三和銀行:第十三・第三十四国立銀行の創設
鴻池・山口の両替資本から大阪三行の普通銀行へ
1877年〜国立銀行条例改正を捉えた大阪三行の設立
旧幕時代からの商業都市であった大阪は、明治維新の変革に立ち遅れ、近代産業の導入による新時代への適応の道を探していた。そのために要る条件が、近代的な金融制度の確立だった。1876年の国立銀行条例改正は秩禄処分で交付された金禄公債を元手とする設立を認め、翌年から全国で設立が相次いだため、政府は1879年11月の第百五十三国立銀行を最後に新設を禁じた。最初に動いたのは鴻池家で、1877年5月、鴻池両替店の建物を本店として、大阪で最初の国立銀行である第十三国立銀行を開いた。鴻池家が両替店を開いたのは1656年にさかのぼり、三和銀行はこの1877年5月を創業日としている。免許の門は3年ほどで閉じたのだから、大阪の商人たちは滑り込んだことになる。
- 企業の現代史「あなたの銀行(三和銀行)」(1963年)
- [1]大阪財界は明治維新の変革に立ち遅れ、旧幕時代の商業都市から近代産業の導入による新時代への適応の道を求めており、そのために必要な条件は近代的な金融制度の確立であった
- [2]大阪財界は明治維新の変革に立ち遅れ、旧幕時代の商業都市から近代産業の導入による新時代への適応の道を求めており、そのために必要な条件は近代的な金融制度の確立であった
- 日本産業史(日経文庫)第1巻 金融・商業「銀行-財閥銀行から近代化」
- [3]1876年の国立銀行条例改正で金禄公債による国立銀行の設立が可能となり、1877・1878年に設立が相次いだため、政府は1879年11月設立の第百五十三国立銀行を最後に新設を禁じた
- [5]大阪では両替商の鴻池・山口が第十三・第百四十八の二行を、岡橋治助氏ら富商が第三十四国立銀行をつくり、この三行がのちの三和銀行の母体となった
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三和銀行」の項
- [4]1877年5月 第十三国立銀行が鴻池両替店の建物を本店として開業。大阪で最初の国立銀行
- 日本会社史総覧 三和銀行(東洋経済新報社、1995年)
- [6]鴻池家は江戸時代初期の1656年(明暦2)に両替店を開いた
- [7]三和銀行は鴻池家が1877年5月に設立した第十三国立銀行の設立時を創業日としている
三十四銀行の源流である第三十四国立銀行は、1878年3月、岡橋治助氏ら大阪財界の有力者によって創設された。出資したのは大阪の繊維関係の商人たちで、この出自がのちの融資先を決めることになる。山口家を中心に第百四十八国立銀行が設けられたのは翌1879年4月で、同家の起こりは幕末の1863年に開いた布屋両替店にあり、鴻池家と同じく両替業で積んだ財を国立銀行の元手に回している。鴻池・山口の両家が家産を出したのと違い、第三十四国立銀行を支えたのは商人たちが持ち寄った資金だった。とはいえ本店の所在はいずれも大阪で、どの行も大阪財界の求めに応じて誕生している。
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三和銀行」の項
- [8]1878年3月 岡橋治助氏ら大阪財界の有力者により第三十四国立銀行が創設された
- [10]1879年 山口家を中心として第百四十八国立銀行が設立された
- [12]三行はいずれも本店を大阪に置き、古い歴史と伝統をもって発展してきた有力銀行であった
- 日本会社史総覧 三和銀行(東洋経済新報社、1995年)
- [9]三十四銀行は大阪の繊維関係の商人たちが1878年3月に設立した第三十四国立銀行を起源とする
- [11]山口家は江戸時代末期の1863年(文久3)開業の布屋両替店を源とし、1879年4月に第百四十八国立銀行を設立した
- 企業の現代史「あなたの銀行(三和銀行)」(1963年)
- [13]三行はいずれも明治10年から12年にかけて大阪財界の要望によって設立された国立銀行である
全国に生まれた国立銀行の多くは、商人の銀行ではなく士族の銀行だった。条例改正が金禄公債を資本に充てることを認めたため、1876年から1879年に新設された148行の資本金のうち約8割を禄券が占め、1880年末の族籍別出資比率は華族43%、士族31%、平民26%となっている。国立銀行は禄券銀行とも士族銀行とも呼ばれた。そのなかで大阪や横浜、新潟、長崎のような商都と開港場では商人を主体とする国立銀行がつくられ、大阪の三行はその代表だった。三行は鴻池家と山口家をはじめとする大阪財界の有力者の経営にかかる銀行であり、士族授産を目的に旧藩士が設けた地方の国立銀行とは、集めた資本の性格が初めから違っていた。
