1930年代初頭の国内自動車市場では、日本フォードと日本ゼネラル・モーターズの組立車が大半を占めていた。日産自動車の源流は、橋本増治郎氏が1911年に設立した快進社自動車工場にさかのぼる。同社は1914年にDAT号を完成させ、車名は出資者である田健治郎氏・青山禄郎氏・竹内明太郎氏の頭文字を並べたものだった。快進社は合資会社ダット自動車商会へ改組したのち実用自動車製造と合併してダット自動車製造となり、1910年に鮎川義介氏が設立した戸畑鋳物がその株式の大半を買収した。ダット自動車製造は1931年から小型車を"ダットソン"の名で生産し、翌1932年に"ダットサン"と改めて全国へ売り出していた。
1933年12月、日本産業と戸畑鋳物の共同出資により、資本金1000万円の自動車製造株式会社が横浜市神奈川区宝町に設立された。鮎川氏は戸畑工場を足場に、特殊鋼の安来、電装品の戸塚、ダット自動車といった工場を買収したうえで横浜に新工場を起こしている。その建設では米国のグラハムページ社と結び、図面一式とノウハウ、遊休設備一式を買い受け、多数の米国人技術者を招いて生産開始まで指導を受けた。外国技術には学ぶが導入はしないという方針をとったトヨタとは、出発点から行き方が異なっていた。1934年5月に横浜工場が完成し、6月には社名を日産自動車へ改めている。翌1935年4月、横浜工場で一貫生産による第一号車がラインを離れた。
https://the-shashi.com/api/companies.json https://the-shashi.com/api/decisions.json https://the-shashi.com/api/api-manifest.json https://the-shashi.com/api/7201/company.json https://the-shashi.com/api/7201/history.json https://the-shashi.com/api/7201/ceo.json https://the-shashi.com/api/7201/financials.json https://the-shashi.com/api/7201/financials/segment.json https://the-shashi.com/api/7201/financials/pl.json https://the-shashi.com/api/7201/financials/cf.json https://the-shashi.com/api/7201/financials/bs.json https://the-shashi.com/api/7201/financials/employee.json https://the-shashi.com/api/7201/financials/stock.json https://the-shashi.com/api/7201/financials.csv https://the-shashi.com/api/7201/financials_history.csv | 時代 | 年月 | 社長・CEO | 出来事 | 重要度 |
|---|---|---|---|---|
| 1911〜1944年ダット号の系譜と、技術を買って始めた量産 | 自動車製造を設立 | ★ | ||
| 横浜工場を新設 | ★ | |||
| 自動車製造事業法で指定会社 | ★ | |||
| 1945〜1973年オースチン提携による技術の立て直しと、輸出主導への転換 | 浅原源七 | 東京証券取引所に株式上場 | ★ | |
| 浅原源七 | オースチン社と提携 | ★★ | ||
| 浅原源七 | 日産自動車労働組合が発足 | ★ | ||
| 川又克二 | 乗用車「ブルーバード」を発売 | ★ | ||
| 川又克二 | 米国日産自動車を設立 | ★ | ||
| 川又克二 | 追浜工場を新設・乗用車専門工場 | ★ | ||
| 川又克二 | 座間工場を新設 | ★ | ||
| 川又克二 | 大衆乗用車「サニー」を発表 | ★ | ||
| 川又克二 | 同業他社の取り込みによる、乗用車事業の一段の規模拡大 1966年8月、日産自動車がプリンス自動車工業を吸収する形で両社が合併した、戦後日本の自動車再編の先駆けとなった案件。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 川又克二 | 日本自動変速機を設立(ジャトコ) | ★ | ||
| 川又克二 | 栃木工場を新設 | ★ | ||
| 1974〜1998年現地生産への傾斜と、なれあい労使が残した過剰 | 石原俊 | 九州工場を新設 | ★ | |
| 石原俊 | 現地生産を開始 | ★ | ||
| 石原俊 | 現地生産を開始 | ★ | ||
