第1章 年〜年

ミルボン:ユタカ美容化学の設立と3社合併、上野工場の新設

1960年〜二度の倒産を経た鴻池一郎氏のミルビー商会と、3社の対等合併で生まれたミルボン

鴻池一郎氏は1962年、美容院を1軒ずつ回って製品を届けるディーラーとして、ミルビー商会を設立した。鴻池一郎氏は1937年徳島県の生まれで、1956年に徳島県立徳島工業高校応用化学科を出たあとの最初の勤め先は、コールドパーマ液を製造する関西有機化学である。1年で退職して移った鎌田商店は店主の病死で倒産し、19歳で手元の3000円で興した鴻池商店も約1年で大宝化成に吸収された。その大宝化成も、鴻池一郎氏が24歳のときに倒産した。再起を支えたのは、大宝化成の会長夫人が主宰する美容研究会「マキシン八日会」の事務局を手伝い、全国の美容院関係者と築いた面識だった。鴻池一郎氏が再び独立する2年前の1960年7月には、のちに合併するユタカ美容化学が大阪市東淀川区で設立された。

  • 近代中小企業 21(14)(283) 1986年12月号
    • [1]1962年ミルビー商会を設立。美容院相手の小売り専門。社名は大宝化成のヒット商品「ミルビーコールド」から。大宝化成会長夫人の美容研究会「マキシン八日会」の事務局を手伝い全国の美容院関係者と面識を得て、その人たちが応援した。手伝いは独立後も続けた
    • [2]鴻池一郎は1937年徳島県生まれ。1956年徳島工業高校応用化学科卒、関西有機化学(コールドパーマ液製造)に入社し1年で退職。ディーラー鎌田商店に移るが半年後に店主病死で倒産。19歳で全財産3000円で鴻池商店を興し約1年で大宝化成に吸収。24歳で大宝化成が倒産
    • [3]鴻池一郎は1937年徳島県生まれ。1956年徳島工業高校応用化学科卒、関西有機化学(コールドパーマ液製造)に入社し1年で退職。ディーラー鎌田商店に移るが半年後に店主病死で倒産。19歳で全財産3000円で鴻池商店を興し約1年で大宝化成に吸収。24歳で大宝化成が倒産
    • [4]鴻池一郎は1937年徳島県生まれ。1956年徳島工業高校応用化学科卒、関西有機化学(コールドパーマ液製造)に入社し1年で退職。ディーラー鎌田商店に移るが半年後に店主病死で倒産。19歳で全財産3000円で鴻池商店を興し約1年で大宝化成に吸収。24歳で大宝化成が倒産
    • [5]1962年ミルビー商会を設立。美容院相手の小売り専門。社名は大宝化成のヒット商品「ミルビーコールド」から。大宝化成会長夫人の美容研究会「マキシン八日会」の事務局を手伝い全国の美容院関係者と面識を得て、その人たちが応援した。手伝いは独立後も続けた
  • ミルボン 有価証券報告書(2019年12月期)【沿革】
    • [6]1960年7月コールドパーマ剤・シャンプー等の製造販売を目的に大阪市東淀川区でユタカ美容化学を設立

有価証券報告書の沿革では、ミルボンの法人としての起点は、1960年7月に大阪市東淀川区で設立されたユタカ美容化学である。ユタカ美容化学はコールドパーマ剤とシャンプーの製造販売を目的とし、1965年1月に商号をミルボンへ改め、翌月に本社を大阪市旭区へ移した。一方、近代中小企業1986年12月号の記事は、ミルボンの設立を1965年2月の3社の対等合併とする。3社はメーカーのユタカ化学、問屋のエムビー商事、ディーラーのミルビー商会で、主はそれぞれ新居重男氏、鴻池専慈氏、その実弟の鴻池一郎氏だった。鴻池一郎氏は取締役営業部長として入社し、初代社長には第三者を招いた。製造から問屋、美容院への販売までを1社に収め、それぞれ小さかった3社の商いを1つの会社にまとめる狙いがあったと推察される。

