の結果、銀行預金の一部は郵便貯金や信託に流出したが、銀行の信用回復とともにこの異常な資金移動はやんだ
- 企業の現代史「あなたの銀行(三和銀行)」(1963年)
- [20]第一次大戦後の反動期に適切な経済政策がとられず、累積した矛盾が1927年の大恐慌となって爆発した
整理合同に拍車をかけたのは、1928年1月から施行された銀行法である。同法は銀行の資本金を最低100万円とし、特定の大都市に本店を置くものは200万円の株式会社でなければならないと定め、5年間でこの規格に達することを求めた。単独の増資による適格化は許されなかったため、小銀行には合同するほかに道がなかった。施行当時の普通銀行1283行のうち非適格は半数の617行にのぼり、1928年中だけで252行が淘汰されている。普通銀行の数は1926年末の1420行から1932年末には538行へ減り、一行あたりの店舗数は3.75店から10.99店へ増えた。
- 大和銀行四十年史(大和銀行、1958年)
- [22]1928年1月施行の銀行法は銀行の資本金を最低100万円、特定の大都市に本店を置くものは200万円の株式会社と定め、5年間での規格達成を求めた。単独の増資による適格化は許されず、小銀行は合同するほかなかった
- [23]1928年1月施行の銀行法は銀行の資本金を最低100万円、特定の大都市に本店を置くものは200万円の株式会社と定め、5年間での規格達成を求めた。単独の増資による適格化は許されず、小銀行は合同するほかなかった
- [24]1928年1月施行の銀行法は銀行の資本金を最低100万円、特定の大都市に本店を置くものは200万円の株式会社と定め、5年間での規格達成を求めた。単独の増資による適格化は許されず、小銀行は合同するほかなかった
- [25]銀行法施行当時の普通銀行は1283行、うち非適格銀行は半数の617行にのぼり、1928年中だけで252行の淘汰があった
- [26]普通銀行数は1926年末の1420行から1932年末に538行へ減り、一行あたり支店出張所数は3.75店から10.99店へ増えた
預金の集中は、恐慌の直接の結果だけではなかった。地方農村経済の深刻な衰微と、取り付けを経験した預金者が同じ預けるなら都市の大銀行へと傾いた心理が、吸収と併合の結果に上乗せされた。1927年末から1932年末にかけては政府の緊縮政策と金解禁が重なり、全国普通銀行の総預金は若干減少したものの、一流大銀行ではかえって増加している。三十四・山口・鴻池の三行も小銀行を併合し、住友・安田・三井・三菱などの財閥系諸銀行に次ぐ位置へ進んだ。弱小企業と銀行の整理、企業の集中と大規模化が進むなか、巨大銀行の優位は金解禁を経ていよいよ著しくなっていた。
- 大和銀行四十年史(大和銀行、1958年)
- [27]預金が地方から大都市へ、中小銀行から大銀行へ流れた原因は吸収・併合のほかに地方農村経済の衰微と、パニックの経験から同じ預けるなら都市の大銀行へという預金者心理にあった
- [28]預金が地方から大都市へ、中小銀行から大銀行へ流れた原因は吸収・併合のほかに地方農村経済の衰微と、パニックの経験から同じ預けるなら都市の大銀行へという預金者心理にあった
- [29]1927年末から1932年末にかけ政府の緊縮政策と金解禁が重なり全国普通銀行の総預金は若干減少したが、一流大銀行では相当の増加を見せた
- 日本会社史総覧 三和銀行(東洋経済新報社、1995年)
- [30]昭和初期の金融恐慌下、住友・安田・三井・三菱等の財閥系諸銀行がシェアを伸ばすなかで、三十四・山口・鴻池の3行も小銀行の併合などによりこれらに次ぐ有力銀行としての地位を固めた
- 企業の現代史「あなたの銀行(三和銀行)」(1963年)
- [31]弱小企業・銀行の整理と企業の集中・大規模化が進むなか、巨大銀行の優位性は昭和金融恐慌と金輸出解禁を経ていよいよ著しい傾向を示した
参考文献[17]-[31]
- 大和銀行四十年史(大和銀行、1958年)
