ユニー:衣料品店の西川屋とほていやの設立
1927年〜伊勢佐木町の古川呉服店と、履物から呉服へ転じた西川長十氏の店
1927年、古川政治郎氏と弟の古川秀一氏による、横浜市中区伊勢佐木町での古川呉服店の開業。店を構えた伊勢佐木町は、横浜でも人通りの絶えない一等地にあたる。呉服店は当時、小売業のなかで花形とされる業種だった。有価証券報告書の沿革は、のちのほていやをユニーの前身の一つに数えている。ほていやは1971年に西川屋チェーンと合併し、ユニーの設立に加わった。古川秀一氏は合併から20年後の1991年時点で、ユニーの相談役を務めていた。兄の古川政治郎氏は、1960年3月に58歳で急逝するまでほていやの経営に携わった。一等地に店を構える創業時の選び方は、戦後のほていやの出店方針に受け継がれたとみられる。
- ポケット社史『ユニー 新しい豊かさを創造する幸福産業』(1991年)
- [1]1927年(昭和2年)、古川政治郎・秀一兄弟が横浜の一等地・中区伊勢佐木町で古川呉服店を創業。秀一は1991年時点でユニー相談役。政治郎は1960年3月に58歳で急逝
- [2]1927年(昭和2年)、古川政治郎・秀一兄弟が横浜の一等地・中区伊勢佐木町で古川呉服店を創業。秀一は1991年時点でユニー相談役。政治郎は1960年3月に58歳で急逝
- [3]当時の呉服店は小売業の花形だった
- [6]1927年(昭和2年)、古川政治郎・秀一兄弟が横浜の一等地・中区伊勢佐木町で古川呉服店を創業。秀一は1991年時点でユニー相談役。政治郎は1960年3月に58歳で急逝
- [7]1927年(昭和2年)、古川政治郎・秀一兄弟が横浜の一等地・中区伊勢佐木町で古川呉服店を創業。秀一は1991年時点でユニー相談役。政治郎は1960年3月に58歳で急逝
- ユニー 有価証券報告書「沿革」
- [4]ほていやはユニーの前身の一つ(1950年3月設立・登記上)
- 日本経済新聞社編『日本産業史』3巻「流通-急成長した総合スーパー」(日経文庫)
- [5]1971年(昭和46年)、ほていやと西川屋チェーンの合併によりユニーが設立された
西川屋の起点は、西川長十氏が1912年7月に名古屋市中川区で始めた履物商である。新婚の西川長十氏は妻と2人で、履物の製造から販売までを担当した。評判が広がり注文が増えるほど、納期に追われて休む間がなくなった。疲れ切った西川長十氏は履物商をやめ、呉服へ商いを移すと家族に宣言した。西川長十氏の見通しは『呉服屋には明日があるんだ』というものだった。西川長十氏は名古屋有数の呉服問屋で丁稚奉公し、独立に備えた。1928年に港区築三町で西川呉服店を開業し、履物商は高値で他人に譲渡した。戦時中は企業整理令の適用を受け、西川呉服店は一時の廃業に追い込まれた。有価証券報告書の沿革は、戦後に法人となった西川屋をユニーの前身の一つとする。
- ポケット社史『ユニー 新しい豊かさを創造する幸福産業』(1991年)
- [8]1912年(大正元年)7月、西川長十が名古屋市中川区で履物商を始め、夫婦で製造から販売まで担った。多忙で疲弊し呉服へ転じ、呉服問屋で丁稚奉公。1928年(昭和3年)港区築三町で西川呉服店を開業、履物店は高値で譲渡。戦時中は企業整理令で一時廃業
- [9]1912年(大正元年)7月、西川長十が名古屋市中川区で履物商を始め、夫婦で製造から販売まで担った。多忙で疲弊し呉服へ転じ、呉服問屋で丁稚奉公。1928年(昭和3年)港区築三町で西川呉服店を開業、履物店は高値で譲渡。戦時中は企業整理令で一時廃業
- [10]1912年(大正元年)7月、西川長十が名古屋市中川区で履物商を始め、夫婦で製造から販売まで担った。多忙で疲弊し呉服へ転じ、呉服問屋で丁稚奉公。1928年(昭和3年)港区築三町で西川呉服店を開業、履物店は高値で譲渡。戦時中は企業整理令で一時廃業
- [11]1912年(大正元年)7月、西川長十が名古屋市中川区で履物商を始め、夫婦で製造から販売まで担った。多忙で疲弊し呉服へ転じ、呉服問屋で丁稚奉公。1928年(昭和3年)港区築三町で西川呉服店を開業、履物店は高値で譲渡。戦時中は企業整理令で一時廃業
- [12]1912年(大正元年)7月、西川長十が名古屋市中川区で履物商を始め、夫婦で製造から販売まで担った。多忙で疲弊し呉服へ転じ、呉服問屋で丁稚奉公。1928年(昭和3年)港区築三町で西川呉服店を開業、履物店は高値で譲渡。戦時中は企業整理令で一時廃業
- [13]1912年(大正元年)7月、西川長十が名古屋市中川区で履物商を始め、夫婦で製造から販売まで担った。多忙で疲弊し呉服へ転じ、呉服問屋で丁稚奉公。1928年(昭和3年)港区築三町で西川呉服店を開業、履物店は高値で譲渡。戦時中は企業整理令で一時廃業
- [14]1912年(大正元年)7月、西川長十が名古屋市中川区で履物商を始め、夫婦で製造から販売まで担った。多忙で疲弊し呉服へ転じ、呉服問屋で丁稚奉公。1928年(昭和3年)港区築三町で西川呉服店を開業、履物店は高値で譲渡。戦時中は企業整理令で一時廃業
- [15]1912年(大正元年)7月、西川長十が名古屋市中川区で履物商を始め、夫婦で製造から販売まで担った。多忙で疲弊し呉服へ転じ、呉服問屋で丁稚奉公。1928年(昭和3年)港区築三町で西川呉服店を開業、履物店は高値で譲渡。戦時中は企業整理令で一時廃業
- ユニー 有価証券報告書「沿革」
- [16]西川屋はユニーの前身の一つ(1949年12月設立)
1945年9月、古川政治郎氏は横浜の店の営業を再開し、屋号をほていや呉服店に改めた。戦時中、古川呉服店は事業の縮小を強いられていた。新しい屋号は、創業時から店頭に置いていた寿老人の大きな立像に由来する。来店客は立像を布袋様に見立て、店をほていやさんと呼び始めた。駐留軍の米兵がカメラに収めるほど、立像は人目を引いた。同じ頃、古川秀一氏は愛知県西春日井郡の実家に戻り、名古屋市中区の大須に出店用の土地を購入した。有価証券報告書の沿革は、ほていやの設立を登記上1950年3月とする。客が付けた呼び名を屋号に採ったことで、戦後の再出発に地元での認知を持ち込めたと推察される。
