第2章 年〜年

明治製菓:空襲による川崎工場の全焼とペニシリンの製造開始

1926年〜川崎工場への生産集約と、明治商事に預けた販売

川崎工場は、1925年6月に第一期工事へ着手し、同年10月、延坪1,381坪の鉄筋コンクリート四階建を完成してキャラメル・ドロップ・掛物・乾燥物の製造を始めた。第二期はチョコレート・ビスケット・ウェファーの工場で、附帯工事を含む6棟2,950坪を落成している。この落成に合わせ、ドイツからチョコレート技師のキャスパリ、ビスケット技師のベースを招いた。1930年2月、大久保工場の重要設備の移転を終えて同工場は廃止され、生産は川崎へ一本化される。1932年8月に着手した増築が1934年3月に完了し、同年11月23日には朝野の名士とその家族5,000名を招いて落成を披露した。菓子部門が安定した操業に入ったのは、この工場の竣工からである。

  • 明治製菓四十年小史(明治製菓、1958年)第2章 創業から昭和10年まで
    • [1]川崎工場は大正14年(1925年)6月に第一期工事へ着手し、同年10月に延坪1,381坪の鉄筋コンクリート四階建を完成してキャラメル・ドロップ・掛物・乾燥物その他キャンデー類の製造を開始した
    • [2]第二期工事はチョコレート・ビスケット・ウェファーの工場建築で、附帯工事を含む6棟2,950坪を落成した
    • [3]第二期工事の落成とともにドイツからチョコレート技師キャスパリ、ビスケット技師ベースを招き、技術の導入と習得をはかった
    • [4]昭和5年(1930年)2月、大久保工場の移転と閉鎖を決行し、川崎工場による全能力が発揮されることになった
    • [5]昭和7年8月に着手した川崎工場の増築は昭和9年3月に完了し、同年11月23日に朝野の名士とその家族5,000名を招いて落成を披露した
  • 会社銀行八十年史(1955年)「明治製菓」
    • [6]大正14年に諸条件に恵まれた川崎工場が竣工してから、菓子部門はようやく軌道に乗った

チョコレートは、原料のカカオビーンに高率の奢侈関税がかかるため、製品の大部分を輸入に依存する状態が続いていた。関東大震災を境に需要が伸び始めたところへ、1929年4月以後の奢侈関税撤廃が原料の有利な輸入を可能にする。明治製菓は1932年、同業各社にさきがけて板チョコレートの増量生産へ踏み切った。キャラメルでも、1927年10月のサイコロキャラメル、1929年9月の明治ミルクキャラメルと、以後長く主力となる商品がこの時期に出そろっている。原料関税という外部の条件が動くのを見て設備を先に張った判断が、製菓部門の地盤を決めたのだろう。

  • 明治製菓四十年小史(明治製菓、1958年)第2章 創業から昭和10年まで
    • [7]カカオビーンから直接製造されるチョコレートは原料に高率の奢侈関税がかかるため、大部分は外国からの輸入であった
    • [8]チョコレート製品需要の増加は関東大震災を境に著しくなり、昭和4年(1929年)4月以後の奢侈関税撤廃による原料の有利な輸入が日本のチョコレート工業を躍進させた
    • [9]昭和7年(1932年)、明治製菓は同業各社にさきがけて板チョコレートの増量生産を行った
    • [10]サイコロキャラメルは昭和2年(1927年)10月に製造発売、明治ミルクキャラメルは昭和4年(1929年)9月に発売された

内地の販売は、大正9年に設立された明治商事へ全面的に委託されていた。1927年6月以降の同社による販売網の整備拡充が売上げを押し上げ、川崎工場は増築を重ねて需要に応えた。輸出は1923年の大連向けに始まり、1930年には同地へ販売所を置いている。1934年4月、会社は奉天市鉄西区南一路に2,500余坪の敷地を選び、10月に延485坪の工場を完成させて11月から作業を始めた。大連を経由して運んでいた運賃と関税の不合理を、現地生産で取り除く措置である。1935年度の輸出年額は菓子と乳製品を合わせて約280万円に達し、輸出事業はほぼその緒についた。

