遠山元一
経歴1905〜1972年
経歴
| 区分 | 所属先 | 就任年 | 役職 | 現任 | 1905年主要役職の状況(推定含む目安)1972年 |
|---|---|---|---|---|---|
| 民間 | 半田庸太郎商店 | 1905 | 入社 | ||
| 1909 | 売買係 | ||||
| 市村金次郎商店(才取) | 1911 | 手代 | |||
| 川島屋商店(個人経営・株式会社) | 1918 | 創業 | |||
| 1920 | 取締役社長 | ||||
| 日興コーディアルグループ | 1944 | 取締役社長 | |||
| 1952 | 会長 退任 | ||||
| 1964 | 取締役相談役 | ||||
| 1972 | 死去 |
創業ストーリー
創業ストーリー
遠山元一氏の郷里は埼玉県比企郡川島郷で、1890年に代々続く家の長男として生を受けた。父の道楽で田畑も屋敷も人手に渡り、1904年に高等小学校を終えると、遠縁にあたる内務官僚の水野錬太郎氏の家に書生として入った。陸軍幼年学校を志したが願書の締切に間に合わず、翌1905年9月、父の言いつけで兜町の半田庸太郎商店の小僧となった。1909年ごろから売買係として市場に出たが、1911年に盲腸を患って店を辞し、仲買店の間で売買を取り次ぐ才取の市村金次郎商店に手代として移った。歩合を合わせた収入で母を養い、1917年には郷里の屋敷跡を買い戻している。
- 五十年史[本編](日興證券, 1970年)「母と子」(遠山元一の生い立ち)
- [1]明治23年(1890) 埼玉県比企郡川島郷の旧家に、遠山元一は父義三と母美以との間に長男として生まれた
- 私の履歴書 経済人1(日本経済新聞社, 1980年)遠山元一(日興証券・会長)
- [2]郷里は埼玉県比企郡川島郷で一郷きっての豪農だったが、父の道楽で田畑も山林も屋敷も人手に渡った。明治37年3月に高等小学校を卒業し、遠縁の水野錬太郎の書生となる。幼年学校は願書の受付(12月31日)に間に合わず断念。明治38年9月、父の命で兜町の半田庸太郎商店に小僧として入る。明治42年ごろから売買係として市場へ。明治44年5月に盲腸を患い辞表を出し、才取りの市村金次郎商店に手代として入る。月給15円と上りの1割の歩で母を養い父に仕送り。大正6年に郷里の屋敷跡を買い戻した。大正7年に川島屋商店を開業、店名は郷里の川島郷から。資金3万円は電話・造作・開店披露で使い切り、1年目は資本を食い、2年目にトントン、3年目にいくらか残る目標を立て、1日300株の商内を見込んだ。伊藤銀三の紹介で北浜の超一流店と取引を始め、東京と大阪のサヤを機敏に取り、多いときは1日3万株。最初から株式会社として近代的企業に持っていこうと考え、大正9年春に資本金300万円の株式会社川島屋商店に改組。同年末に親店の津田信太郎から権利を5万円で譲り受け、大正10年1月4日の大発会から仲買人として開業。山一の杉野喜精の勧めで東京現物団に加入し公社債の売買を始めた。大正10年、日露戦争中に英仏で発行された外貨公債を「外貨公債のしおり」の刷り物で全国の銀行や会社にすすめ、2ヵ月に2億円売った。日銀への外貨債売却では日米の時差を利用した同日決済を正金銀行に提案し実行した。大正12年の関東大震災で社屋と帳簿を焼いたが有価証券は社員宿舎へ運び出し、仮事務所で業務を続けた。昭和47年8月9日死去