- ポケット社史『ユニー 新しい豊かさを創造する幸福産業』(1991年)
- [17]戦争で事業縮小、1945年(昭和20年)9月に営業再開し屋号をほていや呉服店に改称。店頭の寿老人像を客が「ほていさん」と呼んだのが由来。同じ頃、古川秀一は西春日井郡の実家に戻り大須に土地を購入
- [18]戦争で事業縮小、1945年(昭和20年)9月に営業再開し屋号をほていや呉服店に改称。店頭の寿老人像を客が「ほていさん」と呼んだのが由来。同じ頃、古川秀一は西春日井郡の実家に戻り大須に土地を購入
- [19]戦争で事業縮小、1945年(昭和20年)9月に営業再開し屋号をほていや呉服店に改称。店頭の寿老人像を客が「ほていさん」と呼んだのが由来。同じ頃、古川秀一は西春日井郡の実家に戻り大須に土地を購入
- [20]戦争で事業縮小、1945年(昭和20年)9月に営業再開し屋号をほていや呉服店に改称。店頭の寿老人像を客が「ほていさん」と呼んだのが由来。同じ頃、古川秀一は西春日井郡の実家に戻り大須に土地を購入
- [21]戦争で事業縮小、1945年(昭和20年)9月に営業再開し屋号をほていや呉服店に改称。店頭の寿老人像を客が「ほていさん」と呼んだのが由来。同じ頃、古川秀一は西春日井郡の実家に戻り大須に土地を購入
- [22]戦争で事業縮小、1945年(昭和20年)9月に営業再開し屋号をほていや呉服店に改称。店頭の寿老人像を客が「ほていさん」と呼んだのが由来。同じ頃、古川秀一は西春日井郡の実家に戻り大須に土地を購入
- ユニー 有価証券報告書「沿革」
- [23]ほていやの設立は1950年3月(登記上の年月)
参考文献[1]-[23]
- ポケット社史『ユニー 新しい豊かさを創造する幸福産業』(1991年)
- [1]1927年(昭和2年)、古川政治郎・秀一兄弟が横浜の一等地・中区伊勢佐木町で古川呉服店を創業。秀一は1991年時点でユニー相談役。政治郎は1960年3月に58歳で急逝
- [2]1927年(昭和2年)、古川政治郎・秀一兄弟が横浜の一等地・中区伊勢佐木町で古川呉服店を創業。秀一は1991年時点でユニー相談役。政治郎は1960年3月に58歳で急逝
- [3]当時の呉服店は小売業の花形だった
- [6]1927年(昭和2年)、古川政治郎・秀一兄弟が横浜の一等地・中区伊勢佐木町で古川呉服店を創業。秀一は1991年時点でユニー相談役。政治郎は1960年3月に58歳で急逝
- [7]1927年(昭和2年)、古川政治郎・秀一兄弟が横浜の一等地・中区伊勢佐木町で古川呉服店を創業。秀一は1991年時点でユニー相談役。政治郎は1960年3月に58歳で急逝
- [8]1912年(大正元年)7月、西川長十が名古屋市中川区で履物商を始め、夫婦で製造から販売まで担った。多忙で疲弊し呉服へ転じ、呉服問屋で丁稚奉公。1928年(昭和3年)港区築三町で西川呉服店を開業、履物店は高値で譲渡。戦時中は企業整理令で一時廃業
- [9]1912年(大正元年)7月、西川長十が名古屋市中川区で履物商を始め、夫婦で製造から販売まで担った。多忙で疲弊し呉服へ転じ、呉服問屋で丁稚奉公。1928年(昭和3年)港区築三町で西川呉服店を開業、履物店は高値で譲渡。戦時中は企業整理令で一時廃業
- [10]1912年(大正元年)7月、西川長十が名古屋市中川区で履物商を始め、夫婦で製造から販売まで担った。多忙で疲弊し呉服へ転じ、呉服問屋で丁稚奉公。1928年(昭和3年)港区築三町で西川呉服店を開業、履物店は高値で譲渡。戦時中は企業整理令で一時廃業
- [11]1912年(大正元年)7月、西川長十が名古屋市中川区で履物商を始め、夫婦で製造から販売まで担った。多忙で疲弊し呉服へ転じ、呉服問屋で丁稚奉公。1928年(昭和3年)港区築三町で西川呉服店を開業、履物店は高値で譲渡。戦時中は企業整理令で一時廃業
- [12]1912年(大正元年)7月、西川長十が名古屋市中川区で履物商を始め、夫婦で製造から販売まで担った。多忙で疲弊し呉服へ転じ、呉服問屋で丁稚奉公。1928年(昭和3年)港区築三町で西川呉服店を開業、履物店は高値で譲渡。戦時中は企業整理令で一時廃業
- [13]1912年(大正元年)7月、西川長十が名古屋市中川区で履物商を始め、夫婦で製造から販売まで担った。多忙で疲弊し呉服へ転じ、呉服問屋で丁稚奉公。1928年(昭和3年)港区築三町で西川呉服店を開業、履物店は高値で譲渡。戦時中は企業整理令で一時廃業
- [14]1912年(大正元年)7月、西川長十が名古屋市中川区で履物商を始め、夫婦で製造から販売まで担った。多忙で疲弊し呉服へ転じ、呉服問屋で丁稚奉公。1928年(昭和3年)港区築三町で西川呉服店を開業、履物店は高値で譲渡。戦時中は企業整理令で一時廃業
- [15]1912年(大正元年)7月、西川長十が名古屋市中川区で履物商を始め、夫婦で製造から販売まで担った。多忙で疲弊し呉服へ転じ、呉服問屋で丁稚奉公。1928年(昭和3年)港区築三町で西川呉服店を開業、履物店は高値で譲渡。戦時中は企業整理令で一時廃業
- [17]戦争で事業縮小、1945年(昭和20年)9月に営業再開し屋号をほていや呉服店に改称。店頭の寿老人像を客が「ほていさん」と呼んだのが由来。同じ頃、古川秀一は西春日井郡の実家に戻り大須に土地を購入
- [18]戦争で事業縮小、1945年(昭和20年)9月に営業再開し屋号をほていや呉服店に改称。店頭の寿老人像を客が「ほていさん」と呼んだのが由来。同じ頃、古川秀一は西春日井郡の実家に戻り大須に土地を購入
