ユアサ商事:初代湯淺庄九郎氏の創業
1666年〜京都堀川町に開いた木炭商「炭屋」と、刃物を商う打物商への転身
炭屋の起点は、寛文6年(1666)3月に湯淺庄九郎氏が京都西堀川松原上ル堀川町で始めた木炭の商いである。山城国西ノ岡下津林村の農家の三男に生まれた湯淺庄九郎氏は23歳で、炭屋庄九郎と称して伏見産の木炭を市中の鍛冶屋へ卸した。寛文期の京都は応仁の乱以来の戦乱の痛手から立ち直り、人口40万を抱える商工業の町になっていた。当時の京都の市中では、打物の鍛冶業者だけで約500名を数えた。戦乱が収まると刀鍛冶から鋏・庖丁の鍛冶に転じる者が相次ぎ、京都は打刃物で全国一の産地になっていた。燃料を納める相手が市中に密集していたことが、元手の小さい木炭商を選んだ理由だったのだろう。
- 詳述湯浅三百年史(1981年) 第一章 京都店を開く 一、初代創業・二、寛文時代
- [1]1666年3月、湯淺庄九郎(1644年生、23歳)が京都堀川町で木炭商「炭屋庄九郎」を開業。伏見の木炭を京都の鍛冶屋に卸す。寛文期の京都は人口40万の商工業の町
- [2]1666年3月、湯淺庄九郎(1644年生、23歳)が京都堀川町で木炭商「炭屋庄九郎」を開業。伏見の木炭を京都の鍛冶屋に卸す。寛文期の京都は人口40万の商工業の町
- [3]1666年3月、湯淺庄九郎(1644年生、23歳)が京都堀川町で木炭商「炭屋庄九郎」を開業。伏見の木炭を京都の鍛冶屋に卸す。寛文期の京都は人口40万の商工業の町
- 詳述湯浅三百年史(1981年) 第一章 京都店を開く 三、京都打物の発祥
- [4]江戸初期の京都の打物鍛冶は約500名で全国一の生産地
- 三百年ののれん(1969年)
- [5]戦乱後に京都の刀鍛冶が鋏・庖丁鍛冶に転業し、江戸中期まで京都が打刃物の全国一の産地
寛文11年(1671)5月、炭屋は開業から5年で木炭の商いを廃し、打刃物を扱う打物商の専業に転換。転換の糸口は、創業以来の木炭の納め先である京都の鍛冶屋との結びつきにあった。取引が深まるにつれ、代金の代わりに小刀・剃刀・鋏・庖丁を受け取るなどして、それらの売買も手がけるようになった。打物を扱ううちに湯淺庄九郎氏は産地としての京都の価値を見直し、資本の蓄えと打物の先行きへの自信を得て木炭商を廃止した。燃料の供給で築いた鍛冶屋との関係が、そのまま製品の仕入れ網に転じたと思われる。
- 詳述湯浅三百年史(1981年) 第一章 三、京都打物の発祥・四、打物と金物
- [6]1671年5月、開業5年で木炭商を廃し打物商専業となる。鍛冶屋との関係から代金代わりに小刀・剃刀・鋏・庖丁を受け取り売買を始めた
- [8]1671年5月、開業5年で木炭商を廃し打物商専業となる。鍛冶屋との関係から代金代わりに小刀・剃刀・鋏・庖丁を受け取り売買を始めた
- [9]1671年5月、開業5年で木炭商を廃し打物商専業となる。鍛冶屋との関係から代金代わりに小刀・剃刀・鋏・庖丁を受け取り売買を始めた
- 三百年ののれん(1969年)
- [7]初代は鍛冶職に木炭を卸した縁で打刃物を扱い、創業5年で木炭商を廃止して打刃物商となった
参考文献[1]-[9]
- 詳述湯浅三百年史(1981年) 第一章 京都店を開く 一、初代創業・二、寛文時代
- [1]1666年3月、湯淺庄九郎(1644年生、23歳)が京都堀川町で木炭商「炭屋庄九郎」を開業。伏見の木炭を京都の鍛冶屋に卸す。寛文期の京都は人口40万の商工業の町
- [2]1666年3月、湯淺庄九郎(1644年生、23歳)が京都堀川町で木炭商「炭屋庄九郎」を開業。伏見の木炭を京都の鍛冶屋に卸す。寛文期の京都は人口40万の商工業の町
