フタバ産業:関東重工業の設立とフタバ産業への商号変更
1935年〜東京市で軍需品をつくる関東重工業と、電元社の岡崎工場跡で名乗ったフタバ産業
関東重工業は1935年3月、東京市で設立された。事業の目的は、軍需品と、自動車・航空機の部品、その他の金属器の製造販売。1935年から1945年までの記録は戦災で失われ、当時の事業の詳細は伝わっていない。1987年に社長の鈴木英男氏も、前身の関東重工業はほとんど知られていない会社だと証券アナリストに説明した。関東重工業としての事業は、戦争で受けた破壊によって続けることがほぼできなくなった。それでも関東重工業の社名は、1946年2月にフタバ産業へ改めるまで法人の名として残った。軍需と航空機に寄せた事業目的は、敗戦とともに納め先そのものを失ったのだろう。
- 証券 32(12)(381) 1980年
- [1]1935年3月、軍需品等の製造販売を目的に関東重工業(株)として東京市に設立。戦争による破壊で事業継続はほぼ不可能に
- [5]1935年3月、軍需品等の製造販売を目的に関東重工業(株)として東京市に設立。戦争による破壊で事業継続はほぼ不可能に
- フタバ産業 有価証券報告書【沿革】
- [2]1935年3月、軍需品・自動車及び航空機部品その他金属器の製造販売を目的に東京市で関東重工業を設立。1935-1945年の記録は戦災で喪失。1946年2月に社名をフタバ産業株式会社に変更
- [3]1935年3月、軍需品・自動車及び航空機部品その他金属器の製造販売を目的に東京市で関東重工業を設立。1935-1945年の記録は戦災で喪失。1946年2月に社名をフタバ産業株式会社に変更
- [6]1935年3月、軍需品・自動車及び航空機部品その他金属器の製造販売を目的に東京市で関東重工業を設立。1935-1945年の記録は戦災で喪失。1946年2月に社名をフタバ産業株式会社に変更
- 証券アナリストジャーナル 25(4) 1987年(鈴木英男 講演要旨)
- [4]前身は1935年設立の関東重工業で、ほとんど知られていない(1987年 鈴木英男社長の講演)
フタバ産業は1946年2月、本社と工場を愛知県岡崎市中町へ移し、商号を関東重工業から改めた。移転先は、人と資本の両面でつながりが深かった溶接機メーカー、電元社製作所の工場跡地である。鈴木英男氏の説明では、終戦の年に航空機の新素材や溶接を研究していた技術者と電元社の経営陣が集まり、電元社が航空機部品を生産していた岡崎の工場で事業を起こした。有価証券報告書の沿革では、法人の設立は1935年3月の関東重工業にさかのぼり、1946年2月の商号変更から岡崎での操業が始まる。社名の双葉には小さな段階から事業を育てる意図を、産業には戦後の混乱期にどの事業にも進める幅を持たせる意図を込めた。法人は戦前から引き継ぎつつ、中身は電元社の人材と設備による新会社だったとみられる。
- 証券 32(12)(381) 1980年
- [7]1946年2月、人的・資本的に関係の深い溶接機メーカー電元社製作所の工場跡地・岡崎市中町に本社・工場を移転し、フタバ産業(株)に商号変更
- [8]1946年2月、人的・資本的に関係の深い溶接機メーカー電元社製作所の工場跡地・岡崎市中町に本社・工場を移転し、フタバ産業(株)に商号変更
- 証券アナリストジャーナル 25(4) 1987年(鈴木英男 講演要旨)
- [9]終戦の年に航空機の新素材・溶接の技術者と電元社の経営者が集まり、岡崎の電元社の飛行機部品工場でスタート。社名の双葉は小さい芽から育てる、産業は混乱期に何でもやれるようにとの考え
- [11]終戦の年に航空機の新素材・溶接の技術者と電元社の経営者が集まり、岡崎の電元社の飛行機部品工場でスタート。社名の双葉は小さい芽から育てる、産業は混乱期に何でもやれるようにとの考え
- フタバ産業 有価証券報告書【沿革】
- [10]1946年2月、社名をフタバ産業株式会社に変更し、岡崎市中町で操業
参考文献[1]-[11]
- 証券 32(12)(381) 1980年
- [1]1935年3月、軍需品等の製造販売を目的に関東重工業(株)として東京市に設立。戦争による破壊で事業継続はほぼ不可能に
- [5]1935年3月、軍需品等の製造販売を目的に関東重工業(株)として東京市に設立。戦争による破壊で事業継続はほぼ不可能に
- [7]1946年2月、人的・資本的に関係の深い溶接機メーカー電元社製作所の工場跡地・岡崎市中町に本社・工場を移転し、フタバ産業(株)に商号変更