- [19]戦争で事業縮小、1945年(昭和20年)9月に営業再開し屋号をほていや呉服店に改称。店頭の寿老人像を客が「ほていさん」と呼んだのが由来。同じ頃、古川秀一は西春日井郡の実家に戻り大須に土地を購入
- [20]戦争で事業縮小、1945年(昭和20年)9月に営業再開し屋号をほていや呉服店に改称。店頭の寿老人像を客が「ほていさん」と呼んだのが由来。同じ頃、古川秀一は西春日井郡の実家に戻り大須に土地を購入
- [21]戦争で事業縮小、1945年(昭和20年)9月に営業再開し屋号をほていや呉服店に改称。店頭の寿老人像を客が「ほていさん」と呼んだのが由来。同じ頃、古川秀一は西春日井郡の実家に戻り大須に土地を購入
- [22]戦争で事業縮小、1945年(昭和20年)9月に営業再開し屋号をほていや呉服店に改称。店頭の寿老人像を客が「ほていさん」と呼んだのが由来。同じ頃、古川秀一は西春日井郡の実家に戻り大須に土地を購入
- ユニー 有価証券報告書「沿革」
- [4]ほていやはユニーの前身の一つ(1950年3月設立・登記上)
- [16]西川屋はユニーの前身の一つ(1949年12月設立)
- [23]ほていやの設立は1950年3月(登記上の年月)
- 日本経済新聞社編『日本産業史』3巻「流通-急成長した総合スーパー」(日経文庫)
- [5]1971年(昭和46年)、ほていやと西川屋チェーンの合併によりユニーが設立された
1947年〜名古屋・裏門前町に設置したほていやの仕入部と、660平方メートルの中店
1947年、西川呉服店は港区中川町へ移り、長男の西川義雄氏とともに営業を再開した。店舗は木造2階建てで、売場面積は20平方メートルだった。1949年12月、西川屋は株式会社として設立された。資本金は90万円、従業員は10名。三男の西川俊男氏は薬剤師の資格を持ち、終戦直後から製薬会社の日本薬化学に勤めていた。1950年に江崎富子氏と結婚した頃、西川俊男氏は西川長十氏から店の拡大を手伝うよう頼まれた。勤務先の社長は兼業を認め、1952年1月に家業へ専念するよう送り出した。その際に課された目標は売上高1億円で、当時の西川屋の年間売上高は3000万円だった。
- ポケット社史『ユニー 新しい豊かさを創造する幸福産業』(1991年)
- [24]1947年(昭和22年)港区中川町で長男義雄と営業再開(木造2階・売場20平方メートル)。1950年に株式会社組織(資本金90万円・従業員10名)。三男の西川俊男は日本薬化学勤務、1950年結婚、長十に店の拡大を懇願され兼業、1952年に専念。目標は売上1億円、当時の年商3000万円
- [25]1947年(昭和22年)港区中川町で長男義雄と営業再開(木造2階・売場20平方メートル)。1950年に株式会社組織(資本金90万円・従業員10名)。三男の西川俊男は日本薬化学勤務、1950年結婚、長十に店の拡大を懇願され兼業、1952年に専念。目標は売上1億円、当時の年商3000万円
- [27]1947年(昭和22年)港区中川町で長男義雄と営業再開(木造2階・売場20平方メートル)。1950年に株式会社組織(資本金90万円・従業員10名)。三男の西川俊男は日本薬化学勤務、1950年結婚、長十に店の拡大を懇願され兼業、1952年に専念。目標は売上1億円、当時の年商3000万円
- [28]1947年(昭和22年)港区中川町で長男義雄と営業再開(木造2階・売場20平方メートル)。1950年に株式会社組織(資本金90万円・従業員10名)。三男の西川俊男は日本薬化学勤務、1950年結婚、長十に店の拡大を懇願され兼業、1952年に専念。目標は売上1億円、当時の年商3000万円
- [29]1947年(昭和22年)港区中川町で長男義雄と営業再開(木造2階・売場20平方メートル)。1950年に株式会社組織(資本金90万円・従業員10名)。三男の西川俊男は日本薬化学勤務、1950年結婚、長十に店の拡大を懇願され兼業、1952年に専念。目標は売上1億円、当時の年商3000万円
- [30]1947年(昭和22年)港区中川町で長男義雄と営業再開(木造2階・売場20平方メートル)。1950年に株式会社組織(資本金90万円・従業員10名)。三男の西川俊男は日本薬化学勤務、1950年結婚、長十に店の拡大を懇願され兼業、1952年に専念。目標は売上1億円、当時の年商3000万円
- [31]1947年(昭和22年)港区中川町で長男義雄と営業再開(木造2階・売場20平方メートル)。1950年に株式会社組織(資本金90万円・従業員10名)。三男の西川俊男は日本薬化学勤務、1950年結婚、長十に店の拡大を懇願され兼業、1952年に専念。目標は売上1億円、当時の年商3000万円
- ユニー 有価証券報告書「沿革」
- [26]1949年12月、前身の一つである西川屋が設立
名古屋の大須では、古川秀一氏の勧めで横浜創業時の仲間3人も呉服店を出した。約120メートルの通りに本店・角店・中店・東店の4店が並び、品切れの反物を互いに融通し合った。4店は売上高を競い、いずれも年間8000万円を超えた。一方で、同じ地区で別々に営業する不利が目立つようになった。1950年3月、4店はほていや呉服店の名で1つの株式会社に統合され、横浜の古川政治郎氏の店も加わった。1951年10月には中区裏門前町(名古屋市)に仕入部を設け、チェーンの本部組織の中核に据えた。以後は名古屋と横浜を2大拠点に、静岡・岐阜へ一等地への出店を広げた。仕入れを1か所に集めたことが、店数を増やしても品ぞろえをそろえる仕組みになったと考えられる。
- ポケット社史『ユニー 新しい豊かさを創造する幸福産業』(1991年)
- [32]大須の約120メートルの通りに4つの呉服店(本店・角店・中店・東店)が並び、品物を融通し売上を競い各店年商8000万円超。同一地区での分立営業の不利から1950年(昭和25年)3月に株式会社ほていや呉服店を設立し横浜店も統合。1951年10月、名古屋市中区裏門前町に仕入部を開設し本部組織の核に。名古屋・横浜を拠点に一等地へ出店し静岡・岐阜へ拡大