- [3]1666年3月、湯淺庄九郎(1644年生、23歳)が京都堀川町で木炭商「炭屋庄九郎」を開業。伏見の木炭を京都の鍛冶屋に卸す。寛文期の京都は人口40万の商工業の町
- 詳述湯浅三百年史(1981年) 第一章 京都店を開く 三、京都打物の発祥
- [4]江戸初期の京都の打物鍛冶は約500名で全国一の生産地
- 三百年ののれん(1969年)
- [5]戦乱後に京都の刀鍛冶が鋏・庖丁鍛冶に転業し、江戸中期まで京都が打刃物の全国一の産地
- [7]初代は鍛冶職に木炭を卸した縁で打刃物を扱い、創業5年で木炭商を廃止して打刃物商となった
- 詳述湯浅三百年史(1981年) 第一章 三、京都打物の発祥・四、打物と金物
- [6]1671年5月、開業5年で木炭商を廃し打物商専業となる。鍛冶屋との関係から代金代わりに小刀・剃刀・鋏・庖丁を受け取り売買を始めた
- [8]1671年5月、開業5年で木炭商を廃し打物商専業となる。鍛冶屋との関係から代金代わりに小刀・剃刀・鋏・庖丁を受け取り売買を始めた
- [9]1671年5月、開業5年で木炭商を廃し打物商専業となる。鍛冶屋との関係から代金代わりに小刀・剃刀・鋏・庖丁を受け取り売買を始めた
1674年〜延宝2年に開いた江戸店と、六代が大坂南船場に構えた店
湯淺庄九郎氏は延宝2年(1674)3月、江戸の本石町3丁目北側に借りた店舗で江戸店を開業し、「小刀屋庄九郎」の暖簾を掲げた。京都での創業から8年目で、自ら行商を重ねた末の開業である。明暦3年(1657)の大火で焼けた江戸は新しい町割りで再建され、上方から来た商人の店が日本橋通と本町通に軒を連ねた。江戸で消費する品の多くは上方から運ばれており、湯淺庄九郎氏は全国一の産地である京都の打刃物をこの都市に卸すことを狙った。2代の元禄元年(1688)に炭屋を正式な屋号と定め、3代の享保11年(1726)には江戸店を通油町角に移した。京都で仕入れて江戸で売る江戸店持ちの京商人の型が、この時期に固まったとみられる。
- 詳述湯浅三百年史(1981年) 第二章 江戸店を開く 一、初代江戸へ進出・二、江戸店持京商人
- [10]1674年3月、本石町3丁目北側に店舗を借りて江戸店を開き「小刀屋庄九郎」の暖簾を掲げる。明暦大火後に復興した江戸で日本橋通・本町通に上方商人が並ぶ
- [12]1674年3月、本石町3丁目北側に店舗を借りて江戸店を開き「小刀屋庄九郎」の暖簾を掲げる。明暦大火後に復興した江戸で日本橋通・本町通に上方商人が並ぶ
- 三百年ののれん(1969年)
- [11]行商8年で江戸店を持つ。京都の打刃物を江戸に卸すため延宝2年に本石町3丁目に開店、1688年に炭屋を屋号に、1726年に通油町角へ進出
- [13]行商8年で江戸店を持つ。京都の打刃物を江戸に卸すため延宝2年に本石町3丁目に開店、1688年に炭屋を屋号に、1726年に通油町角へ進出
- [14]行商8年で江戸店を持つ。京都の打刃物を江戸に卸すため延宝2年に本石町3丁目に開店、1688年に炭屋を屋号に、1726年に通油町角へ進出
宝暦4年(1754)に3代が死去すると、4代と5代も相次いで早世し、明和2年(1765)に8歳の5代の長男が家督を継いで六代となった。その間に江戸店は2回、京都店は1回の類焼に遭い、分家と江戸店の支配人が店員をまとめて店を守った。六代湯淺七左衛門氏は15歳の元服を機に江戸店へ下り、丁稚・手代と寝起きを共にして修業したのち、19歳で七左衛門を襲名した。「炭屋請合なし」の刻印を打った剃刀を東海道の宿場の髪結床に見本として配り、切れ味で名を広めた逸話も六代の着想と伝わる。寛政7年(1795)1月、六代湯淺七左衛門氏は38歳で5歳の長男に家督を譲って隠居し、三蔵と名乗った。隠居によって六代湯淺七左衛門氏は日々の店務を離れ、業界の動向を見渡す立場に移った。
