第4章 年〜年

第一勧業銀行:総会屋利益供与事件と株式移転によるみずほHDへの統合

1991年〜BIS比率8%とROAの目標、奥田頭取の選任で終えた交互就任

創立20周年の1991年度は、株価の暴落に地価の下落が重なり、バブルの崩壊が表に出た年だった。第一勧業銀行はその4月に第七次長期経営計画を見直し、経営目標をROAの極大化とBIS自己資本比率の達成の二つに絞った。宮崎邦次頭取は支店長会議で、自己資本比率を満たせなければ縮小均衡を余儀なくされると説いた。1991年3月末の比率は8%を越える見込みだったが、株式の含み益に頼らない体質への転換が課題に残った。翌1992年3月には宮崎氏自身が、日経平均が2万円を割れば8%を切ることもやむを得ないと認めている。資産の量で順位を競う目標は、利益で自己資本を支える目標へ置き換わった。

  • 第一勧業銀行二十年史(1992年)第5章「創立20周年を迎えて」
    • [1]1991年度に入ると株価が暴落し、金融引き締めと不動産業への総量規制により地価が下落して、バブルの崩壊が表面化した。
    • [2]1991年4月、第七次長期経営計画を見直し、ベストバンク実現の経営目標をROAの極大化とBIS自己資本比率の達成の二つに変更した。
    • [3]宮崎頭取は1991年4月の第44回全国支店長会議で、BIS自己資本比率が達成できない場合は縮小均衡を余儀なくされると述べた。
    • [4]同会議で宮崎頭取は、前期末の自己資本比率は8%をクリアする見込みだが、株式の含み益などに依存しない体質への早期転換が必要だと述べた。
  • 日経ビジネス 1992年3月23日号
    • [5]1992年3月、宮崎頭取は日経平均が2万円を割れば自己資本比率が8%を切ることもある程度やむを得ないと述べた。

人員と賃金にも手が入り、1991年夏にはトータル人事制度で資格・賃金・評価を一斉に洗い直し、昇格の段を減らして賃金カーブを抑えた。宮崎氏によれば、合併時に2万3000人いた人員は1万8000人まで減ったが、他行はさらに合理化を進めていた。宮崎氏は、合併行として続けてきた処遇優先の方針を改め、少数精鋭へ移る考えを示した。不動産向けの融資についても、宮崎氏は『投機や土地転がしへの融資は以前から戒めていたが、一部そうしたものが含まれていたのも事実です。バブルを助長した点は、率直に反省しています。』と語り、利払いの延滞が増える傾向を明かした。20年で総資産はおよそ10倍に、経常利益は1990年度に1900億円へ伸びていたが、その伸びを支えた貸出の拡大は止まった。

  • 日経ビジネス 1992年2月24日号
    • [6]1991年夏、第一勧業銀行はトータル人事制度を導入して資格・ポスト・賃金・評価を洗い直し、資格を総合2級→主事→副参事に簡素化して賃金カーブを抑える布石を打った。
  • 日経ビジネス 1992年3月23日号
    • [7]宮崎頭取によれば、人員は合併時の2万3000人から1万8000人に減ったが、他行はもっと合理化していた。
    • [8]宮崎頭取は、合併行として人員整理より従業員の処遇を優先してきたが、今後は少数精鋭主義で人員削減も進めると述べた。
    • [9]宮崎頭取は、投機や土地転がしへの融資が一部含まれていたと認め、利払いが延滞している貸付金が増える傾向にあると述べた。
  • 第一勧業銀行二十年史(1992年)第5章「創立20周年を迎えて」/日経ビジネス 1992年3月23日号「編集長インタビュー 宮崎邦次氏[第一勧業銀行頭取]企業の立ち直り支援は使命」
    • [10]1991年10月1日の挨拶で宮崎頭取は、発足時約6兆円の総資産が約10倍に、600億円前後の経常利益が1990年度に1900億円になったと述べた。1992年には融資残高の年間伸び率が3%に届かなくなっていた。