- [8]1946年2月、人的・資本的に関係の深い溶接機メーカー電元社製作所の工場跡地・岡崎市中町に本社・工場を移転し、フタバ産業(株)に商号変更
- フタバ産業 有価証券報告書【沿革】
- [2]1935年3月、軍需品・自動車及び航空機部品その他金属器の製造販売を目的に東京市で関東重工業を設立。1935-1945年の記録は戦災で喪失。1946年2月に社名をフタバ産業株式会社に変更
- [3]1935年3月、軍需品・自動車及び航空機部品その他金属器の製造販売を目的に東京市で関東重工業を設立。1935-1945年の記録は戦災で喪失。1946年2月に社名をフタバ産業株式会社に変更
- [6]1935年3月、軍需品・自動車及び航空機部品その他金属器の製造販売を目的に東京市で関東重工業を設立。1935-1945年の記録は戦災で喪失。1946年2月に社名をフタバ産業株式会社に変更
- [10]1946年2月、社名をフタバ産業株式会社に変更し、岡崎市中町で操業
- 証券アナリストジャーナル 25(4) 1987年(鈴木英男 講演要旨)
- [4]前身は1935年設立の関東重工業で、ほとんど知られていない(1987年 鈴木英男社長の講演)
- [9]終戦の年に航空機の新素材・溶接の技術者と電元社の経営者が集まり、岡崎の電元社の飛行機部品工場でスタート。社名の双葉は小さい芽から育てる、産業は混乱期に何でもやれるようにとの考え
- [11]終戦の年に航空機の新素材・溶接の技術者と電元社の経営者が集まり、岡崎の電元社の飛行機部品工場でスタート。社名の双葉は小さい芽から育てる、産業は混乱期に何でもやれるようにとの考え
1946年〜食料難を当て込んだ漁網機と、三菱重工業から請けたスクールバスのメッキ
フタバ産業が最初に生産した製品は漁網機である。電元社出身の経営陣の中に戦前から漁網機を手がけた友人がおり、食料が不足する時代なら需要が見込めると判断した。1946年2月には岡崎市中町で、漁網機と並んでパイプ製家具の生産も始めた。漁網機の事業は急激なインフレと資材の不足に苦しみ、1947年ごろに受注が増えて繁忙期を迎えたものの、1948年には早くも減少に転じた。パイプ家具では、電気抵抗の熱でパイプを局部的に加熱し、表面を傷めずに曲げる技術を使い、主に進駐軍へ納めた。戦後の再出発は、パイプ製家具などの製造販売から始まった。戦時に培った溶接と加熱加工の技術が、民生品への転換で最初の差別化要因になったと推察される。
- 証券アナリストジャーナル 25(4) 1987年(鈴木英男 講演要旨)
- [12]当初は経営者の友人が戦前漁網機を手がけ、食料難で当たるとの判断で漁網機を生産。インフレと物資不足で苦労し、1947年ごろ受注増、1948年に先細り。パイプを電気抵抗熱で局部加熱し曲げる技術でパイプ家具を作り主に進駐軍に納入
- [13]当初は経営者の友人が戦前漁網機を手がけ、食料難で当たるとの判断で漁網機を生産。インフレと物資不足で苦労し、1947年ごろ受注増、1948年に先細り。パイプを電気抵抗熱で局部加熱し曲げる技術でパイプ家具を作り主に進駐軍に納入
- [15]当初は経営者の友人が戦前漁網機を手がけ、食料難で当たるとの判断で漁網機を生産。インフレと物資不足で苦労し、1947年ごろ受注増、1948年に先細り。パイプを電気抵抗熱で局部加熱し曲げる技術でパイプ家具を作り主に進駐軍に納入
- [16]当初は経営者の友人が戦前漁網機を手がけ、食料難で当たるとの判断で漁網機を生産。インフレと物資不足で苦労し、1947年ごろ受注増、1948年に先細り。パイプを電気抵抗熱で局部加熱し曲げる技術でパイプ家具を作り主に進駐軍に納入
- フタバ産業 有価証券報告書【沿革】
- [14]1946年2月、岡崎市中町で漁網機の製作及びパイプ製家具の生産
- 証券 32(12)(381) 1980年
- [17]戦後はパイプ製家具等の製造販売により再出発
フタバ産業は1947年2月、三菱重工業の外注先として、進駐軍向けスクールバスのメッキ加工を請け負った。発注元の三菱重工業からは、のちに三菱自動車工業が分離した。同じ時期、主力の漁網機は受注の増加が一時にとどまり、1948年には減少に転じた。1948年2月には、トラックのラジエーターパイプの生産でトヨタ自動車工業との取引を始めた。1948年4月には、関係の深い電元社製作所から溶接機マルチの注文も受けた。1948年5月には、自動車部品と溶接機の生産を事業に追加。受注の経緯を記した資料は見当たらないものの、メッキの仕事が自動車メーカーとの最初の接点になったと思われる。
