安宅産業:NRC向け債権の焦げ付きと伊藤忠商事への吸収合併
1975年〜危機の表面化と、引き金にすぎなかったカナダの製油所
1975年12月半ば過ぎ、業界9位の安宅産業の経営危機が表面化し、1975年9月末の借入総額は5,248億円に膨らんでいた。中心にあったのは、カナダの製油所を運営するNRCへの資金投入である。安宅産業に信用状を書かせた英国の石油会社や、安宅産業が保証したTR(受託受領書)のロールオーバーに応じた在米邦銀との不明瞭なつながりも重なっていた。焦げ付き債権はNRC分だけで900億円、安宅産業が抱えた総額は約3,000億円にのぼり、通期の経常損益も1975年3月期の39億円の黒字から1976年3月期は151億円の赤字へ転落し、1977年3月期には311億円の赤字を計上した。
- 日本産業史3(日本経済新聞社, 1994)
- [1]1975年12月の半ば過ぎに安宅産業の経営危機が表面化した
- [2]安宅産業は業界9位の総合商社で、その経営危機が突如表面化した
- [4]安宅産業が経営危機に陥った直接の原因はカナダにおける石油精製事業のつまずきだった
- [5]危機の要因として「安宅に信用状を書かせた英国の石油会社」が挙げられている
- [6]危機の要因として「安宅が保証したTR(受託受領書)のロールオーバー(書き替え)に応じた在米邦銀との不明瞭なつながり」が挙げられている
- 銀行時評 11(3)(1977年3月)
- [3]1975年9月期末時点の借入総額は5,248億円に拡大していた
- 日経ビジネス 1977年5月9日号
- [7]NRCに対する焦げ付き債権は900億円だった
- [8]安宅産業が抱えた焦げ付き債権の総額は約3000億円だった
崩壊の原因はカナダの製油所だけではなかった。樋口氏が市川政夫社長にゴルフ場の件数を尋ねたとき、返ってきた答えは1カ所だったが、調べてみると11カ所で工事が進行していた。それぞれ別会社に手がけさせていたため社内でも把握できず、いずれも3ホールか4ホール分しか用地買収が終わっていなかった。安宅産業の年商のうち健全な取引は約半分で、残りは赤字取引もしくは架空取引だった。安宅産業の経営陣は住友銀行から離れようとしており、協和銀行が4〜5年前から急速に接近して、子会社向けを含めた融資量では住友を上回っていた。カナダの石油精製事業は崩壊の引き金になったにすぎず、真の原因は杜撰な経営にあった。
- 日本産業史3(日本経済新聞社, 1994)
- [9]カナダの石油精製事業は崩壊の引き金になっただけで、崩壊の真の原因は杜撰な経営だった
- [14]終戦処理に当たった住友銀行によれば、安宅産業の年商のうち健全な取引は約半分で、残りは赤字取引もしくは架空取引だった
- [18]カナダの石油精製事業は崩壊の引き金になっただけだった
- [19]「崩壊の真の原因は、杜撰な経営である」「低成長下で経営が早晩行き詰まったであろうことは間違いない。社内の管理体制、チェック機能の未整備が崩壊に拍車を掛けたにすぎない」
- 日経ビジネス 1977年5月9日号
- [10]樋口氏がゴルフ場の件数を尋ねたところ、市川社長は1カ所しかやっていないはずだと答えた
- [11]調べたところゴルフ場は11カ所で工事が進行中だった
- [12]ゴルフ場はそれぞれ別会社にやらせていたため把握できなかった
- [13]11カ所とも3ホールか4ホール分しか用地買収が終わっていなかった
- [15]「たまたま、安宅の場合は同社の経営陣が住友銀行から離れようとしていたこともあって」
- [16]「協和側が4〜5年前から急速に接近」した
- [17]「子会社向けも入れると、安宅への融資量は住友を上回っていた」。『日本産業史3』の「安宅自身がメインバンクを持たなかった」という記述と、『週刊東洋経済』2017年5月20日号の「メインバンクの住友銀行」という記述の食い違いは、この事情で説明がつく
参考文献[1]-[19]
- 日本産業史3(日本経済新聞社, 1994)
- [1]1975年12月の半ば過ぎに安宅産業の経営危機が表面化した
- [2]安宅産業は業界9位の総合商社で、その経営危機が突如表面化した
- [4]安宅産業が経営危機に陥った直接の原因はカナダにおける石油精製事業のつまずきだった
- [5]危機の要因として「安宅に信用状を書かせた英国の石油会社」が挙げられている
- [6]危機の要因として「安宅が保証したTR(受託受領書)のロールオーバー(書き替え)に応じた在米邦銀との不明瞭なつながり」が挙げられている
- [9]カナダの石油精製事業は崩壊の引き金になっただけで、崩壊の真の原因は杜撰な経営だった
- [14]終戦処理に当たった住友銀行によれば、安宅産業の年商のうち健全な取引は約半分で、残りは赤字取引もしくは架空取引だった
- [18]カナダの石油精製事業は崩壊の引き金になっただけだった