- [3]郷里は埼玉県比企郡川島郷で一郷きっての豪農だったが、父の道楽で田畑も山林も屋敷も人手に渡った。明治37年3月に高等小学校を卒業し、遠縁の水野錬太郎の書生となる。幼年学校は願書の受付(12月31日)に間に合わず断念。明治38年9月、父の命で兜町の半田庸太郎商店に小僧として入る。明治42年ごろから売買係として市場へ。明治44年5月に盲腸を患い辞表を出し、才取りの市村金次郎商店に手代として入る。月給15円と上りの1割の歩で母を養い父に仕送り。大正6年に郷里の屋敷跡を買い戻した。大正7年に川島屋商店を開業、店名は郷里の川島郷から。資金3万円は電話・造作・開店披露で使い切り、1年目は資本を食い、2年目にトントン、3年目にいくらか残る目標を立て、1日300株の商内を見込んだ。伊藤銀三の紹介で北浜の超一流店と取引を始め、東京と大阪のサヤを機敏に取り、多いときは1日3万株。最初から株式会社として近代的企業に持っていこうと考え、大正9年春に資本金300万円の株式会社川島屋商店に改組。同年末に親店の津田信太郎から権利を5万円で譲り受け、大正10年1月4日の大発会から仲買人として開業。山一の杉野喜精の勧めで東京現物団に加入し公社債の売買を始めた。大正10年、日露戦争中に英仏で発行された外貨公債を「外貨公債のしおり」の刷り物で全国の銀行や会社にすすめ、2ヵ月に2億円売った。日銀への外貨債売却では日米の時差を利用した同日決済を正金銀行に提案し実行した。大正12年の関東大震災で社屋と帳簿を焼いたが有価証券は社員宿舎へ運び出し、仮事務所で業務を続けた。昭和47年8月9日死去
- [4]郷里は埼玉県比企郡川島郷で一郷きっての豪農だったが、父の道楽で田畑も山林も屋敷も人手に渡った。明治37年3月に高等小学校を卒業し、遠縁の水野錬太郎の書生となる。幼年学校は願書の受付(12月31日)に間に合わず断念。明治38年9月、父の命で兜町の半田庸太郎商店に小僧として入る。明治42年ごろから売買係として市場へ。明治44年5月に盲腸を患い辞表を出し、才取りの市村金次郎商店に手代として入る。月給15円と上りの1割の歩で母を養い父に仕送り。大正6年に郷里の屋敷跡を買い戻した。大正7年に川島屋商店を開業、店名は郷里の川島郷から。資金3万円は電話・造作・開店披露で使い切り、1年目は資本を食い、2年目にトントン、3年目にいくらか残る目標を立て、1日300株の商内を見込んだ。伊藤銀三の紹介で北浜の超一流店と取引を始め、東京と大阪のサヤを機敏に取り、多いときは1日3万株。最初から株式会社として近代的企業に持っていこうと考え、大正9年春に資本金300万円の株式会社川島屋商店に改組。同年末に親店の津田信太郎から権利を5万円で譲り受け、大正10年1月4日の大発会から仲買人として開業。山一の杉野喜精の勧めで東京現物団に加入し公社債の売買を始めた。大正10年、日露戦争中に英仏で発行された外貨公債を「外貨公債のしおり」の刷り物で全国の銀行や会社にすすめ、2ヵ月に2億円売った。日銀への外貨債売却では日米の時差を利用した同日決済を正金銀行に提案し実行した。大正12年の関東大震災で社屋と帳簿を焼いたが有価証券は社員宿舎へ運び出し、仮事務所で業務を続けた。昭和47年8月9日死去
- [5]郷里は埼玉県比企郡川島郷で一郷きっての豪農だったが、父の道楽で田畑も山林も屋敷も人手に渡った。明治37年3月に高等小学校を卒業し、遠縁の水野錬太郎の書生となる。幼年学校は願書の受付(12月31日)に間に合わず断念。明治38年9月、父の命で兜町の半田庸太郎商店に小僧として入る。明治42年ごろから売買係として市場へ。明治44年5月に盲腸を患い辞表を出し、才取りの市村金次郎商店に手代として入る。月給15円と上りの1割の歩で母を養い父に仕送り。