第1章 年〜年

イトーキ:伊藤喜十郎氏の伊藤喜商店創業とゼニアイキ発売

1890年〜第3回内国勧業博覧会で発明特許品に目を留めた伊藤喜十郎氏と、高麗橋の伊藤喜商店

創業者の伊藤喜十郎氏は1890年4月、東京・上野公園の第3回内国勧業博覧会を見学し、発明特許品を広く売る事業を思い立った。伊藤喜十郎氏の前歴は、1882年からの養家の両替商の仕事と、1886年からの財界人の高田久右衛門氏の事務所での紡績会社の設立の補佐である。伊藤喜十郎氏は中外商業新報社の木村清四郎氏の紹介で特許局長の奥田義人氏に会い、構想への賛同を得た。同年8月には東京・木挽町の厚生館で約44名の発明者と懇談し、見込みのある30種ほどの販売を引き受けた。伊藤喜十郎氏が作成した趣意書は、特許を持ちながら効能が知られず擬製品に販路を侵される発明品の実情を挙げ、全国的な販売網の樹立と特許権者の保護を掲げた。発明家の多くの反応は冷ややかで、即座に賛同したのは金庫の竹内善次郎氏と謄写版の堀井新治郎氏らに限られた。

  • イトーキのあゆみ イトーキ80年史(1970)
    • [1]1890年4月第3回内国勧業博覧会を見学し発明特許品の普及を業とする発端。1882年から両替商、1886年高田久右衛門事務所。木村清四郎の紹介で特許局長奥田義人の賛同。同年8月厚生館で発明者約44名と懇談し30種ほど引受
    • [2]1890年4月第3回内国勧業博覧会を見学し発明特許品の普及を業とする発端。1882年から両替商、1886年高田久右衛門事務所。木村清四郎の紹介で特許局長奥田義人の賛同。同年8月厚生館で発明者約44名と懇談し30種ほど引受
    • [3]1890年4月第3回内国勧業博覧会を見学し発明特許品の普及を業とする発端。1882年から両替商、1886年高田久右衛門事務所。木村清四郎の紹介で特許局長奥田義人の賛同。同年8月厚生館で発明者約44名と懇談し30種ほど引受
    • [4]1890年4月第3回内国勧業博覧会を見学し発明特許品の普及を業とする発端。1882年から両替商、1886年高田久右衛門事務所。木村清四郎の紹介で特許局長奥田義人の賛同。同年8月厚生館で発明者約44名と懇談し30種ほど引受
  • イトーキ100年史(1991)
    • [5]特許品販売商店創設趣意並に規則:効能が知られず擬製品が販路を侵す実情を挙げ、全国的販売組織と特許権者保護を打ち出す。発明家の反応は冷ややか、竹内善次郎・堀井新治郎が賛同
    • [6]特許品販売商店創設趣意並に規則:効能が知られず擬製品が販路を侵す実情を挙げ、全国的販売組織と特許権者保護を打ち出す。発明家の反応は冷ややか、竹内善次郎・堀井新治郎が賛同

伊藤喜十郎氏は1890年12月1日、大阪市東区高麗橋2丁目83番屋敷に特許諸品商店を開業した。高麗橋に本店を設けた理由は、平野町2丁目の自宅で始めた営業が販売委託の申し込みの相次ぎで手狭になったことである。文士の宇田川文海氏が起草した開業広告は特許品の効能を知らせれば需要が生まれると説き、新聞に載せたほかダイレクトメールでも各方面へ送った。ところが店先に人は立っても買う客は少なく、1〜2年は損失が続いた。収支が償うまでには5〜6年を要し、伊藤喜十郎氏はのちに『石の上にも3年だ、ひとつ辛抱してやろうということでがん張りました』と振り返った。