- 日本産業史(日経文庫)第1巻 金融・商業「銀行-財閥銀行から近代化」
- [14]国立銀行は資本金のうち金禄公債の比重が高く株主中の士族の割合が大きかったため、禄券銀行・士族銀行と呼ばれた
- [15]1876年から1879年に新設された国立銀行148行の資本金のうち禄券は約8割を占めた
- [16]1880年末の国立銀行資本金の族籍別出資比率は華族43%・士族31%・平民26%
- [17]国立銀行は資本金のうち金禄公債の比重が高く株主中の士族の割合が大きかったため、禄券銀行・士族銀行と呼ばれた
- [18]大阪のような商都や横浜・新潟・長崎などの開港場にも商人を主体とする国立銀行ができた
- [20]第七十七国立銀行・第百十四国立銀行・第百十国立銀行などは旧藩士により士族授産を主目的として設立された
- 企業の現代史「あなたの銀行(三和銀行)」(1963年)
- [19]三国立銀行は鴻池・山口両家をはじめ大阪財界の有力者の経営による銀行であった
参考文献[1]-[20]
- 企業の現代史「あなたの銀行(三和銀行)」(1963年)
- [1]大阪財界は明治維新の変革に立ち遅れ、旧幕時代の商業都市から近代産業の導入による新時代への適応の道を求めており、そのために必要な条件は近代的な金融制度の確立であった
- [2]大阪財界は明治維新の変革に立ち遅れ、旧幕時代の商業都市から近代産業の導入による新時代への適応の道を求めており、そのために必要な条件は近代的な金融制度の確立であった
- [13]三行はいずれも明治10年から12年にかけて大阪財界の要望によって設立された国立銀行である
- [19]三国立銀行は鴻池・山口両家をはじめ大阪財界の有力者の経営による銀行であった
- 日本産業史(日経文庫)第1巻 金融・商業「銀行-財閥銀行から近代化」
- [3]1876年の国立銀行条例改正で金禄公債による国立銀行の設立が可能となり、1877・1878年に設立が相次いだため、政府は1879年11月設立の第百五十三国立銀行を最後に新設を禁じた
- [5]大阪では両替商の鴻池・山口が第十三・第百四十八の二行を、岡橋治助氏ら富商が第三十四国立銀行をつくり、この三行がのちの三和銀行の母体となった
- [14]国立銀行は資本金のうち金禄公債の比重が高く株主中の士族の割合が大きかったため、禄券銀行・士族銀行と呼ばれた
- [15]1876年から1879年に新設された国立銀行148行の資本金のうち禄券は約8割を占めた
- [16]1880年末の国立銀行資本金の族籍別出資比率は華族43%・士族31%・平民26%
- [17]国立銀行は資本金のうち金禄公債の比重が高く株主中の士族の割合が大きかったため、禄券銀行・士族銀行と呼ばれた
- [18]大阪のような商都や横浜・新潟・長崎などの開港場にも商人を主体とする国立銀行ができた
- [20]第七十七国立銀行・第百十四国立銀行・第百十国立銀行などは旧藩士により士族授産を主目的として設立された
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三和銀行」の項
- [4]1877年5月 第十三国立銀行が鴻池両替店の建物を本店として開業。大阪で最初の国立銀行
- [8]1878年3月 岡橋治助氏ら大阪財界の有力者により第三十四国立銀行が創設された
- [10]1879年 山口家を中心として第百四十八国立銀行が設立された
- [12]三行はいずれも本店を大阪に置き、古い歴史と伝統をもって発展してきた有力銀行であった
- 日本会社史総覧 三和銀行(東洋経済新報社、1995年)
- [6]鴻池家は江戸時代初期の1656年(明暦2)に両替店を開いた
- [7]三和銀行は鴻池家が1877年5月に設立した第十三国立銀行の設立時を創業日としている
- [9]三十四銀行は大阪の繊維関係の商人たちが1878年3月に設立した第三十四国立銀行を起源とする
- [11]山口家は江戸時代末期の1863年(文久3)開業の布屋両替店を源とし、1879年4月に第百四十八国立銀行を設立した
