第2章 年〜年

積水ハウス:売上高1兆円と累積住宅販売100万戸の達成

1990年〜展示場営業の限界を突いた納得工房と、業界初の売上高1兆円

1990年9月、積水ハウスは京都府相楽郡木津町に総合住宅研究所を開設し、延べ床面積3万2000平方メートルのうち6600平方メートルを"納得工房"に充てた。台所・階段・照明・サッシを実物で並べ、社員と顧客が操作して使い勝手の差を確かめる施設である。狙いは、展示場に依存した営業の作り替えにあった。全国に約400カ所と業界で最も多い展示場を持ちながら、そこで見せられるのは外観と間取りであって住み心地ではなく、福井佑吉専務・総合住宅研究所長は、外観を派手にして客を呼び込む同業の競い合いが顧客の不信を招いていると述べた。研修は1泊2日で、1990年10月以降に関西地区の約500人が受けた。田鍋健社長は『研究所や納得工房で売り上げアップは期待していない。納得工房を一つ作ったからといって、住宅販売がそう伸びるわけでもない』と語り、施設そのものを受注の道具とは見ていなかった。

  • 日本会社史総覧(1995年、東洋経済新報社)「積水ハウス」の項
    • [1]1990年9月 京都府木津町に総合住宅研究所を設置
  • 日経ビジネス 1991年3月25日号
    • [2]総合住宅研究所の延べ床面積3万2000平方メートルのうち6600平方メートルが納得工房
    • [3]納得工房では台所・階段・照明・サッシを実物で操作して使い勝手の差を確かめる
    • [4]展示場は全国約400カ所で住宅メーカー中最多
    • [5]展示場で見られるのは外観や間取りであって住み心地ではない
    • [6]積水ハウス専務・総合住宅研究所長の福井佑吉による、外観で客を呼び込む競い合いが顧客の不信を招いているとの指摘
    • [7]研修は1泊2日・1990年10月以降に関西地区の約500人が受講
    • [8]積水ハウス社長の田鍋健氏による納得工房に関する発言

販売力の源泉は、全国に張り巡らせた営業所網と、その競わせ方にあった。営業所は独立採算で、与えられた商圏は目安にすぎず、営業所どうしが競って実績を上げる気風だった。1989年度の完工棟数は2万7250棟で、2位の積水化学工業1万5900棟、3位のミサワホーム1万5800棟に1万棟以上の差をつけ、メーカー別のシェアは18.8%に達した。系列営業所を置かない沖縄を除く46都道府県のうち、30府県で地域首位を握っていた。地方では販売を託した先を資本で取り込んでおり、1963年に代理店として北陸3県の販売を引き受けた森下興建は、1990年の第三者割当増資で子会社となり積水ハウス北陸へ商号を改めた。もっとも営業マン1人あたりの年間販売は10棟程度で、福井佑吉専務はこれを2倍に伸ばせるとみていた。

  • 日経ビジネス 1991年3月25日号
    • [9]営業所は独立採算で商圏は目安にすぎず、営業所どうしが競う
    • [10]1989年度の完工棟数は積水ハウス2万7250棟・積水化学1万5900棟・ミサワホーム1万5800棟、積水ハウスのシェアは18.8%
    • [11]沖縄を除く46都道府県のうち30府県で地域トップシェア
    • [13]営業マン1人あたりの年間販売は10棟程度で、福井佑吉専務は2倍に伸ばせるとみていた
  • 証券アナリストジャーナル 1993年7月号別冊付録
    • [12]1963年に北陸3県の販売を受託した森下興建が1990年の第三者割当増資で子会社となり積水ハウス北陸へ商号変更

1991年1月期、売上高は住宅業界で初めて1兆円を超えた。1990年1月期は8417億円で、1年で大台に乗せたことになる。1992年4月、田鍋健氏は29年にわたった社長職を退いて会長に回り、副社長の奥井功氏が後を継いだ。業界の環境はそれ以前から悪化していた。住宅着工は1990年度に165万棟だったが、1991年度は150万棟まで減る見込みで、高い金利が成長の足を引っ張っていた。奥井氏は1970年に積水化学工業から移ってきた人物である。以後は経理と財務の道を歩み、1975年には当時まだ例の少なかった外債の発行を指揮した。神戸市・六甲アイランドの第4次開発など大型案件が控えており、財務の手腕が買われたとみる向きもあった。これに対し本人は『重点は営業に置く。営業が気持ち良く仕事できる環境を作るのが社長の役目』と言い切った。田鍋氏は翌1993年に亡くなった。