大正6年に郷里の屋敷跡を買い戻した。大正7年に川島屋商店を開業、店名は郷里の川島郷から。資金3万円は電話・造作・開店披露で使い切り、1年目は資本を食い、2年目にトントン、3年目にいくらか残る目標を立て、1日300株の商内を見込んだ。伊藤銀三の紹介で北浜の超一流店と取引を始め、東京と大阪のサヤを機敏に取り、多いときは1日3万株。最初から株式会社として近代的企業に持っていこうと考え、大正9年春に資本金300万円の株式会社川島屋商店に改組。同年末に親店の津田信太郎から権利を5万円で譲り受け、大正10年1月4日の大発会から仲買人として開業。山一の杉野喜精の勧めで東京現物団に加入し公社債の売買を始めた。大正10年、日露戦争中に英仏で発行された外貨公債を「外貨公債のしおり」の刷り物で全国の銀行や会社にすすめ、2ヵ月に2億円売った。日銀への外貨債売却では日米の時差を利用した同日決済を正金銀行に提案し実行した。大正12年の関東大震災で社屋と帳簿を焼いたが有価証券は社員宿舎へ運び出し、仮事務所で業務を続けた。昭和47年8月9日死去
1918年7月7日、旧主の店の裏にあった二階家を借り、日本橋区坂本町で現物商の川島屋商店を開業した。屋号は郷里の川島郷から取った。陣容は店主を含めて5名、電話は2本である。手元の3万円は電話や造作、開店披露で尽き、遠山元一氏は1年目に資本を食いつぶし、3年目にようやく利益が残るという見通しを立てた。東京に顧客の当てはなく、半田商店の売買係時代に電話でやり取りした大阪の相手に取引を申し入れ、伊藤銀三氏の紹介で北浜の大店と取引を結んだ。東西の値開きを突く売買で、1日300株を目標とした商いは多い日に3万株に達した。
- 五十年史[本編](日興證券, 1970年)第1編1章第2節1「早くも現物商として頭角を現わす」
- [6]川島屋商店は東京市日本橋区坂本町5番地の旧主人半田庸太郎氏の店舗の裏に位置した二階建の家屋(かつて半田商店の店員が寝泊りしていたところ)を借りて、大正7年7月7日に開業した。規模は電話2本に店員2名、交換手と女中、店主を含めて全部で5名
- [8]川島屋商店は東京市日本橋区坂本町5番地の旧主人半田庸太郎氏の店舗の裏に位置した二階建の家屋(かつて半田商店の店員が寝泊りしていたところ)を借りて、大正7年7月7日に開業した。規模は電話2本に店員2名、交換手と女中、店主を含めて全部で5名
- 私の履歴書 経済人1(日本経済新聞社, 1980年)遠山元一(日興証券・会長)
- [7]郷里は埼玉県比企郡川島郷で一郷きっての豪農だったが、父の道楽で田畑も山林も屋敷も人手に渡った。明治37年3月に高等小学校を卒業し、遠縁の水野錬太郎の書生となる。幼年学校は願書の受付(12月31日)に間に合わず断念。明治38年9月、父の命で兜町の半田庸太郎商店に小僧として入る。明治42年ごろから売買係として市場へ。明治44年5月に盲腸を患い辞表を出し、才取りの市村金次郎商店に手代として入る。月給15円と上りの1割の歩で母を養い父に仕送り。大正6年に郷里の屋敷跡を買い戻した。大正7年に川島屋商店を開業、店名は郷里の川島郷から。資金3万円は電話・造作・開店披露で使い切り、1年目は資本を食い、2年目にトントン、3年目にいくらか残る目標を立て、1日300株の商内を見込んだ。伊藤銀三の紹介で北浜の超一流店と取引を始め、東京と大阪のサヤを機敏に取り、多いときは1日3万株。最初から株式会社として近代的企業に持っていこうと考え、大正9年春に資本金300万円の株式会社川島屋商店に改組。同年末に親店の津田信太郎から権利を5万円で譲り受け、大正10年1月4日の大発会から仲買人として開業。山一の杉野喜精の勧めで東京現物団に加入し公社債の売買を始めた。大正10年、日露戦争中に英仏で発行された外貨公債を「外貨公債のしおり」の刷り物で全国の銀行や会社にすすめ、2ヵ月に2億円売った。日銀への外貨債売却では日米の時差を利用した同日決済を正金銀行に提案し実行した。大正12年の関東大震災で社屋と帳簿を焼いたが有価証券は社員宿舎へ運び出し、仮事務所で業務を続けた。昭和47年8月9日死去
