オリエンタルランド:東京ディズニーランドの黒字化と第2次設備投資計画
1984年〜開園後4年の横ばいと学校団体の開拓
開園の勢いは長くは続かなかった。オリエンタルランドの稼ぎは大部分が入園者から生まれるため、入園者数の増減がそのまま収益を動かす。来園者の7割近くは首都圏の住民で、舞浜から半径50キロメートルの円の中に首都圏の主な都市がほぼ収まるという立地が、客を集めるうえでの最大の武器になっていた。ところが東京ディズニーランドの入場者数は、開業から4年のあいだ1,000万人余りの水準で伸びが止まっている。同じ商圏の客に何度も足を運んでもらわない限り数は積み上がらず、開園から4年がたち、課題は来園者を集める量から、再来の頻度へ移っていた。
- 証券 1997年49巻1号(日本証券経済倶楽部)
- [1]営業収益のほとんどが東京ディズニーランドの入園者に起因するため、収益は入園者数に大きく影響を受ける
- [2]東京ディズニーランドの入園者は首都圏からが7割近くを占め、舞浜は半径50km以内に首都圏の主要都市のほとんどを含む商圏を背後に抱える
- 日経ビジネス 1989年10月9日号
- [3]東京ディズニーランドはオープン後の4年間、入場者数が1,000万人余りで横ばいが続いた
来場者が再び増え始めた背景には、1987年に本腰を入れた団体客の掘り起こしがあった。修学旅行の誘致では、営業担当者が地方の小中高等学校を回り、行事の案内冊子を届けた。企業向けには時間帯を区切って園を貸し切る企画を用意し、1万人から4万人の団体を呼び込んだ。修学旅行が集中するのは2月・3月で、この両月の来場者数は8月の20〜30%にすぎなかったから、団体客は繁忙期以外の入りを押し上げる働きをした。1988年度になると、東京に来た修学旅行生のうち80%が東京ディズニーランドを訪れるようになっていた。首都圏の日帰り客だけに依存する構造は、ここで薄まった。
- 日経ビジネス 1989年10月9日号
- [4]オープン後4年間横ばいだった入場者数が増勢に転じた一因は、1987年から積極的に始めた団体客の開拓だった
- [5]地方の小中高等学校への営業マン派遣・パンフレット送付で修学旅行客を獲得し、時間を区切った企業向け貸し切り企画で1万人から4万人単位の団体集客を実現した
- [6]修学旅行は8月の来場者の20〜30%にとどまる2月・3月に集中するため、団体客はピーク時以外の集客に貢献した
- [7]1988年度、東京に来た修学旅行生の80%が東京ディズニーランドを訪れた
大型アトラクションへの追加投資を重ねることが、集客のもう1本の柱になった。導入はビッグサンダー・マウンテンが1987年、スター・ツアーズが1989年と続いた。こうした大型施設が開業した年は、入場者数がどれも前年度より10%を超えて伸びている。1988年度の入場者は1,338万人で前年度から12%増え、1989年3月期には東京ディズニーランド部門の売上収入が1,114億円(前期比17%増)、経常利益が160億円(同111%増)に膨らんだ。この業績を背に、配当率は10%から12%に上がった。設備に投じた金が入園者の増加となって返ってくる構図が、この時期に確かめられた。
- 証券 1997年49巻1号(日本証券経済倶楽部)
- [8]1987年にビッグサンダー・マウンテン、1989年にスター・ツアーズと大型の新規アトラクションを継続的に導入した
- 日経ビジネス 1993年2月1日号
- [9]1987年度のビッグサンダーマウンテン、1989年度のスターツアーズなど大型アトラクションがオープンした年は、いずれも前年度比10%以上伸びている
- 日経ビジネス 1989年10月9日号
- [10]1988年度の入場者数は前年度比12%増の1,338万人、1989年3月期のTDL部門は売上収入が前期比17%増の1,114億円、経常利益が同111%増の160億円で、配当を10%から12%へ引き上げた
参考文献[1]-[10]
- 証券 1997年49巻1号(日本証券経済倶楽部)
- [1]営業収益のほとんどが東京ディズニーランドの入園者に起因するため、収益は入園者数に大きく影響を受ける
- [2]東京ディズニーランドの入園者は首都圏からが7割近くを占め、舞浜は半径50km以内に首都圏の主要都市のほとんどを含む商圏を背後に抱える
- [8]1987年にビッグサンダー・マウンテン、1989年にスター・ツアーズと大型の新規アトラクションを継続的に導入した
- 日経ビジネス 1989年10月9日号
- [3]東京ディズニーランドはオープン後の4年間、入場者数が1,000万人余りで横ばいが続いた
