愛三工業の歴史

更新:

沿革

1938〜2026年 1938年に軍需品の製造を目的に名古屋市瑞穂区で設立された会社が起源。1945年にキャブレタの生産を始め、1984年にインジェクタ、2014年には燃料電池車向け水素インジェクタの生産を開始した。
トヨタ系の燃料系部品メーカーで、スロットルボデーは2015年に世界シェア首位となった。

沿革

1938年に軍需品の製造を目的に名古屋市瑞穂区で設立された会社が起源。

1945年にキャブレタの生産を始め、1984年にインジェクタ、2014年には燃料電池車向け水素インジェクタの生産を開始した。
トヨタ系の燃料系部品メーカーで、スロットルボデーは2015年に世界シェア首位となった。

創業期1938年〜名古屋市瑞穂区での設立と堀田工場の操業

  1. 軍需品の製造を目的に名古屋市瑞穂区で設立
  2. 堀田工場の操業開始
歴史「第1章」を読む陸軍造兵廠名古屋工廠の特殊兵器の内命と、3社が資本金50万円を出し合った愛三工業
愛三工業売上高—

転換期1945年〜キャブレタによる自動車部品への転換と名古屋証券取引所上場

  1. 終戦により工場を一時閉鎖
  2. キャブレタなど自動車部品の生産開始
  3. 紡織機部品の生産開始
  4. 自転車用エンジン「アイサンモータ」を発売
  5. 家庭用プロパンガスレギュレータの発売
  6. 本社および工場を大府市へ移転
  7. エンジンバルブの生産開始
  8. LPGレギュレータの生産開始
  9. PCVバルブの生産開始
  10. テイケイ気化器を子会社化
  11. 安城工場の操業開始
  12. キャニスタの生産開始
  13. メカニカル燃料ポンプの生産開始
  14. 名古屋証券取引所市場第二部に上場
  15. スロットルボデーの生産開始
愛三工業売上高—

成長期1983年〜電動燃料ポンプと燃料ポンプモジュールによる燃料系の拡大

  1. 電動燃料ポンプの生産開始
  2. インジェクタの生産開始
  3. 米国ケンタッキー州に生産会社を設立
  4. 豊田工場の操業開始
  5. トヨタ自動車からエンジン適合業務を受託
  6. インドネシアに生産会社を設立
  7. 韓国の玄潭産業に資本参加
  8. 燃料ポンプモジュールの生産開始
  9. 東京証券取引所市場第二部に上場
  10. 電子スロットルボデーの生産開始
  11. 東京・名古屋証券取引所市場第一部に上場
  12. 小型二輪車用燃料噴射システムを開発
  13. 中国天津に生産会社を設立
  14. メキシコに生産会社を設立
愛三工業2013年3月期売上高1,703億円売上高経常利益率4.8%

安定成長期2014年〜燃料電池車向け水素インジェクタとデンソーからの事業譲受

  1. 燃料電池車向け水素インジェクタの生産開始
  2. スロットルボデーが世界シェア首位
  3. LPGハイブリッド燃料系システムの生産開始
  4. デンソーから燃料ポンプモジュール事業を譲受
  5. 「Aisanみらい工場」の竣工
  6. アイサンオートパーツインディアを合併で解散
  7. 野村得之氏が代表取締役社長を退任
  8. テイケイ気化器との株式交換を決定
  9. 加藤貴己氏が代表取締役社長に就任
愛三工業2026年3月期売上高3,308億円売上高経常利益率5.8%