  • イトーキ100年史(1991)
    • [7]1890年12月1日高麗橋2丁目83番屋敷で特許諸品商店を開業。当初は平野町2丁目の自宅、委託申込が続き手狭に。開業広告(宇田川文海)は効能を知らせ需要を喚起すると説く。新聞広告・ダイレクトメール方式で発送
    • [8]1890年12月1日高麗橋2丁目83番屋敷で特許諸品商店を開業。当初は平野町2丁目の自宅、委託申込が続き手狭に。開業広告(宇田川文海)は効能を知らせ需要を喚起すると説く。新聞広告・ダイレクトメール方式で発送
    • [9]1890年12月1日高麗橋2丁目83番屋敷で特許諸品商店を開業。当初は平野町2丁目の自宅、委託申込が続き手狭に。開業広告(宇田川文海)は効能を知らせ需要を喚起すると説く。新聞広告・ダイレクトメール方式で発送
  • イトーキのあゆみ イトーキ80年史(1970)
    • [10]商売は振るわず1〜2年は損、5〜6年でようやく収支が償う(伊藤喜十郎の談話)
    • [11]商売は振るわず1〜2年は損、5〜6年でようやく収支が償う(伊藤喜十郎の談話)

創業から10年余りで、伊藤喜商店の取扱品の中心は事務用品へ移った。商店や会社の設立と合併が相次ぎ、鉄道網と金融機関の整備も進んで事務の道具への需要が膨らんだためである。伊藤喜十郎氏は発明特許品に限らず海外の新製品も販売品目に加え、1903年には米国からゼムクリップとホチキス紙綴器の輸入販売を始めた。両品の呼称は米国メーカーの名から取った伊藤喜商店の登録商標であり、ゼムクリップは1000個入りの大箱を100個入りの小箱に詰め替えて販売。番号印やタイプライターも揃えた平野町の店には西日本から大阪へ仕入れに来た商人が立ち寄り、伊藤喜商店は『新しい事務用品なら伊藤喜』との評価を得た。