- [9]郷里は埼玉県比企郡川島郷で一郷きっての豪農だったが、父の道楽で田畑も山林も屋敷も人手に渡った。明治37年3月に高等小学校を卒業し、遠縁の水野錬太郎の書生となる。幼年学校は願書の受付(12月31日)に間に合わず断念。明治38年9月、父の命で兜町の半田庸太郎商店に小僧として入る。明治42年ごろから売買係として市場へ。明治44年5月に盲腸を患い辞表を出し、才取りの市村金次郎商店に手代として入る。月給15円と上りの1割の歩で母を養い父に仕送り。大正6年に郷里の屋敷跡を買い戻した。大正7年に川島屋商店を開業、店名は郷里の川島郷から。資金3万円は電話・造作・開店披露で使い切り、1年目は資本を食い、2年目にトントン、3年目にいくらか残る目標を立て、1日300株の商内を見込んだ。伊藤銀三の紹介で北浜の超一流店と取引を始め、東京と大阪のサヤを機敏に取り、多いときは1日3万株。最初から株式会社として近代的企業に持っていこうと考え、大正9年春に資本金300万円の株式会社川島屋商店に改組。同年末に親店の津田信太郎から権利を5万円で譲り受け、大正10年1月4日の大発会から仲買人として開業。山一の杉野喜精の勧めで東京現物団に加入し公社債の売買を始めた。大正10年、日露戦争中に英仏で発行された外貨公債を「外貨公債のしおり」の刷り物で全国の銀行や会社にすすめ、2ヵ月に2億円売った。日銀への外貨債売却では日米の時差を利用した同日決済を正金銀行に提案し実行した。大正12年の関東大震災で社屋と帳簿を焼いたが有価証券は社員宿舎へ運び出し、仮事務所で業務を続けた。昭和47年8月9日死去
- [10]郷里は埼玉県比企郡川島郷で一郷きっての豪農だったが、父の道楽で田畑も山林も屋敷も人手に渡った。明治37年3月に高等小学校を卒業し、遠縁の水野錬太郎の書生となる。幼年学校は願書の受付(12月31日)に間に合わず断念。明治38年9月、父の命で兜町の半田庸太郎商店に小僧として入る。明治42年ごろから売買係として市場へ。明治44年5月に盲腸を患い辞表を出し、才取りの市村金次郎商店に手代として入る。月給15円と上りの1割の歩で母を養い父に仕送り。大正6年に郷里の屋敷跡を買い戻した。大正7年に川島屋商店を開業、店名は郷里の川島郷から。資金3万円は電話・造作・開店披露で使い切り、1年目は資本を食い、2年目にトントン、3年目にいくらか残る目標を立て、1日300株の商内を見込んだ。伊藤銀三の紹介で北浜の超一流店と取引を始め、東京と大阪のサヤを機敏に取り、多いときは1日3万株。最初から株式会社として近代的企業に持っていこうと考え、大正9年春に資本金300万円の株式会社川島屋商店に改組。同年末に親店の津田信太郎から権利を5万円で譲り受け、大正10年1月4日の大発会から仲買人として開業。山一の杉野喜精の勧めで東京現物団に加入し公社債の売買を始めた。大正10年、日露戦争中に英仏で発行された外貨公債を「外貨公債のしおり」の刷り物で全国の銀行や会社にすすめ、2ヵ月に2億円売った。日銀への外貨債売却では日米の時差を利用した同日決済を正金銀行に提案し実行した。大正12年の関東大震災で社屋と帳簿を焼いたが有価証券は社員宿舎へ運び出し、仮事務所で業務を続けた。昭和47年8月9日死去