第1章 1938年〜 名古屋市瑞穂区での設立と堀田工場の操業

1938年〜陸軍造兵廠名古屋工廠の特殊兵器の内命と、3社が資本金50万円を出し合った愛三工業

藤田製作所は1938年5月10日、擲弾筒を発注するという内命を陸軍造兵廠名古屋工廠より受けた。藤田製作所は、名古屋市昭和区で紡織機部品を製造し、豊田自動織機製作所と平田紡績に納める協力工場。しかし藤田製作所には内命に応じるだけの生産の余力がなく、外部の資本を招いて別会社で受注する方針を決めた。社長の藤田辰治郎氏が豊田自動織機製作所と平田紡績に設立を持ちかけ、両社が同意した。名古屋工廠長の木村弘人氏は1939年の竣工式の祝辞で、国内の整備能力が低い特殊兵器の専門工場を軍が要望した経緯を述べた。軍が求めたのは下請工場の増産ではなく専用の工場であり、出資者を広げた新会社はその要求に沿う手立てだったとみられる。

  • 愛三工業35年史(1973)コマ1-50
    • [1]1938年5月10日、陸軍造兵廠名古屋工廠が藤田製作所に擲弾筒(特殊兵器)発注の内命を出した
    • [2]藤田製作所は名古屋市昭和区にあり、豊田自動織機製作所・平田紡績の協力工場として紡織機部品を製造していた
    • [3]藤田製作所には生産余力がなく、有力資本の参加で別会社を設立して内命を受けると決め、藤田辰治郎が豊田自動織機製作所・平田紡績と協議し両社が同意した
    • [4]藤田製作所には生産余力がなく、有力資本の参加で別会社を設立して内命を受けると決め、藤田辰治郎が豊田自動織機製作所・平田紡績と協議し両社が同意した
  • 愛三工業35年史(1973)所収 陸軍造兵廠名古屋工廠長祝辞(1939年5月22日)
    • [5]工廠長木村弘人の祝辞(1939年5月22日):技術精度の関係で国内整備能力が低い某特殊兵器の専門工場新設を要望し、快諾を得た

愛三工業は1938年12月1日、名古屋市昭和区の藤田製作所の社内で創立総会を行って発足した。資本金は50万円、本店は名古屋市瑞穂区で、事業の目的は軍需品の製造である。創立総会は藤田辰治郎氏を代表取締役社長に選び、総会後の取締役会は豊田利三郎氏と伊藤伝七氏を相談役に推した。株式1万株を23名が引き受け、最大の株主は1,200株の豊田自動織機製作所で、藤田製作所・平田佐矩氏・鈴木藤兵衛氏が各1,000株で続いた。社名の愛三は、出資者が全員愛知か三重の出身だったので、両県の頭文字を1字ずつ取って付けた。豊田系と三重の紡績資本が藤田製作所を支える出資の構図が、社名にそのまま刻まれたといえる。

  • 愛三工業35年史(1973)コマ1-50
    • [6]1938年12月1日、藤田製作所内(名古屋市昭和区二野町)で創立総会を開き愛三工業株式会社が誕生。社名は出資者の出身地愛知・三重両県の頭文字から
    • [8]創立総会で藤田辰治郎を代表取締役・取締役社長に選任、取締役会で相談役に豊田利三郎・伊藤伝七を推薦
    • [9]創立時株主23名・1万株。豊田自動織機製作所1,200株、藤田製作所・平田佐矩・鈴木藤兵衛各1,000株
    • [10]1938年12月1日、藤田製作所内(名古屋市昭和区二野町)で創立総会を開き愛三工業株式会社が誕生。社名は出資者の出身地愛知・三重両県の頭文字から
  • 愛三工業 有価証券報告書【沿革】
    • [7]1938年12月、資本金50万円で軍需品の製造を目的に名古屋市瑞穂区に設立
参考文献[1]-[10]
  • 愛三工業35年史(1973)コマ1-50
    • [1]1938年5月10日、陸軍造兵廠名古屋工廠が藤田製作所に擲弾筒(特殊兵器)発注の内命を出した
    • [2]藤田製作所は名古屋市昭和区にあり、豊田自動織機製作所・平田紡績の協力工場として紡織機部品を製造していた
    • [3]藤田製作所には生産余力がなく、有力資本の参加で別会社を設立して内命を受けると決め、藤田辰治郎が豊田自動織機製作所・平田紡績と協議し両社が同意した
    • [4]藤田製作所には生産余力がなく、有力資本の参加で別会社を設立して内命を受けると決め、藤田辰治郎が豊田自動織機製作所・平田紡績と協議し両社が同意した
    • [6]1938年12月1日、藤田製作所内(名古屋市昭和区二野町)で創立総会を開き愛三工業株式会社が誕生。社名は出資者の出身地愛知・三重両県の頭文字から
    • [8]創立総会で藤田辰治郎を代表取締役・取締役社長に選任、取締役会で相談役に豊田利三郎・伊藤伝七を推薦
    • [9]創立時株主23名・1万株。豊田自動織機製作所1,200株、藤田製作所・平田佐矩・鈴木藤兵衛各1,000株
    • [10]1938年12月1日、藤田製作所内(名古屋市昭和区二野町)で創立総会を開き愛三工業株式会社が誕生。社名は出資者の出身地愛知・三重両県の頭文字から
  • 愛三工業35年史(1973)所収 陸軍造兵廠名古屋工廠長祝辞(1939年5月22日)
    • [5]工廠長木村弘人の祝辞(1939年5月22日):技術精度の関係で国内整備能力が低い某特殊兵器の専門工場新設を要望し、快諾を得た
  • 愛三工業 有価証券報告書【沿革】
    • [7]1938年12月、資本金50万円で軍需品の製造を目的に名古屋市瑞穂区に設立