  • イトーキ100年史(1991)
    • [12]取扱の主体が事務用品へ。海外新製品も販売リストに加える。ゼム印クリップは1000個入り大箱を100個入り小箱に小分け。ゼムクリップ・ホチキスは米国メーカー名を取った伊藤喜商店の登録商標。西日本の商人が平野町に立ち寄り「新しい事務用品なら伊藤喜」の評価
    • [14]取扱の主体が事務用品へ。海外新製品も販売リストに加える。ゼム印クリップは1000個入り大箱を100個入り小箱に小分け。ゼムクリップ・ホチキスは米国メーカー名を取った伊藤喜商店の登録商標。西日本の商人が平野町に立ち寄り「新しい事務用品なら伊藤喜」の評価
    • [15]ゼムクリップ・ホチキス紙綴器はともに1903年から輸入販売を開始
    • [16]取扱の主体が事務用品へ。海外新製品も販売リストに加える。ゼム印クリップは1000個入り大箱を100個入り小箱に小分け。ゼムクリップ・ホチキスは米国メーカー名を取った伊藤喜商店の登録商標。西日本の商人が平野町に立ち寄り「新しい事務用品なら伊藤喜」の評価
    • [17]取扱の主体が事務用品へ。海外新製品も販売リストに加える。ゼム印クリップは1000個入り大箱を100個入り小箱に小分け。ゼムクリップ・ホチキスは米国メーカー名を取った伊藤喜商店の登録商標。西日本の商人が平野町に立ち寄り「新しい事務用品なら伊藤喜」の評価
  • イトーキのあゆみ イトーキ80年史(1970)
    • [13]商店・会社の設立・吸収・合併、私鉄網の拡大、金融機関の整備統合で事務用品の需要が拡大し販売商品が変化
参考文献[1]-[17]
  • イトーキのあゆみ イトーキ80年史(1970)
    • [1]1890年4月第3回内国勧業博覧会を見学し発明特許品の普及を業とする発端。1882年から両替商、1886年高田久右衛門事務所。木村清四郎の紹介で特許局長奥田義人の賛同。同年8月厚生館で発明者約44名と懇談し30種ほど引受
    • [2]1890年4月第3回内国勧業博覧会を見学し発明特許品の普及を業とする発端。1882年から両替商、1886年高田久右衛門事務所。木村清四郎の紹介で特許局長奥田義人の賛同。同年8月厚生館で発明者約44名と懇談し30種ほど引受
    • [3]1890年4月第3回内国勧業博覧会を見学し発明特許品の普及を業とする発端。1882年から両替商、1886年高田久右衛門事務所。木村清四郎の紹介で特許局長奥田義人の賛同。同年8月厚生館で発明者約44名と懇談し30種ほど引受
    • [4]1890年4月第3回内国勧業博覧会を見学し発明特許品の普及を業とする発端。1882年から両替商、1886年高田久右衛門事務所。木村清四郎の紹介で特許局長奥田義人の賛同。同年8月厚生館で発明者約44名と懇談し30種ほど引受
    • [10]商売は振るわず1〜2年は損、5〜6年でようやく収支が償う(伊藤喜十郎の談話)
    • [11]商売は振るわず1〜2年は損、5〜6年でようやく収支が償う(伊藤喜十郎の談話)
    • [13]商店・会社の設立・吸収・合併、私鉄網の拡大、金融機関の整備統合で事務用品の需要が拡大し販売商品が変化
  • イトーキ100年史(1991)
    • [5]特許品販売商店創設趣意並に規則:効能が知られず擬製品が販路を侵す実情を挙げ、全国的販売組織と特許権者保護を打ち出す。発明家の反応は冷ややか、竹内善次郎・堀井新治郎が賛同
    • [6]特許品販売商店創設趣意並に規則:効能が知られず擬製品が販路を侵す実情を挙げ、全国的販売組織と特許権者保護を打ち出す。発明家の反応は冷ややか、竹内善次郎・堀井新治郎が賛同
    • [7]1890年12月1日高麗橋2丁目83番屋敷で特許諸品商店を開業。当初は平野町2丁目の自宅、委託申込が続き手狭に。開業広告(宇田川文海)は効能を知らせ需要を喚起すると説く。新聞広告・ダイレクトメール方式で発送
    • [8]1890年12月1日高麗橋2丁目83番屋敷で特許諸品商店を開業。当初は平野町2丁目の自宅、委託申込が続き手狭に。開業広告(宇田川文海)は効能を知らせ需要を喚起すると説く。新聞広告・ダイレクトメール方式で発送
    • [9]1890年12月1日高麗橋2丁目83番屋敷で特許諸品商店を開業。当初は平野町2丁目の自宅、委託申込が続き手狭に。開業広告(宇田川文海)は効能を知らせ需要を喚起すると説く。新聞広告・ダイレクトメール方式で発送
    • [12]取扱の主体が事務用品へ。海外新製品も販売リストに加える。ゼム印クリップは1000個入り大箱を100個入り小箱に小分け。ゼムクリップ・ホチキスは米国メーカー名を取った伊藤喜商店の登録商標。西日本の商人が平野町に立ち寄り「新しい事務用品なら伊藤喜」の評価
    • [14]取扱の主体が事務用品へ。海外新製品も販売リストに加える。ゼム印クリップは1000個入り大箱を100個入り小箱に小分け。ゼムクリップ・ホチキスは米国メーカー名を取った伊藤喜商店の登録商標。西日本の商人が平野町に立ち寄り「新しい事務用品なら伊藤喜」の評価
    • [15]ゼムクリップ・ホチキス紙綴器はともに1903年から輸入販売を開始
    • [16]取扱の主体が事務用品へ。海外新製品も販売リストに加える。ゼム印クリップは1000個入り大箱を100個入り小箱に小分け。ゼムクリップ・ホチキスは米国メーカー名を取った伊藤喜商店の登録商標。西日本の商人が平野町に立ち寄り「新しい事務用品なら伊藤喜」の評価
    • [17]取扱の主体が事務用品へ。海外新製品も販売リストに加える。ゼム印クリップは1000個入り大箱を100個入り小箱に小分け。ゼムクリップ・ホチキスは米国メーカー名を取った伊藤喜商店の登録商標。西日本の商人が平野町に立ち寄り「新しい事務用品なら伊藤喜」の評価

