第3章 年〜年

本州製紙:釧路工場の増設による日産2,000トン体制

1962年〜文化用紙の会社が五年で入れ替わった

転換は数字に表れており、1957年上期に売上の16%だった板紙系統は1962年上期に56%となり、薄葉紙を合わせた産業用紙は33%から70%へ増えた。同じ五年で売上高は2倍になった。社史はこの期間を、1957年1月に会社再建にふみ切って以来の苦節五カ年と表現した。1962年末の国内シェアはKライナーが90%強、セミ中芯が48%、グラシンペーパーが57%、コンデンサペーパーが75%で、いずれも業界第一位である。生産量は1950年の69,099トンから1961年には406,337トンへ増えた。上質紙で王子・十條と競っていた会社は、五年でまったく違う品目の会社になった。

  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第六章「発展期」
    • [1]製品構成の転換は売上構成比の数値に表れた
    • [2]板紙系統の売上構成比は1957年上期の16%から1962年上期の56%へ上昇した
    • [3]薄葉紙を含む産業用紙の構成比は33%から70%へ増えた
    • [4]1957年上期から1962年上期の五年で売上高は2倍になった
    • [5]社史は1957年1月に会社再建にふみ切って以来の苦節五カ年と記した
    • [6]1962年末のKライナー国内シェアは90%強で業界第一位だった
    • [7]セミ中芯48%グラシンペーパー57%コンデンサペーパー75%でいずれも第一位だった
    • [8]生産量は1950年の69,099トンから1961年の406,337トンへ増加した
    • [9]上質紙中心の会社は五年で産業用紙中心の会社に変わった

釧路が伸びる裏で内地の工場は作るものを変え、1961年1月に富士工場の七号抄紙機を新聞用紙から白板紙抄造へ改造し、熊野工場の一号機と中津工場の三号機は停抄した。中津工場は薄葉紙とコンデンサ用紙の専門工場へ、熊野工場は上質紙から低圧コンデンサペーパーへ体質を改めた。1961年末から1962年後半にかけては、富士・中津のSP設備10基のうち8基とGP5台を止め、割高な自製パルプを輸入パルプに切り替えた。余った人員は配置転換で吸収した。釧路第二期のCGP中芯設備は工費約50億円をかけて1960年3月に着工し、着工から10か月で1961年1月に完成した。

  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第五章「再建第二期」
    • [10]釧路の拡張と並行して内地各工場の抄造品目を転換した
    • [12]熊野工場一号機と中津工場三号機を停抄した
    • [15]設備転換で生じた余剰人員は配置転換で吸収した
    • [16]釧路第二期のCGP中芯設備は工費約50億円で1960年3月着工1961年1月完成だった
  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)年表
    • [11]1961年1月に富士工場七号抄紙機を新聞用紙から白板紙抄造へ改造した
  • 証券アナリストジャーナル 1970年9月号 栖原亮
    • [13]中津工場は薄葉紙とコンデンサ用紙へ熊野工場は低圧コンデンサペーパーへ転換した
  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第六章「発展期」
    • [14]1961年末から1962年後半に富士・中津のSP設備10基中8基とGP5台を停止した
参考文献[1]-[16]
  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第六章「発展期」
    • [1]製品構成の転換は売上構成比の数値に表れた
    • [2]板紙系統の売上構成比は1957年上期の16%から1962年上期の56%へ上昇した
    • [3]薄葉紙を含む産業用紙の構成比は33%から70%へ増えた
    • [4]1957年上期から1962年上期の五年で売上高は2倍になった
    • [5]社史は1957年1月に会社再建にふみ切って以来の苦節五カ年と記した
    • [6]1962年末のKライナー国内シェアは90%強で業界第一位だった
    • [7]セミ中芯48%グラシンペーパー57%コンデンサペーパー75%でいずれも第一位だった
    • [8]生産量は1950年の69,099トンから1961年の406,337トンへ増加した
    • [9]上質紙中心の会社は五年で産業用紙中心の会社に変わった
    • [14]1961年末から1962年後半に富士・中津のSP設備10基中8基とGP5台を停止した
  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第五章「再建第二期」
    • [10]釧路の拡張と並行して内地各工場の抄造品目を転換した
    • [12]熊野工場一号機と中津工場三号機を停抄した
    • [15]設備転換で生じた余剰人員は配置転換で吸収した
    • [16]釧路第二期のCGP中芯設備は工費約50億円で1960年3月着工1961年1月完成だった
  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)年表
    • [11]1961年1月に富士工場七号抄紙機を新聞用紙から白板紙抄造へ改造した
  • 証券アナリストジャーナル 1970年9月号 栖原亮
    • [13]中津工場は薄葉紙とコンデンサ用紙へ熊野工場は低圧コンデンサペーパーへ転換した