- 詳述湯浅三百年史(1981年) 第四章 大坂店を開く 一、中興の祖六代・二、六代の大坂進出
- [15]1754年3代死去後、4代・5代が早世し、1765年に5代長男が8歳で六代を相続。15歳で江戸店修業、19歳で七左衛門襲名。1795年1月、38歳で隠居し三蔵と称す。「炭屋請合なし」の逸話
- [16]1754年3代死去後、4代・5代が早世し、1765年に5代長男が8歳で六代を相続。15歳で江戸店修業、19歳で七左衛門襲名。1795年1月、38歳で隠居し三蔵と称す。「炭屋請合なし」の逸話
- [17]1754年3代死去後、4代・5代が早世し、1765年に5代長男が8歳で六代を相続。15歳で江戸店修業、19歳で七左衛門襲名。1795年1月、38歳で隠居し三蔵と称す。「炭屋請合なし」の逸話
- [19]1754年3代死去後、4代・5代が早世し、1765年に5代長男が8歳で六代を相続。15歳で江戸店修業、19歳で七左衛門襲名。1795年1月、38歳で隠居し三蔵と称す。「炭屋請合なし」の逸話
- [20]1754年3代死去後、4代・5代が早世し、1765年に5代長男が8歳で六代を相続。15歳で江戸店修業、19歳で七左衛門襲名。1795年1月、38歳で隠居し三蔵と称す。「炭屋請合なし」の逸話
- 三百年ののれん(1969年)
- [18]「炭屋請合なし」の宣伝が効を奏し繁栄の基を築いたとの言い伝えがあり、6代目のこととされる
隠居した六代湯淺七左衛門氏が最初に手がけたのは、江戸店に指示した播州三木との直取引である。江戸中期を過ぎると打物の中心は京都から大坂・堺へ移り、大坂経済圏に属する三木で大工道具の鍛冶が急増していた。三木の製品は大坂を経由して江戸市場へ流れ込みはじめており、炭屋は文化元年(1804)に三木の仲買問屋との直取引を結んだ。三木の金物はやがて京都の製品に代わり、全国の市場に行き渡った。続いて創業150年の文化13年(1816)1月、六代湯淺七左衛門氏は大坂船場の末吉橋通2丁目に大坂店を開業し、屋号は炭屋三蔵。大坂店は大坂・堺・三木の仕入れを担う江戸店の仕入機関と位置づけられ、翌年には長堀橋際の河岸地に積荷用の土蔵を建てた。
- 詳述湯浅三百年史(1981年) 第四章 大坂店を開く 二、六代の大坂進出
- [21]六代隠居三蔵が江戸店に三木との直取引を指示し、次いで1816年1月、大坂船場末吉橋通二丁目に大坂店を開き炭屋三蔵と称す。大坂店は江戸店の仕入機関で翌年長堀橋際に浜蔵を上棟
- [22]六代隠居三蔵が江戸店に三木との直取引を指示し、次いで1816年1月、大坂船場末吉橋通二丁目に大坂店を開き炭屋三蔵と称す。大坂店は江戸店の仕入機関で翌年長堀橋際に浜蔵を上棟
- [25]六代隠居三蔵が江戸店に三木との直取引を指示し、次いで1816年1月、大坂船場末吉橋通二丁目に大坂店を開き炭屋三蔵と称す。大坂店は江戸店の仕入機関で翌年長堀橋際に浜蔵を上棟
- [26]六代隠居三蔵が江戸店に三木との直取引を指示し、次いで1816年1月、大坂船場末吉橋通二丁目に大坂店を開き炭屋三蔵と称す。大坂店は江戸店の仕入機関で翌年長堀橋際に浜蔵を上棟
- 詳述湯浅三百年史(1981年) 第五章 三木金物と炭屋
- [23]三木の鍛冶は大坂商人と結んで発展し、1804年に江戸問屋炭屋との直取引が成立
- 三百年ののれん(1969年)
- [24]文化の頃(1804)から三木金物を取り扱い、三木製品は京都製品に代わり全国市場に行き渡った
参考文献[10]-[26]
- 詳述湯浅三百年史(1981年) 第二章 江戸店を開く 一、初代江戸へ進出・二、江戸店持京商人
- [10]1674年3月、本石町3丁目北側に店舗を借りて江戸店を開き「小刀屋庄九郎」の暖簾を掲げる。明暦大火後に復興した江戸で日本橋通・本町通に上方商人が並ぶ