- [33]大須の約120メートルの通りに4つの呉服店(本店・角店・中店・東店)が並び、品物を融通し売上を競い各店年商8000万円超。同一地区での分立営業の不利から1950年(昭和25年)3月に株式会社ほていや呉服店を設立し横浜店も統合。1951年10月、名古屋市中区裏門前町に仕入部を開設し本部組織の核に。名古屋・横浜を拠点に一等地へ出店し静岡・岐阜へ拡大
- [34]大須の約120メートルの通りに4つの呉服店(本店・角店・中店・東店)が並び、品物を融通し売上を競い各店年商8000万円超。同一地区での分立営業の不利から1950年(昭和25年)3月に株式会社ほていや呉服店を設立し横浜店も統合。1951年10月、名古屋市中区裏門前町に仕入部を開設し本部組織の核に。名古屋・横浜を拠点に一等地へ出店し静岡・岐阜へ拡大
- [35]大須の約120メートルの通りに4つの呉服店(本店・角店・中店・東店)が並び、品物を融通し売上を競い各店年商8000万円超。同一地区での分立営業の不利から1950年(昭和25年)3月に株式会社ほていや呉服店を設立し横浜店も統合。1951年10月、名古屋市中区裏門前町に仕入部を開設し本部組織の核に。名古屋・横浜を拠点に一等地へ出店し静岡・岐阜へ拡大
- [36]大須の約120メートルの通りに4つの呉服店(本店・角店・中店・東店)が並び、品物を融通し売上を競い各店年商8000万円超。同一地区での分立営業の不利から1950年(昭和25年)3月に株式会社ほていや呉服店を設立し横浜店も統合。1951年10月、名古屋市中区裏門前町に仕入部を開設し本部組織の核に。名古屋・横浜を拠点に一等地へ出店し静岡・岐阜へ拡大
- [38]大須の約120メートルの通りに4つの呉服店(本店・角店・中店・東店)が並び、品物を融通し売上を競い各店年商8000万円超。同一地区での分立営業の不利から1950年(昭和25年)3月に株式会社ほていや呉服店を設立し横浜店も統合。1951年10月、名古屋市中区裏門前町に仕入部を開設し本部組織の核に。名古屋・横浜を拠点に一等地へ出店し静岡・岐阜へ拡大
- [39]大須の約120メートルの通りに4つの呉服店(本店・角店・中店・東店)が並び、品物を融通し売上を競い各店年商8000万円超。同一地区での分立営業の不利から1950年(昭和25年)3月に株式会社ほていや呉服店を設立し横浜店も統合。1951年10月、名古屋市中区裏門前町に仕入部を開設し本部組織の核に。名古屋・横浜を拠点に一等地へ出店し静岡・岐阜へ拡大
- ユニー 有価証券報告書「沿革」
- [37]1950年3月、前身の一つであるほていやが設立(登記上の年月)
1955年6月、西川屋は名古屋市港区築地に中店を新装した。中店は鉄筋コンクリート3階建て・総面積660平方メートルで、当時としては珍しい構造の店舗である。新装を機に、西川屋は呉服以外へ商品の総合化を進めた。1958年には4階建て・総面積1290平方メートルに増床し、1959年には従業員を40名から69名に増やした。増床と増員を重ねるなかで、西川屋の経営は安定に向かった。西川長十氏が掲げた目標は『この店を港の松坂屋にしよう』である。1960年度の小売業売上高の上位10社は、三越・高島屋をはじめすべて百貨店だった。地域の百貨店に並ぶ総合店を目標に置いたことが、呉服店から品ぞろえを広げる動機になったとうかがえる。
- ポケット社史『ユニー 新しい豊かさを創造する幸福産業』(1991年)
- [40]1955年(昭和30年)6月、港区築地に鉄筋コンクリート3階・総面積660平方メートルの中店を新装し商品を総合化。1958年に4階・1290平方メートルへ拡張、1959年に従業員40名を69名に
- [41]1955年(昭和30年)6月、港区築地に鉄筋コンクリート3階・総面積660平方メートルの中店を新装し商品を総合化。1958年に4階・1290平方メートルへ拡張、1959年に従業員40名を69名に
- [42]1955年(昭和30年)6月、港区築地に鉄筋コンクリート3階・総面積660平方メートルの中店を新装し商品を総合化。1958年に4階・1290平方メートルへ拡張、1959年に従業員40名を69名に
- [43]1955年(昭和30年)6月、港区築地に鉄筋コンクリート3階・総面積660平方メートルの中店を新装し商品を総合化。1958年に4階・1290平方メートルへ拡張、1959年に従業員40名を69名に
- [44]1955年(昭和30年)6月、港区築地に鉄筋コンクリート3階・総面積660平方メートルの中店を新装し商品を総合化。1958年に4階・1290平方メートルへ拡張、1959年に従業員40名を69名に
- [45]1955年(昭和30年)6月、港区築地に鉄筋コンクリート3階・総面積660平方メートルの中店を新装し商品を総合化。1958年に4階・1290平方メートルへ拡張、1959年に従業員40名を69名に
- 日本経済新聞社編『日本産業史』3巻「流通-急成長した総合スーパー」(日経文庫)
- [46]1960年度(昭和35年度)の小売業売上高上位10社は三越・高島屋などすべて百貨店
参考文献[24]-[46]
- ポケット社史『ユニー 新しい豊かさを創造する幸福産業』(1991年)
- [24]1947年(昭和22年)港区中川町で長男義雄と営業再開(木造2階・売場20平方メートル)。1950年に株式会社組織(資本金90万円・従業員10名)。三男の西川俊男は日本薬化学勤務、1950年結婚、長十に店の拡大を懇願され兼業、1952年に専念。目標は売上1億円、当時の年商3000万円