1991年12月20日の取締役会は、翌年4月1日付で宮崎氏を会長に、奥田正司副頭取を頭取に上げる人事を決めた。この交代で、旧第一銀行と旧日本勧業銀行の出身者が交互に会長と頭取に就き、そろって退く慣例は打ち切られた。後継の本命は企画畑の林裕副頭取とみられていたが、健康上の理由とされ、旧勧銀出身の奥田氏に決まった。奥田氏本人が知ったのは発表の3日前で、勧銀出身の中村一郎会長は最後まで林氏にこだわったという。旧勧銀の内部で林氏に不満を抱く一派が旧第一側と組んだ逆転人事だったと、事件後に報じられた。交互就任の形を改めても、出身行をまたいだ人事の綱引きは続いていたとみられる。

  • 第一勧業銀行二十年史(1992年)第5章「創立20周年を迎えて」
    • [11]1991年12月20日の取締役会で、1992年4月1日付で宮崎頭取が会長に、奥田副頭取が頭取に、中村会長が取締役相談役に就く人事を決めた。
    • [12]この首脳人事で、旧第一銀行と旧日本勧業銀行の出身者が交互に会長・頭取に就任し、そろって退任する慣例に終止符を打った。
  • 日経ビジネス 1992年5月18日号
    • [13]後継頭取の本命は1年先輩で企画畑の林裕副頭取とみられていたが、林氏の健康上の理由で、日本勧業銀行入行の奥田正司氏に決まった。
  • 日経ビジネス 1997年7月28日号
    • [14]奥田氏は頭取指名を発表の3日前に知った。勧銀出身の中村一郎会長は最後まで林氏にこだわっていた。
    • [15]1991年の逆転人事は、旧勧銀内で林氏に不満を持つグループと旧第一が手を組んだ結果といわれた。
参考文献[1]-[15]
  • 第一勧業銀行二十年史(1992年)第5章「創立20周年を迎えて」
    • [1]1991年度に入ると株価が暴落し、金融引き締めと不動産業への総量規制により地価が下落して、バブルの崩壊が表面化した。
    • [2]1991年4月、第七次長期経営計画を見直し、ベストバンク実現の経営目標をROAの極大化とBIS自己資本比率の達成の二つに変更した。
    • [3]宮崎頭取は1991年4月の第44回全国支店長会議で、BIS自己資本比率が達成できない場合は縮小均衡を余儀なくされると述べた。
    • [4]同会議で宮崎頭取は、前期末の自己資本比率は8%をクリアする見込みだが、株式の含み益などに依存しない体質への早期転換が必要だと述べた。
    • [11]1991年12月20日の取締役会で、1992年4月1日付で宮崎頭取が会長に、奥田副頭取が頭取に、中村会長が取締役相談役に就く人事を決めた。
    • [12]この首脳人事で、旧第一銀行と旧日本勧業銀行の出身者が交互に会長・頭取に就任し、そろって退任する慣例に終止符を打った。
  • 日経ビジネス 1992年3月23日号
    • [5]1992年3月、宮崎頭取は日経平均が2万円を割れば自己資本比率が8%を切ることもある程度やむを得ないと述べた。
    • [7]宮崎頭取によれば、人員は合併時の2万3000人から1万8000人に減ったが、他行はもっと合理化していた。
    • [8]宮崎頭取は、合併行として人員整理より従業員の処遇を優先してきたが、今後は少数精鋭主義で人員削減も進めると述べた。
    • [9]宮崎頭取は、投機や土地転がしへの融資が一部含まれていたと認め、利払いが延滞している貸付金が増える傾向にあると述べた。
  • 日経ビジネス 1992年2月24日号
    • [6]1991年夏、第一勧業銀行はトータル人事制度を導入して資格・ポスト・賃金・評価を洗い直し、資格を総合2級→主事→副参事に簡素化して賃金カーブを抑える布石を打った。
  • 第一勧業銀行二十年史(1992年)第5章「創立20周年を迎えて」/日経ビジネス 1992年3月23日号「編集長インタビュー 宮崎邦次氏[第一勧業銀行頭取]企業の立ち直り支援は使命」
    • [10]1991年10月1日の挨拶で宮崎頭取は、発足時約6兆円の総資産が約10倍に、600億円前後の経常利益が1990年度に1900億円になったと述べた。1992年には融資残高の年間伸び率が3%に届かなくなっていた。
  • 日経ビジネス 1992年5月18日号
    • [13]後継頭取の本命は1年先輩で企画畑の林裕副頭取とみられていたが、林氏の健康上の理由で、日本勧業銀行入行の奥田正司氏に決まった。
  • 日経ビジネス 1997年7月28日号
    • [14]奥田氏は頭取指名を発表の3日前に知った。勧銀出身の中村一郎会長は最後まで林氏にこだわっていた。
    • [15]1991年の逆転人事は、旧勧銀内で林氏に不満を持つグループと旧第一が手を組んだ結果といわれた。