- 証券 32(12)(381) 1980年
- [18]1947年2月、三菱重工業(後に分離して三菱自動車工業)の外注先として進駐軍向けスクールバスのメッキ加工。1948年2月、トラックのラジエーターパイプ生産でトヨタ自動車工業と取引開始。1948年4月、電元社製作所より溶接機マルチを受注
- [19]1947年2月、三菱重工業(後に分離して三菱自動車工業)の外注先として進駐軍向けスクールバスのメッキ加工。1948年2月、トラックのラジエーターパイプ生産でトヨタ自動車工業と取引開始。1948年4月、電元社製作所より溶接機マルチを受注
- [21]1947年2月、三菱重工業(後に分離して三菱自動車工業)の外注先として進駐軍向けスクールバスのメッキ加工。1948年2月、トラックのラジエーターパイプ生産でトヨタ自動車工業と取引開始。1948年4月、電元社製作所より溶接機マルチを受注
- [22]1947年2月、三菱重工業(後に分離して三菱自動車工業)の外注先として進駐軍向けスクールバスのメッキ加工。1948年2月、トラックのラジエーターパイプ生産でトヨタ自動車工業と取引開始。1948年4月、電元社製作所より溶接機マルチを受注
- 証券アナリストジャーナル 25(4) 1987年(鈴木英男 講演要旨)
- [20]漁網機は1947年ごろ受注増で繁忙期もあったが、1948年には先細り
- フタバ産業 有価証券報告書【沿革】
- [23]1948年5月、自動車部品の生産及び溶接機の生産
参考文献[12]-[23]
- 証券アナリストジャーナル 25(4) 1987年(鈴木英男 講演要旨)
- [12]当初は経営者の友人が戦前漁網機を手がけ、食料難で当たるとの判断で漁網機を生産。インフレと物資不足で苦労し、1947年ごろ受注増、1948年に先細り。パイプを電気抵抗熱で局部加熱し曲げる技術でパイプ家具を作り主に進駐軍に納入
- [13]当初は経営者の友人が戦前漁網機を手がけ、食料難で当たるとの判断で漁網機を生産。インフレと物資不足で苦労し、1947年ごろ受注増、1948年に先細り。パイプを電気抵抗熱で局部加熱し曲げる技術でパイプ家具を作り主に進駐軍に納入
- [15]当初は経営者の友人が戦前漁網機を手がけ、食料難で当たるとの判断で漁網機を生産。インフレと物資不足で苦労し、1947年ごろ受注増、1948年に先細り。パイプを電気抵抗熱で局部加熱し曲げる技術でパイプ家具を作り主に進駐軍に納入
- [16]当初は経営者の友人が戦前漁網機を手がけ、食料難で当たるとの判断で漁網機を生産。インフレと物資不足で苦労し、1947年ごろ受注増、1948年に先細り。パイプを電気抵抗熱で局部加熱し曲げる技術でパイプ家具を作り主に進駐軍に納入
- [20]漁網機は1947年ごろ受注増で繁忙期もあったが、1948年には先細り
- フタバ産業 有価証券報告書【沿革】
- [14]1946年2月、岡崎市中町で漁網機の製作及びパイプ製家具の生産
- [23]1948年5月、自動車部品の生産及び溶接機の生産
- 証券 32(12)(381) 1980年
- [17]戦後はパイプ製家具等の製造販売により再出発
- [18]1947年2月、三菱重工業(後に分離して三菱自動車工業)の外注先として進駐軍向けスクールバスのメッキ加工。1948年2月、トラックのラジエーターパイプ生産でトヨタ自動車工業と取引開始。1948年4月、電元社製作所より溶接機マルチを受注
- [19]1947年2月、三菱重工業(後に分離して三菱自動車工業)の外注先として進駐軍向けスクールバスのメッキ加工。1948年2月、トラックのラジエーターパイプ生産でトヨタ自動車工業と取引開始。1948年4月、電元社製作所より溶接機マルチを受注
- [21]1947年2月、三菱重工業(後に分離して三菱自動車工業)の外注先として進駐軍向けスクールバスのメッキ加工。1948年2月、トラックのラジエーターパイプ生産でトヨタ自動車工業と取引開始。1948年4月、電元社製作所より溶接機マルチを受注
- [22]1947年2月、三菱重工業(後に分離して三菱自動車工業)の外注先として進駐軍向けスクールバスのメッキ加工。1948年2月、トラックのラジエーターパイプ生産でトヨタ自動車工業と取引開始。1948年4月、電元社製作所より溶接機マルチを受注
出典・参考
3件
- フタバ産業 有価証券報告書【沿革】
- 証券アナリストジャーナル 25(4) 1987年(鈴木英男 講演要旨)
- 証券 32(12)(381) 1980年