- [19]「崩壊の真の原因は、杜撰な経営である」「低成長下で経営が早晩行き詰まったであろうことは間違いない。社内の管理体制、チェック機能の未整備が崩壊に拍車を掛けたにすぎない」
- 銀行時評 11(3)(1977年3月)
- [3]1975年9月期末時点の借入総額は5,248億円に拡大していた
- 日経ビジネス 1977年5月9日号
- [7]NRCに対する焦げ付き債権は900億円だった
- [8]安宅産業が抱えた焦げ付き債権の総額は約3000億円だった
- [10]樋口氏がゴルフ場の件数を尋ねたところ、市川社長は1カ所しかやっていないはずだと答えた
- [11]調べたところゴルフ場は11カ所で工事が進行中だった
- [12]ゴルフ場はそれぞれ別会社にやらせていたため把握できなかった
- [13]11カ所とも3ホールか4ホール分しか用地買収が終わっていなかった
- [15]「たまたま、安宅の場合は同社の経営陣が住友銀行から離れようとしていたこともあって」
- [16]「協和側が4〜5年前から急速に接近」した
- [17]「子会社向けも入れると、安宅への融資量は住友を上回っていた」。『日本産業史3』の「安宅自身がメインバンクを持たなかった」という記述と、『週刊東洋経済』2017年5月20日号の「メインバンクの住友銀行」という記述の食い違いは、この事情で説明がつく
1976年〜倒産処理を選べなかった16行と伊藤忠商事への吸収合併
当時の安宅産業は年商2兆円、負債総額1兆円、取引先3万5,000社を抱え、国内の取引金融機関は223行に及んでいた。これを一挙につぶせば鈴木商店の二の舞になるというのが、銀行団が救済に踏み切ったときの関係者に共通する見方だった。商社には凍結できる物的資産も再建の基礎となる生産設備もないため会社更生法という道も選べず、唯一の手がかりである商権も更生法の適用で債権が凍結された時点で消滅する公算が大きかった。伊藤忠商事は1976年1月12日に業務提携を発表した。市川政夫社長はその年の6月に経営責任を取って辞任し、主力の住友・協和両行の仲介で同年12月29日に合併覚書へ調印した。1977年10月1日に安宅産業は伊藤忠商事へ吸収合併され、1904年7月の創業から73年の歴史を閉じた。
- 日経ビジネス 1977年5月9日号
- [20]安宅産業は年間売上高2兆円、負債総額1兆円(うち銀行借り入れ5000億円)、取引先3万5000社だった
- [22]安宅を一挙につぶしたら鈴木商店の二の舞になる、と銀行団が救済に踏み切ったときに関係者は皆いっていた
- 日本産業史3(日本経済新聞社, 1994)
- [21]安宅産業の国内の取引金融機関は223行だった
- [26]1976年1月12日に伊藤忠商事との業務提携が発表された
- [28]1976年12月29日、住友・協和両行の仲介で吸収合併が本決まりとなり合併覚書に調印した
- 日経ビジネス 1977年6月6日号
- [23]商社には製造業のような凍結できる物的資産も、再建の基礎となる生産設備もない
- [24]信用だけで商売している商社には会社更生法適用という法の保護もなかった、と住友銀行は説明した
- [25]唯一の手がかりである商権も、更生法適用で対安宅債権が凍結された時点で消滅する公算が大きかった
- 日経ビジネス 1981年8月24日号
- [27]市川政夫は1976年6月に経営責任を取って安宅産業の社長を辞任した
- 日経ビジネス 1978年10月9日号
- [29]1977年10月1日に伊藤忠商事が安宅産業を吸収合併した
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)
- [30]安宅商会の創業は1904年7月である
合併の実態は営業権の一部譲渡で、提携発表直後の半期に約1兆円あった売上高は1年後の半期に6,700億円まで減り、約3,300億円の商権が消滅した。パルプ・紙本部の社員は三菱製紙や十条製紙へ流れ、担っていた商権もそのまま失われた。1976年3月期に3,681名を数えた社員のうち、合併時に伊藤忠商事へ移ったのは1,058名で、数千人の社員が散り散りになった。銀行は16行で合計4,100億円の貸金を焦げ付かせ、住友銀行は1,132億円を一括償却した。三菱・東京・三井の3行から見れば、住友銀行のやり方が商権を吹き飛ばし損失を必要以上に大きくしたものであり、住友側にとっては結果論にすぎなかった。
- 日経ビジネス 1977年5月9日号
- [31]合併といってもその実態は営業権の一部譲渡だった
- [37]16行が銀行団を結成し、合計4100億円の貸金を焦げ付かせた
- [39]三菱・東京・三井の3行は、住友のやり方では商権が吹き飛び損失を必要以上に大きくしたと批判した
- [40]住友側は捨て牌を入れ替えれば満貫ができるというのと同じで結果論だと反論した
- 日経ビジネス 1977年6月6日号