  • ミルボン 有価証券報告書(2019年12月期)【沿革】
    • [7]1960年7月コールドパーマ剤・シャンプー等の製造販売を目的に大阪市東淀川区でユタカ美容化学を設立し工場併設。1963年9月本社を東住吉区へ移し喜連工場を設置。1965年1月商号をミルボンに変更、翌月本社を大阪市旭区へ移転
    • [8]1960年7月コールドパーマ剤・シャンプー等の製造販売を目的に大阪市東淀川区でユタカ美容化学を設立し工場併設。1963年9月本社を東住吉区へ移し喜連工場を設置。1965年1月商号をミルボンに変更、翌月本社を大阪市旭区へ移転
  • 近代中小企業 21(14)(283) 1986年12月号
    • [9]1965年2月、メーカーのユタカ化学(社長 新居重男)・問屋のエムビー商事(鴻池専慈)・ディーラーのミルビー商会(鴻池一郎)の3社が対等合併して設立。鴻池一郎は取締役営業部長で入社、初代社長は第三者、2年後に鴻池専慈が社長
    • [10]1965年2月、メーカーのユタカ化学(社長 新居重男)・問屋のエムビー商事(鴻池専慈)・ディーラーのミルビー商会(鴻池一郎)の3社が対等合併して設立。鴻池一郎は取締役営業部長で入社、初代社長は第三者、2年後に鴻池専慈が社長
    • [11]1965年2月、メーカーのユタカ化学(社長 新居重男)・問屋のエムビー商事(鴻池専慈)・ディーラーのミルビー商会(鴻池一郎)の3社が対等合併して設立。鴻池一郎は取締役営業部長で入社、初代社長は第三者、2年後に鴻池専慈が社長
参考文献[1]-[11]
  • 近代中小企業 21(14)(283) 1986年12月号
    • [1]1962年ミルビー商会を設立。美容院相手の小売り専門。社名は大宝化成のヒット商品「ミルビーコールド」から。大宝化成会長夫人の美容研究会「マキシン八日会」の事務局を手伝い全国の美容院関係者と面識を得て、その人たちが応援した。手伝いは独立後も続けた
    • [2]鴻池一郎は1937年徳島県生まれ。1956年徳島工業高校応用化学科卒、関西有機化学(コールドパーマ液製造)に入社し1年で退職。ディーラー鎌田商店に移るが半年後に店主病死で倒産。19歳で全財産3000円で鴻池商店を興し約1年で大宝化成に吸収。24歳で大宝化成が倒産
    • [3]鴻池一郎は1937年徳島県生まれ。1956年徳島工業高校応用化学科卒、関西有機化学(コールドパーマ液製造)に入社し1年で退職。ディーラー鎌田商店に移るが半年後に店主病死で倒産。19歳で全財産3000円で鴻池商店を興し約1年で大宝化成に吸収。24歳で大宝化成が倒産
    • [4]鴻池一郎は1937年徳島県生まれ。1956年徳島工業高校応用化学科卒、関西有機化学(コールドパーマ液製造)に入社し1年で退職。ディーラー鎌田商店に移るが半年後に店主病死で倒産。19歳で全財産3000円で鴻池商店を興し約1年で大宝化成に吸収。24歳で大宝化成が倒産
    • [5]1962年ミルビー商会を設立。美容院相手の小売り専門。社名は大宝化成のヒット商品「ミルビーコールド」から。大宝化成会長夫人の美容研究会「マキシン八日会」の事務局を手伝い全国の美容院関係者と面識を得て、その人たちが応援した。手伝いは独立後も続けた
    • [9]1965年2月、メーカーのユタカ化学(社長 新居重男)・問屋のエムビー商事(鴻池専慈)・ディーラーのミルビー商会(鴻池一郎)の3社が対等合併して設立。鴻池一郎は取締役営業部長で入社、初代社長は第三者、2年後に鴻池専慈が社長
    • [10]1965年2月、メーカーのユタカ化学(社長 新居重男)・問屋のエムビー商事(鴻池専慈)・ディーラーのミルビー商会(鴻池一郎)の3社が対等合併して設立。鴻池一郎は取締役営業部長で入社、初代社長は第三者、2年後に鴻池専慈が社長
    • [11]1965年2月、メーカーのユタカ化学(社長 新居重男)・問屋のエムビー商事(鴻池専慈)・ディーラーのミルビー商会(鴻池一郎)の3社が対等合併して設立。鴻池一郎は取締役営業部長で入社、初代社長は第三者、2年後に鴻池専慈が社長
  • ミルボン 有価証券報告書(2019年12月期)【沿革】
    • [6]1960年7月コールドパーマ剤・シャンプー等の製造販売を目的に大阪市東淀川区でユタカ美容化学を設立
    • [7]1960年7月コールドパーマ剤・シャンプー等の製造販売を目的に大阪市東淀川区でユタカ美容化学を設立し工場併設。1963年9月本社を東住吉区へ移し喜連工場を設置。1965年1月商号をミルボンに変更、翌月本社を大阪市旭区へ移転
    • [8]1960年7月コールドパーマ剤・シャンプー等の製造販売を目的に大阪市東淀川区でユタカ美容化学を設立し工場併設。1963年9月本社を東住吉区へ移し喜連工場を設置。1965年1月商号をミルボンに変更、翌月本社を大阪市旭区へ移転