- [11]郷里は埼玉県比企郡川島郷で一郷きっての豪農だったが、父の道楽で田畑も山林も屋敷も人手に渡った。明治37年3月に高等小学校を卒業し、遠縁の水野錬太郎の書生となる。幼年学校は願書の受付(12月31日)に間に合わず断念。明治38年9月、父の命で兜町の半田庸太郎商店に小僧として入る。明治42年ごろから売買係として市場へ。明治44年5月に盲腸を患い辞表を出し、才取りの市村金次郎商店に手代として入る。月給15円と上りの1割の歩で母を養い父に仕送り。大正6年に郷里の屋敷跡を買い戻した。大正7年に川島屋商店を開業、店名は郷里の川島郷から。資金3万円は電話・造作・開店披露で使い切り、1年目は資本を食い、2年目にトントン、3年目にいくらか残る目標を立て、1日300株の商内を見込んだ。伊藤銀三の紹介で北浜の超一流店と取引を始め、東京と大阪のサヤを機敏に取り、多いときは1日3万株。最初から株式会社として近代的企業に持っていこうと考え、大正9年春に資本金300万円の株式会社川島屋商店に改組。同年末に親店の津田信太郎から権利を5万円で譲り受け、大正10年1月4日の大発会から仲買人として開業。山一の杉野喜精の勧めで東京現物団に加入し公社債の売買を始めた。大正10年、日露戦争中に英仏で発行された外貨公債を「外貨公債のしおり」の刷り物で全国の銀行や会社にすすめ、2ヵ月に2億円売った。日銀への外貨債売却では日米の時差を利用した同日決済を正金銀行に提案し実行した。大正12年の関東大震災で社屋と帳簿を焼いたが有価証券は社員宿舎へ運び出し、仮事務所で業務を続けた。昭和47年8月9日死去
遠山元一氏は開業時から、株式会社による近代的な証券業を思い描いていた。1920年4月に資本金300万円の株式会社川島屋商店へ改め、社長に就任した。同年末には親店の津田信太郎氏から仲買人の権利を5万円で譲り受け、1921年の大発会から仲買人として営業した。山一の杉野喜精氏に勧められて一流店の団体である東京現物団に加わり、公社債の売買を始めた。
- 私の履歴書 経済人1(日本経済新聞社, 1980年)遠山元一(日興証券・会長)
- [12]郷里は埼玉県比企郡川島郷で一郷きっての豪農だったが、父の道楽で田畑も山林も屋敷も人手に渡った。明治37年3月に高等小学校を卒業し、遠縁の水野錬太郎の書生となる。幼年学校は願書の受付(12月31日)に間に合わず断念。明治38年9月、父の命で兜町の半田庸太郎商店に小僧として入る。明治42年ごろから売買係として市場へ。明治44年5月に盲腸を患い辞表を出し、才取りの市村金次郎商店に手代として入る。月給15円と上りの1割の歩で母を養い父に仕送り。大正6年に郷里の屋敷跡を買い戻した。大正7年に川島屋商店を開業、店名は郷里の川島郷から。資金3万円は電話・造作・開店披露で使い切り、1年目は資本を食い、2年目にトントン、3年目にいくらか残る目標を立て、1日300株の商内を見込んだ。伊藤銀三の紹介で北浜の超一流店と取引を始め、東京と大阪のサヤを機敏に取り、多いときは1日3万株。最初から株式会社として近代的企業に持っていこうと考え、大正9年春に資本金300万円の株式会社川島屋商店に改組。同年末に親店の津田信太郎から権利を5万円で譲り受け、大正10年1月4日の大発会から仲買人として開業。山一の杉野喜精の勧めで東京現物団に加入し公社債の売買を始めた。大正10年、日露戦争中に英仏で発行された外貨公債を「外貨公債のしおり」の刷り物で全国の銀行や会社にすすめ、2ヵ月に2億円売った。日銀への外貨債売却では日米の時差を利用した同日決済を正金銀行に提案し実行した。大正12年の関東大震災で社屋と帳簿を焼いたが有価証券は社員宿舎へ運び出し、仮事務所で業務を続けた。昭和47年8月9日死去