- [12]1674年3月、本石町3丁目北側に店舗を借りて江戸店を開き「小刀屋庄九郎」の暖簾を掲げる。明暦大火後に復興した江戸で日本橋通・本町通に上方商人が並ぶ
- 三百年ののれん(1969年)
- [11]行商8年で江戸店を持つ。京都の打刃物を江戸に卸すため延宝2年に本石町3丁目に開店、1688年に炭屋を屋号に、1726年に通油町角へ進出
- [13]行商8年で江戸店を持つ。京都の打刃物を江戸に卸すため延宝2年に本石町3丁目に開店、1688年に炭屋を屋号に、1726年に通油町角へ進出
- [14]行商8年で江戸店を持つ。京都の打刃物を江戸に卸すため延宝2年に本石町3丁目に開店、1688年に炭屋を屋号に、1726年に通油町角へ進出
- [18]「炭屋請合なし」の宣伝が効を奏し繁栄の基を築いたとの言い伝えがあり、6代目のこととされる
- [24]文化の頃(1804)から三木金物を取り扱い、三木製品は京都製品に代わり全国市場に行き渡った
- 詳述湯浅三百年史(1981年) 第四章 大坂店を開く 一、中興の祖六代・二、六代の大坂進出
- [15]1754年3代死去後、4代・5代が早世し、1765年に5代長男が8歳で六代を相続。15歳で江戸店修業、19歳で七左衛門襲名。1795年1月、38歳で隠居し三蔵と称す。「炭屋請合なし」の逸話
- [16]1754年3代死去後、4代・5代が早世し、1765年に5代長男が8歳で六代を相続。15歳で江戸店修業、19歳で七左衛門襲名。1795年1月、38歳で隠居し三蔵と称す。「炭屋請合なし」の逸話
- [17]1754年3代死去後、4代・5代が早世し、1765年に5代長男が8歳で六代を相続。15歳で江戸店修業、19歳で七左衛門襲名。1795年1月、38歳で隠居し三蔵と称す。「炭屋請合なし」の逸話
- [19]1754年3代死去後、4代・5代が早世し、1765年に5代長男が8歳で六代を相続。15歳で江戸店修業、19歳で七左衛門襲名。1795年1月、38歳で隠居し三蔵と称す。「炭屋請合なし」の逸話
- [20]1754年3代死去後、4代・5代が早世し、1765年に5代長男が8歳で六代を相続。15歳で江戸店修業、19歳で七左衛門襲名。1795年1月、38歳で隠居し三蔵と称す。「炭屋請合なし」の逸話
- 詳述湯浅三百年史(1981年) 第四章 大坂店を開く 二、六代の大坂進出
- [21]六代隠居三蔵が江戸店に三木との直取引を指示し、次いで1816年1月、大坂船場末吉橋通二丁目に大坂店を開き炭屋三蔵と称す。大坂店は江戸店の仕入機関で翌年長堀橋際に浜蔵を上棟
- [22]六代隠居三蔵が江戸店に三木との直取引を指示し、次いで1816年1月、大坂船場末吉橋通二丁目に大坂店を開き炭屋三蔵と称す。大坂店は江戸店の仕入機関で翌年長堀橋際に浜蔵を上棟
- [25]六代隠居三蔵が江戸店に三木との直取引を指示し、次いで1816年1月、大坂船場末吉橋通二丁目に大坂店を開き炭屋三蔵と称す。大坂店は江戸店の仕入機関で翌年長堀橋際に浜蔵を上棟
- [26]六代隠居三蔵が江戸店に三木との直取引を指示し、次いで1816年1月、大坂船場末吉橋通二丁目に大坂店を開き炭屋三蔵と称す。大坂店は江戸店の仕入機関で翌年長堀橋際に浜蔵を上棟
- 詳述湯浅三百年史(1981年) 第五章 三木金物と炭屋
- [23]三木の鍛冶は大坂商人と結んで発展し、1804年に江戸問屋炭屋との直取引が成立
1868年〜十代湯淺七左衛門氏が迎えた明治維新と、十二代が京都店を閉じて東京に移した本店