1997年〜総務部を窓口にした延べ69回・275億円の融資と、11人の逮捕

1997年5月23日、第一勧業銀行は総会屋の親族企業への巨額融資を認めた。村本周三相談役によれば、融資は1985年に大物総会屋の木島力也氏から紹介を受けて始まった。窓口を営業店でなく総務部に置いた理由を、村本氏は『相手が総会屋の関係者だったから、扱いに慣れた総務部が対応した方がいいということになった』と説明した。相手は小池隆一氏の弟らが営む小甚ビルディングなどで、延べ69回、総額275億円に上った。融資は株価が上がった1987年に急拡大し、1989年に頂点を迎えた。このうち70億円余りはすでに回収不能として償却していた。裏金と違い経理に痕跡の残らない本業の貸出だったことが、12年ものあいだ表に出なかった一因だろう。

  • 日経ビジネス 1997年6月2日号
    • [16]1997年5月23日、第一勧業銀行は総会屋の親族企業への巨額融資を認めた。
    • [17]村本周三相談役は、1985年に大物総会屋だった木島力也氏から紹介されたことが融資のきっかけだったと話した。
    • [18]村本相談役は、相手が総会屋の関係者だったため総務部が融資窓口として対応したと説明し、特別扱いが続いていたことを認めた。
    • [21]第一勧業銀行は融資額のうち70億円余りを回収不能として償却していた。
  • 日経ビジネス 1997年6月16日号
    • [19]小池隆一容疑者の弟らが経営する小甚ビルディングなどへの融資は1985年から延べ69回、総額275億円に及んだ。
    • [20]小池容疑者側への融資は株価が上昇した1987年に急拡大し、1989年にピークを迎えた。

融資の条件は、当初から通常の与信とかけ離れていた。大手都銀は優良株でも担保の掛け目を7割にとどめたが、小池氏側には10割で貸していた。1985年3月の最初の1億円に対し、担保の時価は8700万円だった。1988年4月の総額36億円は1週間で返済され、小池酸素工業株の仕手戦の資金になった。1990年10月には大蔵省検査を逃れるためライベックスに融資を肩代わりさせ、同月の15億7000万円の融資から担保割れが広がった。1992年9月には宮崎会長と奥田頭取が木島氏と料亭で会食し、翌月から系列ノンバンクの大和信用を通じた迂回融資が始まった。この1992年には、融資残高と担保の差が最終的な損失見込みにほぼ見合う70億円まで開いていた。

  • 日経ビジネス 1997年7月28日号
    • [22]1985年から1989年にかけての小池容疑者側への融資も、大手都銀の融資としては正常とは言いにくく、総会屋向けゆえの配慮があった可能性がある。
    • [23]株式担保融資で大手都銀は優良株でも掛け目を7割程度とするが、小池容疑者側には当初から掛け目10割で融資していた。
    • [24]木島氏の紹介で1985年3月に初めて実行された1億円の融資に対し、担保時価は8700万円だった。
    • [25]1988年4月4日と7日に実行し15日に返済された総額36億円の融資は、小池酸素工業株をめぐる仕手戦の資金になった。
    • [26]1990年10月、大蔵省検査を逃れるためライベックスに融資を肩代わりさせた。同月のゴルフ場開発資金15億7000万円の融資以降、大幅な担保割れの状態になった。
    • [28]1992年には小池容疑者側への融資と担保のかい離が70億円に達し、最終的な損失見込み総額にほぼ見合う額となった。
  • 日経ビジネス 1997年7月7日号
    • [27]東京地検は、宮崎会長が1992年9月に奥田頭取とともに元出版社社長と料亭で会食した翌月から、大和信用を通じた迂回融資が始まったことに注目した。