- [14]郷里は埼玉県比企郡川島郷で一郷きっての豪農だったが、父の道楽で田畑も山林も屋敷も人手に渡った。明治37年3月に高等小学校を卒業し、遠縁の水野錬太郎の書生となる。幼年学校は願書の受付(12月31日)に間に合わず断念。明治38年9月、父の命で兜町の半田庸太郎商店に小僧として入る。明治42年ごろから売買係として市場へ。明治44年5月に盲腸を患い辞表を出し、才取りの市村金次郎商店に手代として入る。月給15円と上りの1割の歩で母を養い父に仕送り。大正6年に郷里の屋敷跡を買い戻した。大正7年に川島屋商店を開業、店名は郷里の川島郷から。資金3万円は電話・造作・開店披露で使い切り、1年目は資本を食い、2年目にトントン、3年目にいくらか残る目標を立て、1日300株の商内を見込んだ。伊藤銀三の紹介で北浜の超一流店と取引を始め、東京と大阪のサヤを機敏に取り、多いときは1日3万株。最初から株式会社として近代的企業に持っていこうと考え、大正9年春に資本金300万円の株式会社川島屋商店に改組。同年末に親店の津田信太郎から権利を5万円で譲り受け、大正10年1月4日の大発会から仲買人として開業。山一の杉野喜精の勧めで東京現物団に加入し公社債の売買を始めた。大正10年、日露戦争中に英仏で発行された外貨公債を「外貨公債のしおり」の刷り物で全国の銀行や会社にすすめ、2ヵ月に2億円売った。日銀への外貨債売却では日米の時差を利用した同日決済を正金銀行に提案し実行した。大正12年の関東大震災で社屋と帳簿を焼いたが有価証券は社員宿舎へ運び出し、仮事務所で業務を続けた。昭和47年8月9日死去
- [15]郷里は埼玉県比企郡川島郷で一郷きっての豪農だったが、父の道楽で田畑も山林も屋敷も人手に渡った。明治37年3月に高等小学校を卒業し、遠縁の水野錬太郎の書生となる。幼年学校は願書の受付(12月31日)に間に合わず断念。明治38年9月、父の命で兜町の半田庸太郎商店に小僧として入る。明治42年ごろから売買係として市場へ。明治44年5月に盲腸を患い辞表を出し、才取りの市村金次郎商店に手代として入る。月給15円と上りの1割の歩で母を養い父に仕送り。大正6年に郷里の屋敷跡を買い戻した。大正7年に川島屋商店を開業、店名は郷里の川島郷から。資金3万円は電話・造作・開店披露で使い切り、1年目は資本を食い、2年目にトントン、3年目にいくらか残る目標を立て、1日300株の商内を見込んだ。伊藤銀三の紹介で北浜の超一流店と取引を始め、東京と大阪のサヤを機敏に取り、多いときは1日3万株。最初から株式会社として近代的企業に持っていこうと考え、大正9年春に資本金300万円の株式会社川島屋商店に改組。同年末に親店の津田信太郎から権利を5万円で譲り受け、大正10年1月4日の大発会から仲買人として開業。山一の杉野喜精の勧めで東京現物団に加入し公社債の売買を始めた。大正10年、日露戦争中に英仏で発行された外貨公債を「外貨公債のしおり」の刷り物で全国の銀行や会社にすすめ、2ヵ月に2億円売った。日銀への外貨債売却では日米の時差を利用した同日決済を正金銀行に提案し実行した。大正12年の関東大震災で社屋と帳簿を焼いたが有価証券は社員宿舎へ運び出し、仮事務所で業務を続けた。昭和47年8月9日死去
- 五十年史[本編](日興證券, 1970年)第1編2章第1節3「株式会社川島屋商店の創立と社礎確立」