1939年〜従業員約80名で動き出した堀田工場と、石田退三氏が社長を継いだ戦時の増産

工場用地は名古屋市瑞穂区熱田東町字呼続の4,353坪で、1938年9月16日に隣接する小野田セメントと売買契約を結んで確保した。軍の内命に基づく建設だったので、国家総動員体制の下でも機械の取得と施設の整備は予定どおり進んだ。設立時は工場が建設の途中だったので、愛三工業はひとまず藤田製作所内で紡織機部品の製造機械2台を改造し、擲弾筒の製造を始めた。新工場は1939年4月5日に試運転に入り、5月23日に通称堀田工場で操業開始。操業時の人員は約80名で、資材は全量を陸軍造兵廠が有償で支給した。軍が設備と資材の調達を後押ししたので、設立から半年足らずで自前の工場を持てたのだろう。

  • 愛三工業35年史(1973)コマ1-50
    • [11]用地は小野田セメントから瑞穂区熱田東町字呼続の4,353坪を譲受(1938年9月16日契約)。軍の内命に基づくため機械取得・施設整備は順調。設立後も工場建設途上のため藤田製作所内で紡織機部品製造機械2台を改造し擲弾筒を製造
    • [12]用地は小野田セメントから瑞穂区熱田東町字呼続の4,353坪を譲受(1938年9月16日契約)。軍の内命に基づくため機械取得・施設整備は順調。設立後も工場建設途上のため藤田製作所内で紡織機部品製造機械2台を改造し擲弾筒を製造
    • [13]用地は小野田セメントから瑞穂区熱田東町字呼続の4,353坪を譲受(1938年9月16日契約)。軍の内命に基づくため機械取得・施設整備は順調。設立後も工場建設途上のため藤田製作所内で紡織機部品製造機械2台を改造し擲弾筒を製造
  • 愛三工業35年史(1973)コマ51-100
    • [14]1939年4月5日試運転、5月23日新工場(堀田工場)で生産開始。従業員約80名、資材はすべて陸軍造兵廠から有償支給
    • [15]1939年4月5日試運転、5月23日新工場(堀田工場)で生産開始。従業員約80名、資材はすべて陸軍造兵廠から有償支給