| 石原俊 | 決断——石原俊氏と労連会長・塩路一郎氏の攻防 1980年代前半、石原俊社長のもとで日産が英国サンダーランドでの乗用車現地生産に踏み切った経営判断。貿易摩擦で完成車輸出の壁が高まるなか現地生産を"トヨタを追い越す好機"と位置づけたが、その進め方は国内の空洞化を警戒する自動車労連・塩路一郎会長との労使対立を頂点まで高めた。 工場は1986年7月にブルーバードの生産を開始し、1988年10月から欧州大陸への輸出に移った。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 久米豊 | 官僚体質の解体と労使関係の結び直しによる構造不況体質からの脱却 1985年6月に社長へ就任した久米豊氏が全社員へ掲げた言葉は「流れを変えよう」である。重点課題は商品開発力と国内販売体制の強化、そして海外事業の推進の3つだった。着手したのは財務のリストラではなく、会社の体質そのものだった。 上司を「さん」づけで呼ぶ社内運動から、本給の4割を能力給へ切り替える賃金体系の組み替え、労使関係の結び直しまでが2年のあいだに動いた。フレックスタイム制の導入や女子社員の制服廃止も、硬直した上下関係に風穴をあける試みだった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 辻義文 | 主力拠点の車両生産打ち切りと、規模の拡大を追わない事業構造への転換 1993年2月、日産自動車は座間工場の車両生産中止を中核とする合理化計画を発表した。国内の年産能力を270万台から230万台へ削り、5,000人を減らして、年産200万台で利益が出る体制を目指す内容である。組立工場の閉鎖は日本の自動車産業で初めてのことだった。 座間で生産していたサニーは九州工場へ、プレセアは村山工場へ移し、75%まで低下していた他工場の稼働率を90%へ引き上げる。車両生産が実際に終わったのは1995年3月で、1965年5月の完成から30年だった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 辻義文 | 販売不振で赤字転落 | ★★ | ||
| 辻義文 | いわき工場を新設 | ★ | ||
| 1999〜2026年ルノーの規律による再建と、規模を追った果ての縮小 | 塙義一 | ルノーと資本参加を含む提携契約を締結 | ★ | |
| 塙義一 | 仏大手の出資の受け入れと、再建計画に賭けた立て直し 1999年、長年の販売不振と巨額の有利子負債で行き詰まった日産自動車が、仏ルノーとの資本提携を受け入れ、送り込まれたカルロス・ゴーン氏の主導で"日産リバイバルプラン"を断行した経営判断。ルノーは5,857億円を投じて株式の36.8%を取得し、44.4%まで引き上げられる新株引受権を併せて引き受けた。国内5工場の閉鎖や系列の解体を含む聖域なき再建によって、一期で黒字へ転じた。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 塙義一 | 過去最大の赤字に転落 | ★★ | ||
| カルロス・ゴーン | カルロス・ゴーン氏が取締役社長に就任 | ★ | ||
| カルロス・ゴーン | 村山工場で車両生産を中止 | ★ | ||
| カルロス・ゴーン | ルノーが追加出資 | ★ | ||
| カルロス・ゴーン | グローバル展開を本格化・北米と中国に積極投資 | ★ | ||
| カルロス・ゴーン | 本社を移転 | ★ | ||
| カルロス・ゴーン | 三菱自動車と戦略的協力で提携 | ★ | ||
| カルロス・ゴーン | カルソニックカンセイを売却 | ★★ | ||
| 西川廣人 | 国内全工場の出荷停止と大規模リコールに至った、量産体制への信頼の失墜 2017年9月、国土交通省の立入検査で、日産自動車の国内全6工場において無資格の従業員が新車の完成検査を担っていた事実が発覚した。同社は約116万台・38車種のリコールを届け出たうえ、是正後も検査が続いていたことが判明したため、10月に国内向け全車両の出荷を止めた経営判断である。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 西川廣人 | 一人に集まった権力の解体と、指名委員会等設置会社への移行 2018年11月19日、東京地検特捜部が金融商品取引法違反(有価証券報告書の虚偽記載)の疑いで日産自動車のカルロス・ゴーン会長を逮捕し、日産は3日後の11月22日付で、同氏を会長職および代表職から解職した経営判断。V字回復の立役者であり、ルノー・日産・三菱の3社連合を率いたカリスマの退場劇であった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 内田誠 | 最終赤字に転落 | ★ | ||
| 内田誠 | ルノーと新アライアンス契約を締結 | ★★ | ||
| 内田誠 | 全世界で人員削減 | ★★ | ||
| 内田誠 | 経営の一体化構想へ踏み込みながら二カ月弱で引き返した判断 2024年12月23日、ホンダは日産自動車との経営統合に向けた検討で基本合意した。統合は2026年の夏に予定され、ホンダは同じ日の取締役会で上限1兆1,000億円の自己株式取得も決議している。しかし統合の枠組みをめぐる隔たりが埋まらず、2025年2月13日に基本合意書を解約して協議を終えた。三部敏宏社長のもとでの、自主独立路線の一時転換と撤回である。 詳細を読む | ★★★ | ||
| イヴァン・エスピノーサ | 2万人規模の人員削減と生産体制の縮小に踏み込んだ経営再建計画 2025年5月、日産自動車がイヴァン・エスピノーサ社長のもとで経営再建計画「Re:Nissan」を発表し、2027年度までに世界の車両生産工場を17から10へ減らして7拠点を統廃合し、2024年度から2027年度にかけて計20,000人の人員を削減すると決めた経営判断。生産能力は2027年度までに年間250万台まで削り、需要の増加に合わせて50万台の上方弾力性を持たせる。 掲げたのは、2024年度の実績比で固定費と変動費を計5,000億円削減し、2026年度までに自動車事業の営業利益とフリーキャッシュフローを黒字化することだった。米国関税の影響はこの目標から除いている。 詳細を読む | ★★★ |
免責事項およびポリシー
事実根拠:出所(日産自動車)