- [13]1920年2月28日に発起人会、資本金300万円。4月15日に株式会社川島屋商店として開業し、取締役の互選により社長に遠山元一が就任
1921年には日露戦争中に英仏で発行された外貨公債に着目し、利回りの計算を示した刷り物を全国の銀行や会社に送って、2ヵ月で2億円を売った。日本銀行へ外債を売る際は、日米の時差を使えば同日に決済できる点を横浜正金銀行に説き、立替資金を持たずに取引を成立させた。
- 私の履歴書 経済人1(日本経済新聞社, 1980年)遠山元一(日興証券・会長)
- [16]郷里は埼玉県比企郡川島郷で一郷きっての豪農だったが、父の道楽で田畑も山林も屋敷も人手に渡った。明治37年3月に高等小学校を卒業し、遠縁の水野錬太郎の書生となる。幼年学校は願書の受付(12月31日)に間に合わず断念。明治38年9月、父の命で兜町の半田庸太郎商店に小僧として入る。明治42年ごろから売買係として市場へ。明治44年5月に盲腸を患い辞表を出し、才取りの市村金次郎商店に手代として入る。月給15円と上りの1割の歩で母を養い父に仕送り。大正6年に郷里の屋敷跡を買い戻した。大正7年に川島屋商店を開業、店名は郷里の川島郷から。資金3万円は電話・造作・開店披露で使い切り、1年目は資本を食い、2年目にトントン、3年目にいくらか残る目標を立て、1日300株の商内を見込んだ。伊藤銀三の紹介で北浜の超一流店と取引を始め、東京と大阪のサヤを機敏に取り、多いときは1日3万株。最初から株式会社として近代的企業に持っていこうと考え、大正9年春に資本金300万円の株式会社川島屋商店に改組。同年末に親店の津田信太郎から権利を5万円で譲り受け、大正10年1月4日の大発会から仲買人として開業。山一の杉野喜精の勧めで東京現物団に加入し公社債の売買を始めた。大正10年、日露戦争中に英仏で発行された外貨公債を「外貨公債のしおり」の刷り物で全国の銀行や会社にすすめ、2ヵ月に2億円売った。日銀への外貨債売却では日米の時差を利用した同日決済を正金銀行に提案し実行した。大正12年の関東大震災で社屋と帳簿を焼いたが有価証券は社員宿舎へ運び出し、仮事務所で業務を続けた。昭和47年8月9日死去
- [17]郷里は埼玉県比企郡川島郷で一郷きっての豪農だったが、父の道楽で田畑も山林も屋敷も人手に渡った。明治37年3月に高等小学校を卒業し、遠縁の水野錬太郎の書生となる。幼年学校は願書の受付(12月31日)に間に合わず断念。明治38年9月、父の命で兜町の半田庸太郎商店に小僧として入る。明治42年ごろから売買係として市場へ。明治44年5月に盲腸を患い辞表を出し、才取りの市村金次郎商店に手代として入る。月給15円と上りの1割の歩で母を養い父に仕送り。大正6年に郷里の屋敷跡を買い戻した。大正7年に川島屋商店を開業、店名は郷里の川島郷から。資金3万円は電話・造作・開店披露で使い切り、1年目は資本を食い、2年目にトントン、3年目にいくらか残る目標を立て、1日300株の商内を見込んだ。伊藤銀三の紹介で北浜の超一流店と取引を始め、東京と大阪のサヤを機敏に取り、多いときは1日3万株。最初から株式会社として近代的企業に持っていこうと考え、大正9年春に資本金300万円の株式会社川島屋商店に改組。同年末に親店の津田信太郎から権利を5万円で譲り受け、大正10年1月4日の大発会から仲買人として開業。山一の杉野喜精の勧めで東京現物団に加入し公社債の売買を始めた。大正10年、日露戦争中に英仏で発行された外貨公債を「外貨公債のしおり」の刷り物で全国の銀行や会社にすすめ、2ヵ月に2億円売った。日銀への外貨債売却では日米の時差を利用した同日決済を正金銀行に提案し実行した。大正12年の関東大震災で社屋と帳簿を焼いたが有価証券は社員宿舎へ運び出し、仮事務所で業務を続けた。昭和47年8月9日死去
