1933年に鮎川義介が日産財閥の資本力を背景に自動車製造株式会社として設立。戦後は英オースチンとの技術提携で乗用車技術を導入し、ブルーバード・サニーなどの量産車で国内第2位の地位を確立した。1990年代に販売不振で経営危機に陥り、1999年にルノーとの提携でカルロス・ゴーンが就任。日産リバイバルプランで再建を果たしたが、2018年のゴーン逮捕後に再び業績が悪化し、ホンダとの経営統合協議など再建の模索が続く。
歴史概略
第1期: 財閥系自動車メーカーの誕生と成長(1933〜1970)
鮎川義介による自動車量産への挑戦
1930年代の日本国内の自動車市場は米フォードとGMの輸入車に席巻されていた。日産財閥の創業者・鮎川義介は「年に1万台や1.5万台を造らなければ事業にならない」と量産を前提とした参入を決断し、1933年12月に自動車製造株式会社を設立した。傘下の戸畑鋳物が保有する小型車「ダットサン」の事業を足がかりとし、翌1934年に日産自動車に商号変更。横浜工場を新設してダットサンの量産を開始した。
1936年には自動車製造事業法の指定会社となり、トヨタ・いすゞとともに国策メーカーとしての地位を得た。戦時中は軍用トラックの生産に従事し、疎開工場として静岡県に吉原工場を新設。財閥の資本力を後ろ盾に、輸入車に対抗する国産量産メーカーとしての基盤を築いた。
オースチン提携とブルーバードの誕生
戦後の技術的空白を埋めるため、1952年12月に英オースチン社と技術提携を締結した。浅原源七社長は「世界の水準から見れば田舎者である」との認識のもと、ノックダウン生産と段階的な部品国産化による技術導入を選択。ロイヤリティ3.5%の対価で図面・仕様書の全面開示を獲得し、鶴見工場でA40の組立を開始した。この技術蓄積を基盤に1959年に自社開発の「ダットサンブルーバード」を発売、販売は好調に推移した。
1962年に乗用車専門工場として追浜工場を新設。旧海軍の追浜基地跡地に年産12万台の能力を確保し、ワシントン輸出入銀行から約50億円の借款を調達して139億円を投じた。1966年にはプリンス自動車を合併してシェア36%(単純合算)を目指したが、トヨタがカローラで対抗し首位奪取には至らなかった。
第2期: グローバル展開と経営危機(1971〜2002)
海外生産の開始と国内工場網の拡大
1970年にフォード・マツダとの3社合弁で日本自動変速機(ジャトコ)を設立し、AT関連特許の問題を解消して輸出車へのAT搭載を可能にした。1971年に栃木工場、1977年に九州工場を新設して国内生産拠点を拡充するとともに、1980年に北米、1981年に欧州で現地生産を開始。グローバルな生産体制を構築していった。
1960年の米国日産設立以降、北米市場は日産の海外事業の柱であった。しかしトヨタとの国内シェア競争では一貫して第2位にとどまり、モデル末期の販売落ち込みの大きさやサービス体制の不備が慢性的な課題として認識されていた。
販売不振と経営危機——ルノーとの提携
1993年3月期に日産自動車は経常赤字に転落した。円高と国内販売の低迷が重なり、国内工場の稼働率は80%以下に低下。1995年に座間工場の車両生産を中止し年産能力を270万台から230万台に削減したが、根本的な改善には至らなかった。1999年3月にルノーとの提携を締結し、カルロス・ゴーンが社長に就任。同年10月に「日産リバイバルプラン」を策定した。
計画では5工場の閉鎖と2.1万名の人員削減を含む1兆円のコスト削減を実行。2000年3月期には構造改革費用を含む6,843億円の過去最大の純損失を計上したが、2001年3月期に黒字化を達成した。村山工場の車両生産中止を含む国内再編を完了し、2003年以降は北米のキャントン工場と中国の東風汽車との合弁で海外展開を本格化させた。
第3期: ゴーン後の迷走と再建の模索(2003〜現在)
海外依存の収益構造とゴーン逮捕
日産リバイバルプラン以降、日産は日本国内の販売低迷を北米・中国の海外販売で補う収益構造へ移行した。2009年に本社を41年ぶりに横浜に移転し、2016年には三菱自動車と戦略的提携を締結。2017年にはカルソニックカンセイをKKRに売却し1,150億円の売却益を計上するなど、ポートフォリオの入れ替えを進めた。
しかし2018年11月にカルロス・ゴーン会長が逮捕され、経営の求心力が急速に低下した。新車投入サイクルの一巡と北米・中国での販売不振が重なり、2020年3月期に6,712億円の最終赤字を計上。ルノーによる再建直前に匹敵する規模の損失であった。
ルノーとの関係再編と経営統合協議
2023年7月にルノーと新アライアンス契約を締結し、ルノーの出資比率を43.4%から15%台へ段階的に引き下げることで合意した。保有株式の28.4%を信託会社に移管し、日産はルノーとの資本関係を対等に近づける方向へ舵を切った。
しかし販売台数の低迷は続き、グローバルで500万台の生産能力に対して実績は320万台、稼働率は64%に落ち込んだ。2024年11月にグローバルで約9,000名の人員削減を決定し、同年12月にはホンダ・三菱自動車との3社経営統合の協議開始が公表された。国内第2位の自動車メーカーとしての独立経営の維持が問われる局面にある。
日産自動車の創業は、新興財閥の資本力を背景に自動車の量産に挑んだ事業投資であった。鮎川義介氏は「年に数百台では事業にならない」と量産を前提とした参入を志向し、日産財閥の傘下企業が稼いだ収益を自動車事業に投下する戦略をとった。輸入車が席巻する国内市場において、国産メーカーとして量産体制を構築するという挑戦は、国防上の要請と産業育成の両面から支持された。