  • 日本会社史総覧(1995年、東洋経済新報社)「積水ハウス」の項
    • [14]1991年1月期に業界初の売上高1兆円を達成
  • 日経ビジネス 1991年3月25日号
    • [15]1990年1月期の売上高 8417億円
    • [17]住宅着工は1990年度165万棟から1991年度150万棟へ減少見込み、金利高で業績の伸びが鈍化
  • 日経ビジネス 1992年8月31日号
    • [16]1992年4月 田鍋健社長が会長へ退き副社長の奥井功が社長に就任
    • [18]奥井功は1970年11月に積水化学工業から積水ハウスへ移籍し、1975年に外債発行の指揮を執った
    • [19]積水ハウス社長の奥井功氏による就任時の発言
  • 『創業者精神:独力で優良企業を築いた経営者列伝』(日経ベンチャー別冊、1993年)「親会社を見返したいの一心」
    • [20]田鍋健は1992年に会長へ就任し1993年に没した
参考文献[1]-[20]
  • 日本会社史総覧(1995年、東洋経済新報社)「積水ハウス」の項
    • [1]1990年9月 京都府木津町に総合住宅研究所を設置
    • [14]1991年1月期に業界初の売上高1兆円を達成
  • 日経ビジネス 1991年3月25日号
    • [2]総合住宅研究所の延べ床面積3万2000平方メートルのうち6600平方メートルが納得工房
    • [3]納得工房では台所・階段・照明・サッシを実物で操作して使い勝手の差を確かめる
    • [4]展示場は全国約400カ所で住宅メーカー中最多
    • [5]展示場で見られるのは外観や間取りであって住み心地ではない
    • [6]積水ハウス専務・総合住宅研究所長の福井佑吉による、外観で客を呼び込む競い合いが顧客の不信を招いているとの指摘
    • [7]研修は1泊2日・1990年10月以降に関西地区の約500人が受講
    • [8]積水ハウス社長の田鍋健氏による納得工房に関する発言
    • [9]営業所は独立採算で商圏は目安にすぎず、営業所どうしが競う
    • [10]1989年度の完工棟数は積水ハウス2万7250棟・積水化学1万5900棟・ミサワホーム1万5800棟、積水ハウスのシェアは18.8%
    • [11]沖縄を除く46都道府県のうち30府県で地域トップシェア
    • [13]営業マン1人あたりの年間販売は10棟程度で、福井佑吉専務は2倍に伸ばせるとみていた
    • [15]1990年1月期の売上高 8417億円
    • [17]住宅着工は1990年度165万棟から1991年度150万棟へ減少見込み、金利高で業績の伸びが鈍化
  • 証券アナリストジャーナル 1993年7月号別冊付録
    • [12]1963年に北陸3県の販売を受託した森下興建が1990年の第三者割当増資で子会社となり積水ハウス北陸へ商号変更
  • 日経ビジネス 1992年8月31日号
    • [16]1992年4月 田鍋健社長が会長へ退き副社長の奥井功が社長に就任
    • [18]奥井功は1970年11月に積水化学工業から積水ハウスへ移籍し、1975年に外債発行の指揮を執った
    • [19]積水ハウス社長の奥井功氏による就任時の発言
  • 『創業者精神:独力で優良企業を築いた経営者列伝』(日経ベンチャー別冊、1993年)「親会社を見返したいの一心」
    • [20]田鍋健は1992年に会長へ就任し1993年に没した

