この決断の核心は、命に関わる爆発事故を経験してなお、八谷氏が無水フタル酸という危険な量産技術を手放さなかった点にある。事故の原因を技術的に検証し、工学博士の学位や大河内記念賞に結びつけて自らの知見を積み上げていったことは、危険を撤退の理由にせず、制御すべき対象として引き受けた技術者の判断と思われる。財閥や銀行の後ろ盾を持たない中小企業が量産技術という一点に賭けたことが、後年の事業基盤を規定したといえる。
もっとも、この判断がそのまま安泰をもたらしたわけではない。1952年には資本金に近い損失を抱えて倒産寸前まで追い込まれ、富士製鐵という取引先の資本参加なしには事業を続けられなかった可能性がある。危険な技術に踏みとどまった経営判断と、資金面での外部支援という異なる性質の危機対応が重なって、はじめて日本触媒は単一製品への依存から抜け出す土台を築いたと推察される。爆発事故の克服だけを技術力の証しとして語るのは、この時期の実像をやや単純化した見方といえる。