本州製紙:木下又三郎の社長就任と釧路工場の竣工
1956年〜本州製紙百年を担う新しい社長
本州製紙の取締役に王子製紙副社長の木下又三郎氏が就いたのは1956年5月である。友人の中には、火中の栗に手を出すより王子で副社長を続けるほうがよいと止める者もいた。就任に際して木下氏が掲げた方針は三つあった。まず技術と経営を切り離しては考えられないこと、次に目先の小さな利益に縛られず長い目で計画を立てることである。そして良質な原料パルプを最も安く自前で賄うため、安価で歩留りの高い広葉樹の産地を押さえ、そこを拠点に恒久的なパルプ製造施設を構えることを重要な課題とした。この三つめの方針が、のちの釧路工場に結びついた。基本計画をやり遂げるには鉄のような闘志と巨額の資金が要り、難しい仕事の中でも最も難しい、と木下氏は付け加えている。
- 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第四章「再建第一期」
- [1]1956年5月に王子製紙副社長の木下又三郎が本州製紙取締役に就任した
- [3]木下又三郎は取締役就任にあたり三つの方針を表明した
- [4]就任時の方針の第一は技術と経営が不可分であることだった
- [5]低廉かつ高歩留りの広葉樹地域を確保し恒久的パルプ製造施設を持つことを重要問題に挙げた
- [7]基本計画の遂行には鉄の闘志と莫大な資金が必要で難事中の難事であると述べた
- 私の履歴書 経済人12「木下又三郎」(日本経済新聞社、1980年)
- [2]木下又三郎は友人から火中の栗を拾うより王子の副社長でいた方がよいと言われていた
- 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第五章「再建第二期」
- [6]広葉樹地域を基地とする恒久的パルプ製造施設の構想が釧路工場となった
木下氏は就任直後に七つの工場を回り、所見を残した。現場の従業員が会社の危機を認識して再建に努めており、この情熱に正しい基本方針を与えれば数年のうちに王子・十条と比肩できると書いたうえで、現在二社に比して劣勢にある会社を一日も早く昔日以上の優良会社にしなければならないと記した。1956年8月21日、ライン業務から離れた企画スタッフによる臨時総合企画室を設けた。同年11月26日の役員会で木下氏が代表取締役社長に就任し、田辺武次氏は会長となった。王子製紙取締役技術部長の堀義雄氏、北日本製紙常務の森田亀雄氏ら五人の新役員を社内外から迎え、木下氏自身も王子製紙副社長の職を投げうって本州の再建に専念した。
- 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第四章「再建第一期」
- [8]木下は就任直後に直轄七工場を視察し所見を残した
- [9]木下は工場視察の所見で情熱に基本方針を与えれば王子十条と比肩できると述べた
- [10]木下は現在二社に比して劣勢にある会社という認識を示した
- [11]1956年8月21日に臨時総合企画室を設置した
- [12]1956年11月26日の役員会で木下又三郎が代表取締役社長に就任し田辺武次は会長になった
- [13]王子製紙取締役技術部長の堀義雄と北日本製紙常務の森田亀雄ら五人の新役員を迎えた
- [14]木下は王子製紙副社長の職を辞して本州製紙の再建に専念した
1957年1月、工事資金約16億円を投じる第一次合理化工事計画が決まった。主製品を板紙と薄葉紙へ移し、原料を針葉樹から広葉樹に替えて原価を引き下げることが、二つの工事の狙いだった。このうち第二次合理化工事計画は3月に決まり、額は約13億円だった。江戸川工場に日産70トンのSCP設備を加え、工事は1958年9月までにすべて終わった。既設工場を合理化するだけでは限りがあり、それで会社の土台が恒久的に固まるわけではないと社史は書く。第一次合理化工事についても、差し当たりの補強にとどまると位置づけている。
- 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第四章「再建第一期」
- [15]1957年1月に工事資金約16億円の第一次合理化工事計画を決定した
- [16]二つの合理化工事で主製品を板紙と薄葉紙に移し原料を針葉樹から広葉樹へ切り替えた