1965年〜原料と市場を海外に求めた転換

段ボール原紙の会社になっても原木の問題は消えず、1964年8月に釧路第三期工事を起工し、1965年9月に完成させて能力を積み増す一方、原料の調達先を海外へ広げた。カナダのブリティッシュコロンビア州では、三菱商事とともにクレストブルック・フォレスト・インダストリーズへ出資し、日本側が52%を握って日産450トンの晒クラフトパルプ工場を建設した。パルププラントに130億円、製材工場二か所に約17億円、合計約150億円を全額日本側で調達した。米国サクラメントからは25,000トン型の専用船で針葉樹チップを年間30万立方メートル釧路工場へ運び、パプアニューギニアでは広葉樹の一年間の調査を終えて年間30万立方メートルのチップ調達に入った。

  • 証券アナリストジャーナル 1970年9月号 栖原亮
    • [17]産業用紙へ転換した後も原木確保は経営課題であり続けた
    • [19]カナダのクレストブルックに三菱商事とともに出資し日本側が52%を保有した
    • [20]日産450トンの晒クラフトパルプ工場でパルププラント130億円製材17億円の合計約150億円を要した
    • [21]米国サクラメントから25,000トン型専用船で年間30万立方メートルのチップを釧路へ運んだ
    • [22]パプアニューギニアで年間30万立方メートルのチップ調達に入った
  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)年表
    • [18]1964年8月に釧路第三期工事を起工し1965年9月に完成した

規模の差は縮まらなかった。すなわち1966年に世界最大の製紙会社である米インターナショナル・ペーパーの売上高は5,220億円で、同じ年の東京証券取引所一部上場の紙パルプ約20社の売上高合計5,048億円を上回っていた。1968年3月、王子・十条・本州の三社は合併の覚書に調印した。公正取引委員会に事前審査を申し入れたものの、認められずに断念している。三社の規模を合わせてもIPの半分に満たず、純益は8分の1以下にとどまっていた。旧王子を三つに分けた国は、19年後にその三つを一つに戻すことを許さなかったことになる。専務取締役の栖原亮氏は1970年の講演で、日本の紙パルプ産業が国際競争力の点で多くの問題を抱えていると認識を示した。

  • 証券アナリストジャーナル 1970年9月号 栖原亮
    • [23]日本の製紙各社と米国大手との規模差は縮小しなかった
    • [24]1966年の米インターナショナル・ペーパーの売上高は5,220億円だった
    • [25]同年の東証一部上場の紙パルプ約20社の売上高合計は5,048億円だった
    • [27]王子十条本州の三社合計でもIPの売上高の半分に届かず純益は8分の1以下だった
    • [29]栖原亮専務は1970年の講演で日本の紙パルプ産業の国際競争力に問題があると述べた
  • 日本産業史 第4巻 紙・パルプ(日本経済新聞社、1994年)「紙・パルプ-増設ラッシュで不況に」
    • [26]1968年3月に三社は合併覚書へ調印し公正取引委員会に事前審査を申し入れたが断念した
    • [28]1949年に三分割を命じた国は1968年の三社合併を認めなかった
参考文献[17]-[29]
  • 証券アナリストジャーナル 1970年9月号 栖原亮
    • [17]産業用紙へ転換した後も原木確保は経営課題であり続けた
    • [19]カナダのクレストブルックに三菱商事とともに出資し日本側が52%を保有した
    • [20]日産450トンの晒クラフトパルプ工場でパルププラント130億円製材17億円の合計約150億円を要した
    • [21]米国サクラメントから25,000トン型専用船で年間30万立方メートルのチップを釧路へ運んだ
    • [22]パプアニューギニアで年間30万立方メートルのチップ調達に入った
    • [23]日本の製紙各社と米国大手との規模差は縮小しなかった
    • [24]1966年の米インターナショナル・ペーパーの売上高は5,220億円だった
    • [25]同年の東証一部上場の紙パルプ約20社の売上高合計は5,048億円だった
    • [27]王子十条本州の三社合計でもIPの売上高の半分に届かず純益は8分の1以下だった
    • [29]栖原亮専務は1970年の講演で日本の紙パルプ産業の国際競争力に問題があると述べた
  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)年表
    • [18]1964年8月に釧路第三期工事を起工し1965年9月に完成した
  • 日本産業史 第4巻 紙・パルプ(日本経済新聞社、1994年)「紙・パルプ-増設ラッシュで不況に」
    • [26]1968年3月に三社は合併覚書へ調印し公正取引委員会に事前審査を申し入れたが断念した
    • [28]1949年に三分割を命じた国は1968年の三社合併を認めなかった