- [4]オープン後4年間横ばいだった入場者数が増勢に転じた一因は、1987年から積極的に始めた団体客の開拓だった
- [5]地方の小中高等学校への営業マン派遣・パンフレット送付で修学旅行客を獲得し、時間を区切った企業向け貸し切り企画で1万人から4万人単位の団体集客を実現した
- [6]修学旅行は8月の来場者の20〜30%にとどまる2月・3月に集中するため、団体客はピーク時以外の集客に貢献した
- [7]1988年度、東京に来た修学旅行生の80%が東京ディズニーランドを訪れた
- [10]1988年度の入場者数は前年度比12%増の1,338万人、1989年3月期のTDL部門は売上収入が前期比17%増の1,114億円、経常利益が同111%増の160億円で、配当を10%から12%へ引き上げた
- 日経ビジネス 1993年2月1日号
- [9]1987年度のビッグサンダーマウンテン、1989年度のスターツアーズなど大型アトラクションがオープンした年は、いずれも前年度比10%以上伸びている
1989年〜再来の客を前提にした非日常の維持
1989年には、入場者のうち過去に来園経験のある人、いわゆるリピーターが75%を上回った。この比率は1986年から上昇を続けていた。1993年には80数%に届いた。首都圏から来る客も、入園者の65%を占めるに至った。単年度で見ると1990年度の入場者は1,587万6,000人で、累計は1991年5月に1億人を数えた。一方で会社は、売上高の10%を毎期ロイヤルティとして米国側に払う契約に縛られており、そのうえで追加投資も続けなければならなかった。同じ客が繰り返し来る構造は集客を安定させる一方で、来るたびに新しいものがなければ足が止まるという制約を課した。
- 日経ビジネス 1989年10月9日号
- [11]1986年以降リピーターが増え、1989年時点で入場者数の75%を超えた
- [14]毎期売上高の10%をロイヤルティとして米側に支払う
- 日経ビジネス 1993年2月1日号
- [12]1993年時点でリピーター比率は80数%に達し、入園者全体の65%を首都圏からの来園者が占めた
- はこだて財界 1991年夏季特大号「第5回函館ハート研修会 オリエンタルランド北村和久常務講演」
- [13]1991年5月に1億人目の入場者を記録し、1990年度の入場者数は1,587万6,000人だった
非日常を保つために、会社は園内から効率を外した。開園から8年のうちに、来園者が園内で過ごす時間は平均で5時間台から7時間台まで長くなった。園内にいる時間が延びれば、それだけ飲食と物販の売上が増える。運営の細部には次のような決まりがあった。自動販売機は、便利でも感動につながらないとして1台も置かず、レストランの食材は地下から30か所のエレベーターで上げている。周囲のホテル群には12階までという高さの制限を設け、園の外に見えるのは空と地平線だけという像を崩さないようにした。入場制限も最小限の仕組みとして使っており、園内の客が6万2,000人に達すると入口で入園を止める。混雑で不快な思いをした客は再び来ない、という考えからである。
- はこだて財界 1991年夏季特大号「第5回函館ハート研修会 オリエンタルランド北村和久常務講演」
- [15]平均滞留時間は開園1年目の5時間台から8年目には7時間台へ延びた
- [16]便利だが感動を与えない自動販売機は1台も設置せず、レストランの食材は30か所のエレベーターで地下から運び込んでいる
- [17]夢と魔法の王国の外に広がるのが空と地平線であるというイメージを守るため、周辺のホテル群に12階という高さ規制を行っている
- [18]園内の滞留客が6万2,000人になった時点で入口で入園を断り、居心地が悪ければ再来しないとの判断から入場制限を最低限の仕組みとしている
従業員はすべてキャストと呼ばれ、清掃を担当する社員も、客に清掃というショーを見せる出演者の一人と位置づけられた。各キャスト向けに300冊のマニュアルが用意されたが、その目的は1、2行で示すだけで、あとはすべて形で教えるものになっている。形の部分を7割とし、残る3割は接客の中で応用できる余裕として残した。500人のダンサーは年に一度オーディションを受け、初演の感動を保っている者だけが続けてキャストになるため、8年間続けたのは十数名にとどまる。入園者をゲストと位置づけ、キャストが毎日が初演の気持ちで臨むというこの運用は、1998年の説明会でも会社の優位の一つに挙げられている。
- はこだて財界 1991年夏季特大号「第5回函館ハート研修会 オリエンタルランド北村和久常務講演」
