本州製紙:釧路工場の譲渡と新王子製紙との合併
1988年〜主力工場の子会社への譲渡
1988年、本州製紙は釧路工場を子会社へ1,198億円で譲渡した。1959年に社運を賭けて建てた工場であり、四次の増設を重ねて日産2,000トンに育てた主力である。譲渡は借入金の返済にあてるための財務上の措置で、会社は主力工場を自社の帳簿から外した。同じ1988年6月、京都大学工学部を出て釧路工場の製造部長を務めた米澤義信氏が社長に就任した。米澤氏は1947年10月に王子製紙へ入社し、翌1949年8月の分割で本州製紙へ移った世代にあたる。釧路を知る技術者が、釧路を手放した後の会社を率いた。
- 日経ビジネス 1996年4月8日号
- [1]1988年に釧路工場を子会社へ1,198億円で譲渡した
- [3]譲渡代金は借入金の返済とグループ企業の経営改善にあてられた
- 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第五章「再建第二期」
- [2]釧路工場は1959年に建設され四次の増設で日産2,000トンに達した主力工場だった
- 日経ビジネス 1989年1月2日号
- [4]1988年6月に釧路工場製造部長を務めた米澤義信が社長に就任した
- [5]米澤義信は1947年10月に王子製紙へ入社し1949年8月の分割で本州製紙へ移った
- [6]釧路工場製造部長を務めた米澤義信が釧路譲渡後の社長となった
財務担当専務として交渉の矢面に立ったのは大坪孝雄氏で、1928年に生まれ、1951年の入社以来経理・財務の道を歩んできた役員だった。1990年から1991年にかけて本州製紙株を狙って仕手集団が動き、広域暴力団関係者や不動産会社系列も買い集めに加わったほか、シンガポールの実業家とは一株3,000円での買い取りオプション契約まで交わされたが、当時の株価は2,200円前後にすぎなかった。大坪氏は、正式な株主になっていない相手とは交渉しないとして応じなかった。騒動は政界にも飛び火して報じられ、会社は本業と無関係な防戦に多くの人員を取られた。
- 日経ビジネス 1995年4月3日号
- [7]大坪孝雄は1928年生まれで1951年に本州製紙へ入社した
- [11]財務担当専務の大坪孝雄は正式な株主でないとして交渉を拒んだ
- 日経ビジネス 1991年9月16日号
- [8]1990年から1991年にかけて本州製紙株が仕手集団の買い集めの標的になった
- [9]シンガポールの実業家との間で一株3,000円の買い取りオプション契約が結ばれた
- [10]当時の本州製紙の株価は2,200円前後だった
- [12]事件は政界にも波及して報じられた
参考文献[1]-[12]
- 日経ビジネス 1996年4月8日号
- [1]1988年に釧路工場を子会社へ1,198億円で譲渡した
- [3]譲渡代金は借入金の返済とグループ企業の経営改善にあてられた
- 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第五章「再建第二期」
- [2]釧路工場は1959年に建設され四次の増設で日産2,000トンに達した主力工場だった
- 日経ビジネス 1989年1月2日号
- [4]1988年6月に釧路工場製造部長を務めた米澤義信が社長に就任した
- [5]米澤義信は1947年10月に王子製紙へ入社し1949年8月の分割で本州製紙へ移った
- [6]釧路工場製造部長を務めた米澤義信が釧路譲渡後の社長となった
- 日経ビジネス 1995年4月3日号
- [7]大坪孝雄は1928年生まれで1951年に本州製紙へ入社した
- [11]財務担当専務の大坪孝雄は正式な株主でないとして交渉を拒んだ
- 日経ビジネス 1991年9月16日号
- [8]1990年から1991年にかけて本州製紙株が仕手集団の買い集めの標的になった
- [9]シンガポールの実業家との間で一株3,000円の買い取りオプション契約が結ばれた
- [10]当時の本州製紙の株価は2,200円前後だった
- [12]事件は政界にも波及して報じられた
出典・参考
5件
- 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第五章「再建第二期」
- 日経ビジネス 1989年1月2日号
- 日経ビジネス 1991年9月16日号
- 日経ビジネス 1995年4月3日号
- 日経ビジネス 1996年4月8日号