- [32]提携発表直後の1976年3月期(半期)売上高は約1兆円、1977年3月期(半期)は6700億円だった
- [33]わずか1年の間に約3300億円の商権が消滅した
- [34]パルプ・紙本部の社員が三菱製紙に5人、三洋日比谷に4人、十条製紙に2人といった具合に流出し、商権そのものも消滅した
- 日経ビジネス 1978年6月19日号
- [35]「伊藤忠商事が安宅産業から引き継いだ商権は約2300億円。人員は1058人だった」(1978年3月期決算から。合併は1977年10月1日)
- 日経ビジネス 1981年8月24日号
- [36]経営陣の意思決定の誤りから安宅産業が解体に追い込まれ、数千人の社員がバラバラになった
- 日経ビジネス 1978年3月13日号
- [38]住友銀行は旧安宅産業の処理で1132億円の貸し倒れを一括償却し、赤字の所得を申告した
参考文献[20]-[40]
- 日経ビジネス 1977年5月9日号
- [20]安宅産業は年間売上高2兆円、負債総額1兆円(うち銀行借り入れ5000億円)、取引先3万5000社だった
- [22]安宅を一挙につぶしたら鈴木商店の二の舞になる、と銀行団が救済に踏み切ったときに関係者は皆いっていた
- [31]合併といってもその実態は営業権の一部譲渡だった
- [37]16行が銀行団を結成し、合計4100億円の貸金を焦げ付かせた
- [39]三菱・東京・三井の3行は、住友のやり方では商権が吹き飛び損失を必要以上に大きくしたと批判した
- [40]住友側は捨て牌を入れ替えれば満貫ができるというのと同じで結果論だと反論した
- 日本産業史3(日本経済新聞社, 1994)
- [21]安宅産業の国内の取引金融機関は223行だった
- [26]1976年1月12日に伊藤忠商事との業務提携が発表された
- [28]1976年12月29日、住友・協和両行の仲介で吸収合併が本決まりとなり合併覚書に調印した
- 日経ビジネス 1977年6月6日号
- [23]商社には製造業のような凍結できる物的資産も、再建の基礎となる生産設備もない
- [24]信用だけで商売している商社には会社更生法適用という法の保護もなかった、と住友銀行は説明した
- [25]唯一の手がかりである商権も、更生法適用で対安宅債権が凍結された時点で消滅する公算が大きかった
- [32]提携発表直後の1976年3月期(半期)売上高は約1兆円、1977年3月期(半期)は6700億円だった
- [33]わずか1年の間に約3300億円の商権が消滅した
- [34]パルプ・紙本部の社員が三菱製紙に5人、三洋日比谷に4人、十条製紙に2人といった具合に流出し、商権そのものも消滅した
- 日経ビジネス 1981年8月24日号
- [27]市川政夫は1976年6月に経営責任を取って安宅産業の社長を辞任した
- [36]経営陣の意思決定の誤りから安宅産業が解体に追い込まれ、数千人の社員がバラバラになった
- 日経ビジネス 1978年10月9日号
- [29]1977年10月1日に伊藤忠商事が安宅産業を吸収合併した
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)
- [30]安宅商会の創業は1904年7月である
- 日経ビジネス 1978年6月19日号
- [35]「伊藤忠商事が安宅産業から引き継いだ商権は約2300億円。人員は1058人だった」(1978年3月期決算から。合併は1977年10月1日)
- 日経ビジネス 1978年3月13日号
- [38]住友銀行は旧安宅産業の処理で1132億円の貸し倒れを一括償却し、赤字の所得を申告した
1974年〜1977年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 経常利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 利益率 | |||
| 1974年03月期 | n/a | 16,164 | n/a | 63 | 0.4% | n/a |
| 1975年03月期 | n/a | 20,948 | +29.6% | 39 | 0.2% | n/a |
| 1976年03月期 | n/a | 19,989 | ▲4.6% | ▲151 | ▲0.8% | n/a |
| 1977年03月期 | n/a | 14,901 | ▲25.5% | ▲311 | ▲2.1% | n/a |
出典・参考
9件
- 会社銀行八十年史(東洋経済新報社, 1955)
- 日本産業史3(日本経済新聞社, 1994)
- 日経ビジネス 1977年5月9日号
- 日経ビジネス 1977年6月6日号
- 日経ビジネス 1978年10月9日号
- 日経ビジネス 1978年6月19日号
- 日経ビジネス 1978年3月13日号
- 日経ビジネス 1981年8月24日号
- 銀行時評 11(3)(1977年3月)