- [19]社員はすべてキャストで、掃除を担当する社員も客に掃除というショーを見せる出演者の一人と位置づけられている
- [20]各キャスト向けに300冊のマニュアルを用意し、目的は1、2行であとはすべて形で教えるものとなっている
- [21]マニュアルは形の部分が7割で、残り3割はコミュニケーションの中でパフォーマンスできる余裕を持たせている
- [22]500人のダンサーを年に一度オーディションし、8年間ダンサーを続けているのは十数名である
- 証券アナリストジャーナル 1999年37巻1号 別冊付録 オリエンタルランド(1998年12月8日 加賀見俊夫社長説明会)
- [23]入園者をゲスト、従業員をキャストと位置づけ「毎日が初演」の気持ちでサービスを提供する体制を、会社は優位の一つに挙げた
参考文献[11]-[23]
- 日経ビジネス 1989年10月9日号
- [11]1986年以降リピーターが増え、1989年時点で入場者数の75%を超えた
- [14]毎期売上高の10%をロイヤルティとして米側に支払う
- 日経ビジネス 1993年2月1日号
- [12]1993年時点でリピーター比率は80数%に達し、入園者全体の65%を首都圏からの来園者が占めた
- はこだて財界 1991年夏季特大号「第5回函館ハート研修会 オリエンタルランド北村和久常務講演」
- [13]1991年5月に1億人目の入場者を記録し、1990年度の入場者数は1,587万6,000人だった
- [15]平均滞留時間は開園1年目の5時間台から8年目には7時間台へ延びた
- [16]便利だが感動を与えない自動販売機は1台も設置せず、レストランの食材は30か所のエレベーターで地下から運び込んでいる
- [17]夢と魔法の王国の外に広がるのが空と地平線であるというイメージを守るため、周辺のホテル群に12階という高さ規制を行っている
- [18]園内の滞留客が6万2,000人になった時点で入口で入園を断り、居心地が悪ければ再来しないとの判断から入場制限を最低限の仕組みとしている
- [19]社員はすべてキャストで、掃除を担当する社員も客に掃除というショーを見せる出演者の一人と位置づけられている
- [20]各キャスト向けに300冊のマニュアルを用意し、目的は1、2行であとはすべて形で教えるものとなっている
- [21]マニュアルは形の部分が7割で、残り3割はコミュニケーションの中でパフォーマンスできる余裕を持たせている
- [22]500人のダンサーを年に一度オーディションし、8年間ダンサーを続けているのは十数名である
- 証券アナリストジャーナル 1999年37巻1号 別冊付録 オリエンタルランド(1998年12月8日 加賀見俊夫社長説明会)
- [23]入園者をゲスト、従業員をキャストと位置づけ「毎日が初演」の気持ちでサービスを提供する体制を、会社は優位の一つに挙げた
1992年〜1,600万人の壁と第2パークへの道筋
1991年度の入園者数は1,600万人を超えたが、伸び率は前年度比1.7%増にとどまった。1992年10月1日、285億円を投じた新アトラクションのスプラッシュ・マウンテンが開業したにもかかわらず、12月末の時点で入園者は前年実績を1%ほど下回っている。上半期には、開業を待って来園を手控える動きが予想以上に多く、4月から9月は前年同期比5%減となった。開園以来1,000億円近い追加投資を重ねてきたが、現在の敷地内での大型投資はこのスプラッシュ・マウンテンが最後だった。投資で入園者を増やす手は、用地の側から尽きた。
- 日経ビジネス 1992年7月27日号
- [24]1991年度の入場者数は前年比1.7%増で1,600万人を超えた
- 日経ビジネス 1993年2月1日号
- [25]1992年10月1日に285億円を投じたスプラッシュマウンテンがオープンしたが、12月末時点で前年実績を1%ほど下回った
- [26]スプラッシュマウンテンの開業を待つ手控えが多く、4〜9月は前年同期比5%減となった
- [27]開園以来1,000億円近い追加投資を重ねたが、現敷地内での大型投資はスプラッシュマウンテンが最後である
残されたのは、来ていない人と来ない時期を埋める作業だった。首都圏の外の需要を掘り起こすため、会社は期間や対象を限ったパスポート券の特別販売を行い、旅行代理店を使った販促も続けた。その柱がディズニーバケーションで、1990年度の中部に始まり、1991年度は近畿、1992年度は東北と、毎年対象地域を1つに絞った。広告代理店、地元の旅行代理店、テレビ・雑誌を動員し、1年間切れ目なく情報を流している。閑散期のうち12月は、クリスマス・ファンタジーによって入場者が1983年度の45万人から1990年度には128万人となり、ほかの月の平均を超えた。これに対し1月と2月は、1990年度でも74万人と88万人で、開園時の51万人・32万人よりは多いものの、他の月との差は40万〜50万人残っていた。