1906年〜博多蔵本町の九州支店と、北新町に開いた伊藤喜商店工作部

伊藤喜商店は1906年7月、初の支店となる九州支店を福岡市博多蔵本町に開設した。伊藤喜十郎氏と長男の伊藤善之助氏の予測は、日本経済が今後は海外をめざし、その第一段階はアジア大陸になるというものである。西日本に広げた販路を大陸へ延ばす拠点には福岡市が最適と判断したが、当時、九州に支店や出張所を置く大阪の会社はまだ少なかった。九州支店は2階の壁面に竹内製金庫や消火器、手刷り謄写版の絵を描いた大看板を出し、陳列窓には手提げ金庫や番号印を飾った。1910年8月の韓国併合ののち、九州支店は北九州地区を押さえて販売を拡大した。

  • イトーキのあゆみ イトーキ80年史(1970)
    • [18]1906年7月博多蔵本町に九州支店。今後の日本経済は海外、第一段階はアジア大陸、要は福岡と予測。陳列窓に手提げ金庫・番号印。1910年8月韓国併合後、北九州地区を押さえて活躍
    • [19]1906年7月博多蔵本町に九州支店。今後の日本経済は海外、第一段階はアジア大陸、要は福岡と予測。陳列窓に手提げ金庫・番号印。1910年8月韓国併合後、北九州地区を押さえて活躍
    • [22]1906年7月博多蔵本町に九州支店。今後の日本経済は海外、第一段階はアジア大陸、要は福岡と予測。陳列窓に手提げ金庫・番号印。1910年8月韓国併合後、北九州地区を押さえて活躍
    • [23]1906年7月博多蔵本町に九州支店。今後の日本経済は海外、第一段階はアジア大陸、要は福岡と予測。陳列窓に手提げ金庫・番号印。1910年8月韓国併合後、北九州地区を押さえて活躍
  • イトーキ100年史(1991)
    • [20]大陸への販路拡大の拠点として福岡市が最適と判断。九州に支店を出す大阪の会社は少なかった。2階壁面の大看板に竹内製金庫・消火器・手刷り謄写版の絵
    • [21]大陸への販路拡大の拠点として福岡市が最適と判断。九州に支店を出す大阪の会社は少なかった。2階壁面の大看板に竹内製金庫・消火器・手刷り謄写版の絵

伊藤喜商店は1908年3月、大阪市東区北新町1丁目に製造部門の伊藤喜商店工作部を開設し、当時27歳の伊藤善之助氏が創設を担った。伊藤喜十郎氏と伊藤善之助氏は、仕入れて売る段から、資力の乏しい権利者への出資、権利の取得による自社製造、自社の発明による製造へと進む道筋を描いた。工作部が受け持つのは、このうち権利を取得して自ら製造する段と、自ら発明して製造する段にあたる。それ以前の1901年には揚水機の発明者と共同経営で大阪市北区福島に工場を建てたものの、収支が合わず1903年9月に閉鎖した。1909年3月には製造販売に行き詰まった発明者から自在運動椅子の権利を取得し、自らの手で製造販売。発明者に製造を任せた工場の失敗が、製造まで自社で抱える判断につながったのだろう。

  • イトーキ100年史(1991)
    • [24]工作部は明治41年3月開設
  • イトーキのあゆみ イトーキ80年史(1970)
    • [25]伊藤善之助略歴:1908年3月伊藤喜商店工作部創設(27歳)
    • [26](1)仕入販売(2)資力の乏しい権利者に出資(3)権利を買い取り自ら製造(4)自ら発明・特許取得・製造。(3)(4)のため北新町に工作部。1901年強水揚機の発明者と共同経営、北区福島に工場、収支償わず1903年9月閉鎖。1909年3月4日自在運動椅子の権利を買い取り製造販売
    • [27](1)仕入販売(2)資力の乏しい権利者に出資(3)権利を買い取り自ら製造(4)自ら発明・特許取得・製造。(3)(4)のため北新町に工作部。1901年強水揚機の発明者と共同経営、北区福島に工場、収支償わず1903年9月閉鎖。1909年3月4日自在運動椅子の権利を買い取り製造販売
    • [28](1)仕入販売(2)資力の乏しい権利者に出資(3)権利を買い取り自ら製造(4)自ら発明・特許取得・製造。(3)(4)のため北新町に工作部。1901年強水揚機の発明者と共同経営、北区福島に工場、収支償わず1903年9月閉鎖。1909年3月4日自在運動椅子の権利を買い取り製造販売
    • [29](1)仕入販売(2)資力の乏しい権利者に出資(3)権利を買い取り自ら製造(4)自ら発明・特許取得・製造。(3)(4)のため北新町に工作部。1901年強水揚機の発明者と共同経営、北区福島に工場、収支償わず1903年9月閉鎖。1909年3月4日自在運動椅子の権利を買い取り製造販売