九代の死去(1860年)に続くお家騒動と京都本家の2度の類焼を越え、炭屋は分家の湯淺正三郎氏の後見のもとで若い十代当主を立てて明治を迎えた。慶応4年(1868)には新政府の求めで会計基金3,000両を納め、明治2年(1869)には東京の富商30数名と共に下総小金原の開墾に加わった。開墾地は湯浅里と呼ばれ、炭屋は明治16年(1883)に湯浅里小学校の校舎建設に700円を投じた。十代湯淺七左衛門氏(幼名三太郎)は明治5年(1872)に15歳で元服して東京店で修業し、翌年9月に七左衛門を襲名した。襲名とともに大阪店の名義を炭屋三蔵から七左衛門に書き換え、九代の死後の空白を繰り返さないよう全店を1つの名義の下の本店と支店に整えた。明治初期の店員は3店を合わせて50名近くに上った。
- 詳述湯浅三百年史(1981年) 第二部 第一章 明治維新を迎えて・第二章 小金原開墾事業
- [27]1860年九代死去、1861年お家騒動。分家湯淺正三郎の後見で明治を迎え、1868年会計基金3,000両、1869年小金原開墾に参加。1872年10月十代三太郎15歳で元服・東京店修業、1873年9月七左衛門襲名、大阪店を七左衛門名義に統一
- [28]1860年九代死去、1861年お家騒動。分家湯淺正三郎の後見で明治を迎え、1868年会計基金3,000両、1869年小金原開墾に参加。1872年10月十代三太郎15歳で元服・東京店修業、1873年9月七左衛門襲名、大阪店を七左衛門名義に統一
- [30]1860年九代死去、1861年お家騒動。分家湯淺正三郎の後見で明治を迎え、1868年会計基金3,000両、1869年小金原開墾に参加。1872年10月十代三太郎15歳で元服・東京店修業、1873年9月七左衛門襲名、大阪店を七左衛門名義に統一
- [31]1860年九代死去、1861年お家騒動。分家湯淺正三郎の後見で明治を迎え、1868年会計基金3,000両、1869年小金原開墾に参加。1872年10月十代三太郎15歳で元服・東京店修業、1873年9月七左衛門襲名、大阪店を七左衛門名義に統一
- 詳述湯浅三百年史(1981年) 第二章 小金原開墾事業 三、湯浅里小学校の開校
- [29]1869年初富村の開墾開始、1883年湯浅里小学校の新築に湯浅開墾社主が700円を投じた
- 三百年ののれん(1969年)
- [32]江戸末期から明治初期の店員は3店で50名近く
明治5年(1872)6月、炭屋は別家の炭屋平兵衛から鉄店の商権と店員・商品を譲り受け、資本金3,500円で東京に湯淺鉄店を開設。外国商館を通じて丸釘・洋鉄・亜鉛引鉄板・洋鋼の輸入が急増し、安い丸釘に市場を奪われた和釘は明治10年代から衰えた。炭屋は文政12年(1829)に釘鉄銅物問屋の株を得ながら鉄鋼の扱いに積極的でなかったが、鉄店の開設で和鉄・和鋼に輸入の洋鉄・丸釘を加えた。打物でも、廃刀で転業した東京の刀鍛冶が舶来品を手本に作った散髪鋏・ラシャ切鋏・バリカンを早くから取り上げた。明治19年(1886)には米国製のメスを手本に関の問屋佐藤久八へ製造を頼み、関のポケットナイフの始まりとなった。輸入品で需要をつかみ、その国産品を産地と育てて品揃えを切り替える手順が、明治の炭屋の型になったと考えられる。
- 詳述湯浅三百年史(1981年) 第二部 第一章 明治維新を迎えて 二、東京鉄店の開店
- [33]1872年6月28日、別家炭平から商権・店員・商品を譲り受け資本金3,500円で鉄店開店。丸釘・洋鉄・平板・洋鋼の輸入増で和釘は明治10年代から衰退。1829年に釘鉄銅物問屋株を取得
- [34]1872年6月28日、別家炭平から商権・店員・商品を譲り受け資本金3,500円で鉄店開店。丸釘・洋鉄・平板・洋鋼の輸入増で和釘は明治10年代から衰退。1829年に釘鉄銅物問屋株を取得
- [35]1872年6月28日、別家炭平から商権・店員・商品を譲り受け資本金3,500円で鉄店開店。丸釘・洋鉄・平板・洋鋼の輸入増で和釘は明治10年代から衰退。1829年に釘鉄銅物問屋株を取得