1992年〜3設計部が生んだ商品名の乱立と、購買層による並べ直し

1992年末、積水ハウスは商品のシリーズ名を一気に整理した。個人向けの一戸建ては28種類から7種類へ、11種類あったアパートは3種類へ減らし、木造ツーバイフォーの10商品は"ワンズワン"の1ブランドにまとめた。乱立の原因は開発体制にあった。大阪・東京・広島の3設計部が対等の立場で地域の特性を反映した商品を開発し、それぞれが商品名を付けていたため、競い合いが活力を生む一方で一戸建てだけで28種類に膨らみ、差異化が利かなくなっていた。1970年代に鉄骨系から木質系・コンクリート系・ツーバイフォーへ広げた品ぞろえは、業界で"家のデパート化"と呼ばれていた。常務の漆谷康氏は『商品の数が多くなり過ぎて、個々の商品の存在感を薄めた面があった。商品名を集約して、ブランド力を高めたい』と述べた。集約と同時にブランドごとに使う部材と形式の条件を定め、3設計部の商品開発に共通の枠組みを設けた。

  • 日経ビジネス 1993年7月5日号
    • [21]1992年末に一戸建て28種類を7種類、アパート11種類を3種類、木造ツーバイフォー10商品をワンズワン1ブランドへ集約
    • [22]大阪・東京・広島の3設計部が対等に商品を開発し各自が商品名を付けていたため一戸建てが28種類に膨らんだ
    • [24]積水ハウス常務の漆谷康氏による商品系列再編成の狙いに関する発言
    • [25]ブランドごとに使用する部材や形式の条件を定め3設計部の商品開発に共通の枠組みを設けた
  • 日経ビジネス 1979年3月19日号
    • [23]業界で「家のデパート化」と呼ばれた品ぞろえ

新しい分類の軸は、価格帯ではなく購買層に置かれた。最高級の"イズ"は資金に余裕のある建て替え層、"ローラ"は1次取得層、"セントレージ"は都会での建て替えを中心とする1.5次層、"オリジナル"は自由設計層を狙った。1993年5月1日、積水ハウスは大手新聞の首都圏版に、3.3平方メートル当たり42.7万円からという価格を載せた広告を出した。価格を織り込んだ広告は15年ぶりで、商品は同クラスの従来品より2割安い"セントレージDR"だった。ミサワホームの"デビュー・自由空間"、大和ハウス工業の"ユトリエ3"も40万円台を打ち出していた。プレハブ住宅のシェアは1992年度で24.8%と2位のミサワホームを9.5ポイント上回っていたが、東京都と神奈川県では首位を他社に譲り、北陸3県でも業界2位にとどまっていた。

  • 日経ビジネス 1993年7月5日号
    • [26]イズは建て替え層、ローラは1次取得層、セントレージは都会の建て替え1.5次層、オリジナルは自由設計層を対象とした購買層別の分類
    • [27]1993年5月1日に大手新聞の首都圏版へ3.3平方メートル当たり42.7万円からとする広告を掲載
    • [28]価格を織り込んだ広告は15年ぶりで、セントレージDRは同クラスの従来商品より2割安い
    • [29]ミサワホームのデビュー・自由空間と大和ハウス工業のユトリエ3が3.3平方メートル当たり40万円台を打ち出した
    • [30]1992年度のプレハブ住宅シェアは積水ハウス24.8%・ミサワホーム15.3%で、東京都・神奈川県では他社が首位
  • 証券アナリストジャーナル 1993年7月号別冊付録
    • [31]北陸3県における業界での地位は第2位

首位を支えていたのはアパート建築だった。生産緑地法の改正で都市部の貸家需要が膨らみ、1993年1月期の集合住宅の販売戸数は5万3399戸と前期を21.3%上回った。だがこの追い風は1年で止まり、1994年1月期は5万1500戸へ減る見込みとなった。都市開発事業への投資と社債償還が重なって1993年1月期末の有利子負債は4353億円と前期末から333億円増え、金融収支は前期の94億円の黒字から55億円の赤字へ転じ、経常利益は728億円と18.6%減った。連結でも売上高1兆1936億円に対し、経常利益は前期の932億円から751億円へ減少した。奥井功社長は1993年3月の決算発表で、賃貸アパートの着工は1991年度並みまで減るとみて、楽な経営環境とは思わないと述べた。

