スターツコーポレーションオイルショックでの土地在庫ゼロ化と、地価が下がりきるまでの建売停止

値下がりのさなかに回すか、止めて待つか——創業4年目の建売業者が選んだ在庫の落とし方

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時期 1975年
意思決定者(推定) 村石久二 社長
論点 在庫リスクと仕入のタイミング
概要
1973年末の石油危機に際し、千曲不動産(現スターツコーポレーション)の村石久二社長が保有する土地をすべて売却して仕入在庫をゼロにし、建売を一時停止した経営判断。1975年、他社に先駆けて土地の仕入れと建売を再開した。
背景
創業から4年余り、建売以外に収益の柱を持たない小規模な不動産会社であった。金融引き締めで金利が上がれば土地は動かなくなると村石氏は読み、単一事業に資金を張ったまま相場の急変を迎える構図にあった。
内容
保有土地を全売却して在庫を落とし、建売そのものを停止。造成地販売や仲介など手持ちの仕事で食いつなぎながら、金融が緩み、地価が下がりきるのを待った。
含意
好況期も売上の伸びを年2〜3割にとどめる方針、歩合制社員を採らない人事と一体の判断であった。1975年の再開後は1980年まで建売の全盛期が続き、以後は土地を仕入れずに地主の資産を預かる型が主になった。
筆者の見解

止まれる会社が、次の型を選んだ

この判断の核心は、相場観の的中よりも、事業を止めるという選択が実際に採れた点にあるとみられる。値下がりを予想する経営者は当時も少なくなかったはずで、それでも仕入を続けるのは、止めればただちに売上と人件費の帳尻が合わなくなるからである。歩合制を採らず、好況でも伸びを年2〜3割に抑えていた会社は、その意味で止まる余地を平時から残していた。石油危機に際して発揮された判断力というより、平時の設計が危機のさなかに効いた例に近い。

もっとも、待って買い直すやり方が常に通用するとは限らない。相場が戻らなければ、止めた期間はそのまま機会の損失になる。1975年の再開が結果として当たったことは、この会社に土地を仕込む勘があったことを示す一方で、以後の歩みはむしろ逆の方向へ進んだ。土地有効活用、賃貸管理、そして地主の資産を預かるシンクス事業へと、自ら在庫を持たずに収益を得る型を広げた。在庫の重さを最初に経験した1973年の判断が、その選択の原点にあったのかどうかは、今日の事業構成を見るときの一つの問いとして残る。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

脱サラ創業と建売への進出

1969年3月、大和銀行を退職した村石久二氏が、東京都江戸川区で千曲不動産を個人創業した。最初の2年間は建売業者向けに小さな造成地を仕入れて販売する仕事で、村石氏と夫人の2人だけの経営であった。社名の「千曲」は、郷里である長野県の千曲川にちなむ。1972年9月には業容の拡大に対応して株式会社へ改組し、賃貸仲介・売買仲介・不動産管理を主な目的に掲げた。この前後から銀行や大手企業を辞めた仲間が次々と加わり、事業は造成地の販売から自社の建売へ広がった[1][2]

集まった顔ぶれについて村石氏は、自分が引き抜いたのではなく、給料の減少を覚悟で職を辞して合流した「同志」であったと述べている。銀行出身者が中心という陣容は、歩合制の営業が珍しくない不動産業界のなかでは異質であった。一方、自社で土地を仕入れて住宅を建て、売れた分だけ利益を得る建売は、仕入から販売までの数カ月から数年を借入で支える事業でもある。金利と地価の動きをどう読むかが損益をそのまま左右する構造の上に、創業まもない会社は立っていた[3]

1973年末の金融引き締め

建売の量を増やし、本店の移転で足場を固めていた矢先に、1973年末の石油危機が訪れた。物価の高騰を抑えるための金融引き締めで金利は上がり、土地の取引は細り始めた。村石氏は、金利が上がれば土地は動かなくなると読んだ。値下がりが始まった不動産では、手元の在庫を売り急げば損が出て、抱え続ければ金利が利益を食う。仕入れた土地の量がそのまま損失の量になりかねない状況であった[4]

