服部金太郎
経歴1881〜1934年
経歴
| 区分 | 所属先 | 就任年 | 役職 | 現任 | 1881年主要役職の状況(推定含む目安)1934年 |
|---|---|---|---|---|---|
| 民間 | 服部時計店(現 セイコーグループ株式会社) | 1881 | 創業 社長 | ||
| 1917 | 社長 | ||||
| 1934 | 社長 退任(在任中に死去) |
社長就任までの出自
出自
1860年10月、江戸京橋采女町で古物商を営む家に生まれた。1872年に13歳で洋品雑貨店へ奉公に出たのち、日本橋と上野の時計店へ移って修理と販売を身につけた。勤め先の時計店が倒産すると、自宅で中古の時計を直して売りながら、別の時計店に時計工として通って元手を蓄えた。
社長に選ばれた経緯
抜擢
1881年12月、約150円を元手に京橋采女町で服部時計店を創業し、自ら店主として経営を率いた。1917年10月に資本金500万円の株式会社服部時計店へ改組した際も社長に就任し、1934年に亡くなるまでその座にあった。後任の2代目社長は長男の服部玄三氏である。
在任中の主な施策
施策
横浜の外国商館から輸入時計を仕入れて卸と小売を伸ばし、1892年3月に製造工場の精工舎を設けた。製品は掛時計から始め、1895年に懐中時計、1913年に国産初の腕時計へ広げた。1899年には自ら欧米の時計工場を回り、帰国後に新しい工作機械を入れて精工舎の動力を倍以上に引き上げた。
創業ストーリー
創業ストーリー
服部金太郎氏は1860年10月、江戸京橋采女町で古物商の長男として生まれた。13歳で京橋の洋品雑貨店へ奉公に出たとき、近くの時計店では客足の少ない雨の日にも店員が修繕の手を止めておらず、時計は売るだけでなく直すことでも稼げる商売だと見て取った。その後は日本橋と上野の時計店に移って修理と販売を覚え、勤め先が倒産すると自宅で中古の時計を直して売りながら、別の時計店に時計工として通って元手をためた。
- 『スイスを食った男たち 時計王国セイコーの100年』(1981年)
- [13]1860年(万延元年)10月9日、江戸京橋釆女町で古物商を営む父喜三郎の長男として生まれる
- [14]1872年に13歳で洋品雑貨屋辻屋へ奉公。並びの小林時計店では雨の日も店員が時計の修繕に励んでおり、販売だけでなく修繕代も得られる時計業を志した。亀田時計店・坂田時計店で修理と販売を学び、坂田時計店の倒産後は自宅で中古時計を修繕・売買しつつ桜井時計店の時計工として資金を蓄えた
- [15]1872年に13歳で洋品雑貨屋辻屋へ奉公。並びの小林時計店では雨の日も店員が時計の修繕に励んでおり、販売だけでなく修繕代も得られる時計業を志した。亀田時計店・坂田時計店で修理と販売を学び、坂田時計店の倒産後は自宅で中古時計を修繕・売買しつつ桜井時計店の時計工として資金を蓄えた
1881年12月、服部金太郎氏は約150円を元手に京橋采女町で服部時計店を創業した。修理に加えて輸入時計の卸と小売を収益源とし、仕入れ先には横浜居留地の外国商館を選んだ。商館への1か月払いの約束を守らない時計商もいたなかで、期日どおりの支払いを続けたことで掛けによる仕入れの枠が広がり、品ぞろえの厚さが客を呼んだ。1883年3月に近所の火事で店を失っても、同じ年の初夏には木挽町で店を立て直している。
- 『スイスを食った男たち 時計王国セイコーの100年』(1981年)
- [16]1881年12月に約150円を元手に京橋釆女町で服部時計店を創業し、輸入時計の卸・小売に力を入れた。横浜の外国商館に対し支払い日を守り、掛けで多くの商品を融通された。1883年3月の火事で全焼し、同年初夏に木挽町五丁目で再興。1892年2月に吉川鶴彦氏の技師長就任の内諾を得て本所区石原町のガラス工場を買収、従業員十数人・人力の動力で同年7月に掛時計1ダースの製造に成功。懐中時計は赤字続きで掛時計・置時計の利益を転用して生産を継続。1899年9月から欧米を視察しウォルサム社と直輸入契約、工作機械を導入し動力を25馬力から60馬力へ。1934年に死去し長男の服部玄三氏が2代目社長
