八谷泰造氏による無水フタル酸事業の継続と爆発事故を越えた残存者利益の確立
死亡事故を経てなお国産触媒技術を手放さなかった判断は、なぜ他社が尻込みした市場での優位につながったか
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- 概要
- 1944年3月、吹田工場の無水フタル酸プラントが試運転中に爆発し死亡者を出したが、八谷泰造氏は事業継続を決めた。1949年に社長へ就いて経営体制を立て直し、危険な量産技術に踏み切れない企業が多いなかで、1950年代半ばには全国生産量の7割を占める規模へ育てた。
- 背景
- ヲサメ硫酸工業附属研究所長だった八谷氏は1937年からバナジウム触媒と無水フタル酸の研究を進め、1941年にヲサメ合成化学工業として独立した。戦時の需要急増を受けて1943年に月産100トンのプラント建設に着手したが、資材不足のなかでの突貫工事という無理を抱えていた。
- 内容
- 1944年3月の爆発で工場次長を失いながらも八谷氏は再建を主張し、戦後の1949年に社長へ就いて社名を日本触媒化学工業へ改めた。財閥の後ろ盾を持たない技術者出身の経営者として、酸化技術という自社の強みへ経営資源を集中させ、生産能力を急速に拡大させた。
- 含意
- 危険と隣り合わせの量産技術に他社が二の足を踏むなかで事業を続けたことが、結果として市場での優位につながった。1952年の資金難を富士製鐵の資本参加で乗り切ったことも重なり、単一製品への依存という創業期からの弱さを克服する足がかりとなった。
危険な技術に踏みとどまった判断の意味
この決断の核心は、命に関わる爆発事故を経験してなお、八谷氏が無水フタル酸という危険な量産技術を手放さなかった点にある。事故の原因を技術的に検証し、工学博士の学位や大河内記念賞に結びつけて自らの知見を積み上げていったことは、危険を撤退の理由にせず、制御すべき対象として引き受けた技術者の判断とみることができる。財閥や銀行の後ろ盾を持たない中小企業が量産技術という一点に賭けたことが、後年の事業基盤を規定したといえる。
もっとも、この判断がそのまま安泰をもたらしたわけではない。1952年には資本金に近い損失を抱えて倒産寸前まで追い込まれ、富士製鐵という取引先の資本参加なしには事業を続けられなかった可能性がある。危険な技術に踏みとどまった経営判断と、資金面での外部支援という異なる性質の危機対応が重なって、はじめて日本触媒は単一製品への依存から抜け出す土台を築いたとみられる。爆発事故の克服だけを技術力の証しとして語るのは、この時期の実像をやや単純化した見方といえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
ヲサメ硫酸工業からの独立と無水フタル酸への着目
日本触媒の前身であるヲサメ硫酸工業は、接触硫酸設備の製造で知られた納五平氏が興した会社で、当時輸入に頼っていた硫酸触媒の国産化を手がけていた。その附属研究所長であった八谷泰造氏は1937年6月、東京工業大学の松井教授が発明したバナジウム触媒の製法をもとに、耐酸セメントの製造とあわせて無水フタル酸の研究に着手した。人も資金も乏しい中小企業の研究室でありながら、八谷氏はナフタリンの空気酸化による無水フタル酸製造の企業化に情熱を注いだ[1]。
この研究を足がかりに、1941年8月21日にヲサメ硫酸工業附属研究所は資本金18万円のヲサメ合成化学工業株式会社として独立した。無水フタル酸は塗料や可塑剤の原料として当時ほぼ輸入に頼っていた製品で、国産化に成功すれば代替できる市場は大きいとみられていた。もっとも、幾度も火災を起こす実験研究には創業者の納氏も当初は反対していた[2]。
戦時需要と月産100トンプラントの建設
転機は1941年12月の太平洋戦争開戦であった。航空機や兵器の塗料用可塑剤として無水フタル酸の需要が急速に伸び、実験研究に反対していた納氏も方針を転じ、1943年、資本金を60万円へ増資したうえで吹田の用地を買収し、月産100トンの無水フタル酸プラントの建設に着手した。国産技術による量産という八谷氏の狙いが、戦時の増産要請と重なって現実の建設計画へ進んだ[3]。