1969年〜三重・上野市に建てた2つの工場と、3代目社長に就いた鴻池一郎氏

ミルボンは1969年2月、三重県上野市(現伊賀市)に上野第一工場を新設し、大阪市東住吉区の喜連工場を閉鎖した。前身のユタカ美容化学の工場は1960年の設立時には東淀川区の本社に併設され、1963年9月に喜連工場へ移った。上野第一工場は、9年足らずで3か所目の製造拠点。合併の2年後に社長へ就任した鴻池専慈氏の代に、本社を大阪市旭区に残してパーマ液とシャンプーの製造拠点を県外へ移した。1986年時点の会社概要でも、上野市の第一工場は約650坪の規模で生産を担った。大阪市内では工場を広げる用地を確保しにくく、地価の低い近隣県に増産の余地を求めたと思われる。

  • ミルボン 有価証券報告書(2019年12月期)【沿革】
    • [12]1960年7月東淀川区で設立し工場を併設。1963年9月東住吉区に喜連工場を設置。1969年2月三重県上野市(現伊賀市)に上野第一工場を新設し喜連工場を閉鎖
    • [13]1960年7月東淀川区で設立し工場を併設。1963年9月東住吉区に喜連工場を設置。1969年2月三重県上野市(現伊賀市)に上野第一工場を新設し喜連工場を閉鎖
    • [14]1960年7月東淀川区で設立し工場を併設。1963年9月東住吉区に喜連工場を設置。1969年2月三重県上野市(現伊賀市)に上野第一工場を新設し喜連工場を閉鎖
  • 近代中小企業 21(14)(283) 1986年12月号
    • [15]合併の2年後に鴻池専慈が社長就任。1986年時点で本社は大阪市旭区、工場は三重県上野市に2つ(第一工場 約650坪)。主な製品はコールドパーマ液・シャンプーリンス・ヘアトリートメント・薬用発毛促進液
    • [16]合併の2年後に鴻池専慈が社長就任。1986年時点で本社は大阪市旭区、工場は三重県上野市に2つ(第一工場 約650坪)。主な製品はコールドパーマ液・シャンプーリンス・ヘアトリートメント・薬用発毛促進液

鴻池一郎氏は1971年、実兄の鴻池専慈氏の跡を継ぎ、ミルボンの3代目社長に就任した。鴻池一郎氏は合併した3社の主の一人で、合併後は取締役営業部長として美容院への販売を担った。美容研究会「マキシン八日会」の運営で得た全国の美容院関係者との人脈は、ミルビー商会から新会社ミルボンへ引き継がれた。鴻池一郎氏は研究会の事務局の手伝いを独立後も続け、面識のある美容院を全国に広げた。社長交代は、前年の1970年5月に東京都港区へ東京支店を開設し、首都圏の美容院へ売り込みを始めた時期にあたる。全国の美容院と顔のつながる鴻池一郎氏を社長に据え、東京での販路開拓を任せる人事だったのだろう。