- [17]1957年3月に約13億円の第二次合理化工事計画を決定し江戸川工場に日産70トンのSCP設備を設けた
- [18]合理化工事は1958年9月までにすべて完了した
- 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第五章「再建第二期」
- [19]社史は既設工場の合理化には限界があり会社の基礎が恒久的に安定するとはいえないと記した
- [20]社史は第一次合理化工事を当面の補強策にすぎないと位置づけた
参考文献[1]-[20]
- 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第四章「再建第一期」
- [1]1956年5月に王子製紙副社長の木下又三郎が本州製紙取締役に就任した
- [3]木下又三郎は取締役就任にあたり三つの方針を表明した
- [4]就任時の方針の第一は技術と経営が不可分であることだった
- [5]低廉かつ高歩留りの広葉樹地域を確保し恒久的パルプ製造施設を持つことを重要問題に挙げた
- [7]基本計画の遂行には鉄の闘志と莫大な資金が必要で難事中の難事であると述べた
- [8]木下は就任直後に直轄七工場を視察し所見を残した
- [9]木下は工場視察の所見で情熱に基本方針を与えれば王子十条と比肩できると述べた
- [10]木下は現在二社に比して劣勢にある会社という認識を示した
- [11]1956年8月21日に臨時総合企画室を設置した
- [12]1956年11月26日の役員会で木下又三郎が代表取締役社長に就任し田辺武次は会長になった
- [13]王子製紙取締役技術部長の堀義雄と北日本製紙常務の森田亀雄ら五人の新役員を迎えた
- [14]木下は王子製紙副社長の職を辞して本州製紙の再建に専念した
- [15]1957年1月に工事資金約16億円の第一次合理化工事計画を決定した
- [16]二つの合理化工事で主製品を板紙と薄葉紙に移し原料を針葉樹から広葉樹へ切り替えた
- [17]1957年3月に約13億円の第二次合理化工事計画を決定し江戸川工場に日産70トンのSCP設備を設けた
- [18]合理化工事は1958年9月までにすべて完了した
- 私の履歴書 経済人12「木下又三郎」(日本経済新聞社、1980年)
- [2]木下又三郎は友人から火中の栗を拾うより王子の副社長でいた方がよいと言われていた
- 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第五章「再建第二期」
- [6]広葉樹地域を基地とする恒久的パルプ製造施設の構想が釧路工場となった
- [19]社史は既設工場の合理化には限界があり会社の基礎が恒久的に安定するとはいえないと記した
- [20]社史は第一次合理化工事を当面の補強策にすぎないと位置づけた
1956年〜他社が手をつけていない紙を選んだ理由
立地の調査は外部に漏らさないことが条件で、担当者は偽名の名刺を作って現地へ向かった。その指示が出たのは1956年6月で、木下氏は麹町三番町の本州荘に原料担当の吉見敏夫取締役と長井山林副部長を呼び、五項目を言い渡している。新工場に向く土地を急いで探すこと、原料面で長く続く競争力を備えること、第二期・第三期の増設に耐える原料の手当てを考えること、候補地は北海道と東北を主に見つつ、より良い場所があれば国内のどこでも構わないことが、秘密の厳守と並ぶその中身だった。回ったのは北見・釧路・函館・八雲・留萠の五地区である。調べた結果、広葉樹も針葉樹も内地に比べ石当たり300円安いと分かった。
- 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第五章「再建第二期」
- [21]立地調査は秘密保持が命じられ調査担当者は変名の名刺を用意して現地へ入った
- [22]1956年6月に木下は本州荘で吉見敏夫取締役と長井山林副部長に五項目を命じた
- [23]第三項は第二期第三期の増設拡充の負担に耐えうる原料対策を考えることだった
- [24]立地は北海道と東北を目標とするが適地があれば国内どこでもよいとした
- [25]候補地は北見・釧路・函館・八雲・留萠の五地区だった
- [26]北海道の原木は針広葉樹とも発駅渡しで内地価格より石当たり300円安かった