1883年〜営業年限20年の満期による普通銀行への改組
国立銀行という制度には期限が付いていた。1882年の日本銀行条例制定を受けて翌1883年に国立銀行条例が改正され、営業年限は開業免状の下付から20年、その間に銀行券を順次消却することと定められた。日清戦争の前後に銀行の設立が相次いだ背景には、銀行条例の施行、国立銀行の営業期限の到来、そして戦争後に企業が次々と興ったことがあった。期限を目前にした1896年から1899年の間に、普通銀行へ移った国立銀行は122行に上る。移り方は一様ではなかった。山形の第八十一国立銀行は新設の銀行へ業務を渡し、第十三国立銀行と第百四十八国立銀行はそれぞれ鴻池銀行、山口銀行へと行名を改めている。
- 日本産業史(日経文庫)第1巻 金融・商業「銀行-財閥銀行から近代化」
- [21]1882年の日本銀行条例制定に伴い1883年に国立銀行条例が改正され、営業年限を開業免状の下付から20年とし、その間に銀行券を順次消却することが定められた
- [22]1882年の日本銀行条例制定に伴い1883年に国立銀行条例が改正され、営業年限を開業免状の下付から20年とし、その間に銀行券を順次消却することが定められた
- [23]日清戦争前後の銀行設立ブームは銀行条例の施行・国立銀行の営業満期・日清戦後の企業勃興を背景としていた
- [24]1896年から1899年にかけて国立銀行122行が普通銀行に転換した
- [25]普通銀行への転換では第八十一国立銀行が新設の両羽銀行へ業務を譲った例があり、第十三国立銀行は鴻池銀行、第百四十八国立銀行は山口銀行となった
三行が普通銀行へ移ったのは1897年から1898年にかけてである。三十四銀行は1897年に普通銀行へ改組した。同じ1897年、鴻池家は個人経営の鴻池銀行を興して第十三国立銀行の業務を継承し、翌1898年には山口家が個人経営の山口銀行を創設して第百四十八国立銀行の業務を引き継いでいる。株式組織を採らず個人経営に戻した二行は、国立銀行の看板を下ろして家業の形へ戻したことになる。近代工業の発達に応じて、国立銀行の時代には資本金が主だった銀行資金の構成は預金の比重を高めており、普通銀行への転換はその移り変わりに合わせた経営の近代化でもあった。
- 企業の現代史「あなたの銀行(三和銀行)」(1963年)
- [26]三行は1897年から1898年にかけて普通銀行へ転換した
- [30]近代工業の発達に応じて国立銀行でも預金吸収機能が漸次銀行資金の中心を占めるようになり、普通銀行への転換が進んだ
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三和銀行」の項
- [27]三十四銀行は1897年に普通銀行へ改組した
- [28]1897年 鴻池家は個人経営の鴻池銀行を創設して第十三国立銀行の業務を継承した
- [29]1898年 山口家は個人経営の山口銀行を創設して第百四十八国立銀行の業務を継承した
- 日本産業史(日経文庫)第1巻 金融・商業「銀行-中小銀行に苦難」
- [31]大銀行では資金構成に占める預金の比重が上昇し、1897年の約4倍が1907年には約6倍になった
三行のうち三十四銀行だけは、資金の向け先が他の二行と違っていた。堅実な経営を保ちながら、中小工業に対する長期金融に着手している。大阪は紡績業を中心とする工業都市として伸びており、三行は揃ってその発展に寄与したが、繊維関係の商人が出資した三十四銀行にとって、紡績と機械の担い手は出資者の取引相手そのものだった。改組の後の三十四銀行は業績を国運の伸張とともに伸ばし、在阪に本店を置く銀行のうち屈指の地位を占めるに至る。両替商の資本から出た二行が商人の資金を預かる一方で、三十四は工業へ資金を流していた。この分業が、のちに三行を合わせたときの取引地盤の広さになった。
- 日本会社史総覧 三和銀行(東洋経済新報社、1995年)
- [32]三十四銀行は堅実経営に徹しながら中小工業に対する長期金融を開始するなどの特色があった
- [33]三十四銀行は堅実経営に徹しながら中小工業に対する長期金融を開始するなどの特色があった
- [35]三十四銀行は大阪の繊維関係の商人たちが設立した第三十四国立銀行を起源とする
- [37]三十四銀行は堅実経営に徹しながら中小工業に対する長期金融を開始するなどの特色があった