経営陣の責任を問う声は続いた。近藤克彦頭取は辞任にあたり、後ろ盾となっていた元出版社社長の影響から最後まで逃れられなかったことを理由に挙げた。後任には藤田一郎副頭取が内定していたが、本人が会見で融資を知っていたと認めたため人事は取り消され、6月13日に藤田氏は逮捕された。奥田氏も7月4日に逮捕されて東京拘置所に収容され、それに先立つ6月29日には宮崎氏が自宅で自ら命を絶っていた。奥田氏らの容疑は、1994年以降に大和信用などを通した約117億円の迂回融資の部分に絞られた。逮捕者は11人に達し、頭取には旧勧銀出身の杉田力之氏が就いた。7月30日の大蔵省の行政処分は、個人向けを除く新規融資の獲得を年末まで止め、国内外の拠点新設を1年間認めない内容だった。

  • 日経ビジネス 1997年6月16日号
    • [29]辞任した近藤克彦頭取は、元出版社社長の呪縛が解けなかったと説明した。
  • Decide 1997年 第15巻第4号
    • [30]次期頭取に内定した藤田一郎副頭取は記者会見で総会屋への融資を認識していたと答えた。人事は白紙に戻され、藤田氏は6月13日に逮捕された。
  • 日経ビジネス 1997年7月7日号
    • [31]宮崎邦次会長は1997年6月29日に自宅で自殺した。奥田正司元頭取は利益供与の疑いで逮捕され、7月4日に東京拘置所に入った。
  • 日経ビジネス 1997年7月28日号
    • [32]利益供与に問われたのは、1994年以降の約117億円の迂回融資の部分で、損失は1億数千万円だった。迂回ルートには大和信用と後楽園ファイナンスが使われた。
    • [33]事件の逮捕者は11人、自殺者は1人に達した。1997年6月からの頭取は旧日本勧業銀行出身の杉田力之氏だった。
  • 日経ビジネス 1997年8月25日号
    • [34]1997年7月30日、大蔵省は第一勧業銀行に対し、個人向けを除く新規融資獲得の年末までの停止と、国内外の営業拠点新設を1年間認めない行政処分を発表した。
参考文献[16]-[34]
  • 日経ビジネス 1997年6月2日号
    • [16]1997年5月23日、第一勧業銀行は総会屋の親族企業への巨額融資を認めた。
    • [17]村本周三相談役は、1985年に大物総会屋だった木島力也氏から紹介されたことが融資のきっかけだったと話した。
    • [18]村本相談役は、相手が総会屋の関係者だったため総務部が融資窓口として対応したと説明し、特別扱いが続いていたことを認めた。
    • [21]第一勧業銀行は融資額のうち70億円余りを回収不能として償却していた。
  • 日経ビジネス 1997年6月16日号
    • [19]小池隆一容疑者の弟らが経営する小甚ビルディングなどへの融資は1985年から延べ69回、総額275億円に及んだ。
    • [20]小池容疑者側への融資は株価が上昇した1987年に急拡大し、1989年にピークを迎えた。
    • [29]辞任した近藤克彦頭取は、元出版社社長の呪縛が解けなかったと説明した。
  • 日経ビジネス 1997年7月28日号
    • [22]1985年から1989年にかけての小池容疑者側への融資も、大手都銀の融資としては正常とは言いにくく、総会屋向けゆえの配慮があった可能性がある。
    • [23]株式担保融資で大手都銀は優良株でも掛け目を7割程度とするが、小池容疑者側には当初から掛け目10割で融資していた。
    • [24]木島氏の紹介で1985年3月に初めて実行された1億円の融資に対し、担保時価は8700万円だった。
    • [25]1988年4月4日と7日に実行し15日に返済された総額36億円の融資は、小池酸素工業株をめぐる仕手戦の資金になった。
    • [26]1990年10月、大蔵省検査を逃れるためライベックスに融資を肩代わりさせた。同月のゴルフ場開発資金15億7000万円の融資以降、大幅な担保割れの状態になった。
    • [28]1992年には小池容疑者側への融資と担保のかい離が70億円に達し、最終的な損失見込み総額にほぼ見合う額となった。
    • [32]利益供与に問われたのは、1994年以降の約117億円の迂回融資の部分で、損失は1億数千万円だった。迂回ルートには大和信用と後楽園ファイナンスが使われた。
    • [33]事件の逮捕者は11人、自殺者は1人に達した。1997年6月からの頭取は旧日本勧業銀行出身の杉田力之氏だった。
  • 日経ビジネス 1997年7月7日号
    • [27]東京地検は、宮崎会長が1992年9月に奥田頭取とともに元出版社社長と料亭で会食した翌月から、大和信用を通じた迂回融資が始まったことに注目した。
    • [31]宮崎邦次会長は1997年6月29日に自宅で自殺した。奥田正司元頭取は利益供与の疑いで逮捕され、7月4日に東京拘置所に入った。
  • Decide 1997年 第15巻第4号
    • [30]次期頭取に内定した藤田一郎副頭取は記者会見で総会屋への融資を認識していたと答えた。人事は白紙に戻され、藤田氏は6月13日に逮捕された。
  • 日経ビジネス 1997年8月25日号
    • [34]1997年7月30日、大蔵省は第一勧業銀行に対し、個人向けを除く新規融資獲得の年末までの停止と、国内外の営業拠点新設を1年間認めない行政処分を発表した。

