任天堂 ソニー連合との決別 64ビット機NINTENDO64の単独開発という選択

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時期 1996年6月
当時の社長 山内溥
論点 次世代ゲーム機の規格主導権とソフトの供給体制
何をなぜ決めたか
概要

任天堂はスーパーファミコン用のCD-ROM装置をソニーと共同開発していたが、CD-ROM機の主導権とソフトのライセンス権を巡って対立し、共同開発から降りた。ソニーは単独でプレイステーションを開発して1994年12月に発売する。ゲーム機の競争はハードの性能ではなくソフトの面白さで決まるとする山内溥社長のもと、任天堂は次世代機の記録媒体にCD-ROMではなくカートリッジを選び、1996年6月にNINTENDO64を単独で発売した。読み込みの速さと供給量の管理で優位に立つ一方、ソフトの製造コストと開発負担が重く、ソフト会社が離れて、次世代機のシェアはプレイステーションに逆転された経営判断。

背景

任天堂はファミリーコンピュータとスーパーファミコンで家庭用ゲーム機市場を握り、ソフトのカセットに情報を書き込んで売る事業で高い利益を上げていた。次の収益源として業界はCD-ROM機を有望視し、任天堂もスーパーファミコン用CD-ROM装置をソニーと共同開発していたが、当初はソフトのライセンス権をソニーが握る約束だった。山内溥社長は高性能・大容量を競う"ハード体質"の発想を退け、利用者が求めるのはソフトの面白さだと考えていた。

内容

任天堂がフィリップスとの提携に動いたことで争点はライセンス権の帰属となり、規格を公開して市場を広げようとするソニーと、規格を握って市場を管理しようとする任天堂が対立した。任天堂はスーパーファミコン用CD-ROM装置の計画を棚上げし、次世代機はカートリッジ式で単独開発する道を選んで、1996年6月にスーパーマリオ64と同時にNINTENDO64を発売した。流通では問屋に商品を定数割り当てる方式を導入し、ソフトの供給量を管理した。

含意

規格を開いて500を超えるソフト会社を集めたプレイステーションに対し、任天堂は規格を握って供給を管理する道を選んだ。カセットで情報を売る高採算の事業とソフトの質・量の管理は守った一方、CD-ROMの開放性に引き寄せられたソフト会社の広がりを失い、シェアはソニーに逆転された。ハードの性能競争に乗らず面白さで競うという選択は、のちのニンテンドーDSやWiiの路線へ引き継がれた。

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筆者の見解
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開かれた市場か、握った市場か

この決断の核にあるのは、ゲーム機の競争をソフトで決めるという山内溥社長の経営観と、そのソフトの供給を任天堂が握るという選択である。カートリッジ式のNINTENDO64は読み込みの速さと供給量の管理を任天堂にもたらしたが、製造コストの高さと容量の小ささが、ソフト会社にとっての参入のしやすさを損なった。規格を公開して500を超える開発者を集めたプレイステーションと、規格を握って供給を管理したNINTENDO64の違いは、ハードの性能ではなくソフトの数と幅に表れた。

任天堂が守ったのは、カセットで情報を売るという高採算の事業と、ソフトの質と量を自社で管理する仕組みだった。その代わりに失ったのが、CD-ROMの開放性に引き寄せられたソフト会社の広がりであり、次世代機のシェアはソニーに逆転された。もっとも、ハードの性能競争に乗らず、面白さと独自の遊びで競うという1990年代半ばの選択は、のちにニンテンドーDSやWiiで幅広い利用者を取り込む路線へ引き継がれた。規格を開いて数を集めるか、規格を握って質を管理するか——この決断は、その問いを家庭用ゲーム機の世代交代のたびに残した。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

業績の推移
同じ問いに直面した会社
参考文献
出典・参考
  • 日経ビジネス 1992年1月27日号
  • 日経ビジネス 1992年6月1日号
  • 日経ビジネス 1993年10月4日号
  • 日経ビジネス 1995年10月9日号
  • 日経ビジネス 1997年1月27日号
  • 任天堂 有価証券報告書【沿革】
  • 会社年鑑(任天堂・単体業績)

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