  • 明治製菓四十年小史(明治製菓、1958年)第2章 創業から昭和10年まで
    • [11]大正9年に明治商事が設立されてから、明治製菓の製品の内地販売はすべて同社へ委託された
    • [12]昭和2年(1927年)6月以来の明治商事による販売網の整備拡充が、製品の販売と海外輸出の伸展をもたらし、川崎工場に増築の必要を生じさせた
    • [13]明治製菓は大正12年(1923年)にはじめて大連への輸出を開始し、昭和5年(1930年)に同地へ明治製菓販売所を新設した
    • [14]昭和9年(1934年)4月に奉天市鉄西区南一路の2,500余坪の敷地を選び、6月着工、10月に煉瓦造一部二階建延485坪の工場が完成して11月から作業を開始した
    • [15]奉天工場の開設は、大連経由で製品を供給していた運賃および関税の上の不合理を除くものであった
    • [16]昭和10年度(1935年度)の輸出年額は菓子・乳製品あわせて約280万円に達した
参考文献[1]-[16]
  • 明治製菓四十年小史(明治製菓、1958年)第2章 創業から昭和10年まで
    • [1]川崎工場は大正14年(1925年)6月に第一期工事へ着手し、同年10月に延坪1,381坪の鉄筋コンクリート四階建を完成してキャラメル・ドロップ・掛物・乾燥物その他キャンデー類の製造を開始した
    • [2]第二期工事はチョコレート・ビスケット・ウェファーの工場建築で、附帯工事を含む6棟2,950坪を落成した
    • [3]第二期工事の落成とともにドイツからチョコレート技師キャスパリ、ビスケット技師ベースを招き、技術の導入と習得をはかった
    • [4]昭和5年(1930年)2月、大久保工場の移転と閉鎖を決行し、川崎工場による全能力が発揮されることになった
    • [5]昭和7年8月に着手した川崎工場の増築は昭和9年3月に完了し、同年11月23日に朝野の名士とその家族5,000名を招いて落成を披露した
    • [7]カカオビーンから直接製造されるチョコレートは原料に高率の奢侈関税がかかるため、大部分は外国からの輸入であった
    • [8]チョコレート製品需要の増加は関東大震災を境に著しくなり、昭和4年(1929年)4月以後の奢侈関税撤廃による原料の有利な輸入が日本のチョコレート工業を躍進させた
    • [9]昭和7年(1932年)、明治製菓は同業各社にさきがけて板チョコレートの増量生産を行った
    • [10]サイコロキャラメルは昭和2年(1927年)10月に製造発売、明治ミルクキャラメルは昭和4年(1929年)9月に発売された
    • [11]大正9年に明治商事が設立されてから、明治製菓の製品の内地販売はすべて同社へ委託された
    • [12]昭和2年(1927年)6月以来の明治商事による販売網の整備拡充が、製品の販売と海外輸出の伸展をもたらし、川崎工場に増築の必要を生じさせた
    • [13]明治製菓は大正12年(1923年)にはじめて大連への輸出を開始し、昭和5年(1930年)に同地へ明治製菓販売所を新設した
    • [14]昭和9年(1934年)4月に奉天市鉄西区南一路の2,500余坪の敷地を選び、6月着工、10月に煉瓦造一部二階建延485坪の工場が完成して11月から作業を開始した
    • [15]奉天工場の開設は、大連経由で製品を供給していた運賃および関税の上の不合理を除くものであった
    • [16]昭和10年度(1935年度)の輸出年額は菓子・乳製品あわせて約280万円に達した
  • 会社銀行八十年史(1955年)「明治製菓」
    • [6]大正14年に諸条件に恵まれた川崎工場が竣工してから、菓子部門はようやく軌道に乗った