- [25]1947年(昭和22年)港区中川町で長男義雄と営業再開(木造2階・売場20平方メートル)。1950年に株式会社組織(資本金90万円・従業員10名)。三男の西川俊男は日本薬化学勤務、1950年結婚、長十に店の拡大を懇願され兼業、1952年に専念。目標は売上1億円、当時の年商3000万円
- [27]1947年(昭和22年)港区中川町で長男義雄と営業再開(木造2階・売場20平方メートル)。1950年に株式会社組織(資本金90万円・従業員10名)。三男の西川俊男は日本薬化学勤務、1950年結婚、長十に店の拡大を懇願され兼業、1952年に専念。目標は売上1億円、当時の年商3000万円
- [28]1947年(昭和22年)港区中川町で長男義雄と営業再開(木造2階・売場20平方メートル)。1950年に株式会社組織(資本金90万円・従業員10名)。三男の西川俊男は日本薬化学勤務、1950年結婚、長十に店の拡大を懇願され兼業、1952年に専念。目標は売上1億円、当時の年商3000万円
- [29]1947年(昭和22年)港区中川町で長男義雄と営業再開(木造2階・売場20平方メートル)。1950年に株式会社組織(資本金90万円・従業員10名)。三男の西川俊男は日本薬化学勤務、1950年結婚、長十に店の拡大を懇願され兼業、1952年に専念。目標は売上1億円、当時の年商3000万円
- [30]1947年(昭和22年)港区中川町で長男義雄と営業再開(木造2階・売場20平方メートル)。1950年に株式会社組織(資本金90万円・従業員10名)。三男の西川俊男は日本薬化学勤務、1950年結婚、長十に店の拡大を懇願され兼業、1952年に専念。目標は売上1億円、当時の年商3000万円
- [31]1947年(昭和22年)港区中川町で長男義雄と営業再開(木造2階・売場20平方メートル)。1950年に株式会社組織(資本金90万円・従業員10名)。三男の西川俊男は日本薬化学勤務、1950年結婚、長十に店の拡大を懇願され兼業、1952年に専念。目標は売上1億円、当時の年商3000万円
- [32]大須の約120メートルの通りに4つの呉服店(本店・角店・中店・東店)が並び、品物を融通し売上を競い各店年商8000万円超。同一地区での分立営業の不利から1950年(昭和25年)3月に株式会社ほていや呉服店を設立し横浜店も統合。1951年10月、名古屋市中区裏門前町に仕入部を開設し本部組織の核に。名古屋・横浜を拠点に一等地へ出店し静岡・岐阜へ拡大
- [33]大須の約120メートルの通りに4つの呉服店(本店・角店・中店・東店)が並び、品物を融通し売上を競い各店年商8000万円超。同一地区での分立営業の不利から1950年(昭和25年)3月に株式会社ほていや呉服店を設立し横浜店も統合。1951年10月、名古屋市中区裏門前町に仕入部を開設し本部組織の核に。名古屋・横浜を拠点に一等地へ出店し静岡・岐阜へ拡大
- [34]大須の約120メートルの通りに4つの呉服店(本店・角店・中店・東店)が並び、品物を融通し売上を競い各店年商8000万円超。同一地区での分立営業の不利から1950年(昭和25年)3月に株式会社ほていや呉服店を設立し横浜店も統合。1951年10月、名古屋市中区裏門前町に仕入部を開設し本部組織の核に。名古屋・横浜を拠点に一等地へ出店し静岡・岐阜へ拡大
- [35]大須の約120メートルの通りに4つの呉服店(本店・角店・中店・東店)が並び、品物を融通し売上を競い各店年商8000万円超。同一地区での分立営業の不利から1950年(昭和25年)3月に株式会社ほていや呉服店を設立し横浜店も統合。1951年10月、名古屋市中区裏門前町に仕入部を開設し本部組織の核に。名古屋・横浜を拠点に一等地へ出店し静岡・岐阜へ拡大
- [36]大須の約120メートルの通りに4つの呉服店(本店・角店・中店・東店)が並び、品物を融通し売上を競い各店年商8000万円超。同一地区での分立営業の不利から1950年(昭和25年)3月に株式会社ほていや呉服店を設立し横浜店も統合。1951年10月、名古屋市中区裏門前町に仕入部を開設し本部組織の核に。名古屋・横浜を拠点に一等地へ出店し静岡・岐阜へ拡大
- [38]大須の約120メートルの通りに4つの呉服店(本店・角店・中店・東店)が並び、品物を融通し売上を競い各店年商8000万円超。同一地区での分立営業の不利から1950年(昭和25年)3月に株式会社ほていや呉服店を設立し横浜店も統合。1951年10月、名古屋市中区裏門前町に仕入部を開設し本部組織の核に。名古屋・横浜を拠点に一等地へ出店し静岡・岐阜へ拡大
- [39]大須の約120メートルの通りに4つの呉服店(本店・角店・中店・東店)が並び、品物を融通し売上を競い各店年商8000万円超。同一地区での分立営業の不利から1950年(昭和25年)3月に株式会社ほていや呉服店を設立し横浜店も統合。1951年10月、名古屋市中区裏門前町に仕入部を開設し本部組織の核に。名古屋・横浜を拠点に一等地へ出店し静岡・岐阜へ拡大
- [40]1955年(昭和30年)6月、港区築地に鉄筋コンクリート3階・総面積660平方メートルの中店を新装し商品を総合化。1958年に4階・1290平方メートルへ拡張、1959年に従業員40名を69名に
- [41]1955年(昭和30年)6月、港区築地に鉄筋コンクリート3階・総面積660平方メートルの中店を新装し商品を総合化。1958年に4階・1290平方メートルへ拡張、1959年に従業員40名を69名に
- [42]1955年(昭和30年)6月、港区築地に鉄筋コンクリート3階・総面積660平方メートルの中店を新装し商品を総合化。1958年に4階・1290平方メートルへ拡張、1959年に従業員40名を69名に
- [43]1955年(昭和30年)6月、港区築地に鉄筋コンクリート3階・総面積660平方メートルの中店を新装し商品を総合化。1958年に4階・1290平方メートルへ拡張、1959年に従業員40名を69名に