比較にかけたのは新聞巻取、上質印刷紙、重包装紙、クラフト段ボール原紙だった。物差しは五つ用意された。需要の大きさ、原料の安定、新技術の導入、公共性の大きさ、それに他社が計画しておらず無駄な競り合いを生まないことである。五項目すべてに当てはまったのは段ボール原紙しかなかった。木下氏は後年、選んだ理由を整理している。同業との衝突を避けて他社が手を出していない紙であり、先々の伸びしろに限りがなく、なおまだ大企業が育っていない紙だというのである。分割後の王子・十條とぶつからないことも、選択の条件として織り込まれていた。
- 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第五章「再建第二期」
- [27]新聞巻取・上質印刷紙・重包装紙・クラフト段ボール原紙を比較検討した
- [28]新工場の製品選定には五つの基準が置かれた
- [29]製品選定の五基準は市場性・原料の安定・新技術・公共性・競争回避だった
- [30]第五の基準は他社に計画がなく無用の競争が避けられるものだった
- [31]五項目を満たす製品は段ボール原紙のみだった
- [32]木下は業界の競合を避けるため他社が手をつけていない紙を選んだと総括した
- [33]競争回避が製品選定基準の一項目として明記されていた
日本ではなお木箱が主流で、その理由を社史はライナーが故紙を原料とするため品質も強度も足りない点に求めた。手本は米国だった。米国では1940年ごろ、長網式で抄くクラフトライナーが故紙原料のジュートライナーに取って代わる流れが決着し、それを境に段ボール箱が眠っていた需要を引き出して木箱をほとんど追い出した。解決の要は、丈夫なライナーを安価に作れるかどうかにある。企画室は、広葉樹であっても蒸煮と叩解に新技術を用いれば良いライナーを低コストで生産できると確信を強めていた。1956年に閣議決定された"木材資源利用合理化方策"も木箱から段ボール箱への切り替えを後押ししており、公共性の基準に合致した。
- 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第五章「再建第二期」
- [34]日本で木箱が支配的なのはライナーが故紙原料で品質と強度が不足するためだった
- [35]需要予測は米国の段ボール普及の歴史を根拠とした
- [36]米国では1940年ごろにジュートライナーからクラフトライナーへの移行が決定的になった
- [37]米国では段ボール箱が木箱をほとんど駆逐した
- [38]社史は強いライナーを安く作ることがすべてを解決する鍵だと記した
- [39]企画室は広葉樹でも蒸煮と叩解の新技術で優良なライナーを低コストで作れると判断した
- [40]1956年の閣議決定である木材資源利用合理化方策が木箱から段ボール箱への転換を促していた
参考文献[21]-[40]
- 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第五章「再建第二期」
- [21]立地調査は秘密保持が命じられ調査担当者は変名の名刺を用意して現地へ入った
- [22]1956年6月に木下は本州荘で吉見敏夫取締役と長井山林副部長に五項目を命じた
- [23]第三項は第二期第三期の増設拡充の負担に耐えうる原料対策を考えることだった
- [24]立地は北海道と東北を目標とするが適地があれば国内どこでもよいとした
- [25]候補地は北見・釧路・函館・八雲・留萠の五地区だった
- [26]北海道の原木は針広葉樹とも発駅渡しで内地価格より石当たり300円安かった
- [27]新聞巻取・上質印刷紙・重包装紙・クラフト段ボール原紙を比較検討した
- [28]新工場の製品選定には五つの基準が置かれた
- [29]製品選定の五基準は市場性・原料の安定・新技術・公共性・競争回避だった
- [30]第五の基準は他社に計画がなく無用の競争が避けられるものだった
- [31]五項目を満たす製品は段ボール原紙のみだった
- [32]木下は業界の競合を避けるため他社が手をつけていない紙を選んだと総括した
- [33]競争回避が製品選定基準の一項目として明記されていた
- [34]日本で木箱が支配的なのはライナーが故紙原料で品質と強度が不足するためだった
- [35]需要予測は米国の段ボール普及の歴史を根拠とした
- [36]米国では1940年ごろにジュートライナーからクラフトライナーへの移行が決定的になった