1936年〜統制が切り離した乳業・食品・外地の事業

戦前で最も大きかったのは、製菓工場3・製乳工場15を抱えた体制である。そこへ至る前の1935年、製品の収入は菓子類が990万円、乳製品が620万円で、合わせて1,610万円だった。需要に供給が届かない状態は続き、会社は内地と満州国で売る菓子の収入を年に1,200万円まで引き上げる計画を立てた。1936年4月1日には、その手立ての一つとして明治製乳・山陽煉乳・函館菓子という傍系の三社を吸収し、合併後に632万1千5百円となった資本金を1,000万円まで積み増した。福岡県戸畑市でも同年11月、明治製糖戸畑工場の隣の土地に延坪750坪の工場が開かれ、同じ頃には乳製品工場のうち幾つかの敷地に缶詰工場が併設されて、ここから食品部門が始まった。

  • 明治製菓四十年小史(明治製菓、1958年)第3章 昭和11年から終戦まで
    • [17]昭和11年4月には製菓工場3、製乳工場15を数えるようになった
    • [18]昭和10年(1935年)当時の製品収入は年額で菓子類990万円、乳製品620万円、計1,610万円であった
    • [19]供給不足を免れない状況から、日本および満州国における菓子類の販売収入年額1,200万円を目標とする計画が立てられた
    • [20]昭和11年(1936年)4月1日、傍系の明治製乳・山陽煉乳・函館菓子の三社を合併し、合併による資本金632万1千5百円をさらに増資して1,000万円とした
    • [21]昭和11年(1936年)11月、福岡県戸畑市の明治製糖戸畑工場隣接地に鉄筋コンクリート4階建延坪750坪の戸畑工場を開設した
  • 会社銀行八十年史(1955年)「明治製菓」
    • [22]昭和11年ころから、一部の乳製品工場の構内に缶詰工場を併設した

膨張した事業は、部門ごとに切り離されていく。1940年12月、会社は臨時資金調整法の丙種事業である菓子・食品と、乙種事業の牧場・市乳・乳製品とを分け、乙種の一切を傍系の極東煉乳へ委任経営として移した。委任を受けた極東煉乳は会長に相馬半治氏、社長に有嶋健助氏を迎える。1943年9月には、明治乳業に対する製乳部門の財産譲渡が完了した。これに先立つ1940年11月、北海道興農公社の設立に伴って、札幌・豊平・八雲・木古内・旭川・伊達の6工場は現物出資の形で手を離れている。全国生産高の7割を占めていた乳製品を、会社はこの数年で全部手放した。

  • 明治製菓四十年小史(明治製菓、1958年)第3章 昭和11年から終戦まで
    • [23]昭和15年(1940年)12月、臨時資金調整法の丙種事業である菓子・食品と、乙種事業の牧場・市乳・乳製品とを切りはなし、乙種事業の一切を傍系の極東煉乳の経営に移した
    • [24]昭和15年12月27日に乳製品部門事業の委任経営を受けた極東煉乳は、会長に相馬半治、社長に有嶋健助が就任した
    • [26]昭和15年(1940年)11月に北海道興農公社が設立されると、北海道所在の札幌・豊平・八雲・木古内・旭川・伊達の6工場の資産および営業権は現物出資に付された
    • [27]昭和12・13年度の工場数の増加により、製乳部門の生産高は全国生産高の70%を占めるようになっていた
  • 会社銀行八十年史(1955年)「明治製菓」
    • [25]昭和15年以来、明治乳業に委任経営中だった乳業部門の全事業所を昭和18年(1943年)9月に同社へ譲渡した

食品部門も同じ経路をたどった。1942年7月から1943年8月にかけて、笠岡・上ノ山・神足・三津浜の四工場が各府県の合同食品会社へ現物出資され、勝山工場は缶詰製造設備を出資した。残る藤枝・鴨宮・五日市の3工場は合同に加わらなかったため、缶詰の製造そのものができなくなる。1943年6月、会社は農林省食糧局長へ事業内容を報告し、製造高1,703万円の需要区分を陸軍24.7%・海軍30.8%・官需5.2%・民需39.3%と示した。同年12月15日、社名は明治産業株式会社へ改められた。1945年4月15日、川崎工場は空襲で本館と附属建物を全焼し、台湾と朝鮮の2工場も終戦とともに失われた。