- [18]1881年12月に約150円を元手に京橋釆女町で服部時計店を創業し、輸入時計の卸・小売に力を入れた。横浜の外国商館に対し支払い日を守り、掛けで多くの商品を融通された。1883年3月の火事で全焼し、同年初夏に木挽町五丁目で再興。1892年2月に吉川鶴彦氏の技師長就任の内諾を得て本所区石原町のガラス工場を買収、従業員十数人・人力の動力で同年7月に掛時計1ダースの製造に成功。懐中時計は赤字続きで掛時計・置時計の利益を転用して生産を継続。1899年9月から欧米を視察しウォルサム社と直輸入契約、工作機械を導入し動力を25馬力から60馬力へ。1934年に死去し長男の服部玄三氏が2代目社長
- [19]1881年12月に約150円を元手に京橋釆女町で服部時計店を創業し、輸入時計の卸・小売に力を入れた。横浜の外国商館に対し支払い日を守り、掛けで多くの商品を融通された。1883年3月の火事で全焼し、同年初夏に木挽町五丁目で再興。1892年2月に吉川鶴彦氏の技師長就任の内諾を得て本所区石原町のガラス工場を買収、従業員十数人・人力の動力で同年7月に掛時計1ダースの製造に成功。懐中時計は赤字続きで掛時計・置時計の利益を転用して生産を継続。1899年9月から欧米を視察しウォルサム社と直輸入契約、工作機械を導入し動力を25馬力から60馬力へ。1934年に死去し長男の服部玄三氏が2代目社長
- [21]1881年12月に約150円を元手に京橋釆女町で服部時計店を創業し、輸入時計の卸・小売に力を入れた。横浜の外国商館に対し支払い日を守り、掛けで多くの商品を融通された。1883年3月の火事で全焼し、同年初夏に木挽町五丁目で再興。1892年2月に吉川鶴彦氏の技師長就任の内諾を得て本所区石原町のガラス工場を買収、従業員十数人・人力の動力で同年7月に掛時計1ダースの製造に成功。懐中時計は赤字続きで掛時計・置時計の利益を転用して生産を継続。1899年9月から欧米を視察しウォルサム社と直輸入契約、工作機械を導入し動力を25馬力から60馬力へ。1934年に死去し長男の服部玄三氏が2代目社長
- セイコーグループ 有価証券報告書(2026年3月期)【沿革】
- [17]1881年12月 創業/1892年3月 時計製造工場精工舎設立/1917年10月 会社組織に改め資本金500万円の株式会社服部時計店となる
- セイコーグループ 公式サイト「沿革」(2026年10月)
- [20]1881年 時計小売・修理の店を創業し外国商館から信用を得て発展/1894年 銀座4丁目角に店を移転し時計塔つき店舗/1895年 懐中時計「タイムキーパー」製造開始/1913年 国産初の腕時計「ローレル」発売/1923年9月 関東大震災で工場・店舗すべて焼失、11月に営業再開し焼失した修理預かり時計の代償に新品を無償で進呈
輸入で稼ぎながら、服部金太郎氏が次に狙ったのは国産の時計工業だった。国内で使われる時計がほとんど欧米からの輸入品である状態を改め、国産品で外国品を置き換えることを目標に掲げた。深川の時計師吉川鶴彦氏から技師長就任の内諾を取り付けたうえで、1892年に本所石原町の休業中のガラス工場を買収し、精工舎として掛時計の製造に入った。従業員は十数人で、工作機械は人の力で回していたが、同年7月には最初の1ダースを仕上げた。
- 実業時代 1929年11月号(6巻11号)「服部時計店の人物と事業」
- [22]日本で需用される時計が殆ど欧米の輸入品のみであるのを歎き、時計製造工業を起して外国品を駆逐する決心で明治25年本所に精工舎を起した。明治28年頃より支那・印度・南洋方面に掛時計を輸出。震災後、大正13年から15年の3年間で旧態に復し、現在の精工舎は工場敷地9,291坪、男女工約2,000名