- [44]1955年(昭和30年)6月、港区築地に鉄筋コンクリート3階・総面積660平方メートルの中店を新装し商品を総合化。1958年に4階・1290平方メートルへ拡張、1959年に従業員40名を69名に
- [45]1955年(昭和30年)6月、港区築地に鉄筋コンクリート3階・総面積660平方メートルの中店を新装し商品を総合化。1958年に4階・1290平方メートルへ拡張、1959年に従業員40名を69名に
- ユニー 有価証券報告書「沿革」
- [26]1949年12月、前身の一つである西川屋が設立
- [37]1950年3月、前身の一つであるほていやが設立(登記上の年月)
- 日本経済新聞社編『日本産業史』3巻「流通-急成長した総合スーパー」(日経文庫)
- [46]1960年度(昭和35年度)の小売業売上高上位10社は三越・高島屋などすべて百貨店
1959年〜伊勢湾台風で受けた1200万円の損害と、半田に開いたショッピングセンター
1959年9月26日、伊勢湾台風が名古屋を襲い、西川屋の中店は高潮で浸水。西川俊男氏は1980年の自著で、海水が一気に流れ込み地下1階がたちまち水没したと回想した。1階も膝の上まで水につかり、2階の服地も吹き込んだ雨でぬれた。周囲に鉄筋の建物が少なく、店舗は付近住民の避難場所になった。商品は荒らされるか水浸しになり、損害額は1200万円に上った。1週間後に処分の大売り出しを実施し、全館での営業再開は10月20日である。地下が浸水したままでも、洗えば使える商品を大幅に値下げし、被災地の必需品に需要が集中した。西川俊男氏は、店を1か所で大きくすると天災で全滅しかねないと考えた。危険を分散するため、西川俊男氏は初めてチェーン化を構想した。
- ポケット社史『ユニー 新しい豊かさを創造する幸福産業』(1991年)
- [47]1959年(昭和34年)9月26日の伊勢湾台風で店舗が浸水、避難場所となり損害1200万円。1週間後に処分売り出し、10月20日に全館再開。一極集中の危険から別の場所への出店とチェーン化を構想
- [50]1959年(昭和34年)9月26日の伊勢湾台風で店舗が浸水、避難場所となり損害1200万円。1週間後に処分売り出し、10月20日に全館再開。一極集中の危険から別の場所への出店とチェーン化を構想
- [51]1959年(昭和34年)9月26日の伊勢湾台風で店舗が浸水、避難場所となり損害1200万円。1週間後に処分売り出し、10月20日に全館再開。一極集中の危険から別の場所への出店とチェーン化を構想
- [52]1959年(昭和34年)9月26日の伊勢湾台風で店舗が浸水、避難場所となり損害1200万円。1週間後に処分売り出し、10月20日に全館再開。一極集中の危険から別の場所への出店とチェーン化を構想
- [53]1959年(昭和34年)9月26日の伊勢湾台風で店舗が浸水、避難場所となり損害1200万円。1週間後に処分売り出し、10月20日に全館再開。一極集中の危険から別の場所への出店とチェーン化を構想
- [54]1959年(昭和34年)9月26日の伊勢湾台風で店舗が浸水、避難場所となり損害1200万円。1週間後に処分売り出し、10月20日に全館再開。一極集中の危険から別の場所への出店とチェーン化を構想
- [55]1959年(昭和34年)9月26日の伊勢湾台風で店舗が浸水、避難場所となり損害1200万円。1週間後に処分売り出し、10月20日に全館再開。一極集中の危険から別の場所への出店とチェーン化を構想
- 西川俊男『あすへの小売り戦略』(日本経済新聞社、1980年)の回想(ポケット社史『ユニー 新しい豊かさを創造する幸福産業』1991年 所収の引用)
- [48]高潮で地下1階が水没、1階もひざ上まで浸水、2階の服地類も濡れた(西川俊男の回想)
- [49]高潮で地下1階が水没、1階もひざ上まで浸水、2階の服地類も濡れた(西川俊男の回想)
1960年7月、西川屋は名古屋市熱田区に六番町店を開業した。用地は住宅用に確保していた土地で、本店から約2キロの国道1号線沿いにあった。商店街から離れ、人の往来も少ない場所だった。店舗は鉄筋コンクリート2階建て・総面積1320平方メートルで、本店の規模を上回った。西川俊男氏は以前に東京・青山の紀ノ国屋を見学し、セルフ式スーパーの第1号に衝撃を受けていた。六番町店は紀ノ国屋にならい、食料品も扱った。西川俊男氏は店舗の2階に住み込み、開業後の運営に力を注いだ。昭和30年代は、各地でスーパーが相次いで誕生した時期にあたる。商店街の外でも客を呼べるかを、手持ちの土地で試した出店と思われる。
- ポケット社史『ユニー 新しい豊かさを創造する幸福産業』(1991年)
- [56]1960年(昭和35年)7月、熱田区の国道1号線沿い、名港店から約2キロの住宅用地に鉄筋2階・1320平方メートルの六番町店を開業(本店より大きい)。青山の紀ノ国屋に倣い食料品も扱う
- [57]1960年(昭和35年)7月、熱田区の国道1号線沿い、名港店から約2キロの住宅用地に鉄筋2階・1320平方メートルの六番町店を開業(本店より大きい)。青山の紀ノ国屋に倣い食料品も扱う
- [58]1960年(昭和35年)7月、熱田区の国道1号線沿い、名港店から約2キロの住宅用地に鉄筋2階・1320平方メートルの六番町店を開業(本店より大きい)。青山の紀ノ国屋に倣い食料品も扱う
- [59]1960年(昭和35年)7月、熱田区の国道1号線沿い、名港店から約2キロの住宅用地に鉄筋2階・1320平方メートルの六番町店を開業(本店より大きい)。青山の紀ノ国屋に倣い食料品も扱う
- [60]1960年(昭和35年)7月、熱田区の国道1号線沿い、名港店から約2キロの住宅用地に鉄筋2階・1320平方メートルの六番町店を開業(本店より大きい)。青山の紀ノ国屋に倣い食料品も扱う