- 証券 1997年49巻1号(日本証券経済倶楽部)
- [28]入園者の少ない日の集客増のため販売期間・販売対象を限定したパスポート券の特別販売プログラムを実施し、首都圏以外の需要を掘り起こすため旅行代理店を活用した販売促進活動を展開した
- 日経ビジネス 1993年2月1日号
- [29]1990年度の中部、1991年度の近畿、1992年度の東北と対象地域を絞った「ディズニーバケーション」を展開し、広告代理店・地元旅行代理店・マスメディアを巻き込んで1年を通して情報を流した
- [30]12月のクリスマス・ファンタジーの集客は1983年度の45万人から1990年度には128万人となり、他の平均的な月を上回った
- [31]1月・2月の入園者は1990年度実績で74万人・88万人、開園時は51万人・32万人で、他の月より40万〜50万人少ない
1992年1月、森光明社長が急逝した。大株主である三井不動産と京成電鉄が後継社長の座をめぐって主導権を争い、社長人事は半年にわたって決まらなかった。その間、高橋政知会長が中継ぎで社長を兼ねた。決着がついたのは6月で、1985年に千葉県庁から常務として移り、副社長に就いていた加藤康三氏が昇格した。入園者数は施設の受け入れ能力の上限に迫っているというのが加藤氏の見立てで、隣の土地に新しいパークを設ける筋道づくりを自身の課題とした。1992年12月、会社は経営企画室、総合監理部、ホテル事業部を設け、米ウォルト・ディズニー社が持ちかけた海をテーマにしたパークの構想を検討し始める。見込まれる事業費は3,000億円を下回らない規模で、株式公開を含めた資金の集め方が、着工に先立って詰めるべき点として残された。
- 日経ビジネス 1992年7月27日号
- [32]1992年1月に森光明社長が急逝した
- [33]高橋政知会長が中継ぎとして登板し、後任を巡り大株主の三井不動産・京成電鉄がさや当てを繰り広げ、社長人事は半年間たなざらしになった
- [34]加藤康三は1953年東京大学農学部卒・千葉県庁入庁、1985年に常務としてオリエンタルランドへ移り、1988年副社長、1992年6月に社長就任
- [35]加藤康三はキャパシティーの限界に近く100万人単位で入場者を増やすのは無理とみて、TDLへの投資と隣接する新パーク建設の道筋づくりを課題に挙げた
- 日経ビジネス 1993年2月1日号
- [36]1992年12月16日付の組織改正で経営企画室・総合監理部・ホテル事業部を新設し、米ウォルト・ディズニー社提案の海を題材としたテーマパーク構想を検討していた
- [37]第二テーマパークの総事業費は3,000億円を下らないとみられ、株式公開など資金調達方法を含めて着工までに紆余曲折が予想された
参考文献[24]-[37]
- 日経ビジネス 1992年7月27日号
- [24]1991年度の入場者数は前年比1.7%増で1,600万人を超えた
- [32]1992年1月に森光明社長が急逝した
- [33]高橋政知会長が中継ぎとして登板し、後任を巡り大株主の三井不動産・京成電鉄がさや当てを繰り広げ、社長人事は半年間たなざらしになった
- [34]加藤康三は1953年東京大学農学部卒・千葉県庁入庁、1985年に常務としてオリエンタルランドへ移り、1988年副社長、1992年6月に社長就任
- [35]加藤康三はキャパシティーの限界に近く100万人単位で入場者を増やすのは無理とみて、TDLへの投資と隣接する新パーク建設の道筋づくりを課題に挙げた
- 日経ビジネス 1993年2月1日号
- [25]1992年10月1日に285億円を投じたスプラッシュマウンテンがオープンしたが、12月末時点で前年実績を1%ほど下回った
- [26]スプラッシュマウンテンの開業を待つ手控えが多く、4〜9月は前年同期比5%減となった
- [27]開園以来1,000億円近い追加投資を重ねたが、現敷地内での大型投資はスプラッシュマウンテンが最後である
- [29]1990年度の中部、1991年度の近畿、1992年度の東北と対象地域を絞った「ディズニーバケーション」を展開し、広告代理店・地元旅行代理店・マスメディアを巻き込んで1年を通して情報を流した