- 詳述湯浅三百年史(1981年) 第二部 第三章 取扱商品の変遷
- [36]洋刃物・洋工具の輸入に伴い取扱商品が拡大し、散髪鋏・バリカン・ポケットナイフ等の国産化に協力した
- 三百年ののれん(1969年)
- [37]東京の刀鍛冶が洋刃物にならって国産化した散髪鋏・ラシャ切鋏・バリカンを早く取り扱う。1886年、米国輸入のメスを手本に関の佐藤久八が製造を引き受け関ポケットナイフの発祥となる
十二代湯淺七左衛門氏は明治37年(1904)11月に家督を継ぎ、翌年に中国大陸、明治39年(1906)に欧米の視察に出た。帰国後の明治39年、明治31年(1898)に成文化した店則を改め、東京店・大阪店を営業店とし、打物店・鉄鋼店を金物部・鉄鋼部と改称した。後見を支配人、番頭を主任と呼び替え、支配人に代表権を与えて部・係ごとの職務権限を定めた。明治18年から37年までの20年間に売上は大阪店が18倍に増えたのに対し、京都店は6倍にとどまった。明治40年(1907)に炭屋は京都店を閉鎖して本店を東京に移し、京都の店は240年の歴史を終えた。東京・大阪の2拠点に挟まれた京都店を閉じ、全体の効率を高める判断だったと推察される。
- 詳述湯浅三百年史(1981年) 第二部 明治三十九年改正店則
- [38]1904年11月十二代が十一代タケに入夫し七左衛門襲名、1905年中国、1906年欧米視察。1906年店則改正で営業店・金物部・鉄鋼部、支配人に代表権
- [39]1904年11月十二代が十一代タケに入夫し七左衛門襲名、1905年中国、1906年欧米視察。1906年店則改正で営業店・金物部・鉄鋼部、支配人に代表権
- 三百年ののれん(1969年)
- [40]明治31年店則で初めて成文化、十二代の明治39年店則で近代化が進み別家制度が終わる
- 詳述湯浅三百年史(1981年) 第二部 第八章 京都店の閉鎖
- [41]明治18〜37年の20年間で売上は大阪店18倍・京都店6倍。東京・大阪に挟まれ将来性に乏しい京都店を閉鎖
- 詳述湯浅三百年史(1981年) 京都店閉鎖
- [42]1907年京都店閉鎖とともに本店を東京に移した
参考文献[27]-[42]
- 詳述湯浅三百年史(1981年) 第二部 第一章 明治維新を迎えて・第二章 小金原開墾事業
- [27]1860年九代死去、1861年お家騒動。分家湯淺正三郎の後見で明治を迎え、1868年会計基金3,000両、1869年小金原開墾に参加。1872年10月十代三太郎15歳で元服・東京店修業、1873年9月七左衛門襲名、大阪店を七左衛門名義に統一
- [28]1860年九代死去、1861年お家騒動。分家湯淺正三郎の後見で明治を迎え、1868年会計基金3,000両、1869年小金原開墾に参加。1872年10月十代三太郎15歳で元服・東京店修業、1873年9月七左衛門襲名、大阪店を七左衛門名義に統一
- [30]1860年九代死去、1861年お家騒動。分家湯淺正三郎の後見で明治を迎え、1868年会計基金3,000両、1869年小金原開墾に参加。1872年10月十代三太郎15歳で元服・東京店修業、1873年9月七左衛門襲名、大阪店を七左衛門名義に統一
- [31]1860年九代死去、1861年お家騒動。分家湯淺正三郎の後見で明治を迎え、1868年会計基金3,000両、1869年小金原開墾に参加。1872年10月十代三太郎15歳で元服・東京店修業、1873年9月七左衛門襲名、大阪店を七左衛門名義に統一
- 詳述湯浅三百年史(1981年) 第二章 小金原開墾事業 三、湯浅里小学校の開校
- [29]1869年初富村の開墾開始、1883年湯浅里小学校の新築に湯浅開墾社主が700円を投じた