技術の完成や安全設備の整備に十分な時間をかける余裕がないまま、1944年3月に試運転の日を迎えた。八谷氏は証券アナリストジャーナルの講演で、当時を「資材不足の中を、無理をして無水フタール酸100トンの設備建設を強行し」たと振り返っている。戦時下の資材統制と増産圧力が、安全面での準備不足を抱えたまま操業開始へと突き進ませたとみられる[4]。
決断
爆発事故と再建の決断
1944年3月、試運転開始からわずか5日で工場は大爆発を起こし、工場次長が死亡し、設備は四散した。八谷氏は証券アナリストジャーナルの講演で「私も大きなショックを受けたが、時が戦争末期で陸・海軍が命を的に奮戦しているという客観情勢もあつたので、勇気を出して再建にとりかかつた」と語っている。もし挫折していれば、後年年産10万トン近くに達する無水フタル酸事業は存在しなかったであろうと八谷氏は振り返っている[5]。
空襲による大阪市内本社の焼失など戦中戦後の混乱が重なるなかでも、八谷氏は事業継続の方針を変えなかった。爆発事故のデータや実験結果を克明に検討・整理した論文をまとめて工学博士の学位を取得し、1960年には大河内記念賞、1963年には第5回科学技術功労賞を受けた。事故そのものを技術的な検証の対象とし、安全な操業技術の蓄積へ転じたことがうかがえる[6]。
経営体制の刷新と国産技術への集中
1949年、経営難から創業者の納氏が退陣したのを機に八谷氏が社長へ就任し、社名を日本触媒化学工業に改めた。八谷氏は証券アナリストジャーナルで「10名ほどの職員、70名ほどの工員で再スタートを切り」と述べており、規模のごく小さな体制での再出発であった[7]。
財閥系企業の後ろ盾も銀行の強い支援も持たない八谷氏は、みずから「技術者でもあり、財閥や銀行のバックもないので技術を無形の資本として経営に当つてきた」と語っている。触媒作用による気相酸化技術に経営資源を集中し、無水フタル酸の生産能力を戦後の月産30トン規模から拡大させていく方針を掲げた[8]。
結果
生産能力の急拡大と全国シェア7割への到達
無水フタル酸の生産能力は1949年の月産30トンから翌1950年に60トン、1951年には250トンへと急速に拡大した。1951年5月の大阪経済評論も、塩化ビニールなど合成樹脂の増産体制が整うにつれて無水フタル酸の需要が日増しに重みを増し、日本触媒が設備拡張による増産へ動いていたことを伝えている[9][10]。
増産は市場での地位に直結した。1956年5月の経済知識は、日本触媒が月産500トンの設備をさらに150トン増設して650トン規模とし、全国生産量の7割を占める業界首位に立ったと報じている。爆発の危険と技術的な難度から量産の定着に手こずる企業が多いなか、日本触媒はいち早く安定操業の技術を確立していたとみられる[11]。
資金難の克服と単一製品依存からの脱却
生産拡大の一方で経営基盤は脆弱であった。証券アナリストジャーナルで八谷氏は「無水フタール酸の好況を背景に設備を大巾に増設し、また川崎化成が無水フタール酸を始めたということもあつて、その後500トンもの過剰在庫と資本金の額に近い赤字をかかえ、倒産寸前にまで追込まれた」と振り返っている。1952年には塩ビ市況の悪化も重なり、売上高は上期2.82億円から下期1.54億円へと半期で4割超落ち込んだ[12][13]。
資金繰りに窮した八谷氏は、無水フタル酸の原料であるナフタリンを仕入れていた富士製鐵に頼った。同社は日本触媒の筆頭株主でもあり、ナフタリンを現物出資させる第三者割当増資に応じて資本を受け入れた。銀行借入に頼れない中小企業にとって、仕入先との取引関係が資本関係を通じて存続を支えた[14]。
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)
- 証券アナリストジャーナル 1968年 第6巻第7号「日本触媒化学工業の現状と将来」
- 大阪経済評論 1951年5月号「躍進する無水フタル酸」
- 経済知識 1956年5月号「典型的な成長企業・触媒化学の発展過程と今後」
- 日本触媒 有価証券報告書【沿革】
- 日本触媒 会社年鑑