- 企業の現代史「あなたの銀行(三和銀行)」(1963年)
- [34]三国立銀行は紡績業を中心とする工業都市としての大阪の発展に寄与するところがきわめて大きかった
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三和銀行」の項
- [36]三十四銀行は普通銀行への改組以来、業績は国運の隆昌とともに発展し、在阪本店銀行中屈指の地位を占めるに至った
参考文献[21]-[37]
- 日本産業史(日経文庫)第1巻 金融・商業「銀行-財閥銀行から近代化」
- [21]1882年の日本銀行条例制定に伴い1883年に国立銀行条例が改正され、営業年限を開業免状の下付から20年とし、その間に銀行券を順次消却することが定められた
- [22]1882年の日本銀行条例制定に伴い1883年に国立銀行条例が改正され、営業年限を開業免状の下付から20年とし、その間に銀行券を順次消却することが定められた
- [23]日清戦争前後の銀行設立ブームは銀行条例の施行・国立銀行の営業満期・日清戦後の企業勃興を背景としていた
- [24]1896年から1899年にかけて国立銀行122行が普通銀行に転換した
- [25]普通銀行への転換では第八十一国立銀行が新設の両羽銀行へ業務を譲った例があり、第十三国立銀行は鴻池銀行、第百四十八国立銀行は山口銀行となった
- 企業の現代史「あなたの銀行(三和銀行)」(1963年)
- [26]三行は1897年から1898年にかけて普通銀行へ転換した
- [30]近代工業の発達に応じて国立銀行でも預金吸収機能が漸次銀行資金の中心を占めるようになり、普通銀行への転換が進んだ
- [34]三国立銀行は紡績業を中心とする工業都市としての大阪の発展に寄与するところがきわめて大きかった
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三和銀行」の項
- [27]三十四銀行は1897年に普通銀行へ改組した
- [28]1897年 鴻池家は個人経営の鴻池銀行を創設して第十三国立銀行の業務を継承した
- [29]1898年 山口家は個人経営の山口銀行を創設して第百四十八国立銀行の業務を継承した
- [36]三十四銀行は普通銀行への改組以来、業績は国運の隆昌とともに発展し、在阪本店銀行中屈指の地位を占めるに至った
- 日本産業史(日経文庫)第1巻 金融・商業「銀行-中小銀行に苦難」
- [31]大銀行では資金構成に占める預金の比重が上昇し、1897年の約4倍が1907年には約6倍になった
- 日本会社史総覧 三和銀行(東洋経済新報社、1995年)
- [32]三十四銀行は堅実経営に徹しながら中小工業に対する長期金融を開始するなどの特色があった
- [33]三十四銀行は堅実経営に徹しながら中小工業に対する長期金融を開始するなどの特色があった
- [35]三十四銀行は大阪の繊維関係の商人たちが設立した第三十四国立銀行を起源とする
- [37]三十四銀行は堅実経営に徹しながら中小工業に対する長期金融を開始するなどの特色があった
1897年〜二度の恐慌による選別と国債引き受けシンジケートへの参加
1896年の木綿商恐慌と1901年の金融恐慌が、大阪の弱小銀行を整理した。1897年の恐慌でも綿糸商の破綻をきっかけに取引銀行へ取り付けが起こり、波紋は大阪の第七十九銀行をはじめ諸行に及んでいる。はるかに影響が広く、打撃も強かったのは1901年である。前年末に熊本の第九銀行と熊本貯蓄銀行が支払いを停止したのが口火となり、1901年1月には横浜蚕糸銀行が破綻して東京でも4行が休業した。動揺は4月から7月にかけて大阪へ飛び火し、3月下旬の北村銀行、4月の第七十九銀行の破綻をきっかけに約20行の本支店がいっせいに取り付けを受け、支払い停止に追い込まれた銀行は大阪府で17行、全国で34行にのぼった。
- 企業の現代史「あなたの銀行(三和銀行)」(1963年)
- [38]1896年の木綿商恐慌と1901年の金融恐慌を通じて弱小銀行の整理が促された
- 日本産業史(日経文庫)第1巻 金融・商業「銀行-中小銀行に苦難」
- [39]1897年の恐慌では大阪のある綿糸商の破綻がきっかけで取引銀行に取り付けが起こり、大阪所在の第七十九銀行をはじめ諸行に波紋が及んだ