工作部は手提げ金庫の製造から始め、新しい商品の試作と研究も担った。ホチキス紙綴器も工作部で製作し、輸入品をほぼそのまま写した当初の品を、のちに鳩の姿をかたどった独自の意匠に改めた。1914年9月付の製品案内は第1号ホチキス自動紙綴器を舶来品に劣らず安価な品として売り出し、1917年3月には取引先に先に登録された「ホチキス」の商標権を取得して自社の登録商標とした。番号印でもアイデアル印の型を工作部で自作し、1920年刊の総合カタログには伊藤喜製の手提金庫が独自商品として掲載。自作の品と自前の商標を持ったことで、輸入元の供給と値付けに左右されない品揃えの基礎ができたとみられる。

  • イトーキのあゆみ イトーキ80年史(1970)
    • [30]工作部で手さげ金庫の製造、新商品の試作・研究、特許金銭記録出納機ゼニアイキを製造
  • イトーキ100年史(1991)
    • [31]ホチキスは工作部で製作、当初は輸入品のほぼ完全なイミテーション、のち鳩をかたどった独自デザイン。1914年9月付製品案内で舶来品に遜色なく廉価と宣伝。1917年3月商標権を買い取り登録商標に
    • [32]ホチキスは工作部で製作、当初は輸入品のほぼ完全なイミテーション、のち鳩をかたどった独自デザイン。1914年9月付製品案内で舶来品に遜色なく廉価と宣伝。1917年3月商標権を買い取り登録商標に
    • [33]番号印は輸入品を販売する一方、アイデアル印の型を工作部で自作
    • [34]大正9年刊総合カタログに伊藤喜製手提金庫(オリジナル商品)
参考文献[18]-[34]
  • イトーキのあゆみ イトーキ80年史(1970)
    • [18]1906年7月博多蔵本町に九州支店。今後の日本経済は海外、第一段階はアジア大陸、要は福岡と予測。陳列窓に手提げ金庫・番号印。1910年8月韓国併合後、北九州地区を押さえて活躍
    • [19]1906年7月博多蔵本町に九州支店。今後の日本経済は海外、第一段階はアジア大陸、要は福岡と予測。陳列窓に手提げ金庫・番号印。1910年8月韓国併合後、北九州地区を押さえて活躍
    • [22]1906年7月博多蔵本町に九州支店。今後の日本経済は海外、第一段階はアジア大陸、要は福岡と予測。陳列窓に手提げ金庫・番号印。1910年8月韓国併合後、北九州地区を押さえて活躍
    • [23]1906年7月博多蔵本町に九州支店。今後の日本経済は海外、第一段階はアジア大陸、要は福岡と予測。陳列窓に手提げ金庫・番号印。1910年8月韓国併合後、北九州地区を押さえて活躍
    • [25]伊藤善之助略歴:1908年3月伊藤喜商店工作部創設(27歳)
    • [26](1)仕入販売(2)資力の乏しい権利者に出資(3)権利を買い取り自ら製造(4)自ら発明・特許取得・製造。(3)(4)のため北新町に工作部。1901年強水揚機の発明者と共同経営、北区福島に工場、収支償わず1903年9月閉鎖。1909年3月4日自在運動椅子の権利を買い取り製造販売
    • [27](1)仕入販売(2)資力の乏しい権利者に出資(3)権利を買い取り自ら製造(4)自ら発明・特許取得・製造。(3)(4)のため北新町に工作部。1901年強水揚機の発明者と共同経営、北区福島に工場、収支償わず1903年9月閉鎖。1909年3月4日自在運動椅子の権利を買い取り製造販売
    • [28](1)仕入販売(2)資力の乏しい権利者に出資(3)権利を買い取り自ら製造(4)自ら発明・特許取得・製造。(3)(4)のため北新町に工作部。1901年強水揚機の発明者と共同経営、北区福島に工場、収支償わず1903年9月閉鎖。1909年3月4日自在運動椅子の権利を買い取り製造販売
    • [29](1)仕入販売(2)資力の乏しい権利者に出資(3)権利を買い取り自ら製造(4)自ら発明・特許取得・製造。(3)(4)のため北新町に工作部。1901年強水揚機の発明者と共同経営、北区福島に工場、収支償わず1903年9月閉鎖。1909年3月4日自在運動椅子の権利を買い取り製造販売
    • [30]工作部で手さげ金庫の製造、新商品の試作・研究、特許金銭記録出納機ゼニアイキを製造
  • イトーキ100年史(1991)
    • [20]大陸への販路拡大の拠点として福岡市が最適と判断。九州に支店を出す大阪の会社は少なかった。2階壁面の大看板に竹内製金庫・消火器・手刷り謄写版の絵
    • [21]大陸への販路拡大の拠点として福岡市が最適と判断。九州に支店を出す大阪の会社は少なかった。2階壁面の大看板に竹内製金庫・消火器・手刷り謄写版の絵
    • [24]工作部は明治41年3月開設
    • [31]ホチキスは工作部で製作、当初は輸入品のほぼ完全なイミテーション、のち鳩をかたどった独自デザイン。1914年9月付製品案内で舶来品に遜色なく廉価と宣伝。1917年3月商標権を買い取り登録商標に
    • [32]ホチキスは工作部で製作、当初は輸入品のほぼ完全なイミテーション、のち鳩をかたどった独自デザイン。1914年9月付製品案内で舶来品に遜色なく廉価と宣伝。1917年3月商標権を買い取り登録商標に
    • [33]番号印は輸入品を販売する一方、アイデアル印の型を工作部で自作
    • [34]大正9年刊総合カタログに伊藤喜製手提金庫(オリジナル商品)