  • 明治製菓四十年小史(明治製菓、1958年)第3章 昭和11年から終戦まで
    • [28]昭和17年7月から18年8月にかけ、笠岡・上ノ山・神足・三津浜の四工場が各府県の合同食品会社へ現物出資され、勝山工場は缶詰製造設備を出資した
    • [29]残る藤枝・鴨宮・五日市の3工場は企業合同に参加しなかったため、缶詰製造が不可能となった
    • [30]昭和18年6月に農林省食糧局長へ提出した報告書は、製造高合計1,703万円の需要区分を陸軍24.7%・海軍30.8%・官需5.2%・民需39.3%と記している
    • [31]昭和18年(1943年)12月15日、社名を明治産業株式会社と改称した
    • [32]昭和20年(1945年)4月15日、川崎工場は空襲により本館と附属建物が全焼した
  • 会社銀行八十年史(1955年)「明治製菓」
    • [33]終戦とともに台湾・朝鮮所在の2工場を失った
参考文献[17]-[33]
  • 明治製菓四十年小史(明治製菓、1958年)第3章 昭和11年から終戦まで
    • [17]昭和11年4月には製菓工場3、製乳工場15を数えるようになった
    • [18]昭和10年(1935年)当時の製品収入は年額で菓子類990万円、乳製品620万円、計1,610万円であった
    • [19]供給不足を免れない状況から、日本および満州国における菓子類の販売収入年額1,200万円を目標とする計画が立てられた
    • [20]昭和11年(1936年)4月1日、傍系の明治製乳・山陽煉乳・函館菓子の三社を合併し、合併による資本金632万1千5百円をさらに増資して1,000万円とした
    • [21]昭和11年(1936年)11月、福岡県戸畑市の明治製糖戸畑工場隣接地に鉄筋コンクリート4階建延坪750坪の戸畑工場を開設した
    • [23]昭和15年(1940年)12月、臨時資金調整法の丙種事業である菓子・食品と、乙種事業の牧場・市乳・乳製品とを切りはなし、乙種事業の一切を傍系の極東煉乳の経営に移した
    • [24]昭和15年12月27日に乳製品部門事業の委任経営を受けた極東煉乳は、会長に相馬半治、社長に有嶋健助が就任した
    • [26]昭和15年(1940年)11月に北海道興農公社が設立されると、北海道所在の札幌・豊平・八雲・木古内・旭川・伊達の6工場の資産および営業権は現物出資に付された
    • [27]昭和12・13年度の工場数の増加により、製乳部門の生産高は全国生産高の70%を占めるようになっていた
    • [28]昭和17年7月から18年8月にかけ、笠岡・上ノ山・神足・三津浜の四工場が各府県の合同食品会社へ現物出資され、勝山工場は缶詰製造設備を出資した
    • [29]残る藤枝・鴨宮・五日市の3工場は企業合同に参加しなかったため、缶詰製造が不可能となった
    • [30]昭和18年6月に農林省食糧局長へ提出した報告書は、製造高合計1,703万円の需要区分を陸軍24.7%・海軍30.8%・官需5.2%・民需39.3%と記している
    • [31]昭和18年(1943年)12月15日、社名を明治産業株式会社と改称した
    • [32]昭和20年(1945年)4月15日、川崎工場は空襲により本館と附属建物が全焼した
  • 会社銀行八十年史(1955年)「明治製菓」
    • [22]昭和11年ころから、一部の乳製品工場の構内に缶詰工場を併設した
    • [25]昭和15年以来、明治乳業に委任経営中だった乳業部門の全事業所を昭和18年(1943年)9月に同社へ譲渡した
    • [33]終戦とともに台湾・朝鮮所在の2工場を失った