  • 近代中小企業 21(14)(283) 1986年12月号
    • [17]1971年、鴻池一郎が実兄・鴻池専慈の跡を継いで社長に就任し、数えて3代目。創業者の一人。合併後は取締役営業部長。美容研究会で培った人脈は新会社ミルボンに受け継がれた。美容研究会の手伝いはミルビー商会設立後も続け、顔を広げた
    • [18]1971年、鴻池一郎が実兄・鴻池専慈の跡を継いで社長に就任し、数えて3代目。創業者の一人。合併後は取締役営業部長。美容研究会で培った人脈は新会社ミルボンに受け継がれた。美容研究会の手伝いはミルビー商会設立後も続け、顔を広げた
    • [19]1971年、鴻池一郎が実兄・鴻池専慈の跡を継いで社長に就任し、数えて3代目。創業者の一人。合併後は取締役営業部長。美容研究会で培った人脈は新会社ミルボンに受け継がれた。美容研究会の手伝いはミルビー商会設立後も続け、顔を広げた
    • [20]1971年、鴻池一郎が実兄・鴻池専慈の跡を継いで社長に就任し、数えて3代目。創業者の一人。合併後は取締役営業部長。美容研究会で培った人脈は新会社ミルボンに受け継がれた。美容研究会の手伝いはミルビー商会設立後も続け、顔を広げた
    • [21]1971年、鴻池一郎が実兄・鴻池専慈の跡を継いで社長に就任し、数えて3代目。創業者の一人。合併後は取締役営業部長。美容研究会で培った人脈は新会社ミルボンに受け継がれた。美容研究会の手伝いはミルビー商会設立後も続け、顔を広げた
  • ミルボン 有価証券報告書(2019年12月期)【沿革】
    • [22]1970年5月東京都港区に東京支店を開設

ミルボンは1975年10月、上野第一工場と同じ三重県上野市に上野第二工場を新設した。1986年時点で第二工場は美容器具の製造を受け持ち、延べ床面積は約570坪。製品の流れは代理店契約を結んだ全国150社のディーラーを通じた美容院への納入で、原則として直販はない。美容院以外の販路を持たず、ミルボンの名は一般の消費者にはあまり知られなかった。業務用ヘアケア製品では外資のロレアルとウェラが大きなシェアを持ち、国内でもアリミノ、メロス、スワロー、ナカノがミルボンと競合した。パーマ液とシャンプーに美容器具を加え、ディーラーを介して美容院へ納める品目を広げる狙いがあったと考えられる。