- 『スイスを食った男たち 時計王国セイコーの100年』(1981年)
- [23]1881年12月に約150円を元手に京橋釆女町で服部時計店を創業し、輸入時計の卸・小売に力を入れた。横浜の外国商館に対し支払い日を守り、掛けで多くの商品を融通された。1883年3月の火事で全焼し、同年初夏に木挽町五丁目で再興。1892年2月に吉川鶴彦氏の技師長就任の内諾を得て本所区石原町のガラス工場を買収、従業員十数人・人力の動力で同年7月に掛時計1ダースの製造に成功。懐中時計は赤字続きで掛時計・置時計の利益を転用して生産を継続。1899年9月から欧米を視察しウォルサム社と直輸入契約、工作機械を導入し動力を25馬力から60馬力へ。1934年に死去し長男の服部玄三氏が2代目社長
- [25]1881年12月に約150円を元手に京橋釆女町で服部時計店を創業し、輸入時計の卸・小売に力を入れた。横浜の外国商館に対し支払い日を守り、掛けで多くの商品を融通された。1883年3月の火事で全焼し、同年初夏に木挽町五丁目で再興。1892年2月に吉川鶴彦氏の技師長就任の内諾を得て本所区石原町のガラス工場を買収、従業員十数人・人力の動力で同年7月に掛時計1ダースの製造に成功。懐中時計は赤字続きで掛時計・置時計の利益を転用して生産を継続。1899年9月から欧米を視察しウォルサム社と直輸入契約、工作機械を導入し動力を25馬力から60馬力へ。1934年に死去し長男の服部玄三氏が2代目社長
- セイコーグループ 有価証券報告書(2026年3月期)【沿革】
- [24]1881年12月 創業/1892年3月 時計製造工場精工舎設立/1917年10月 会社組織に改め資本金500万円の株式会社服部時計店となる
打ち手は順に広げた。1894年に銀座4丁目の角へ店を移し、製品は1895年に懐中時計、1913年に国産初の腕時計「ローレル」へと進めた。懐中時計は長く赤字が続いたが、掛時計と置時計の利益で支えて生産を続けた。1899年には自ら欧米の時計工場を回ってウォルサム社と直輸入の契約を結び、帰国後に新しい工作機械を入れて精工舎の動力を25馬力から60馬力へ上げた。1895年ごろからは中国・インド・南洋へ掛時計の輸出も始めている。
- セイコーグループ 公式サイト「沿革」(2026年10月)
- [26]1881年 時計小売・修理の店を創業し外国商館から信用を得て発展/1894年 銀座4丁目角に店を移転し時計塔つき店舗/1895年 懐中時計「タイムキーパー」製造開始/1913年 国産初の腕時計「ローレル」発売/1923年9月 関東大震災で工場・店舗すべて焼失、11月に営業再開し焼失した修理預かり時計の代償に新品を無償で進呈
- 『スイスを食った男たち 時計王国セイコーの100年』(1981年)
- [27]1881年12月に約150円を元手に京橋釆女町で服部時計店を創業し、輸入時計の卸・小売に力を入れた。横浜の外国商館に対し支払い日を守り、掛けで多くの商品を融通された。1883年3月の火事で全焼し、同年初夏に木挽町五丁目で再興。1892年2月に吉川鶴彦氏の技師長就任の内諾を得て本所区石原町のガラス工場を買収、従業員十数人・人力の動力で同年7月に掛時計1ダースの製造に成功。懐中時計は赤字続きで掛時計・置時計の利益を転用して生産を継続。1899年9月から欧米を視察しウォルサム社と直輸入契約、工作機械を導入し動力を25馬力から60馬力へ。1934年に死去し長男の服部玄三氏が2代目社長