1946年〜発酵設備の転用による薬品部門の発足と、菓子の再建

第1回の仕込みは1946年5月、製造設備が出来上がったところで行われた。ペニシリンを作る場として使われたのは焼けた川崎工場の一部で、日ごとの仕込量は50立、培養はシラップ瓶による表面培養法だった。量は8月に100立へ引き上げられ、翌9月には表面培養100立の設備が新たに出来上がった。商業生産は同年10月28日に厚生省の製造許可を受けてからで、許可を得た順では業界5番目だった。同年12月末にテキサス大学教授のJ・W・フォスター博士が来日し、深部培養法の紹介と種菌の分与、個別の生産指導が行われると、生産はタンク培養による量産へ移り、質量ともに急上昇した。1950年3月には米国と同規模の40屯タンク三基が完成する。

  • 明治製菓四十年小史(明治製菓、1958年)第4章 終戦から現況まで
    • [34]昭和21年(1946年)5月、川崎工場における製造場の建設が完成し、第1回の仕込みを行った
    • [36]第1回の仕込量は日量50立で、表面培養法・冷凍濃縮エーテル抽出によりペニシリンナトリウム塩が製造され、培養にはシラップ瓶が利用された
    • [37]仕込量は昭和21年8月に100立へ増え、9月には表面培養100立の新設備が完成した
    • [38]昭和21年10月28日に厚生省の製造許可を得て商業生産を開始し、ペニシリン製造業者としての許可は業界で5番目であった
    • [39]昭和21年12月末、GHQの招きに応じてテキサス大学教授J・W・フォスターが来日し、米国技術の全面的公開、深部培養法の紹介、種菌の分与、個別的生産指導が行われた
    • [41]昭和25年(1950年)3月、米国と同規模の40屯タンク三基を新設し、日本で最初の大タンクの運転を行った
  • 企業の歴史(明治百年)(1968年)「明治製菓」
    • [35]戦後いちはやく川崎工場の一部において実験研究中のペニシリンの製造を開始し、この製薬部門への進出が終戦直後における復興の端緒となった
  • 会社銀行八十年史(1955年)「明治製菓」
    • [40]米国技術の公開と種菌の分与、個別的生産指導により、品質の改良と技術の向上、タンク培養による量産化が進み、質量とも急上昇をみた

ストレプトマイシンの研究は、1947年9月に全国へさきがけて始まった。着手時の陣容は職員2名・工員10名である。1950年4月に製造許可を受け、同年7月18日の政府第1回買上では1,160本のうち1,000本を供出した。同年下半期の生産は60,560本、全国の57%を占めている。1951年2月には米国メルク社と技術援助契約を結び、品質と収率を引き上げて業界の主導的地位を確保した。一方で参入は相次ぎ、一般販売向けの主力であるペニシリン300万単位の価格は、1950年3月の2,300円から同年9月に1,050円、1954年には160円から最低100円まで低下した。数量が伸びても単価が崩れる市場であった。

  • 明治製菓四十年小史(明治製菓、1958年)第4章 終戦から現況まで
    • [42]昭和22年(1947年)9月、明治製菓は全国にさきがけてストレプトマイシンの研究を開始した
    • [43]ストレプトマイシンの研究に従事した当時の職員は2名、工員は10名であった
    • [44]昭和25年(1950年)4月に製造許可を受け、同年7月18日の政府による第1回買上では1,160本のうち1,000本を供出した
    • [45]昭和25年7月から12月までのストレプトマイシン生産実績は60,560本で、全社合計106,957本のうち57%を占めた
    • [47]一般販売向の主力品であるペニシリン300万単位の価格は、昭和25年3月の発売時2,300円が同年9月に1,050円、28年9月に300円、29年には160円から最低100円まで下落した
  • 会社銀行八十年史(1955年)「明治製菓」
    • [46]昭和26年(1951年)に米国メルク社と技術援助契約を締結し、品質ならびに収率の著しい向上を遂げて業界における主導的地位を確保した