- [40]1901年の恐慌では中小銀行の動揺の影響が広範囲に及び、打撃の度合いも1897年の恐慌よりはるかに強かった
- [41]1900年末に熊本の第九銀行と熊本貯蓄銀行が支払停止、1901年1月に横浜蚕糸銀行が破綻し東京でも4行が休業した
- [42]1901年3月下旬の北村銀行、4月の第七十九銀行の破綻をきっかけに大阪市で約20行の本支店がいっせいに取り付けを受けた
- [43]1901年の恐慌による支払停止は大阪府17行・全国34行にのぼった
中小銀行が倒れた原因は、投機的な株式投資と特定企業に偏った融資にあった。第七十九銀行は1898年に国立銀行から私立銀行へ移って資本金を20万円から100万円へ増やし、大阪天王寺や四国の琴平に支店を開いたが、頭取が伊予鉄道など4社の株を大量に買い占めて各社の社長を兼ねており、恐慌による相場の暴落で損失を抱えて解散を余儀なくされた。1904年には大阪の百三十銀行が臨時休業している。頭取松本重太郎氏が広く事業に関わって関係先へ多額の資金を回しており、密接な関係にあった日本紡織の破綻で100万円を超える損失を負い、取り付けにあって日本銀行の救済を受けた。倒れたのは、事業家が自分の資金源として使った銀行だった。
- 日本産業史(日経文庫)第1巻 金融・商業「銀行-中小銀行に苦難」
- [44]中小銀行の動揺の原因は投機的な株式投資と特定企業への偏った融資にあった
- [45]第七十九銀行は1898年に国立銀行から私立銀行へ移り資本金を20万円から100万円に増加して大阪天王寺・琴平などに支店を開設したが、頭取が伊予鉄道など4社の株を買い占めて各社長を兼任し、1901年恐慌の株式相場暴落で損失を受け解散した
- [46]1904年に大阪の百三十銀行が臨時休業し、その影響は大阪市を中心に京都市や岐阜県の銀行界へ波及した
- [47]百三十銀行は頭取松本重太郎氏の関係事業へ多額の資金を融通しており、1904年に日本紡織が破綻して100万円を超える損失を被り、取り付けにあって日本銀行の救済を受けた
普通銀行の数は1901年の1890行を頂点に減りはじめ、1914年には1595行となった。取り付け騒ぎが広がるにつれて預金は大銀行へ集まり、1900年末から1901年末にかけて主要6都市の中小銀行の預金が2200万円減る一方、大銀行では1000万円増えている。政府も1901年以降は機会あるごとに銀行の合同を進め、小銀行を大銀行の支店組織に組み替える必要を説いた。1910年の公債募集では、政府が日本銀行総裁と東京・大阪の大銀行15行の首脳を集めて発行条件を協議し、国債引き受けシンジケートを結成している。大阪側の6行には住友・北浜・浪速と並んで三十四・鴻池・山口が入った。三行は普通銀行への転換で経営の近代化を進め、預金を増やして取引先を大企業へ広げていた。
- 日本産業史(日経文庫)第1巻 金融・商業「銀行-中小銀行に苦難」
- [48]普通銀行数は1901年の1890行をピークに減少し、1914年には1595行となった
- [49]1900年末から1901年末にかけ六大都市の中小銀行の預金は2200万円減少し、大銀行では1000万円増加した
- [50]1901年以降、大蔵省は機会あるごとに銀行合同を進め、小銀行を大銀行の支店組織とする必要を説いた
- [51]1910年の四分利公債募集に際し、政府は日本銀行総裁と東京・大阪の大銀行15行の首脳を集めて発行条件を協議し、国債引き受けシンジケートを結成した
- [52]国債引き受けシンジケートの大阪側は三十四・鴻池・住友・北浜・浪速・山口の6行であった
- 企業の現代史「あなたの銀行(三和銀行)」(1963年)
- [53]三行は1897年から1898年にかけての普通銀行への転換で経営の近代化をはかり、預金の増加と大企業化を実現して全国有力銀行の地歩をかためた
参考文献[38]-[53]
- 企業の現代史「あなたの銀行(三和銀行)」(1963年)
- [38]1896年の木綿商恐慌と1901年の金融恐慌を通じて弱小銀行の整理が促された
- [53]三行は1897年から1898年にかけての普通銀行への転換で経営の近代化をはかり、預金の増加と大企業化を実現して全国有力銀行の地歩をかためた
- 日本産業史(日経文庫)第1巻 金融・商業「銀行-中小銀行に苦難」
- [39]1897年の恐慌では大阪のある綿糸商の破綻がきっかけで取引銀行に取り付けが起こり、大阪所在の第七十九銀行をはじめ諸行に波紋が及んだ