- [37]米国では段ボール箱が木箱をほとんど駆逐した
- [38]社史は強いライナーを安く作ることがすべてを解決する鍵だと記した
- [39]企画室は広葉樹でも蒸煮と叩解の新技術で優良なライナーを低コストで作れると判断した
- [40]1956年の閣議決定である木材資源利用合理化方策が木箱から段ボール箱への転換を促していた
1957年〜資本金20億円の会社が80億円を借りた
1956年12月27日、帯広営林局が御用納めを迎えたその日に、木下氏は担当者を現地へ送り、道東地区の不良広葉樹の利用について本州製紙への一任を願い出た。発端は帯広営林局長の安岡博氏の考えで、質の悪い広葉樹を役立てなければ北海道の森林は更新できないとみて、王子製紙苫小牧工場や国策パルプ旭川工場など道内四社に雑木を使うよう勧めていた。木下氏はこの構想を傍系の北見パルプを通じて知り、他社と取り合いになる前に動くと決めていた。原料の裏づけは、こうして行政から得たものである。帯広営林局管内の国有林からは低品位の雑木が年間約100万石増産される見通しで、安岡氏は有償処分の確実な相手方を求めていた。翌1957年1月には木下氏自身が林野庁を訪ねた。
- 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第五章「再建第二期」
- [41]1956年12月27日の帯広営林局御用納めの日に担当者を派遣し一任を申し入れた
- [42]帯広営林局長の安岡博は不良広葉樹の利用なしに北海道の更新は不可能だとしていた
- [43]安岡は王子製紙苫小牧工場や国策パルプ旭川工場など道内四社に雑木利用を勧めていた
- [44]原木の確保は林野庁と営林局との折衝によって進められた
- [45]帯広営林局管内の国有林から低品位の雑木が年間約100万石増産される見通しだった
- [46]安岡は有償処分のできる確実な相手方を求めていた
- [47]1957年1月に木下自身が林野庁を訪問した
1953年10月にやっと資本金を20億円へ引き上げたばかりの会社が、80億円余の建設資金を集めるのは難しかった。必要な資金はほぼ全部を借入金に頼るほかなく、社史はこれをどう見ても一大冒険だったと認めている。1957年後半、政府の金融引き締めが厳しくなると、日銀の窓口指導も加わり、三井・勧銀・住友・長期信用銀行などの主力銀行から求められて、新工場の建設は一時先送りとなった。局面を開いたのは北海道東北開発公庫で、松田令輔総裁以下の全面的な協力を呼び水に市中各行も内諾した。さらに1957年9月には第一生命・三井生命・日本生命の三社へ説明会を開き、資金需給計画の30%余を引き受けてもらった。
- 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第五章「再建第二期」
- [48]1953年10月に増資した資本金は20億円だった
- [49]釧路工場の建設資金は80億円余に上った
- [50]社史はほぼ全額借入で賄う計画を一大冒険であったといわざるを得ないと記した
- [51]1957年後半に日銀の窓口指導と主力銀行の要請で新工場建設は一時延期となった
- [52]資金調達の突破口は北海道東北開発公庫からの融資だった
- [53]北海道東北開発公庫の松田令輔総裁以下が協力し市中各行の内諾につながった
- [54]1957年9月に生保三社が資金需給計画の30%余を引き受けた
用地は釧路市郊外の大楽毛に求め、1957年3月に佐熊宏平市長が単身上京して木下社長に会い、会社側は工場用地60万坪の提供、操業後5年間の市町村税免除、水利と排水の処置という三条件を示した。市議会は4月に全員賛同し、5月17日の覚書を経て7月14日に正式契約を締結した。1958年7月31日に鍬入式を行い、盛土と整地を含む建設開始からわずか1年半で工場が完成する。1959年6月に運転を開始し、9月15日に建設部を解散して釧路工場が発足した。竣工式は10月7日、会社創立十周年と同じ年である。日産150トンのKP連続蒸解設備二基と208吋抄紙機一台を備え、段ボール箱の原紙を年間約10万トン生産する計画だった。
- 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第五章「再建第二期」
- [55]新工場の用地は釧路市郊外の大楽毛に求めた