  • ミルボン 有価証券報告書(2019年12月期)【沿革】
    • [23]1975年10月三重県上野市(現伊賀市)に上野第二工場を新設
  • 近代中小企業 21(14)(283) 1986年12月号
    • [24]1986年時点で第二工場は美容器具等を製造、延べ約570坪。製品は代理店契約の全国150社のディーラー経由で美容院に販売し原則直販しない。業務用ヘアケアでは外資のロレアル・ウェラが圧倒的シェア、国内はアリミノ・メロス・スワロー・ナカノなど。美容院以外の流通チャネルを持たず一般の知名度は低い
    • [25]1986年時点で第二工場は美容器具等を製造、延べ約570坪。製品は代理店契約の全国150社のディーラー経由で美容院に販売し原則直販しない。業務用ヘアケアでは外資のロレアル・ウェラが圧倒的シェア、国内はアリミノ・メロス・スワロー・ナカノなど。美容院以外の流通チャネルを持たず一般の知名度は低い
    • [26]1986年時点で第二工場は美容器具等を製造、延べ約570坪。製品は代理店契約の全国150社のディーラー経由で美容院に販売し原則直販しない。業務用ヘアケアでは外資のロレアル・ウェラが圧倒的シェア、国内はアリミノ・メロス・スワロー・ナカノなど。美容院以外の流通チャネルを持たず一般の知名度は低い
    • [27]1986年時点で第二工場は美容器具等を製造、延べ約570坪。製品は代理店契約の全国150社のディーラー経由で美容院に販売し原則直販しない。業務用ヘアケアでは外資のロレアル・ウェラが圧倒的シェア、国内はアリミノ・メロス・スワロー・ナカノなど。美容院以外の流通チャネルを持たず一般の知名度は低い
参考文献[12]-[27]
  • ミルボン 有価証券報告書(2019年12月期)【沿革】
    • [12]1960年7月東淀川区で設立し工場を併設。1963年9月東住吉区に喜連工場を設置。1969年2月三重県上野市(現伊賀市)に上野第一工場を新設し喜連工場を閉鎖
    • [13]1960年7月東淀川区で設立し工場を併設。1963年9月東住吉区に喜連工場を設置。1969年2月三重県上野市(現伊賀市)に上野第一工場を新設し喜連工場を閉鎖
    • [14]1960年7月東淀川区で設立し工場を併設。1963年9月東住吉区に喜連工場を設置。1969年2月三重県上野市(現伊賀市)に上野第一工場を新設し喜連工場を閉鎖
    • [22]1970年5月東京都港区に東京支店を開設
    • [23]1975年10月三重県上野市(現伊賀市)に上野第二工場を新設
  • 近代中小企業 21(14)(283) 1986年12月号
    • [15]合併の2年後に鴻池専慈が社長就任。1986年時点で本社は大阪市旭区、工場は三重県上野市に2つ(第一工場 約650坪)。主な製品はコールドパーマ液・シャンプーリンス・ヘアトリートメント・薬用発毛促進液
    • [16]合併の2年後に鴻池専慈が社長就任。1986年時点で本社は大阪市旭区、工場は三重県上野市に2つ(第一工場 約650坪)。主な製品はコールドパーマ液・シャンプーリンス・ヘアトリートメント・薬用発毛促進液
    • [17]1971年、鴻池一郎が実兄・鴻池専慈の跡を継いで社長に就任し、数えて3代目。創業者の一人。合併後は取締役営業部長。美容研究会で培った人脈は新会社ミルボンに受け継がれた。美容研究会の手伝いはミルビー商会設立後も続け、顔を広げた
    • [18]1971年、鴻池一郎が実兄・鴻池専慈の跡を継いで社長に就任し、数えて3代目。創業者の一人。合併後は取締役営業部長。美容研究会で培った人脈は新会社ミルボンに受け継がれた。美容研究会の手伝いはミルビー商会設立後も続け、顔を広げた
    • [19]1971年、鴻池一郎が実兄・鴻池専慈の跡を継いで社長に就任し、数えて3代目。創業者の一人。合併後は取締役営業部長。美容研究会で培った人脈は新会社ミルボンに受け継がれた。美容研究会の手伝いはミルビー商会設立後も続け、顔を広げた
    • [20]1971年、鴻池一郎が実兄・鴻池専慈の跡を継いで社長に就任し、数えて3代目。創業者の一人。合併後は取締役営業部長。美容研究会で培った人脈は新会社ミルボンに受け継がれた。美容研究会の手伝いはミルビー商会設立後も続け、顔を広げた
    • [21]1971年、鴻池一郎が実兄・鴻池専慈の跡を継いで社長に就任し、数えて3代目。創業者の一人。合併後は取締役営業部長。美容研究会で培った人脈は新会社ミルボンに受け継がれた。美容研究会の手伝いはミルビー商会設立後も続け、顔を広げた
    • [24]1986年時点で第二工場は美容器具等を製造、延べ約570坪。製品は代理店契約の全国150社のディーラー経由で美容院に販売し原則直販しない。業務用ヘアケアでは外資のロレアル・ウェラが圧倒的シェア、国内はアリミノ・メロス・スワロー・ナカノなど。美容院以外の流通チャネルを持たず一般の知名度は低い
    • [25]1986年時点で第二工場は美容器具等を製造、延べ約570坪。製品は代理店契約の全国150社のディーラー経由で美容院に販売し原則直販しない。業務用ヘアケアでは外資のロレアル・ウェラが圧倒的シェア、国内はアリミノ・メロス・スワロー・ナカノなど。美容院以外の流通チャネルを持たず一般の知名度は低い
    • [26]1986年時点で第二工場は美容器具等を製造、延べ約570坪。製品は代理店契約の全国150社のディーラー経由で美容院に販売し原則直販しない。業務用ヘアケアでは外資のロレアル・ウェラが圧倒的シェア、国内はアリミノ・メロス・スワロー・ナカノなど。美容院以外の流通チャネルを持たず一般の知名度は低い
    • [27]1986年時点で第二工場は美容器具等を製造、延べ約570坪。製品は代理店契約の全国150社のディーラー経由で美容院に販売し原則直販しない。業務用ヘアケアでは外資のロレアル・ウェラが圧倒的シェア、国内はアリミノ・メロス・スワロー・ナカノなど。美容院以外の流通チャネルを持たず一般の知名度は低い

1979年〜大阪・東京・名古屋のスタジオ付き支店と、サロン経営者の苦情から生まれたフィールドマン構想

ミルボンは1979年6月、大阪市都島区に大阪支店を開設し、大阪スタジオを併設した。1980年7月に東京支店を港区から新宿区へ移して東京スタジオを併設し、1982年7月には名古屋市中区に名古屋支店とスタジオを設けた。3年間での、大阪・東京・名古屋の3支店すべてへのスタジオ併設。1986年時点の拠点は3支店と福岡の営業所で、美容技術を持つ専任社員2人が東京と大阪に常駐して教育用の教材を開発した。1997年時点でも、営業担当者は実演をもとに新製品を美容院へ紹介していた。美容師を支店に招き、製品を技術とともに実演して示す場が要ると判断した可能性がある。