- [30]12月のクリスマス・ファンタジーの集客は1983年度の45万人から1990年度には128万人となり、他の平均的な月を上回った
- [31]1月・2月の入園者は1990年度実績で74万人・88万人、開園時は51万人・32万人で、他の月より40万〜50万人少ない
- [36]1992年12月16日付の組織改正で経営企画室・総合監理部・ホテル事業部を新設し、米ウォルト・ディズニー社提案の海を題材としたテーマパーク構想を検討していた
- [37]第二テーマパークの総事業費は3,000億円を下らないとみられ、株式公開など資金調達方法を含めて着工までに紆余曲折が予想された
- 証券 1997年49巻1号(日本証券経済倶楽部)
- [28]入園者の少ない日の集客増のため販売期間・販売対象を限定したパスポート券の特別販売プログラムを実施し、首都圏以外の需要を掘り起こすため旅行代理店を活用した販売促進活動を展開した
筆者考察
開園から4年、東京ディズニーランドの入園者は1,000万人余りで動かなかった。首都圏に7割の客を持つ施設にとって、商圏の中の未経験者はすでに限られており、伸びる余地は新規の客ではなく再来の側にしかない。1987年から始めた修学旅行客の開拓と、ビッグサンダー・マウンテン、スター・ツアーズと続いた大型アトラクションの投入は、この構造への回答だった。1988年度の入園者は前年度比12%増の1,338万人、1989年3月期の東京ディズニーランド部門の経常利益は111%増の160億円で、投資額が入園者数に直結する装置産業の姿がここで固まる。
同じ構造が、1992年には限界として現れた。285億円を投じたスプラッシュ・マウンテンを開業しても入園者は前年を下回り、現在の敷地に置ける大型投資はこれで尽きた。毎期の売上高の10%をロイヤルティとして米国側へ払い続ける会社が成長を保つには、敷地そのものを広げるほかない。加藤康三社長が課題に挙げた隣接地への新パーク建設と、3,000億円を下らないとされた事業費は、投資の単位をアトラクションからパークへ1段上げる選択である。自動販売機を1台も置かず、周辺ホテルに12階の高さ制限までかけて守ってきた非日常が、この段階で拡張の対象になった。
- 単体・日本基準の営業収益。東京ディズニーランドの運営と不動産賃貸を合算した会社全体の数字。
1984年〜1995年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 経常利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 利益率 | |||
| 1984年03月期 | 単体 | 990 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1985年03月期 | 単体 | 893 | ▲9.8% | n/a | n/a | n/a |
| 1986年03月期 | 単体 | 1,023 | +14.6% | n/a | n/a | n/a |
| 1987年03月期 | 単体 | 897 | ▲12.3% | n/a | n/a | n/a |
| 1988年03月期 | 単体 | 1,009 | +12.5% | n/a | n/a | n/a |
| 1989年03月期 | 単体 | 1,182 | +17.1% | n/a | n/a | n/a |
| 1990年03月期 | 単体 | 1,328 | +12.4% | n/a | n/a | n/a |
| 1991年03月期 | 単体 | 1,452 | +9.3% | n/a | n/a | n/a |
| 1992年03月期 | 単体 | 1,515 | +4.3% | n/a | n/a | n/a |
| 1993年03月期 | 単体 | 1,505 | ▲0.7% | n/a | n/a | n/a |
| 1994年03月期 | 単体 | 1,562 | +3.8% | n/a | n/a | n/a |
| 1995年03月期 | 単体 | 1,539 | ▲1.5% | n/a | n/a | n/a |
出所:証券調査
出典・参考
6件
- 日経ビジネス 1989年10月9日号
- 日経ビジネス 1992年7月27日号
- 日経ビジネス 1993年2月1日号
- 証券 1997年49巻1号(日本証券経済倶楽部)
- 証券アナリストジャーナル 1999年37巻1号 別冊付録 オリエンタルランド(1998年12月8日 加賀見俊夫社長説明会)
- はこだて財界 1991年夏季特大号「第5回函館ハート研修会 オリエンタルランド北村和久常務講演」