- [17]1927年の金融恐慌で大阪の近江銀行・加島銀行・藤田銀行などの先輩諸銀行が閉店あるいは経営挫折した
- [18]1927年の金融恐慌で大阪の近江銀行・加島銀行・藤田銀行などの先輩諸銀行が閉店あるいは経営挫折した
- [19]1918年8月末の在阪普通銀行の払込資本金は近江銀行700万円、藤田銀行512万5000円、加島銀行500万円であった
- [21]金融恐慌の結果、銀行預金の一部は郵便貯金や信託に流出したが、銀行の信用回復とともにこの異常な資金移動はやんだ
- [22]1928年1月施行の銀行法は銀行の資本金を最低100万円、特定の大都市に本店を置くものは200万円の株式会社と定め、5年間での規格達成を求めた。単独の増資による適格化は許されず、小銀行は合同するほかなかった
- [23]1928年1月施行の銀行法は銀行の資本金を最低100万円、特定の大都市に本店を置くものは200万円の株式会社と定め、5年間での規格達成を求めた。単独の増資による適格化は許されず、小銀行は合同するほかなかった
- [24]1928年1月施行の銀行法は銀行の資本金を最低100万円、特定の大都市に本店を置くものは200万円の株式会社と定め、5年間での規格達成を求めた。単独の増資による適格化は許されず、小銀行は合同するほかなかった
- [25]銀行法施行当時の普通銀行は1283行、うち非適格銀行は半数の617行にのぼり、1928年中だけで252行の淘汰があった
- [26]普通銀行数は1926年末の1420行から1932年末に538行へ減り、一行あたり支店出張所数は3.75店から10.99店へ増えた
- [27]預金が地方から大都市へ、中小銀行から大銀行へ流れた原因は吸収・併合のほかに地方農村経済の衰微と、パニックの経験から同じ預けるなら都市の大銀行へという預金者心理にあった
- [28]預金が地方から大都市へ、中小銀行から大銀行へ流れた原因は吸収・併合のほかに地方農村経済の衰微と、パニックの経験から同じ預けるなら都市の大銀行へという預金者心理にあった
- [29]1927年末から1932年末にかけ政府の緊縮政策と金解禁が重なり全国普通銀行の総預金は若干減少したが、一流大銀行では相当の増加を見せた
- 企業の現代史「あなたの銀行(三和銀行)」(1963年)
- [20]第一次大戦後の反動期に適切な経済政策がとられず、累積した矛盾が1927年の大恐慌となって爆発した
- [31]弱小企業・銀行の整理と企業の集中・大規模化が進むなか、巨大銀行の優位性は昭和金融恐慌と金輸出解禁を経ていよいよ著しい傾向を示した
- 日本会社史総覧 三和銀行(東洋経済新報社、1995年)
- [30]昭和初期の金融恐慌下、住友・安田・三井・三菱等の財閥系諸銀行がシェアを伸ばすなかで、三十四・山口・鴻池の3行も小銀行の併合などによりこれらに次ぐ有力銀行としての地位を固めた
1930年〜同一地盤の競争を止めるための三行合同
合同の機運が高まったのは1930年から1931年ごろである。三行は生まれも育ちも大阪財界の求めに負っており、時代が進むにつれて一つにまとまることを求められていた。営業の地盤が重なる三行が競い合うのは好ましくない、との判断が合併への道を開き、基盤も条件も似通った三行が資金を持ち寄れば産業の伸長を力強く後押しできるとして、財界もこれを歓迎した。大阪の同じ商圏で同じ客を取り合う三行が並び立つこと自体が、整理すべき状態とみなされていたのである。
- 企業の現代史「あなたの銀行(三和銀行)」(1963年)
- [32]経営基盤や条件の近似する三十四・山口・鴻池三行の合併は結集した資金力をもって産業発展を強力に推進しうるものとして財界から歓迎され、その機運は1930年から1931年ごろから急速に盛り上がった
- [35]経営基盤や条件の近似する三十四・山口・鴻池三行の合併は結集した資金力をもって産業発展を強力に推進しうるものとして財界から歓迎され、その機運は1930年から1931年ごろから急速に盛り上がった