  • 日経ビジネス 1993年7月5日号
    • [32]1993年1月期の集合住宅販売戸数 5万3399戸(前期比21.3%増)・生産緑地法改正が追い風
    • [33]1994年1月期の集合住宅販売見込み 5万1500戸
    • [34]1993年1月期末の有利子負債4353億円(前期末比333億円増)、金融収支は94億円の黒字から55億円の赤字へ、経常利益728億円(前期比18.6%減)
    • [36]積水ハウス社長の奥井功氏による1993年3月決算発表での賃貸アパート着工に関する見通し
  • 積水ハウス 会社年鑑(連結業績)
    • [35]連結売上高 1993年1月期1兆1936億円、連結経常利益 1992年1月期932億円・1993年1月期751億円
参考文献[21]-[36]
  • 日経ビジネス 1993年7月5日号
    • [21]1992年末に一戸建て28種類を7種類、アパート11種類を3種類、木造ツーバイフォー10商品をワンズワン1ブランドへ集約
    • [22]大阪・東京・広島の3設計部が対等に商品を開発し各自が商品名を付けていたため一戸建てが28種類に膨らんだ
    • [24]積水ハウス常務の漆谷康氏による商品系列再編成の狙いに関する発言
    • [25]ブランドごとに使用する部材や形式の条件を定め3設計部の商品開発に共通の枠組みを設けた
    • [26]イズは建て替え層、ローラは1次取得層、セントレージは都会の建て替え1.5次層、オリジナルは自由設計層を対象とした購買層別の分類
    • [27]1993年5月1日に大手新聞の首都圏版へ3.3平方メートル当たり42.7万円からとする広告を掲載
    • [28]価格を織り込んだ広告は15年ぶりで、セントレージDRは同クラスの従来商品より2割安い
    • [29]ミサワホームのデビュー・自由空間と大和ハウス工業のユトリエ3が3.3平方メートル当たり40万円台を打ち出した
    • [30]1992年度のプレハブ住宅シェアは積水ハウス24.8%・ミサワホーム15.3%で、東京都・神奈川県では他社が首位
    • [32]1993年1月期の集合住宅販売戸数 5万3399戸(前期比21.3%増)・生産緑地法改正が追い風
    • [33]1994年1月期の集合住宅販売見込み 5万1500戸
    • [34]1993年1月期末の有利子負債4353億円(前期末比333億円増)、金融収支は94億円の黒字から55億円の赤字へ、経常利益728億円(前期比18.6%減)
    • [36]積水ハウス社長の奥井功氏による1993年3月決算発表での賃貸アパート着工に関する見通し
  • 日経ビジネス 1979年3月19日号
    • [23]業界で「家のデパート化」と呼ばれた品ぞろえ
  • 証券アナリストジャーナル 1993年7月号別冊付録
    • [31]北陸3県における業界での地位は第2位
  • 積水ハウス 会社年鑑(連結業績)
    • [35]連結売上高 1993年1月期1兆1936億円、連結経常利益 1992年1月期932億円・1993年1月期751億円

1993年〜累積100万戸の母集団と、紹介受注50%という目標

1993年11月、累積の住宅販売戸数が住宅業界で初めて100万戸に達した。年間の販売はおよそ7万6000戸、年商は1兆円で、発足から3年で資本金1億円を使い果たした会社とは規模が変わっていた。同じ年、大阪駅北に梅田スカイビルを完成させ、本社と大阪北地区の事業所をそこへ集約した。都市開発では神戸市の六甲アイランドCITYが住宅に次ぐ収益源に育ち、1990年には事業費総額約3420億円の第4期事業も取っていた。もっとも1995年1月の阪神・淡路大震災で同地域は液状化などの被害を受け、基礎地盤の強化に取り組むことになった。100万戸という引き渡しの積み上がりは、次の建て替えと紹介の母集団でもあった。

  • 日本会社史総覧(1995年、東洋経済新報社)「積水ハウス」の項
    • [37]1993年11月 累積住宅販売戸数が住宅業界初の100万戸に到達
    • [39]1993年 大阪駅北に梅田スカイビルを完成し本社および大阪北地区の事業所を移転・集約
    • [40]1990年に積水ハウスを中心事業主とするグループが六甲アイランドCITY第4期事業(事業費総額約3420億円)のコンペに当選
    • [41]1995年1月の阪神・淡路大震災で六甲アイランド地域が液状化などの被害を受け基礎地盤の強化に着手
  • 山陰の経済 1993年10月号「積水ハウス株式会社 常務取締役・東京支社長 漆谷康氏」
    • [38]年間販売はおよそ7万6000戸・年商1兆円、発足時は3年で資本金1億円を使い果たした

