任天堂の創業が示すのは、確たる本業を持つ商家が、その収益を後ろ盾に副業として新たな事業を起こしたことである。セメント販売で得た商いの経験と資金が、生活必需品ではない娯楽商品を継続して供給する事業を支え、村井兄弟商会という他社の流通に相乗りする軽やかさが、京都の小さな工房に全国市場への道を開いた。既存の稼ぎに支えられた副業として遊技具を手がけた出発点は、後年の任天堂が新規の事業で赤字を抱えても揺らがずにいられた体質の原型と思われる。
創業から3代目就任までの60年は、山内房治郎氏、婿養子の積良氏、その孫の溥氏という血族内での承継を重ねながら、家業の手工製造が近代法人へと形を変えていく移行期であった。花札から骨牌、トランプへと札を広げ、やがて手工の遊技具そのものの市場の狭さに突き当たったとき、22歳で家業を背負った山内溥氏は、その天井を破る方へ舵を切っていく。創業その時の一手ではなく、副業として起こした遊技具の事業が世代を超えて受け継がれた事実こそが、後年の任天堂を準備したといえる。