- [61]1960年(昭和35年)7月、熱田区の国道1号線沿い、名港店から約2キロの住宅用地に鉄筋2階・1320平方メートルの六番町店を開業(本店より大きい)。青山の紀ノ国屋に倣い食料品も扱う
- [62]1960年(昭和35年)7月、熱田区の国道1号線沿い、名港店から約2キロの住宅用地に鉄筋2階・1320平方メートルの六番町店を開業(本店より大きい)。青山の紀ノ国屋に倣い食料品も扱う
- 日本経済新聞社編『日本産業史』3巻「流通-急成長した総合スーパー」(日経文庫)
- [63]昭和30年代にスーパーが相次いで誕生した
1961年9月6日から10月6日まで、西川俊男氏はアメリカの小売業を1か月かけて視察した。シアーズ・ローバックでは、売上高1兆4000億円の規模に目を見張った。ニューヨーク郊外の大型商業施設では7000台分の駐車場を見て、日本の車社会の到来を予感した。西海岸のロサンゼルスとサンフランシスコで、地域に根を張るローカルスーパーを見て回った。帰国後、西川屋は1962年6月に名古屋市外で初の店舗を小牧市に開設し、12月には犬山市にも出店した。1963年に株式会社西川屋チェンへ改称し、同年9月に設けた半田ショッピングセンターは、名鉄の知多半田駅前に立地する。1964年には7月に刈谷店、9月に大府町の大府店を開設した。西川屋チェーンはその後ほていやと合併し、1971年のユニー設立に至る。
- ポケット社史『ユニー 新しい豊かさを創造する幸福産業』(1991年)
- [64]1961年(昭和36年)9月6日〜10月6日にアメリカ視察(シアーズの規模、郊外SCの7000台駐車場、ローカルスーパー)。地域の地盤固めを方針とし、1962年6月小牧、12月犬山に出店。1963年に株式会社西川屋チェンに改称、9月に名鉄知多半田駅前に半田ショッピングセンター、1964年7月刈谷店・9月大府店を開設
- [65]1961年(昭和36年)9月6日〜10月6日にアメリカ視察(シアーズの規模、郊外SCの7000台駐車場、ローカルスーパー)。地域の地盤固めを方針とし、1962年6月小牧、12月犬山に出店。1963年に株式会社西川屋チェンに改称、9月に名鉄知多半田駅前に半田ショッピングセンター、1964年7月刈谷店・9月大府店を開設
- [66]1961年(昭和36年)9月6日〜10月6日にアメリカ視察(シアーズの規模、郊外SCの7000台駐車場、ローカルスーパー)。地域の地盤固めを方針とし、1962年6月小牧、12月犬山に出店。1963年に株式会社西川屋チェンに改称、9月に名鉄知多半田駅前に半田ショッピングセンター、1964年7月刈谷店・9月大府店を開設
- [67]1961年(昭和36年)9月6日〜10月6日にアメリカ視察(シアーズの規模、郊外SCの7000台駐車場、ローカルスーパー)。地域の地盤固めを方針とし、1962年6月小牧、12月犬山に出店。1963年に株式会社西川屋チェンに改称、9月に名鉄知多半田駅前に半田ショッピングセンター、1964年7月刈谷店・9月大府店を開設
- [68]1961年(昭和36年)9月6日〜10月6日にアメリカ視察(シアーズの規模、郊外SCの7000台駐車場、ローカルスーパー)。地域の地盤固めを方針とし、1962年6月小牧、12月犬山に出店。1963年に株式会社西川屋チェンに改称、9月に名鉄知多半田駅前に半田ショッピングセンター、1964年7月刈谷店・9月大府店を開設
- [69]1961年(昭和36年)9月6日〜10月6日にアメリカ視察(シアーズの規模、郊外SCの7000台駐車場、ローカルスーパー)。地域の地盤固めを方針とし、1962年6月小牧、12月犬山に出店。1963年に株式会社西川屋チェンに改称、9月に名鉄知多半田駅前に半田ショッピングセンター、1964年7月刈谷店・9月大府店を開設
- [70]1961年(昭和36年)9月6日〜10月6日にアメリカ視察(シアーズの規模、郊外SCの7000台駐車場、ローカルスーパー)。地域の地盤固めを方針とし、1962年6月小牧、12月犬山に出店。1963年に株式会社西川屋チェンに改称、9月に名鉄知多半田駅前に半田ショッピングセンター、1964年7月刈谷店・9月大府店を開設
- 日本経済新聞社編『日本産業史』3巻「流通-急成長した総合スーパー」(日経文庫)
- [71]1971年(昭和46年)、ほていや・西川屋チェーンの合併でユニーが設立された
参考文献[47]-[71]
- ポケット社史『ユニー 新しい豊かさを創造する幸福産業』(1991年)
- [47]1959年(昭和34年)9月26日の伊勢湾台風で店舗が浸水、避難場所となり損害1200万円。1週間後に処分売り出し、10月20日に全館再開。一極集中の危険から別の場所への出店とチェーン化を構想
- [50]1959年(昭和34年)9月26日の伊勢湾台風で店舗が浸水、避難場所となり損害1200万円。1週間後に処分売り出し、10月20日に全館再開。一極集中の危険から別の場所への出店とチェーン化を構想
- [51]1959年(昭和34年)9月26日の伊勢湾台風で店舗が浸水、避難場所となり損害1200万円。1週間後に処分売り出し、10月20日に全館再開。一極集中の危険から別の場所への出店とチェーン化を構想
- [52]1959年(昭和34年)9月26日の伊勢湾台風で店舗が浸水、避難場所となり損害1200万円。1週間後に処分売り出し、10月20日に全館再開。一極集中の危険から別の場所への出店とチェーン化を構想
- [53]1959年(昭和34年)9月26日の伊勢湾台風で店舗が浸水、避難場所となり損害1200万円。1週間後に処分売り出し、10月20日に全館再開。一極集中の危険から別の場所への出店とチェーン化を構想