菓子の側は、原料統制の解除を待つほかなかった。1949年11月26日の水飴統制解除で、戦後はじめて自由販売の明治キャラメル(小売値25円)を出す。1950年4月に業務用砂糖の配給が始まると、キャラメルを主体にドロップ・掛物・カルミンの生産を再開した。1951年2月に川崎工場のチョコレート製造設備が完成し、翌3月にはミルクチョコレートの発売にこぎつけている。カカオ豆の受配量が他社を抜いていたため、生産は全国の過半に達した。1952年の砂糖・小麦粉の統制解除とともに戦前を上回る自由競争へ入り、菓子部門の売上は1955年3月期に40億円へ達し、1957年3月に終わる第80期には全社の年間売上が100億円を超えた。

  • 明治製菓四十年小史(明治製菓、1958年)第4章 終戦から現況まで
    • [48]昭和24年(1949年)11月26日に水飴の統制が解除され、戦後はじめての飴菓子の自由販売として明治キャラメル(小売値25円)の生産を開始した
    • [49]昭和25年(1950年)4月に業務用砂糖の配給が開始され、キャラメルを主体としてドロップ・掛物・カルミン等の生産を開始した
    • [50]昭和26年(1951年)2月に川崎工場のチョコレート製造設備が完成し、翌3月にミルクチョコレートの発売が開始された
    • [51]カカオ豆輸入の受配量が他社を抜いて優位にあり、ミルクチョコレートの生産は全国生産量の過半に達した
    • [53]昭和30年(1955年)3月期における菓子部門の売上は40億円に達していた。全社の売上高ではなく部門別の内訳である
    • [54]昭和32年(1957年)3月30日をもって終える第80期に、年来の目標であった年間売上100億円を突破した
  • 企業の歴史(明治百年)(1968年)「明治製菓」
    • [52]昭和27年(1952年)の砂糖・小麦粉の統制解除の実現とともに、戦前を上回る激烈な自由競争時代に入った
参考文献[34]-[54]
  • 明治製菓四十年小史(明治製菓、1958年)第4章 終戦から現況まで
    • [34]昭和21年(1946年)5月、川崎工場における製造場の建設が完成し、第1回の仕込みを行った
    • [36]第1回の仕込量は日量50立で、表面培養法・冷凍濃縮エーテル抽出によりペニシリンナトリウム塩が製造され、培養にはシラップ瓶が利用された
    • [37]仕込量は昭和21年8月に100立へ増え、9月には表面培養100立の新設備が完成した
    • [38]昭和21年10月28日に厚生省の製造許可を得て商業生産を開始し、ペニシリン製造業者としての許可は業界で5番目であった
    • [39]昭和21年12月末、GHQの招きに応じてテキサス大学教授J・W・フォスターが来日し、米国技術の全面的公開、深部培養法の紹介、種菌の分与、個別的生産指導が行われた
    • [41]昭和25年(1950年)3月、米国と同規模の40屯タンク三基を新設し、日本で最初の大タンクの運転を行った
    • [42]昭和22年(1947年)9月、明治製菓は全国にさきがけてストレプトマイシンの研究を開始した
    • [43]ストレプトマイシンの研究に従事した当時の職員は2名、工員は10名であった
    • [44]昭和25年(1950年)4月に製造許可を受け、同年7月18日の政府による第1回買上では1,160本のうち1,000本を供出した
    • [45]昭和25年7月から12月までのストレプトマイシン生産実績は60,560本で、全社合計106,957本のうち57%を占めた
    • [47]一般販売向の主力品であるペニシリン300万単位の価格は、昭和25年3月の発売時2,300円が同年9月に1,050円、28年9月に300円、29年には160円から最低100円まで下落した
    • [48]昭和24年(1949年)11月26日に水飴の統制が解除され、戦後はじめての飴菓子の自由販売として明治キャラメル(小売値25円)の生産を開始した
    • [49]昭和25年(1950年)4月に業務用砂糖の配給が開始され、キャラメルを主体としてドロップ・掛物・カルミン等の生産を開始した
    • [50]昭和26年(1951年)2月に川崎工場のチョコレート製造設備が完成し、翌3月にミルクチョコレートの発売が開始された
    • [51]カカオ豆輸入の受配量が他社を抜いて優位にあり、ミルクチョコレートの生産は全国生産量の過半に達した
    • [53]昭和30年(1955年)3月期における菓子部門の売上は40億円に達していた。全社の売上高ではなく部門別の内訳である
    • [54]昭和32年(1957年)3月30日をもって終える第80期に、年来の目標であった年間売上100億円を突破した
  • 企業の歴史(明治百年)(1968年)「明治製菓」
    • [35]戦後いちはやく川崎工場の一部において実験研究中のペニシリンの製造を開始し、この製薬部門への進出が終戦直後における復興の端緒となった
    • [52]昭和27年(1952年)の砂糖・小麦粉の統制解除の実現とともに、戦前を上回る激烈な自由競争時代に入った
  • 会社銀行八十年史(1955年)「明治製菓」
    • [40]米国技術の公開と種菌の分与、個別的生産指導により、品質の改良と技術の向上、タンク培養による量産化が進み、質量とも急上昇をみた
    • [46]昭和26年(1951年)に米国メルク社と技術援助契約を締結し、品質ならびに収率の著しい向上を遂げて業界における主導的地位を確保した