1913年〜伊藤善之助氏が名付けたゼニアイキと、ベント式金庫

伊藤喜商店は1913年、伊藤善之助氏が考案した金銭記録出納機「ゼニアイキ」を発売した。当時の商店では伝票の書き忘れや書き違いから勘定が合わないことが多く、伊藤善之助氏の工夫は、出入金の記入に肘をつく台を付け、記入を済ませて初めて引出しが開く仕組みである。長い試作を経て金銭記録出納機の名で特許を取ったが、名が堅く覚えにくいため、銭勘定が合う機械の意でゼニアイキと名付けた。製造は北新町の工作部が担い、販売の手法は、大阪市内の商店の所在地を調べてダイレクトメールを送り、希望先へ現品を持参して説明するものである。販売先は大阪と京都から全国へ広がり、1927年2月に製品番号が1万号に達した。

  • イトーキ100年史(1991)
    • [35]1913年発売。商店で伝票の書き忘れ・書き違いが多く勘定が合わない。肘をつく台を設け伝票を書かなければ引出しが開かない。金銭記録出納機の名で特許。善之助が銭勘定が合う機械としてゼニアイキと命名。商店所在地を調べDM、現品持参で説明。大阪・京都から全国へ、1927年2月製品番号1万号
    • [36]1913年発売。商店で伝票の書き忘れ・書き違いが多く勘定が合わない。肘をつく台を設け伝票を書かなければ引出しが開かない。金銭記録出納機の名で特許。善之助が銭勘定が合う機械としてゼニアイキと命名。商店所在地を調べDM、現品持参で説明。大阪・京都から全国へ、1927年2月製品番号1万号
    • [37]1913年発売。商店で伝票の書き忘れ・書き違いが多く勘定が合わない。肘をつく台を設け伝票を書かなければ引出しが開かない。金銭記録出納機の名で特許。善之助が銭勘定が合う機械としてゼニアイキと命名。商店所在地を調べDM、現品持参で説明。大阪・京都から全国へ、1927年2月製品番号1万号
    • [39]1913年発売。商店で伝票の書き忘れ・書き違いが多く勘定が合わない。肘をつく台を設け伝票を書かなければ引出しが開かない。金銭記録出納機の名で特許。善之助が銭勘定が合う機械としてゼニアイキと命名。商店所在地を調べDM、現品持参で説明。大阪・京都から全国へ、1927年2月製品番号1万号
    • [40]1913年発売。商店で伝票の書き忘れ・書き違いが多く勘定が合わない。肘をつく台を設け伝票を書かなければ引出しが開かない。金銭記録出納機の名で特許。善之助が銭勘定が合う機械としてゼニアイキと命名。商店所在地を調べDM、現品持参で説明。大阪・京都から全国へ、1927年2月製品番号1万号
  • イトーキのあゆみ イトーキ80年史(1970)
    • [38]工作部で特許金銭記録出納機ゼニアイキを製造