- [28]1881年12月に約150円を元手に京橋釆女町で服部時計店を創業し、輸入時計の卸・小売に力を入れた。横浜の外国商館に対し支払い日を守り、掛けで多くの商品を融通された。1883年3月の火事で全焼し、同年初夏に木挽町五丁目で再興。1892年2月に吉川鶴彦氏の技師長就任の内諾を得て本所区石原町のガラス工場を買収、従業員十数人・人力の動力で同年7月に掛時計1ダースの製造に成功。懐中時計は赤字続きで掛時計・置時計の利益を転用して生産を継続。1899年9月から欧米を視察しウォルサム社と直輸入契約、工作機械を導入し動力を25馬力から60馬力へ。1934年に死去し長男の服部玄三氏が2代目社長
- 実業時代 1929年11月号(6巻11号)「服部時計店の人物と事業」
- [29]日本で需用される時計が殆ど欧米の輸入品のみであるのを歎き、時計製造工業を起して外国品を駆逐する決心で明治25年本所に精工舎を起した。明治28年頃より支那・印度・南洋方面に掛時計を輸出。震災後、大正13年から15年の3年間で旧態に復し、現在の精工舎は工場敷地9,291坪、男女工約2,000名
会社の形が固まったのは1917年10月で、個人の店だった服部時計店は資本金500万円の株式会社に改まった。1923年9月の関東大震災で工場と店舗をすべて焼かれたが、11月には営業を再開し、焼けた修理預かりの時計の代わりに新品を無償で渡した。精工舎は1926年までの3年間で震災前の生産力を取り戻し、1929年には工場敷地9,291坪、男女の工員約2,000名を抱えていた。服部金太郎氏は1934年に亡くなるまで社長を務め、長男の服部玄三氏が後を継いだ。小売の信用を元手に製造へ進出した順番が、販売と製造を一つの店の下に置く服部時計店の形を決めたように見える。
- セイコーグループ 有価証券報告書(2026年3月期)【沿革】
- [30]1881年12月 創業/1892年3月 時計製造工場精工舎設立/1917年10月 会社組織に改め資本金500万円の株式会社服部時計店となる
- セイコーグループ 公式サイト「沿革」(2026年10月)
- [31]1881年 時計小売・修理の店を創業し外国商館から信用を得て発展/1894年 銀座4丁目角に店を移転し時計塔つき店舗/1895年 懐中時計「タイムキーパー」製造開始/1913年 国産初の腕時計「ローレル」発売/1923年9月 関東大震災で工場・店舗すべて焼失、11月に営業再開し焼失した修理預かり時計の代償に新品を無償で進呈
- 実業時代 1929年11月号(6巻11号)「服部時計店の人物と事業」
- [32]日本で需用される時計が殆ど欧米の輸入品のみであるのを歎き、時計製造工業を起して外国品を駆逐する決心で明治25年本所に精工舎を起した。明治28年頃より支那・印度・南洋方面に掛時計を輸出。震災後、大正13年から15年の3年間で旧態に復し、現在の精工舎は工場敷地9,291坪、男女工約2,000名
- 『スイスを食った男たち 時計王国セイコーの100年』(1981年)
- [33]1881年12月に約150円を元手に京橋釆女町で服部時計店を創業し、輸入時計の卸・小売に力を入れた。横浜の外国商館に対し支払い日を守り、掛けで多くの商品を融通された。1883年3月の火事で全焼し、同年初夏に木挽町五丁目で再興。1892年2月に吉川鶴彦氏の技師長就任の内諾を得て本所区石原町のガラス工場を買収、従業員十数人・人力の動力で同年7月に掛時計1ダースの製造に成功。懐中時計は赤字続きで掛時計・置時計の利益を転用して生産を継続。1899年9月から欧米を視察しウォルサム社と直輸入契約、工作機械を導入し動力を25馬力から60馬力へ。1934年に死去し長男の服部玄三氏が2代目社長
参考文献3件
参考文献
- 『スイスを食った男たち 時計王国セイコーの100年』(1981年)
- セイコーグループ 有価証券報告書(2026年3月期)【沿革】
- 実業時代 1929年11月号(6巻11号)「服部時計店の人物と事業」
事実根拠:出所(セイコーグループ)