  • ミルボン 有価証券報告書(2019年12月期)【沿革】
    • [28]1979年6月大阪市都島区に大阪支店開設・大阪スタジオ併設。1980年7月東京支店を東京都新宿区へ移転し東京スタジオ併設。1982年7月名古屋市中区に名古屋支店開設・名古屋スタジオ併設
    • [29]1979年6月大阪市都島区に大阪支店開設・大阪スタジオ併設。1980年7月東京支店を東京都新宿区へ移転し東京スタジオ併設。1982年7月名古屋市中区に名古屋支店開設・名古屋スタジオ併設
    • [30]1979年6月大阪市都島区に大阪支店開設・大阪スタジオ併設。1980年7月東京支店を東京都新宿区へ移転し東京スタジオ併設。1982年7月名古屋市中区に名古屋支店開設・名古屋スタジオ併設
  • 近代中小企業 21(14)(283) 1986年12月号
    • [31]1986年時点で東京・大阪・名古屋に支店、福岡に営業所。従業員137名。教育ソフト開発の専任社員2人(美容技術の持ち主)を東京と大阪に常駐
  • 日経ビジネス 881 1997年3月10日号
    • [32]1997年時点、人気美容師とともに開発した製品を営業マンが実演をもとに一般の美容院に紹介

鴻池一郎氏が営業のあり方を見直したきっかけは、1982年頃にサロン経営者から聞いた『セールスの人が来ては雑談ばかりしている。ヒマな時ならいいが、混んでいる時は迷惑この上ない』という苦情だった。経営者たちは、従業員教育や店舗改装の相談に応じる営業担当者を望んだ。鴻池一郎氏はのちに、美容院側から『おたくの営業が来るのが一番困る』と聞いたことを仕組みの起点に挙げた。鴻池一郎氏の見立てでは、美容院が欲しいのは製品より店の経営課題を解く知恵である。そこで美容技術を身に付け、マーケティングや店舗デザイン、経営指導まで担う営業担当者を置くと決めた。鴻池一郎氏は1986年時点でも、年300軒のサロン回りを自らに課した。

  • 近代中小企業 21(14)(283) 1986年12月号
    • [33]1982年頃サロン経営者から、セールスが来て雑談ばかりで混む時は迷惑、従業員教育や店舗改装など経営相談に乗る営業マンがほしいと聞く。鴻池一郎は客が欲しいのは製品でなくソフトと考え、美容技術・マーケティング・店舗デザイン・経営指導までやる営業マンが必要と判断。1986年時点で年300軒のサロン回りを自らに課す
    • [34]1982年頃サロン経営者から、セールスが来て雑談ばかりで混む時は迷惑、従業員教育や店舗改装など経営相談に乗る営業マンがほしいと聞く。鴻池一郎は客が欲しいのは製品でなくソフトと考え、美容技術・マーケティング・店舗デザイン・経営指導までやる営業マンが必要と判断。1986年時点で年300軒のサロン回りを自らに課す
    • [36]1982年頃サロン経営者から、セールスが来て雑談ばかりで混む時は迷惑、従業員教育や店舗改装など経営相談に乗る営業マンがほしいと聞く。鴻池一郎は客が欲しいのは製品でなくソフトと考え、美容技術・マーケティング・店舗デザイン・経営指導までやる営業マンが必要と判断。1986年時点で年300軒のサロン回りを自らに課す
    • [37]1982年頃サロン経営者から、セールスが来て雑談ばかりで混む時は迷惑、従業員教育や店舗改装など経営相談に乗る営業マンがほしいと聞く。鴻池一郎は客が欲しいのは製品でなくソフトと考え、美容技術・マーケティング・店舗デザイン・経営指導までやる営業マンが必要と判断。1986年時点で年300軒のサロン回りを自らに課す
    • [38]1982年頃サロン経営者から、セールスが来て雑談ばかりで混む時は迷惑、従業員教育や店舗改装など経営相談に乗る営業マンがほしいと聞く。鴻池一郎は客が欲しいのは製品でなくソフトと考え、美容技術・マーケティング・店舗デザイン・経営指導までやる営業マンが必要と判断。1986年時点で年300軒のサロン回りを自らに課す
  • 日経ビジネス 881 1997年3月10日号
    • [35]仕組みのきっかけは鴻池一郎社長が美容院側から「おたくの営業が来るのが一番困る」と聞いたこと。営業時間中の新製品説明は美容師に迷惑だった。営業の役割から製品開発の過程まで見直しを決めた