当時の千曲不動産は、創業から4年余りの、店舗も社員も限られた会社であった。株式会社への改組から1年ほどしか経っておらず、建売以外に収益の柱と呼べる事業は育っていない。建設を担う千曲建設の設立は1975年8月、賃貸管理を専業化する千曲管理サービスの設立は1985年4月で、仲介・建設・管理を組み合わせて景気の波を吸収する体制はまだ存在しなかった。単一の事業に資金を張ったまま相場の急変を迎えた点で、危機の入口としては厳しい位置にあった[5]

決断

在庫をゼロにし、建売を止める

村石氏が採ったのは、保有する土地をすべて売り払って仕入在庫をゼロにし、あわせて建売そのものを一時停止するという手であった。値下がりの過程で在庫を持ち続けないという判断であり、地価が下がりきるまで新たに買わないという判断でもある。本人は後年、金融が緩み、土地の値段が下がりきるのを待ったのだと振り返っている。売り時と買い時の両方を、相場の動きではなく金融の締まり具合から決めた形になる[6]

在庫を落とした後の会社は、建売以外の仕事で食いつないだ。造成地の販売や仲介など手持ちの機能で日銭を稼ぎながら、相場の底を待つ形である。売上の規模を追う経営では採りにくい選択で、値下がりのなかでも仕入と販売を止めない同業は少なくなかった。事業をいったん止めて待つという構えは、案件の利幅よりも先に金利と資金繰りを見る、銀行出身者の発想に近いものであった[7]

待つことを支えた成長率の抑制

待って動かないという選択は、一度きりの危機対応にとどまらなかった。村石氏は後年、どんなに景気が良い時期でも売上高の伸びは年2〜3割で推移してきたと語り、1.5倍から2倍で伸びる会社が多い不動産業界では異色であったと自認している。信条として挙げたのは、「継続は力なり」ということと、絶対に他に迷惑をかけないことの二つであった。伸びを抑えることは、相場が下がったときに止まれる余力を残すことでもある[8]

好況期でも歩合制の社員や業界経験者を採用せず、1980年からは新卒採用を続けた人事の方針も、同じ考えの延長にあった。案件ごとの歩合で人を動かせば、相場が上がるあいだは速く走れる一方、事業を止める判断は下しにくくなる。仕入を止め、在庫を持たずに待てる組織は、成長の速度をあらかじめ抑えた組織でもあった。1973年末の在庫ゼロは、その組織の性格が最初に表へ出た場面にあたる[9]

結果

1975年の再開と「建売住宅の全盛期」

1975年、千曲不動産は他社に先駆けて積極的に土地を仕入れ、建売を再開した。地価が下がりきったところで買い戻す形になり、以後、土地有効活用事業が始まる1980年まで、村石氏が「建売住宅の全盛期」と呼ぶ時期が続いた。再開と同じ1975年8月には株式会社千曲建設を設立し、仲介の窓口で受けた土地活用の相談に施工まで自社で応える体制の整備に入った。停止から再開までの約1年半が、事業の幅を広げる助走にもなった[10][11]

建売の再開後、店舗網の拡張も始まった。1977年9月に初の支店となる行徳店を開いて千葉地区へ出て、1979年12月には本店を江戸川区西葛西へ移した。1980年に土地有効活用事業を始めると、事業の主軸は自社で土地を仕入れて売る形から、地主の土地に建てて完成後を預かる形へ移る。自ら在庫を抱えずに収益を積む方向への転換であり、1973年に在庫の重さを知った経験と地続きにあったとみることができる[12][13]

出典・参考
  • 村石久二・久田和子『汗生 汗とともに生きる』(スターツ出版, 1994年)
  • 証券アナリストジャーナル 1989年9月号「企業/スターツ」(日本証券アナリスト協会)
  • スターツコーポレーション 有価証券報告書【沿革】
  • スターツグループ 公式サイト「沿革」

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