- 三百年ののれん(1969年)
- [32]江戸末期から明治初期の店員は3店で50名近く
- [37]東京の刀鍛冶が洋刃物にならって国産化した散髪鋏・ラシャ切鋏・バリカンを早く取り扱う。1886年、米国輸入のメスを手本に関の佐藤久八が製造を引き受け関ポケットナイフの発祥となる
- [40]明治31年店則で初めて成文化、十二代の明治39年店則で近代化が進み別家制度が終わる
- 詳述湯浅三百年史(1981年) 第二部 第一章 明治維新を迎えて 二、東京鉄店の開店
- [33]1872年6月28日、別家炭平から商権・店員・商品を譲り受け資本金3,500円で鉄店開店。丸釘・洋鉄・平板・洋鋼の輸入増で和釘は明治10年代から衰退。1829年に釘鉄銅物問屋株を取得
- [34]1872年6月28日、別家炭平から商権・店員・商品を譲り受け資本金3,500円で鉄店開店。丸釘・洋鉄・平板・洋鋼の輸入増で和釘は明治10年代から衰退。1829年に釘鉄銅物問屋株を取得
- [35]1872年6月28日、別家炭平から商権・店員・商品を譲り受け資本金3,500円で鉄店開店。丸釘・洋鉄・平板・洋鋼の輸入増で和釘は明治10年代から衰退。1829年に釘鉄銅物問屋株を取得
- 詳述湯浅三百年史(1981年) 第二部 第三章 取扱商品の変遷
- [36]洋刃物・洋工具の輸入に伴い取扱商品が拡大し、散髪鋏・バリカン・ポケットナイフ等の国産化に協力した
- 詳述湯浅三百年史(1981年) 第二部 明治三十九年改正店則
- [38]1904年11月十二代が十一代タケに入夫し七左衛門襲名、1905年中国、1906年欧米視察。1906年店則改正で営業店・金物部・鉄鋼部、支配人に代表権
- [39]1904年11月十二代が十一代タケに入夫し七左衛門襲名、1905年中国、1906年欧米視察。1906年店則改正で営業店・金物部・鉄鋼部、支配人に代表権
- 詳述湯浅三百年史(1981年) 第二部 第八章 京都店の閉鎖
- [41]明治18〜37年の20年間で売上は大阪店18倍・京都店6倍。東京・大阪に挟まれ将来性に乏しい京都店を閉鎖
- 詳述湯浅三百年史(1981年) 京都店閉鎖
- [42]1907年京都店閉鎖とともに本店を東京に移した
出典・参考
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- 詳述湯浅三百年史(1981年) 第一章 京都店を開く 一、初代創業・二、寛文時代
- 詳述湯浅三百年史(1981年) 第一章 京都店を開く 三、京都打物の発祥
- 詳述湯浅三百年史(1981年) 第一章 三、京都打物の発祥・四、打物と金物
- 詳述湯浅三百年史(1981年) 第二章 江戸店を開く 一、初代江戸へ進出・二、江戸店持京商人
- 詳述湯浅三百年史(1981年) 第四章 大坂店を開く 一、中興の祖六代・二、六代の大坂進出
- 詳述湯浅三百年史(1981年) 第四章 大坂店を開く 二、六代の大坂進出
- 詳述湯浅三百年史(1981年) 第五章 三木金物と炭屋
- 詳述湯浅三百年史(1981年) 第二部 第一章 明治維新を迎えて・第二章 小金原開墾事業
- 詳述湯浅三百年史(1981年) 第二章 小金原開墾事業 三、湯浅里小学校の開校
- 詳述湯浅三百年史(1981年) 第二部 第一章 明治維新を迎えて 二、東京鉄店の開店
- 詳述湯浅三百年史(1981年) 第二部 第三章 取扱商品の変遷
- 詳述湯浅三百年史(1981年) 第二部 明治三十九年改正店則
- 詳述湯浅三百年史(1981年) 第二部 第八章 京都店の閉鎖
- 詳述湯浅三百年史(1981年) 京都店閉鎖
- 三百年ののれん(1969年)