ミルボンは1983年に「フィールドマン戦略」を始めたとされる。大卒男子20人を採用し、開発部要員3人を除く17人に約9カ月間、毛髪理論や商品知識と美容実技を学ばせた。鴻池一郎氏は研修を終えた社員に『君らはミルボンの製品を売らんでもよろしい』と求め、製品でなく経営の知恵を届ける役割を課した。1983年の育成費用は約5000万円に達し、同年の経常利益は前年を大きく下回り、業界では教育費の重さから経営を危ぶむ声も出た。同じ1983年には、外部の専門会社を使わず社内のプロジェクトでCIを導入した。一方、有価証券報告書の沿革は、フィールドパーソン戦略の開始を一期生が入社した1984年4月とする。

  • 近代中小企業 21(14)(283) 1986年12月号
    • [39]1983年、フィールドマン育成のため大卒男子20人を採用し、開発部要員3人を除く17人に教育する「フィールドマン戦略」を開始。17人は約9カ月、毛髪理論・商品知識等の学科と美容実技の研修。教育総費用は約5000万円。1983年の経常利益は前年を大きく割り込み、1984年は赤字決算ギリギリ。業界で教育費のかけすぎで倒産するのではとの声
    • [40]1983年、フィールドマン育成のため大卒男子20人を採用し、開発部要員3人を除く17人に教育する「フィールドマン戦略」を開始。17人は約9カ月、毛髪理論・商品知識等の学科と美容実技の研修。教育総費用は約5000万円。1983年の経常利益は前年を大きく割り込み、1984年は赤字決算ギリギリ。業界で教育費のかけすぎで倒産するのではとの声
    • [41]1983年、フィールドマン育成のため大卒男子20人を採用し、開発部要員3人を除く17人に教育する「フィールドマン戦略」を開始。17人は約9カ月、毛髪理論・商品知識等の学科と美容実技の研修。教育総費用は約5000万円。1983年の経常利益は前年を大きく割り込み、1984年は赤字決算ギリギリ。業界で教育費のかけすぎで倒産するのではとの声
    • [42]1983年、フィールドマン育成のため大卒男子20人を採用し、開発部要員3人を除く17人に教育する「フィールドマン戦略」を開始。17人は約9カ月、毛髪理論・商品知識等の学科と美容実技の研修。教育総費用は約5000万円。1983年の経常利益は前年を大きく割り込み、1984年は赤字決算ギリギリ。業界で教育費のかけすぎで倒産するのではとの声
    • [43]1983年、会社のイメージアップのためCIを導入。専門会社に頼らず社内にCIプロジェクトを発足させ自前で推進
  • ミルボン 有価証券報告書(2019年12月期)【沿革】
    • [44]1984年4月フィールドパーソン戦略スタート(一期生入社)
参考文献[28]-[44]
  • ミルボン 有価証券報告書(2019年12月期)【沿革】
    • [28]1979年6月大阪市都島区に大阪支店開設・大阪スタジオ併設。1980年7月東京支店を東京都新宿区へ移転し東京スタジオ併設。1982年7月名古屋市中区に名古屋支店開設・名古屋スタジオ併設
    • [29]1979年6月大阪市都島区に大阪支店開設・大阪スタジオ併設。1980年7月東京支店を東京都新宿区へ移転し東京スタジオ併設。1982年7月名古屋市中区に名古屋支店開設・名古屋スタジオ併設
    • [30]1979年6月大阪市都島区に大阪支店開設・大阪スタジオ併設。1980年7月東京支店を東京都新宿区へ移転し東京スタジオ併設。1982年7月名古屋市中区に名古屋支店開設・名古屋スタジオ併設
    • [44]1984年4月フィールドパーソン戦略スタート(一期生入社)
  • 近代中小企業 21(14)(283) 1986年12月号
    • [31]1986年時点で東京・大阪・名古屋に支店、福岡に営業所。従業員137名。教育ソフト開発の専任社員2人(美容技術の持ち主)を東京と大阪に常駐
    • [33]1982年頃サロン経営者から、セールスが来て雑談ばかりで混む時は迷惑、従業員教育や店舗改装など経営相談に乗る営業マンがほしいと聞く。鴻池一郎は客が欲しいのは製品でなくソフトと考え、美容技術・マーケティング・店舗デザイン・経営指導までやる営業マンが必要と判断。1986年時点で年300軒のサロン回りを自らに課す