鉄骨系のプレハブを出発点とする積水ハウスは、木造の注文住宅を系列の会社に委ねてきた。積水ハウス木造は関西に地盤を置く中堅の分譲住宅メーカーで、売り上げの柱は木造の注文住宅だった。大阪証券取引所第2部に上場していた同社を、積水ハウスは1995年8月に吸収合併し、比率は積水ハウス1に対して積水ハウス木造0.6とした。合併のあとには木造住宅だけを扱う事業部を設け、5年後にはこの部門の売上高を1000億円に乗せる目標を立てた。住宅産業の大半をなお地元の工務店が握る構図は1970年代から変わっておらず、在来工法の需要を自社の商品として取り込むには、系列に置いたままでは足りなかった。

  • 日本会社史総覧(1995年、東洋経済新報社)「積水ハウス」の項
    • [42]積水ハウス木造は関西を地盤とする中堅の分譲住宅メーカーで注文木造住宅が主力
    • [44]合併比率は積水ハウス1に対し積水ハウス木造0.6
    • [45]合併後に木造住宅専門の事業部を設置し5年後に同部門売上高1000億円を目標とした
  • 積水ハウス 有価証券報告書【沿革】
    • [43]1995年8月 大証2部上場の積水ハウス木造を吸収合併
  • 日経ビジネス 1979年3月19日号
    • [46]住宅産業のシェアは地元の工務店が65%を握っていた

専務だった和田勇氏は1998年4月に社長へ昇格した。入社は1965年で、以来中部地区で住宅を売り続け、28歳のとき営業所長の最年少記録を作った人物である。奥井功社長が若返りを掲げて後任を打診したのは前年11月で、和田氏はそのとき、落ち込む受注を営業の立て直しで止めることが自分に課された役目だと考えた。社長として最初に打ち出したのは市場占有率10%の目標だった。住宅市場には中小の工務店も大手も数多く参入しており、首位の積水ハウスでさえ占有率は5%台だった。目標達成の軸には顧客満足を据え、既存顧客からの紹介で得る受注の比率を26%から50%に高めるとした。取締役に初めて顧客満足の担当を設け、新たにCS推進部を作った。住宅大手のなかで1997年度に増収を確保したのは同社の1社だけだったが、1999年1月期になると連結売上高は1兆3147億円、経常利益は561億円まで下がった。

  • 日経ビジネス 1998年11月23日号
    • [47]1998年4月 専務の和田勇が社長に就任
    • [48]和田勇は1965年入社で中部地区の住宅販売を歩き28歳で最年少の営業所長となった
    • [49]1997年11月に奥井功社長から若返りを理由に社長就任を打診され、営業強化で受注の下落に歯止めをかけることを自らの任務とした
    • [50]就任後に市場占有率10%を目標に掲げた(当時の占有率は5%台)
    • [51]顧客の紹介による受注比率を26%から50%へ高める目標を掲げ、顧客満足担当の取締役を初めて置きCS推進部を新設
    • [52]1997年度決算で住宅大手のうち1社だけ増収を確保
  • 積水ハウス 会社年鑑(連結業績)
    • [53]1999年1月期の連結売上高1兆3147億円・連結経常利益561億円
参考文献[37]-[53]
  • 日本会社史総覧(1995年、東洋経済新報社)「積水ハウス」の項
    • [37]1993年11月 累積住宅販売戸数が住宅業界初の100万戸に到達
    • [39]1993年 大阪駅北に梅田スカイビルを完成し本社および大阪北地区の事業所を移転・集約
    • [40]1990年に積水ハウスを中心事業主とするグループが六甲アイランドCITY第4期事業(事業費総額約3420億円)のコンペに当選
    • [41]1995年1月の阪神・淡路大震災で六甲アイランド地域が液状化などの被害を受け基礎地盤の強化に着手
    • [42]積水ハウス木造は関西を地盤とする中堅の分譲住宅メーカーで注文木造住宅が主力
    • [44]合併比率は積水ハウス1に対し積水ハウス木造0.6
    • [45]合併後に木造住宅専門の事業部を設置し5年後に同部門売上高1000億円を目標とした
  • 山陰の経済 1993年10月号「積水ハウス株式会社 常務取締役・東京支社長 漆谷康氏」
    • [38]年間販売はおよそ7万6000戸・年商1兆円、発足時は3年で資本金1億円を使い果たした
  • 積水ハウス 有価証券報告書【沿革】
    • [43]1995年8月 大証2部上場の積水ハウス木造を吸収合併
  • 日経ビジネス 1979年3月19日号
    • [46]住宅産業のシェアは地元の工務店が65%を握っていた
  • 日経ビジネス 1998年11月23日号
    • [47]1998年4月 専務の和田勇が社長に就任
    • [48]和田勇は1965年入社で中部地区の住宅販売を歩き28歳で最年少の営業所長となった
    • [49]1997年11月に奥井功社長から若返りを理由に社長就任を打診され、営業強化で受注の下落に歯止めをかけることを自らの任務とした
    • [50]就任後に市場占有率10%を目標に掲げた(当時の占有率は5%台)
    • [51]顧客の紹介による受注比率を26%から50%へ高める目標を掲げ、顧客満足担当の取締役を初めて置きCS推進部を新設
    • [52]1997年度決算で住宅大手のうち1社だけ増収を確保
  • 積水ハウス 会社年鑑(連結業績)
    • [53]1999年1月期の連結売上高1兆3147億円・連結経常利益561億円