筆者考察

昭和期の明治製菓を支えたのは、川崎工場という一点への集中だった。会社は大久保工場の火災を機に新工場の着工を早め、1930年には生産を川崎へ一本化する。奢侈関税が撤廃された1929年を境にカカオ豆が有利に入るようになると、1932年には同業各社にさきがけて板チョコレートの増量生産へ踏み切った。設備を一カ所へ寄せ、販売は明治商事へ預ける。この分け方が1935年度に約280万円の輸出を生み、奉天に現地工場を持つところまで会社を伸ばした。

統制のもとで、会社は伸ばした先から順に手放した。北海道の乳製品6工場は興農公社へ、食品の工場は府県の合同会社へ、乳業部門そのものは明治乳業へ移る。1945年4月には、最後に残った川崎工場も焼けた。戦後の立ち直りが菓子ではなく薬から始まったのは、焼け跡に残ったのが砂糖でも小麦粉でもなく、培養と抽出を扱える設備と技術者だったからである。日量50立のシラップ瓶で始めた仕込みは、1950年に40屯タンク三基へ届いた。業務用の砂糖が配給されるより先に、明治製菓は薬を売る会社になっていた。

明治製菓のペニシリン生産高 1950年〜1955年(10万単位)

5,635 1950 14,200 1951 20,554 1952 42,427 1953 64,505 1954 48,455 1955
  • 全国生産高に占める比率は1950年7.5%、1954年11.0%、1955年9.0%。
  • 出所は明治製菓四十年小史(明治製菓、1958年)第4章 終戦から現況まで。

1926年〜1957年の業績

決算期 区分 売上高 営業利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 利益率
1949年03月期 連結 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1950年03月期 連結 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1951年03月期 連結 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1952年03月期 連結 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1953年03月期 単体 63 n/a 5 4 6.3% n/a
1954年03月期 単体 91 +44.4% 8 6 6.6% n/a
1955年03月期 単体 100 +9.9% 8 6 6.0% n/a
1956年03月期 連結 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1957年03月期 単体 102 n/a 7 n/a n/a n/a

出所:上場会社総覧 1956年版 半期合算、上場会社総覧 1959年版 半期合算

出典・参考

5件
出典・参考
  • 会社銀行八十年史(1955年)「明治製菓」
  • 企業の歴史(明治百年)(1968年)「明治製菓」
  • 明治製菓四十年小史(明治製菓、1958年)第2章 創業から昭和10年まで
  • 明治製菓四十年小史(明治製菓、1958年)第3章 昭和11年から終戦まで
  • 明治製菓四十年小史(明治製菓、1958年)第4章 終戦から現況まで

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