1998年〜富士銀行・日本興業銀行との3行統合と、みずほホールディングスの設立

事件の処理が続くなか、1998年11月に富士銀行は安田信託銀行の処理のため、第一勧業銀行と信託業務で提携した。富士銀行は合併を視野に証券分野へ提携を広げようとしたが、第一勧業銀行の反応は鈍かった。都銀同士の合併を嫌った第一勧業銀行は米国のJ.P.モルガンに活路を探ったが、相手の関心は投資信託での提携にとどまった。1999年3月期の連結決算は、経常損失6078億円、当期純損失4452億円だった。この期に追加的・予備的な引当を前倒しで積み、翌期の負担を軽くした。同月に金融再生委員会へ経営健全化計画を出し、4月には社内分社のカンパニー制を入れた。

  • 日経ビジネス 1999年8月30日号
    • [35]1998年11月、富士銀行は多額の不良債権を抱えた安田信託銀行問題の最終処理のため、第一勧業銀行と信託業務分野での提携を決めた。
    • [36]富士銀行は当初から第一勧業銀行との合併を視野に入れ、信託の次は証券分野での提携を目指したが、第一勧業銀行からは消極的な声しか聞こえなかった。
    • [37]邦銀同士の合併を嫌った第一勧業銀行は一時J.P.モルガンに活路を求めたが、J.P.モルガンは投資信託分野での提携以外に興味を示さなかった。
  • 第一勧業銀行 決算短信「平成12年3月期 決算短信(連結)」(2000年5月24日)
    • [38]1999年3月期の連結経常利益は△607,806百万円、当期純利益は△445,289百万円だった。
    • [39]1999年3月期に追加的かつ予備的な引当を前倒しで行ったため、2000年3月期の不良債権処理の負担は前期に比べ大きく減少した。
    • [40]1999年3月に金融再生委員会へ経営健全化計画を提出し、同年4月から第一次経営計画を始めるとともにカンパニー制(社内分社化)を導入した。

統合のきっかけを作ったのは日本興業銀行だった。1999年4月上旬、興銀の渡邉雄司常務が、富士銀行の前田晃伸常務と第一勧業銀行の南健治常務に相次いで会談を持ちかけた。5月5日に西村正雄、杉田力之、山本惠朗の3頭取が初めて会し、8月19日に3行統合が明らかになった。2000年秋に共同持株会社を設け、2002年春に3行の業務を顧客別の銀行と証券へ組み替える2段構えだった。持株会社の設立後5年で、行員6000人と国内拠点150カ所を減らす計画も併せて示された。2行の合併なら主導権争いで疲弊するが、3行ならその暇もないという計算が第一勧業銀行にあったという。営業収益の6割をリテールで稼ぐ第一勧業銀行では、リテール部門の給与を下げる案を杉田頭取がはっきり退けた。