    • [34]1982年頃サロン経営者から、セールスが来て雑談ばかりで混む時は迷惑、従業員教育や店舗改装など経営相談に乗る営業マンがほしいと聞く。鴻池一郎は客が欲しいのは製品でなくソフトと考え、美容技術・マーケティング・店舗デザイン・経営指導までやる営業マンが必要と判断。1986年時点で年300軒のサロン回りを自らに課す
    • [36]1982年頃サロン経営者から、セールスが来て雑談ばかりで混む時は迷惑、従業員教育や店舗改装など経営相談に乗る営業マンがほしいと聞く。鴻池一郎は客が欲しいのは製品でなくソフトと考え、美容技術・マーケティング・店舗デザイン・経営指導までやる営業マンが必要と判断。1986年時点で年300軒のサロン回りを自らに課す
    • [37]1982年頃サロン経営者から、セールスが来て雑談ばかりで混む時は迷惑、従業員教育や店舗改装など経営相談に乗る営業マンがほしいと聞く。鴻池一郎は客が欲しいのは製品でなくソフトと考え、美容技術・マーケティング・店舗デザイン・経営指導までやる営業マンが必要と判断。1986年時点で年300軒のサロン回りを自らに課す
    • [38]1982年頃サロン経営者から、セールスが来て雑談ばかりで混む時は迷惑、従業員教育や店舗改装など経営相談に乗る営業マンがほしいと聞く。鴻池一郎は客が欲しいのは製品でなくソフトと考え、美容技術・マーケティング・店舗デザイン・経営指導までやる営業マンが必要と判断。1986年時点で年300軒のサロン回りを自らに課す
    • [39]1983年、フィールドマン育成のため大卒男子20人を採用し、開発部要員3人を除く17人に教育する「フィールドマン戦略」を開始。17人は約9カ月、毛髪理論・商品知識等の学科と美容実技の研修。教育総費用は約5000万円。1983年の経常利益は前年を大きく割り込み、1984年は赤字決算ギリギリ。業界で教育費のかけすぎで倒産するのではとの声
    • [40]1983年、フィールドマン育成のため大卒男子20人を採用し、開発部要員3人を除く17人に教育する「フィールドマン戦略」を開始。17人は約9カ月、毛髪理論・商品知識等の学科と美容実技の研修。教育総費用は約5000万円。1983年の経常利益は前年を大きく割り込み、1984年は赤字決算ギリギリ。業界で教育費のかけすぎで倒産するのではとの声
    • [41]1983年、フィールドマン育成のため大卒男子20人を採用し、開発部要員3人を除く17人に教育する「フィールドマン戦略」を開始。17人は約9カ月、毛髪理論・商品知識等の学科と美容実技の研修。教育総費用は約5000万円。1983年の経常利益は前年を大きく割り込み、1984年は赤字決算ギリギリ。業界で教育費のかけすぎで倒産するのではとの声
    • [42]1983年、フィールドマン育成のため大卒男子20人を採用し、開発部要員3人を除く17人に教育する「フィールドマン戦略」を開始。17人は約9カ月、毛髪理論・商品知識等の学科と美容実技の研修。教育総費用は約5000万円。1983年の経常利益は前年を大きく割り込み、1984年は赤字決算ギリギリ。業界で教育費のかけすぎで倒産するのではとの声
    • [43]1983年、会社のイメージアップのためCIを導入。専門会社に頼らず社内にCIプロジェクトを発足させ自前で推進
  • 日経ビジネス 881 1997年3月10日号
    • [32]1997年時点、人気美容師とともに開発した製品を営業マンが実演をもとに一般の美容院に紹介
    • [35]仕組みのきっかけは鴻池一郎社長が美容院側から「おたくの営業が来るのが一番困る」と聞いたこと。営業時間中の新製品説明は美容師に迷惑だった。営業の役割から製品開発の過程まで見直しを決めた

出典・参考

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出典・参考
  • ミルボン 有価証券報告書(2019年12月期)【沿革】
  • 近代中小企業 21(14)(283) 1986年12月号
  • 日経ビジネス 881 1997年3月10日号

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