伊藤喜商店は1914年1月、厚鋼板1枚を折り曲げて箱体にした「ベント式金庫」を発売した。契機は1910年4月から9月の伊藤善之助氏の欧米視察で、ブリュッセル博覧会でオランダのリップス社製金庫の製法と防盗機能に感心し、同社の工場を訪ねて1個を日本へ送った。帰国後は竹内金庫店の竹内善次郎氏と検討を重ね、製造工程の鍵は鋼板の折り曲げ機にあると判断して、日本に1台といわれたドイツ製の水圧式大型ベンディングマシンを竹内金庫店の工場に据え付けた。ベント式金庫の意義は、継ぎ目の少ない箱体が強度を保ちつつ大量生産でき、手作業に依存していた金庫製造を機械化した点にある。同じ1914年には米国ターレル社のノックダウン式鋼製保管庫の輸入販売も始めた。鋼板を曲げて箱を組む経験が、のちの鋼製保管庫の自社製造の下地になったと思われる。

  • イトーキ100年史(1991)
    • [41]1914年1月ベント式金庫発売。ブリュッセル博覧会でリップス社製金庫の製法と防盗機能に感心、工場訪問、1個を発送。ドイツ製水圧式大型ベンディングマシンを輸入し竹内金庫店の工場に据付。1枚の厚鋼板を折り曲げた箱体
    • [43]1914年1月ベント式金庫発売。ブリュッセル博覧会でリップス社製金庫の製法と防盗機能に感心、工場訪問、1個を発送。ドイツ製水圧式大型ベンディングマシンを輸入し竹内金庫店の工場に据付。1枚の厚鋼板を折り曲げた箱体
    • [45]1914年1月ベント式金庫発売。ブリュッセル博覧会でリップス社製金庫の製法と防盗機能に感心、工場訪問、1個を発送。ドイツ製水圧式大型ベンディングマシンを輸入し竹内金庫店の工場に据付。1枚の厚鋼板を折り曲げた箱体
  • イトーキのあゆみ イトーキ80年史(1970)
    • [42]1910年4月〜9月善之助の海外視察。竹内善次郎と検討し鋼板折り曲げ機が鍵と判断。継ぎ目少なく大量生産、手加工を機械化。1914年ターレル社製ノックダウン式鋼製保管庫を輸入販売
    • [44]1910年4月〜9月善之助の海外視察。竹内善次郎と検討し鋼板折り曲げ機が鍵と判断。継ぎ目少なく大量生産、手加工を機械化。1914年ターレル社製ノックダウン式鋼製保管庫を輸入販売
    • [46]1910年4月〜9月善之助の海外視察。竹内善次郎と検討し鋼板折り曲げ機が鍵と判断。継ぎ目少なく大量生産、手加工を機械化。1914年ターレル社製ノックダウン式鋼製保管庫を輸入販売
    • [47]1910年4月〜9月善之助の海外視察。竹内善次郎と検討し鋼板折り曲げ機が鍵と判断。継ぎ目少なく大量生産、手加工を機械化。1914年ターレル社製ノックダウン式鋼製保管庫を輸入販売
参考文献[35]-[47]
  • イトーキ100年史(1991)
    • [35]1913年発売。商店で伝票の書き忘れ・書き違いが多く勘定が合わない。肘をつく台を設け伝票を書かなければ引出しが開かない。金銭記録出納機の名で特許。善之助が銭勘定が合う機械としてゼニアイキと命名。商店所在地を調べDM、現品持参で説明。大阪・京都から全国へ、1927年2月製品番号1万号
    • [36]1913年発売。商店で伝票の書き忘れ・書き違いが多く勘定が合わない。肘をつく台を設け伝票を書かなければ引出しが開かない。金銭記録出納機の名で特許。善之助が銭勘定が合う機械としてゼニアイキと命名。商店所在地を調べDM、現品持参で説明。大阪・京都から全国へ、1927年2月製品番号1万号