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三和銀行」の項
- [33]三行はともに大阪財界の要望によって生まれ、これを背景として発達してきたが、時代の進展とともに合同が要請された
- 日本会社史総覧 三和銀行(東洋経済新報社、1995年)
- [34]営業地盤を同じくする3行の競争は望ましくないとして合併へ進んだ
産婆役を務めたのは日本銀行だった。中根貞彦氏は1927年から1932年まで日銀大阪支店長を務め、この間、三行の合同によって住友・第一・三井・三菱・安田の五大銀行をしのぐ金融力を結集する必要を痛感していた。1932年4月、三行の首脳部が大局的に合併の方向で意見を一致させ、日銀に斡旋を依頼したことで具体化が一歩進んだ。すでに日銀理事となっていた中根氏と下山調査役の斡旋により、準備の会合は数十回にわたって極秘裏に重ねられている。大阪の三行を合わせて五大銀行に並ぶ一行を作るという構想は、三行の側からではなく監督する側から持ち込まれたことになる。
- 企業の現代史「あなたの銀行(三和銀行)」(1963年)
- [36]中根貞彦氏は1927年から1932年まで日銀大阪支店長を務め、三行合同により住友・第一・三井・三菱・安田の五大銀行をしのぐ金融力を結集する必要を痛感していた。1932年4月に三行首脳部が合併の方向で意見一致し、日銀に斡旋を依頼した
- [37]中根貞彦氏は1927年から1932年まで日銀大阪支店長を務め、三行合同により住友・第一・三井・三菱・安田の五大銀行をしのぐ金融力を結集する必要を痛感していた。1932年4月に三行首脳部が合併の方向で意見一致し、日銀に斡旋を依頼した
- [38]中根貞彦氏は1927年から1932年まで日銀大阪支店長を務め、三行合同により住友・第一・三井・三菱・安田の五大銀行をしのぐ金融力を結集する必要を痛感していた。1932年4月に三行首脳部が合併の方向で意見一致し、日銀に斡旋を依頼した
- [39]日銀の中根理事・下山調査役の斡旋で創立準備委員会の会合が数十回にわたり極秘裏に重ねられた
難関とされたのは、山口家と鴻池家の運営と、新銀行における両家の地位だった。この調整には9か月の準備期間が充てられ、新銀行の頭取人選は日銀総裁土方久徴氏が引き受けた。準備の過程でもっとも問題になったのは、新銀行の引継資産を安全確実で採算上も有利なものに限ることであり、三行の資産のうち優良資産を選んで拠出する方針が採られた。1932年12月、三行の首脳者によって合併基本要綱に調印がなされ、翌1933年1月には創立準備委員会が設けられている。大阪の商人が別々に立てた三つの銀行は、55年を経て一つの銀行へ統合される道筋に入った。
- 企業の現代史「あなたの銀行(三和銀行)」(1963年)
- [40]合併の難関といわれた山口家・鴻池家の運営と新銀行における両家の地位は9か月間の準備期間で調整され、新銀行の頭取人選は日銀総裁土方久徴氏が引き受けた
- [41]合併の難関といわれた山口家・鴻池家の運営と新銀行における両家の地位は9か月間の準備期間で調整され、新銀行の頭取人選は日銀総裁土方久徴氏が引き受けた
- [42]準備の過程でもっとも問題になったのは新銀行の引継資産を安全確実かつ採算上有利なものに限定することであり、三行の資産中から優良資産を選択して拠出する方針が採られた
- [43]1932年12月に三行の首脳者が合併基本要綱に調印し、1933年1月に創立準備委員会が設けられた
参考文献[32]-[43]
- 企業の現代史「あなたの銀行(三和銀行)」(1963年)
- [32]経営基盤や条件の近似する三十四・山口・鴻池三行の合併は結集した資金力をもって産業発展を強力に推進しうるものとして財界から歓迎され、その機運は1930年から1931年ごろから急速に盛り上がった
- [35]経営基盤や条件の近似する三十四・山口・鴻池三行の合併は結集した資金力をもって産業発展を強力に推進しうるものとして財界から歓迎され、その機運は1930年から1931年ごろから急速に盛り上がった