1974年〜不況カルテルと設備廃棄に追われた十年

1974年、釧路工場は第四期工事で日産700トンの抄紙機を加え、単一の製紙工場として世界最大規模の日産2,000トンに達した。第四期だけで約200億円を投じた。同じ1974年11月に栖原亮氏が社長へ就任した。しかし二度の石油危機の後、紙パルプ業界は需給ギャップの調整に明け暮れる。1977年9月に段ボール原紙業界が不況カルテルを結成し、1978年末にはクラフト紙が続いた。1983年には板紙が特定産業構造改善臨時措置法の指定を受け、現有設備の19.8%を1987年6月末までに処理する計画をまとめた。板紙は1978年にも特定産業安定臨時措置法で能力の15%程度を廃棄しており、1980年代に二度の設備処理を行った。

  • 日経ビジネス 1975年2月17日号
    • [30]1974年の釧路第四期工事で日産700トンの抄紙機を加え日産2,000トンに達した
    • [31]第四期工事には約200億円を投じた
  • 日経ビジネス 1975年1月6日号
    • [32]1974年11月に栖原亮が社長に就任した
  • 日本産業史 第3巻 紙・パルプ(日本経済新聞社、1994年)「紙・パルプ-不況カルテルから設備廃棄へ」
    • [33]二度の石油危機後の紙パルプ業界は需給ギャップの調整に追われた
    • [34]1977年9月に段ボール原紙業界が不況カルテルを結成し1978年末にクラフト紙が続いた
    • [35]1983年に板紙が産構法の指定を受け現有設備の19.8%を1987年6月末までに処理する計画をまとめた
    • [36]板紙は1978年にも特安法で能力の15%程度を廃棄していた

業界再編のなかで本州製紙も規模を足し、1983年4月に福岡製紙と東信製紙を合併した。1982年6月末には10年続いた製品別事業本部制をやめ、子会社を統括する関連事業室を関連事業部へ格上げした。当時、支配力の及ぶ子会社は42社、その総売上高は4,000億円を超えていた。ノスタルジーではメシは食えない——1983年に会長の栖原亮氏が置いた基準のもとで、紙だけに寄りかからない事業構成が求められた。紙以外の事業を伸ばす一方で、四次にわたる釧路への投資と二度の設備処理は借入金として帳簿に残った。洋紙大手七社の売上高経常利益率は1980年度から1981年度に1%前後まで落ち、需要が戻った1983年度に4.7%、1984年度に5.7%へ回復した。

  • 日本産業史 第3巻 紙・パルプ(日本経済新聞社、1994年)「紙・パルプ-不況カルテルから設備廃棄へ」
    • [37]1980年代の業界再編で本州製紙も同業を合併した
    • [38]1983年4月に福岡製紙と東信製紙を合併した
    • [43]洋紙大手七社の売上高経常利益率は1983年度4.7%1984年度5.7%へ回復した
  • 日経ビジネス 1982年7月12日号
    • [39]1982年6月末に製品別事業本部制を廃止し関連事業室を関連事業部へ格上げした
    • [40]支配力の及ぶ子会社は42社で総売上高は4,000億円を超えていた
  • 日経ビジネス 1983年9月5日号
    • [41]会長の栖原亮は1983年にノスタルジーではメシは食えないと語った
  • 日経ビジネス 1989年1月2日号
    • [42]釧路への連続投資と設備処理により借入金が残った
参考文献[30]-[43]
  • 日経ビジネス 1975年2月17日号
    • [30]1974年の釧路第四期工事で日産700トンの抄紙機を加え日産2,000トンに達した
    • [31]第四期工事には約200億円を投じた
  • 日経ビジネス 1975年1月6日号
    • [32]1974年11月に栖原亮が社長に就任した
  • 日本産業史 第3巻 紙・パルプ(日本経済新聞社、1994年)「紙・パルプ-不況カルテルから設備廃棄へ」
    • [33]二度の石油危機後の紙パルプ業界は需給ギャップの調整に追われた
    • [34]1977年9月に段ボール原紙業界が不況カルテルを結成し1978年末にクラフト紙が続いた
    • [35]1983年に板紙が産構法の指定を受け現有設備の19.8%を1987年6月末までに処理する計画をまとめた
    • [36]板紙は1978年にも特安法で能力の15%程度を廃棄していた
    • [37]1980年代の業界再編で本州製紙も同業を合併した
    • [38]1983年4月に福岡製紙と東信製紙を合併した
    • [43]洋紙大手七社の売上高経常利益率は1983年度4.7%1984年度5.7%へ回復した
  • 日経ビジネス 1982年7月12日号
    • [39]1982年6月末に製品別事業本部制を廃止し関連事業室を関連事業部へ格上げした
    • [40]支配力の及ぶ子会社は42社で総売上高は4,000億円を超えていた
  • 日経ビジネス 1983年9月5日号
    • [41]会長の栖原亮は1983年にノスタルジーではメシは食えないと語った
  • 日経ビジネス 1989年1月2日号
    • [42]釧路への連続投資と設備処理により借入金が残った