  • 日経ビジネス 1999年8月30日号
    • [41]3行統合のきっかけを作ったのは日本興業銀行だった。同行はメーンバンクを務める日産自動車と仏ルノーの提携交渉で再編の黒子になれず、行内で他行と組む必要が意識された。
    • [42]1999年4月上旬、興銀常務の渡邉雄司が富士銀行常務の前田晃伸、第一勧業銀行常務の南健治に前後して会談を持ちかけた。
    • [43]1999年5月5日、日本興業銀行の西村正雄、第一勧業銀行の杉田力之、富士銀行の山本惠朗の3頭取が都内のホテルで初めて一堂に会した。3行統合は8月19日に明らかになった。
    • [44]3行は2000年秋に共同持株会社を設立し、2002年春をめどに業務をカスタマー&コンシューマー銀行、コーポレート銀行、インベストメントバンク&ホールセール証券に再編する2段階で統合する。
    • [45]3行が発表したリストラ計画は、持株会社設立後5年間で行員6000人を削減し、国内拠点を150カ所削減することを骨子とした。
    • [46]2行合併では主導権争いで疲弊しがちだが、3行になれば主導権争いに血眼になる暇さえなくなるという事情が第一勧業銀行にもあった。
  • 日経ビジネス 1999年9月6日号
    • [47]第一勧業銀行は営業収益の6割をリテールで稼いでいた。リテール部門の給与水準を半分にすべきだとの意見に対し、杉田力之頭取はあり得ないと明確に否定した。

単独で最後となった2000年3月期は、連結経常利益1835億円、当期純利益708億円へ戻り、自己資本比率は12.11%だった。1999年12月に調印した全面統合の契約に沿い、2000年5月には3行の証券子会社を10月1日付でみずほ証券とする合併契約を結んだ。第一勧業銀行の株式は9月22日で上場廃止となり、9月29日に共同株式移転でみずほホールディングスが設立された。その社長に就いた杉田氏は、2005年度に連結業務純益1兆6000億円とする目標について『世界の5指に入る金融機関を目指す以上、必ず達成する。』と語った。一方でみずほ証券の幹部は3行の出身者で等分され、1971年のたすき掛けが三つ編みに姿を変えて残った。