    • [37]1913年発売。商店で伝票の書き忘れ・書き違いが多く勘定が合わない。肘をつく台を設け伝票を書かなければ引出しが開かない。金銭記録出納機の名で特許。善之助が銭勘定が合う機械としてゼニアイキと命名。商店所在地を調べDM、現品持参で説明。大阪・京都から全国へ、1927年2月製品番号1万号
    • [39]1913年発売。商店で伝票の書き忘れ・書き違いが多く勘定が合わない。肘をつく台を設け伝票を書かなければ引出しが開かない。金銭記録出納機の名で特許。善之助が銭勘定が合う機械としてゼニアイキと命名。商店所在地を調べDM、現品持参で説明。大阪・京都から全国へ、1927年2月製品番号1万号
    • [40]1913年発売。商店で伝票の書き忘れ・書き違いが多く勘定が合わない。肘をつく台を設け伝票を書かなければ引出しが開かない。金銭記録出納機の名で特許。善之助が銭勘定が合う機械としてゼニアイキと命名。商店所在地を調べDM、現品持参で説明。大阪・京都から全国へ、1927年2月製品番号1万号
    • [41]1914年1月ベント式金庫発売。ブリュッセル博覧会でリップス社製金庫の製法と防盗機能に感心、工場訪問、1個を発送。ドイツ製水圧式大型ベンディングマシンを輸入し竹内金庫店の工場に据付。1枚の厚鋼板を折り曲げた箱体
    • [43]1914年1月ベント式金庫発売。ブリュッセル博覧会でリップス社製金庫の製法と防盗機能に感心、工場訪問、1個を発送。ドイツ製水圧式大型ベンディングマシンを輸入し竹内金庫店の工場に据付。1枚の厚鋼板を折り曲げた箱体
    • [45]1914年1月ベント式金庫発売。ブリュッセル博覧会でリップス社製金庫の製法と防盗機能に感心、工場訪問、1個を発送。ドイツ製水圧式大型ベンディングマシンを輸入し竹内金庫店の工場に据付。1枚の厚鋼板を折り曲げた箱体
  • イトーキのあゆみ イトーキ80年史(1970)
    • [38]工作部で特許金銭記録出納機ゼニアイキを製造
    • [42]1910年4月〜9月善之助の海外視察。竹内善次郎と検討し鋼板折り曲げ機が鍵と判断。継ぎ目少なく大量生産、手加工を機械化。1914年ターレル社製ノックダウン式鋼製保管庫を輸入販売
    • [44]1910年4月〜9月善之助の海外視察。竹内善次郎と検討し鋼板折り曲げ機が鍵と判断。継ぎ目少なく大量生産、手加工を機械化。1914年ターレル社製ノックダウン式鋼製保管庫を輸入販売
    • [46]1910年4月〜9月善之助の海外視察。竹内善次郎と検討し鋼板折り曲げ機が鍵と判断。継ぎ目少なく大量生産、手加工を機械化。1914年ターレル社製ノックダウン式鋼製保管庫を輸入販売
    • [47]1910年4月〜9月善之助の海外視察。竹内善次郎と検討し鋼板折り曲げ機が鍵と判断。継ぎ目少なく大量生産、手加工を機械化。1914年ターレル社製ノックダウン式鋼製保管庫を輸入販売

出典・参考

2件
出典・参考
  • イトーキのあゆみ イトーキ80年史(1970)
  • イトーキ100年史(1991)

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