1961年〜1987年の業績

決算期 区分 売上高 営業利益経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 億円 利益率
1961年03月期 単体 203 n/a n/a n/a 5 2.5% n/a
1962年03月期 単体 254 +25.1% n/a n/a 5 2.0% n/a
1963年03月期 単体 269 +5.9% n/a n/a 8 3.0% n/a
1964年03月期 単体 318 +18.2% n/a n/a 6 1.9% n/a
1965年03月期 単体 356 +11.9% n/a n/a 7 2.0% n/a
1966年03月期 単体 359 +0.8% n/a n/a 7 1.9% n/a
1967年03月期 単体 438 +22.0% n/a n/a 8 1.8% n/a
1968年03月期 単体 502 +14.6% n/a n/a 9 1.8% n/a
1969年03月期 単体 604 +20.3% n/a n/a 10 1.7% n/a
1970年03月期 単体 728 +20.5% n/a n/a 12 1.6% n/a
1971年03月期 単体 851 +16.9% n/a 19 14 1.6% n/a
1972年03月期 単体 872 +2.5% n/a 7 10 1.1% n/a
1973年03月期 単体 1,018 +16.7% n/a 14 11 1.1% n/a
1974年03月期 単体 1,498 +47.2% n/a 29 20 1.3% n/a
1975年03月期 単体 1,620 +8.1% n/a 26 21 1.3% n/a
1976年03月期 単体 1,560 ▲3.7% n/a ▲20 9 0.6% n/a
1977年03月期 単体 1,758 +12.7% n/a 5 8 0.5% n/a
1978年03月期 単体 1,773 +0.9% n/a 7 8 0.5% n/a
1979年03月期 単体 1,790 +1.0% n/a ▲18 1 0.1% n/a
1980年03月期 単体 2,252 +25.8% n/a 5 5 0.2% n/a
1981年03月期 単体 2,452 +8.9% 170 5 5 0.2% n/a
1982年03月期 単体 2,394 ▲2.4% n/a 9 4 0.2% n/a
1983年03月期 単体 2,435 +1.7% n/a 12 5 0.2% n/a
1984年03月期 単体 3,050 +25.3% n/a 27 12 0.4% n/a
1985年03月期 単体 3,200 +4.9% n/a 44 14 0.4% n/a
1986年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1987年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a

出所:会社年鑑(1963年版)半期合算、会社年鑑(1967年版)半期合算、会社年鑑(1971年版)半期合算、会社年鑑(1976年版)半期合算、会社年鑑

出典・参考

11件
出典・参考
  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第六章「発展期」
  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第五章「再建第二期」
  • 本州製紙社史(本州製紙、1966年)年表
  • 日本産業史 第4巻 紙・パルプ(日本経済新聞社、1994年)「紙・パルプ-増設ラッシュで不況に」
  • 日本産業史 第3巻 紙・パルプ(日本経済新聞社、1994年)「紙・パルプ-不況カルテルから設備廃棄へ」
  • 証券アナリストジャーナル 1970年9月号 栖原亮
  • 日経ビジネス 1975年2月17日号
  • 日経ビジネス 1975年1月6日号
  • 日経ビジネス 1982年7月12日号
  • 日経ビジネス 1983年9月5日号
  • 日経ビジネス 1989年1月2日号

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