  • 第一勧業銀行 決算短信「平成12年3月期 決算短信(連結)」(2000年5月24日)
    • [48]2000年3月期の連結経常利益は183,556百万円、当期純利益は70,846百万円、連結自己資本比率(国際統一基準・速報値)は12.11%だった。
  • 第一勧業銀行 プレスリリース「第一勧業証券株式会社、富士証券株式会社および興銀証券株式会社の合併契約締結について」(2000年5月25日)
    • [49]1999年12月に調印された全面的統合契約の一環として、2000年5月25日に第一勧業証券・富士証券・興銀証券が合併契約を結び、合併期日を2000年10月1日、新商号をみずほ証券とした。
  • 第一勧業銀行 プレスリリース「株式会社第一勧業銀行、株式会社富士銀行および株式会社日本興業銀行の共同株式移転による完全親会社普通株式の上場申請等に関するお知らせ」(2000年6月16日)
    • [50]共同株式移転に伴い、第一勧業銀行の普通株式は2000年9月22日をもって上場廃止となり、株式移転の日は9月29日とされた。
  • 日経ビジネス 2000年10月2日号
    • [51]2000年9月29日にみずほホールディングスが発足した。社長兼CEOの杉田力之氏は、2005年度に連結業務純益1兆6000億円とする目標を必ず達成すると述べた。
参考文献[35]-[51]
  • 日経ビジネス 1999年8月30日号
    • [35]1998年11月、富士銀行は多額の不良債権を抱えた安田信託銀行問題の最終処理のため、第一勧業銀行と信託業務分野での提携を決めた。
    • [36]富士銀行は当初から第一勧業銀行との合併を視野に入れ、信託の次は証券分野での提携を目指したが、第一勧業銀行からは消極的な声しか聞こえなかった。
    • [37]邦銀同士の合併を嫌った第一勧業銀行は一時J.P.モルガンに活路を求めたが、J.P.モルガンは投資信託分野での提携以外に興味を示さなかった。
    • [41]3行統合のきっかけを作ったのは日本興業銀行だった。同行はメーンバンクを務める日産自動車と仏ルノーの提携交渉で再編の黒子になれず、行内で他行と組む必要が意識された。
    • [42]1999年4月上旬、興銀常務の渡邉雄司が富士銀行常務の前田晃伸、第一勧業銀行常務の南健治に前後して会談を持ちかけた。
    • [43]1999年5月5日、日本興業銀行の西村正雄、第一勧業銀行の杉田力之、富士銀行の山本惠朗の3頭取が都内のホテルで初めて一堂に会した。3行統合は8月19日に明らかになった。
    • [44]3行は2000年秋に共同持株会社を設立し、2002年春をめどに業務をカスタマー&コンシューマー銀行、コーポレート銀行、インベストメントバンク&ホールセール証券に再編する2段階で統合する。
    • [45]3行が発表したリストラ計画は、持株会社設立後5年間で行員6000人を削減し、国内拠点を150カ所削減することを骨子とした。
    • [46]2行合併では主導権争いで疲弊しがちだが、3行になれば主導権争いに血眼になる暇さえなくなるという事情が第一勧業銀行にもあった。
  • 第一勧業銀行 決算短信「平成12年3月期 決算短信(連結)」(2000年5月24日)
    • [38]1999年3月期の連結経常利益は△607,806百万円、当期純利益は△445,289百万円だった。
    • [39]1999年3月期に追加的かつ予備的な引当を前倒しで行ったため、2000年3月期の不良債権処理の負担は前期に比べ大きく減少した。
    • [40]1999年3月に金融再生委員会へ経営健全化計画を提出し、同年4月から第一次経営計画を始めるとともにカンパニー制(社内分社化)を導入した。
    • [48]2000年3月期の連結経常利益は183,556百万円、当期純利益は70,846百万円、連結自己資本比率(国際統一基準・速報値)は12.11%だった。
  • 日経ビジネス 1999年9月6日号
    • [47]第一勧業銀行は営業収益の6割をリテールで稼いでいた。リテール部門の給与水準を半分にすべきだとの意見に対し、杉田力之頭取はあり得ないと明確に否定した。
    • [49]1999年12月に調印された全面的統合契約の一環として、2000年5月25日に第一勧業証券・富士証券・興銀証券が合併契約を結び、合併期日を2000年10月1日、新商号をみずほ証券とした。
    • [50]共同株式移転に伴い、第一勧業銀行の普通株式は2000年9月22日をもって上場廃止となり、株式移転の日は9月29日とされた。
  • 日経ビジネス 2000年10月2日号
    • [51]2000年9月29日にみずほホールディングスが発足した。社長兼CEOの杉田力之氏は、2005年度に連結業務純益1兆6000億円とする目標を必ず達成すると述べた。

出典・参考

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出典・参考
  • 第一勧業銀行 決算短信「平成12年3月期 決算短信(連結)」(2000年5月24日)
  • 第一勧業銀行 プレスリリース「第一勧業証券株式会社、富士証券株式会社および興銀証券株式会社の合併契約締結について」(2000年5月25日)
  • 第一勧業銀行 プレスリリース「株式会社第一勧業銀行、株式会社富士銀行および株式会社日本興業銀行の共同株式移転による完全親会社普通株式の上場申請等に関するお知らせ」(2000年6月16日)
  • 第一勧業銀行二十年史(1992年)第5章「創立20周年を迎えて」
  • 第一勧業銀行二十年史(1992年)第5章「創立20周年を迎えて」/日経ビジネス 1992年3月23日号「編集長インタビュー 宮崎邦次氏[第一勧業銀行頭取]企業の立ち直り支援は使命」
  • 日経ビジネス 1992年3月23日号
  • 日経ビジネス 1992年2月24日号
  • 日経ビジネス 1992年5月18日号
  • 日経ビジネス 1997年7月28日号
  • 日経ビジネス 1997年6月2日号
  • 日経ビジネス 1997年6月16日号
  • 日経ビジネス 1997年7月7日号
  • Decide 1997年 第15巻第4号
  • 日経ビジネス 1997年8月25日号
  • 日経ビジネス 1999年8月30日号
  • 日経ビジネス 1999年9月6日号
  • 日経ビジネス 2000年10月2日号

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