- [56]1957年3月に釧路市の佐熊宏平市長が単身上京して木下社長に面会した
- [57]会社側は工場用地60万坪の提供と操業後5年間の市町村税免除を条件に示した
- [58]1957年5月17日に覚書を結び7月14日に正式契約を締結した
- [59]1958年7月31日に鍬入式を行った
- [60]1959年6月に運転を開始し9月15日に建設部を解散して釧路工場が発足した
- [61]竣工式は1959年10月7日で会社創立十周年と重なった
- [62]日産150トンのKP連続蒸解設備二基と208吋抄紙機一台で年産約10万トンを計画した
参考文献[41]-[62]
- 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第五章「再建第二期」
- [41]1956年12月27日の帯広営林局御用納めの日に担当者を派遣し一任を申し入れた
- [42]帯広営林局長の安岡博は不良広葉樹の利用なしに北海道の更新は不可能だとしていた
- [43]安岡は王子製紙苫小牧工場や国策パルプ旭川工場など道内四社に雑木利用を勧めていた
- [44]原木の確保は林野庁と営林局との折衝によって進められた
- [45]帯広営林局管内の国有林から低品位の雑木が年間約100万石増産される見通しだった
- [46]安岡は有償処分のできる確実な相手方を求めていた
- [47]1957年1月に木下自身が林野庁を訪問した
- [48]1953年10月に増資した資本金は20億円だった
- [49]釧路工場の建設資金は80億円余に上った
- [50]社史はほぼ全額借入で賄う計画を一大冒険であったといわざるを得ないと記した
- [51]1957年後半に日銀の窓口指導と主力銀行の要請で新工場建設は一時延期となった
- [52]資金調達の突破口は北海道東北開発公庫からの融資だった
- [53]北海道東北開発公庫の松田令輔総裁以下が協力し市中各行の内諾につながった
- [54]1957年9月に生保三社が資金需給計画の30%余を引き受けた
- [55]新工場の用地は釧路市郊外の大楽毛に求めた
- [56]1957年3月に釧路市の佐熊宏平市長が単身上京して木下社長に面会した
- [57]会社側は工場用地60万坪の提供と操業後5年間の市町村税免除を条件に示した
- [58]1957年5月17日に覚書を結び7月14日に正式契約を締結した
- [59]1958年7月31日に鍬入式を行った
- [60]1959年6月に運転を開始し9月15日に建設部を解散して釧路工場が発足した
- [61]竣工式は1959年10月7日で会社創立十周年と重なった
- [62]日産150トンのKP連続蒸解設備二基と208吋抄紙機一台で年産約10万トンを計画した
1956年〜1961年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 営業利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 億円 | 利益率 | |||
| 1956年03月期 | 単体 | 119 | n/a | 10 | n/a | n/a | n/a |
| 1957年03月期 | 単体 | 133 | +11.8% | 16 | n/a | n/a | n/a |
| 1958年03月期 | 単体 | 134 | +0.8% | 13 | n/a | n/a | n/a |
| 1959年03月期 | 単体 | 147 | +9.7% | 12 | n/a | n/a | n/a |
| 1960年03月期 | 単体 | 170 | +15.6% | n/a | 4 | 2.4% | n/a |
| 1961年03月期 | 単体 | 203 | +19.4% | n/a | 5 | 2.5% | n/a |
出所:上場会社総覧(1956年版、1959年版)半期合算、上場会社総覧(1959年版)半期合算、上場会社総覧(1961年版)半期合算、会社年鑑(1963年版)半期合算
出典・参考
3件
- 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第四章「再建第一期」
- 本州製紙社史(本州製紙、1966年)本社編 第五章「再建第二期」
- 私の履歴書 経済人12「木下又三郎」(日本経済新聞社、1980年)