- [40]1901年の恐慌では中小銀行の動揺の影響が広範囲に及び、打撃の度合いも1897年の恐慌よりはるかに強かった
- [41]1900年末に熊本の第九銀行と熊本貯蓄銀行が支払停止、1901年1月に横浜蚕糸銀行が破綻し東京でも4行が休業した
- [42]1901年3月下旬の北村銀行、4月の第七十九銀行の破綻をきっかけに大阪市で約20行の本支店がいっせいに取り付けを受けた
- [43]1901年の恐慌による支払停止は大阪府17行・全国34行にのぼった
- [44]中小銀行の動揺の原因は投機的な株式投資と特定企業への偏った融資にあった
- [45]第七十九銀行は1898年に国立銀行から私立銀行へ移り資本金を20万円から100万円に増加して大阪天王寺・琴平などに支店を開設したが、頭取が伊予鉄道など4社の株を買い占めて各社長を兼任し、1901年恐慌の株式相場暴落で損失を受け解散した
- [46]1904年に大阪の百三十銀行が臨時休業し、その影響は大阪市を中心に京都市や岐阜県の銀行界へ波及した
- [47]百三十銀行は頭取松本重太郎氏の関係事業へ多額の資金を融通しており、1904年に日本紡織が破綻して100万円を超える損失を被り、取り付けにあって日本銀行の救済を受けた
- [48]普通銀行数は1901年の1890行をピークに減少し、1914年には1595行となった
- [49]1900年末から1901年末にかけ六大都市の中小銀行の預金は2200万円減少し、大銀行では1000万円増加した
- [50]1901年以降、大蔵省は機会あるごとに銀行合同を進め、小銀行を大銀行の支店組織とする必要を説いた
- [51]1910年の四分利公債募集に際し、政府は日本銀行総裁と東京・大阪の大銀行15行の首脳を集めて発行条件を協議し、国債引き受けシンジケートを結成した
- [52]国債引き受けシンジケートの大阪側は三十四・鴻池・住友・北浜・浪速・山口の6行であった
筆者考察
大阪の三行が国立銀行という形を選んだのは、銀行を始めたかったからではなく、両替商の資本を近代の法制の下へ置き直す仕組みがそれしかなかったからである。鴻池家の両替店は1656年、山口家の布屋両替店は1863年にさかのぼり、蓄えも信用も既にあった。足りなかったのは、預金を集めて工業へ貸すことを許す免許である。1876年の条例改正から1879年の新設禁止までのおよそ3年が、その免許を取れる唯一の窓だった。全国では金禄公債を握る士族が148行を起こし、資本金の8割を禄券が占めたが、大阪の三行はそこへ現金と商売の縁を持ち込んだ。同じ国立銀行という名でも、元手が違えば貸し先も違う。
三行を全国の有力行へ押し上げたのは、自らの成長よりも他行の退出だった。1901年の恐慌で大阪府の17行が支払いを停止し、普通銀行の数は1890行を頂点に減りはじめる。倒れたのは第七十九銀行や百三十銀行のように、頭取が関係会社の株を買い占め、銀行を自分の資金源として使った行である。三行は事業と融資の混同を避けたために残り、残ったことで預金が集まった。1910年、政府が公債の引き受け手として集めた15行のうち大阪側の6行に三十四・鴻池・山口が並んだのは、この選別の結果にほかならない。商人の銀行が、国家財政の資金繰りに呼ばれる側へ移っていた。
- 鴻池家は1656年の両替店開業から1877年5月の第十三国立銀行設立まで、山口家は1863年の布屋両替店開業から1879年4月の第百四十八国立銀行設立まで。
- 三十四銀行は前史となる両替店を持たず、大阪の繊維関係の商人たちの共同出資で1878年3月に第三十四国立銀行として設立された。
- 出所は日本会社史総覧 三和銀行(東洋経済新報社、1995年)、会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三和銀行」の項。
出典・参考
5件
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)「三和銀行」の項
- 企業の現代史「あなたの銀行(三和銀行)」(1963年)
- 日本会社史総覧 三和銀行(東洋経済新報社、1995年)
- 日本産業史(日経文庫)第1巻 金融・商業「銀行-財閥銀行から近代化」
- 日本産業史(日経文庫)第1巻 金融・商業「銀行-中小銀行に苦難」