筆者考察

1兆円は、積水ハウスにとって到達点ではなく伸びの止まる合図だった。1991年1月期に住宅業界で初めて1兆円へ乗った時点で、住宅着工は165万戸を頂に減り始めており、以後10年近く、連結売上高は1兆1000億円台から1兆4000億円台の間を往復した。棟数を積む競争はすでに限界に近く、営業マン1人あたりの年間販売は10棟前後で止まっていた。田鍋健氏が29年かけて作ったのは、営業所を地域ごとに競わせて棟数を取る装置である。その装置が回り切ったとき、会社に残された変数は、売る人の数ではなく売り方の中身のほうだった。

1992年末のブランド集約は、商品を減らす話ではない。28の商品名を7に減らしても商品の種類そのものは減っておらず、変わったのは買い手から見える輪郭である。大阪・東京・広島の3設計部が競って名前を付けてきた体制は、地域に合う家を生む代わりに、積水ハウスという一つの像を薄めていた。価格帯ではなく購買層で並べ直したのは、何を作ったかで棚を分ける発想から、誰に売るかで棚を分ける発想への入れ替えだった。和田勇氏が1998年に紹介による受注を26%から50%へと言えたのも、100万戸を引き渡し終えた後の会社だったからである。

1991年〜2000年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 利益率
1991年01月期 n/a n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1992年01月期 連結 11,478 n/a 932 478 4.2% n/a
1993年01月期 連結 11,936 +4.0% 751 391 3.3% n/a
1994年01月期 連結 12,944 +8.4% 763 403 3.1% n/a
1995年01月期 連結 12,541 ▲3.1% 783 407 3.2% n/a
1996年01月期 連結 13,095 +4.4% 766 409 3.1% n/a
1997年01月期 連結 14,302 +9.2% 839 426 3.0% n/a
1998年01月期 連結 14,577 +1.9% 744 397 2.7% 宮城県色麻町に東北工場を設置、操業を開始(1997/08)
1999年01月期 連結 13,147 ▲9.8% 561 229 1.7% n/a
2000年01月期 連結 13,303 +1.2% 701 ▲948 ▲7.1% n/a

出所:会社年鑑

出典・参考

11件
出典・参考
  • 積水ハウス 有価証券報告書【沿革】
  • 日本会社史総覧(1995年、東洋経済新報社)「積水ハウス」の項
  • 積水ハウス 会社年鑑(連結業績)
  • 日経ビジネス 1979年3月19日号
  • 日経ビジネス 1991年3月25日号
  • 日経ビジネス 1992年8月31日号
  • 証券アナリストジャーナル 1993年7月号別冊付録
  • 日経ビジネス 1993年7月5日号
  • 山陰の経済 1993年10月号「積水ハウス株式会社 常務取締役・東京支社長 漆谷康氏」
  • 日経ビジネス 1998年11月23日号
  • 『創業者精神:独力で優良企業を築いた経営者列伝』(日経ベンチャー別冊、1993年)「親会社を見返したいの一心」

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