- [54]1959年(昭和34年)9月26日の伊勢湾台風で店舗が浸水、避難場所となり損害1200万円。1週間後に処分売り出し、10月20日に全館再開。一極集中の危険から別の場所への出店とチェーン化を構想
- [55]1959年(昭和34年)9月26日の伊勢湾台風で店舗が浸水、避難場所となり損害1200万円。1週間後に処分売り出し、10月20日に全館再開。一極集中の危険から別の場所への出店とチェーン化を構想
- [56]1960年(昭和35年)7月、熱田区の国道1号線沿い、名港店から約2キロの住宅用地に鉄筋2階・1320平方メートルの六番町店を開業(本店より大きい)。青山の紀ノ国屋に倣い食料品も扱う
- [57]1960年(昭和35年)7月、熱田区の国道1号線沿い、名港店から約2キロの住宅用地に鉄筋2階・1320平方メートルの六番町店を開業(本店より大きい)。青山の紀ノ国屋に倣い食料品も扱う
- [58]1960年(昭和35年)7月、熱田区の国道1号線沿い、名港店から約2キロの住宅用地に鉄筋2階・1320平方メートルの六番町店を開業(本店より大きい)。青山の紀ノ国屋に倣い食料品も扱う
- [59]1960年(昭和35年)7月、熱田区の国道1号線沿い、名港店から約2キロの住宅用地に鉄筋2階・1320平方メートルの六番町店を開業(本店より大きい)。青山の紀ノ国屋に倣い食料品も扱う
- [60]1960年(昭和35年)7月、熱田区の国道1号線沿い、名港店から約2キロの住宅用地に鉄筋2階・1320平方メートルの六番町店を開業(本店より大きい)。青山の紀ノ国屋に倣い食料品も扱う
- [61]1960年(昭和35年)7月、熱田区の国道1号線沿い、名港店から約2キロの住宅用地に鉄筋2階・1320平方メートルの六番町店を開業(本店より大きい)。青山の紀ノ国屋に倣い食料品も扱う
- [62]1960年(昭和35年)7月、熱田区の国道1号線沿い、名港店から約2キロの住宅用地に鉄筋2階・1320平方メートルの六番町店を開業(本店より大きい)。青山の紀ノ国屋に倣い食料品も扱う
- [64]1961年(昭和36年)9月6日〜10月6日にアメリカ視察(シアーズの規模、郊外SCの7000台駐車場、ローカルスーパー)。地域の地盤固めを方針とし、1962年6月小牧、12月犬山に出店。1963年に株式会社西川屋チェンに改称、9月に名鉄知多半田駅前に半田ショッピングセンター、1964年7月刈谷店・9月大府店を開設
- [65]1961年(昭和36年)9月6日〜10月6日にアメリカ視察(シアーズの規模、郊外SCの7000台駐車場、ローカルスーパー)。地域の地盤固めを方針とし、1962年6月小牧、12月犬山に出店。1963年に株式会社西川屋チェンに改称、9月に名鉄知多半田駅前に半田ショッピングセンター、1964年7月刈谷店・9月大府店を開設
- [66]1961年(昭和36年)9月6日〜10月6日にアメリカ視察(シアーズの規模、郊外SCの7000台駐車場、ローカルスーパー)。地域の地盤固めを方針とし、1962年6月小牧、12月犬山に出店。1963年に株式会社西川屋チェンに改称、9月に名鉄知多半田駅前に半田ショッピングセンター、1964年7月刈谷店・9月大府店を開設
- [67]1961年(昭和36年)9月6日〜10月6日にアメリカ視察(シアーズの規模、郊外SCの7000台駐車場、ローカルスーパー)。地域の地盤固めを方針とし、1962年6月小牧、12月犬山に出店。1963年に株式会社西川屋チェンに改称、9月に名鉄知多半田駅前に半田ショッピングセンター、1964年7月刈谷店・9月大府店を開設
- [68]1961年(昭和36年)9月6日〜10月6日にアメリカ視察(シアーズの規模、郊外SCの7000台駐車場、ローカルスーパー)。地域の地盤固めを方針とし、1962年6月小牧、12月犬山に出店。1963年に株式会社西川屋チェンに改称、9月に名鉄知多半田駅前に半田ショッピングセンター、1964年7月刈谷店・9月大府店を開設
- [69]1961年(昭和36年)9月6日〜10月6日にアメリカ視察(シアーズの規模、郊外SCの7000台駐車場、ローカルスーパー)。地域の地盤固めを方針とし、1962年6月小牧、12月犬山に出店。1963年に株式会社西川屋チェンに改称、9月に名鉄知多半田駅前に半田ショッピングセンター、1964年7月刈谷店・9月大府店を開設
- [70]1961年(昭和36年)9月6日〜10月6日にアメリカ視察(シアーズの規模、郊外SCの7000台駐車場、ローカルスーパー)。地域の地盤固めを方針とし、1962年6月小牧、12月犬山に出店。1963年に株式会社西川屋チェンに改称、9月に名鉄知多半田駅前に半田ショッピングセンター、1964年7月刈谷店・9月大府店を開設
- 西川俊男『あすへの小売り戦略』(日本経済新聞社、1980年)の回想(ポケット社史『ユニー 新しい豊かさを創造する幸福産業』1991年 所収の引用)
- [48]高潮で地下1階が水没、1階もひざ上まで浸水、2階の服地類も濡れた(西川俊男の回想)
- [49]高潮で地下1階が水没、1階もひざ上まで浸水、2階の服地類も濡れた(西川俊男の回想)
- 日本経済新聞社編『日本産業史』3巻「流通-急成長した総合スーパー」(日経文庫)
- [63]昭和30年代にスーパーが相次いで誕生した
- [71]1971年(昭和46年)、ほていや・西川屋チェーンの合併でユニーが設立された
出典・参考
4件
- ユニー 有価証券報告書「沿革」
- 西川俊男『あすへの小売り戦略』(日本経済新聞社、1980年)の回想(ポケット社史『ユニー 新しい豊かさを創造する幸福産業』1991年 所収の引用)
- ポケット社史『ユニー 新しい豊かさを創造する幸福産業』(1991年)
- 日本経済新聞社編『日本産業史』3巻「流通-急成長した総合スーパー」(日経文庫)