操業直後の堀田工場は機構の不備と従業員の不足を抱え、1939年4月20日施行の従業員雇入制限令で人員の補充も進まなかった。それでも設立の計画直後から藤田製作所内で試作を重ねていたので、生産は順次量産に移行した。1941年12月8日に太平洋戦争が始まると、愛三工業は軍の指導の下で増産を続けた。愛三工業は1944年1月に東海飛行機、2月に三菱重工業名古屋航空機製作所から協力工場の指定を受け、6月には軍の管理工場の指定。1945年5月の名古屋空襲で本社工場の一部が作業不能になった後も生産を続け、8月の終戦で工場を一時閉鎖した。兵器の専門工場から航空機の協力工場へ役割が広がり、機械加工の基盤が戦時中に厚くなったと思われる。

  • 愛三工業35年史(1973)コマ51-100
    • [16]操業当初は機構の不備・従業員不足。従業員雇入制限令(1939年4月20日施行)で充足できず。藤田製作所内で試作を重ねていたため生産は逐次軌道に乗った
    • [17]操業当初は機構の不備・従業員不足。従業員雇入制限令(1939年4月20日施行)で充足できず。藤田製作所内で試作を重ねていたため生産は逐次軌道に乗った
    • [18]1941年12月8日の太平洋戦争突入後、軍指導の下で増産。1944年1月東海飛行機、2月三菱重工業名古屋航空機製作所の協力工場、6月軍管理工場に指定
    • [19]1941年12月8日の太平洋戦争突入後、軍指導の下で増産。1944年1月東海飛行機、2月三菱重工業名古屋航空機製作所の協力工場、6月軍管理工場に指定
  • 愛三工業35年史(1973)コマ1-50
    • [20]1945年5月の名古屋空襲で本社工場が一部作業不能となったが生産を続行し、8月15日の終戦で工場を一時閉鎖

1942年12月、豊田自動織機製作所で常務を務めていた石田退三氏が寺田春蔵氏とともに愛三工業の取締役に就任し、岡部岩太郎氏は取締役を辞任した。1944年3月、創立以来社長を務めた藤田辰治郎氏が退任し、石田退三氏が豊田自動織機製作所の常務と兼ねて社長の座に就いた。同時に武内治資氏が専務取締役に選ばれ、田中忠治氏・河原潤次氏・小清水団重氏の3名が取締役に加わった。豊田自動織機製作所は設立時から1,200株を持つ最大の株主だった。石田退三氏は終戦直後の1945年9月、豊田自動織機製作所にあったキャブレタ製造の設備を愛三工業へ移す方針を示した。社史は交代の理由を記していないものの、最大株主から経営者を迎えた人事が戦後の業態転換を早めたと推察される。