- [36]中根貞彦氏は1927年から1932年まで日銀大阪支店長を務め、三行合同により住友・第一・三井・三菱・安田の五大銀行をしのぐ金融力を結集する必要を痛感していた。1932年4月に三行首脳部が合併の方向で意見一致し、日銀に斡旋を依頼した
- [37]中根貞彦氏は1927年から1932年まで日銀大阪支店長を務め、三行合同により住友・第一・三井・三菱・安田の五大銀行をしのぐ金融力を結集する必要を痛感していた。1932年4月に三行首脳部が合併の方向で意見一致し、日銀に斡旋を依頼した
- [38]中根貞彦氏は1927年から1932年まで日銀大阪支店長を務め、三行合同により住友・第一・三井・三菱・安田の五大銀行をしのぐ金融力を結集する必要を痛感していた。1932年4月に三行首脳部が合併の方向で意見一致し、日銀に斡旋を依頼した
- [39]日銀の中根理事・下山調査役の斡旋で創立準備委員会の会合が数十回にわたり極秘裏に重ねられた
- [40]合併の難関といわれた山口家・鴻池家の運営と新銀行における両家の地位は9か月間の準備期間で調整され、新銀行の頭取人選は日銀総裁土方久徴氏が引き受けた
- [41]合併の難関といわれた山口家・鴻池家の運営と新銀行における両家の地位は9か月間の準備期間で調整され、新銀行の頭取人選は日銀総裁土方久徴氏が引き受けた
- [42]準備の過程でもっとも問題になったのは新銀行の引継資産を安全確実かつ採算上有利なものに限定することであり、三行の資産中から優良資産を選択して拠出する方針が採られた
- [43]1932年12月に三行の首脳者が合併基本要綱に調印し、1933年1月に創立準備委員会が設けられた
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三和銀行」の項
- [33]三行はともに大阪財界の要望によって生まれ、これを背景として発達してきたが、時代の進展とともに合同が要請された
- 日本会社史総覧 三和銀行(東洋経済新報社、1995年)
- [34]営業地盤を同じくする3行の競争は望ましくないとして合併へ進んだ
筆者考察
三行の合同は経営の失敗から出た再建ではない。成功した三行を大阪に並べておく余地が無くなったことから出ている。1918年8月末の在阪普通銀行の払込資本金は、住友2250万円に次いで三十四1397万5000円、浪速1125万円、山口1000万円が並び、鴻池は300万円にすぎなかった。この表に載った12行のうち近江・加島・藤田の3行は、1927年の恐慌で閉店または経営の挫折に至る。1928年の銀行法が資本金100万円、大都市なら200万円という下限を引くと、普通銀行は1926年末の1420行から1932年末の538行へ減った。生き残った三行は、同じ商都で同じ顧客を奪い合う位置に取り残された。
合同を構想したのは三行ではなく日本銀行だった。中根貞彦氏は1927年から1932年まで日銀大阪支店長を務め、住友・第一・三井・三菱・安田の五大銀行をしのぐ一行を大阪に作る必要を考えていた。三行がそれぞれ単独で五大銀行へ届かないことは、資本金の並びからも明らかである。1932年4月に三行の首脳が合併の方向で一致し、日銀へ斡旋を依頼したのは、競争を続ける費用が合同の費用を上回ったからだろう。難関は山口家と鴻池家の新銀行における地位であり、調整には9か月が充てられた。合意の中身は、三行の資産から優良なものだけを持ち寄って新しい銀行を立てることだった。
出典・参考
5件
- 大和銀行四十年史(大和銀行、1958年)
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三和銀行」の項
- 企業の現代史「あなたの銀行(三和銀行)」(1963年)
- 日本会社史総覧 三和銀行(東洋経済新報社、1995年)
- 日本産業史(日経文庫)第1巻 金融・商業「銀行-中小銀行に苦難」