  • 愛三工業35年史(1973)コマ51-100
    • [21]1942年12月に豊田自動織機製作所常務の石田退三と寺田春蔵が取締役就任、岡部岩太郎辞任。1944年3月の社長交代時に武内治資が専務、田中忠治・河原潤次・小清水団重が取締役に。1945年9月、石田社長がキャブレタ製造設備の移設方針を示した
    • [23]1942年12月に豊田自動織機製作所常務の石田退三と寺田春蔵が取締役就任、岡部岩太郎辞任。1944年3月の社長交代時に武内治資が専務、田中忠治・河原潤次・小清水団重が取締役に。1945年9月、石田社長がキャブレタ製造設備の移設方針を示した
    • [25]1942年12月に豊田自動織機製作所常務の石田退三と寺田春蔵が取締役就任、岡部岩太郎辞任。1944年3月の社長交代時に武内治資が専務、田中忠治・河原潤次・小清水団重が取締役に。1945年9月、石田社長がキャブレタ製造設備の移設方針を示した
  • 愛三工業35年史(1973)コマ1-50
    • [22]1944年3月11日、藤田辰治郎が取締役社長を退任し、豊田自動織機製作所常務取締役の石田退三が社長を兼任(石田の略歴では1944年2月社長就任)
    • [24]創立時の株主構成で豊田自動織機製作所が1,200株と最大
参考文献[11]-[25]
  • 愛三工業35年史(1973)コマ1-50
    • [11]用地は小野田セメントから瑞穂区熱田東町字呼続の4,353坪を譲受(1938年9月16日契約)。軍の内命に基づくため機械取得・施設整備は順調。設立後も工場建設途上のため藤田製作所内で紡織機部品製造機械2台を改造し擲弾筒を製造
    • [12]用地は小野田セメントから瑞穂区熱田東町字呼続の4,353坪を譲受(1938年9月16日契約)。軍の内命に基づくため機械取得・施設整備は順調。設立後も工場建設途上のため藤田製作所内で紡織機部品製造機械2台を改造し擲弾筒を製造
    • [13]用地は小野田セメントから瑞穂区熱田東町字呼続の4,353坪を譲受(1938年9月16日契約)。軍の内命に基づくため機械取得・施設整備は順調。設立後も工場建設途上のため藤田製作所内で紡織機部品製造機械2台を改造し擲弾筒を製造
    • [20]1945年5月の名古屋空襲で本社工場が一部作業不能となったが生産を続行し、8月15日の終戦で工場を一時閉鎖
    • [22]1944年3月11日、藤田辰治郎が取締役社長を退任し、豊田自動織機製作所常務取締役の石田退三が社長を兼任(石田の略歴では1944年2月社長就任)
    • [24]創立時の株主構成で豊田自動織機製作所が1,200株と最大
  • 愛三工業35年史(1973)コマ51-100
    • [14]1939年4月5日試運転、5月23日新工場(堀田工場)で生産開始。従業員約80名、資材はすべて陸軍造兵廠から有償支給
    • [15]1939年4月5日試運転、5月23日新工場(堀田工場)で生産開始。従業員約80名、資材はすべて陸軍造兵廠から有償支給
    • [16]操業当初は機構の不備・従業員不足。従業員雇入制限令(1939年4月20日施行)で充足できず。藤田製作所内で試作を重ねていたため生産は逐次軌道に乗った
    • [17]操業当初は機構の不備・従業員不足。従業員雇入制限令(1939年4月20日施行)で充足できず。藤田製作所内で試作を重ねていたため生産は逐次軌道に乗った
    • [18]1941年12月8日の太平洋戦争突入後、軍指導の下で増産。1944年1月東海飛行機、2月三菱重工業名古屋航空機製作所の協力工場、6月軍管理工場に指定
    • [19]1941年12月8日の太平洋戦争突入後、軍指導の下で増産。1944年1月東海飛行機、2月三菱重工業名古屋航空機製作所の協力工場、6月軍管理工場に指定
    • [21]1942年12月に豊田自動織機製作所常務の石田退三と寺田春蔵が取締役就任、岡部岩太郎辞任。1944年3月の社長交代時に武内治資が専務、田中忠治・河原潤次・小清水団重が取締役に。1945年9月、石田社長がキャブレタ製造設備の移設方針を示した
    • [23]1942年12月に豊田自動織機製作所常務の石田退三と寺田春蔵が取締役就任、岡部岩太郎辞任。1944年3月の社長交代時に武内治資が専務、田中忠治・河原潤次・小清水団重が取締役に。1945年9月、石田社長がキャブレタ製造設備の移設方針を示した
    • [25]1942年12月に豊田自動織機製作所常務の石田退三と寺田春蔵が取締役就任、岡部岩太郎辞任。1944年3月の社長交代時に武内治資が専務、田中忠治・河原潤次・小清水団重が取締役に。1945年9月、石田社長がキャブレタ製造設備の移設方針を示した

API for AI Agents — 認証不要、URLをGETするだけで機械可読なJSONをトークン消費を抑えつつ取得できます。

出典・参考 4件
出典・参考
  • 愛三工業 有価証券報告書【沿革】
  • 愛三工業35年史(1973)コマ1-50
  • 愛三工業35年史(1973)所収 陸軍造兵廠名古屋工廠長祝辞(1939年5月22日)
  • 愛三工業35年史(1973)コマ51-100

免責事項およびポリシー