1923年の関東大震災で社屋と帳簿を焼失したが、有価証券は社員宿舎へ運び出しており、仮事務所で業務を続けた。1938年10月に有価証券引受業法の免許を第1号で受け、1939年3月には引受を担う別会社として川島屋證券を設立した。1944年4月1日、川島屋證券と日本興業銀行系の旧日興證券が新設合併して日興證券が発足し、遠山元一氏は社長として兜町の営業を率いた。1952年7月に会長、1964年5月に取締役相談役へ退き、1972年8月9日に死去した。
- 私の履歴書 経済人1(日本経済新聞社, 1980年)遠山元一(日興証券・会長)
- [18]郷里は埼玉県比企郡川島郷で一郷きっての豪農だったが、父の道楽で田畑も山林も屋敷も人手に渡った。明治37年3月に高等小学校を卒業し、遠縁の水野錬太郎の書生となる。幼年学校は願書の受付(12月31日)に間に合わず断念。明治38年9月、父の命で兜町の半田庸太郎商店に小僧として入る。明治42年ごろから売買係として市場へ。明治44年5月に盲腸を患い辞表を出し、才取りの市村金次郎商店に手代として入る。月給15円と上りの1割の歩で母を養い父に仕送り。大正6年に郷里の屋敷跡を買い戻した。大正7年に川島屋商店を開業、店名は郷里の川島郷から。資金3万円は電話・造作・開店披露で使い切り、1年目は資本を食い、2年目にトントン、3年目にいくらか残る目標を立て、1日300株の商内を見込んだ。伊藤銀三の紹介で北浜の超一流店と取引を始め、東京と大阪のサヤを機敏に取り、多いときは1日3万株。最初から株式会社として近代的企業に持っていこうと考え、大正9年春に資本金300万円の株式会社川島屋商店に改組。同年末に親店の津田信太郎から権利を5万円で譲り受け、大正10年1月4日の大発会から仲買人として開業。山一の杉野喜精の勧めで東京現物団に加入し公社債の売買を始めた。大正10年、日露戦争中に英仏で発行された外貨公債を「外貨公債のしおり」の刷り物で全国の銀行や会社にすすめ、2ヵ月に2億円売った。日銀への外貨債売却では日米の時差を利用した同日決済を正金銀行に提案し実行した。大正12年の関東大震災で社屋と帳簿を焼いたが有価証券は社員宿舎へ運び出し、仮事務所で業務を続けた。昭和47年8月9日死去
- [22]郷里は埼玉県比企郡川島郷で一郷きっての豪農だったが、父の道楽で田畑も山林も屋敷も人手に渡った。明治37年3月に高等小学校を卒業し、遠縁の水野錬太郎の書生となる。幼年学校は願書の受付(12月31日)に間に合わず断念。明治38年9月、父の命で兜町の半田庸太郎商店に小僧として入る。明治42年ごろから売買係として市場へ。明治44年5月に盲腸を患い辞表を出し、才取りの市村金次郎商店に手代として入る。月給15円と上りの1割の歩で母を養い父に仕送り。大正6年に郷里の屋敷跡を買い戻した。大正7年に川島屋商店を開業、店名は郷里の川島郷から。資金3万円は電話・造作・開店披露で使い切り、1年目は資本を食い、2年目にトントン、3年目にいくらか残る目標を立て、1日300株の商内を見込んだ。伊藤銀三の紹介で北浜の超一流店と取引を始め、東京と大阪のサヤを機敏に取り、多いときは1日3万株。最初から株式会社として近代的企業に持っていこうと考え、大正9年春に資本金300万円の株式会社川島屋商店に改組。同年末に親店の津田信太郎から権利を5万円で譲り受け、大正10年1月4日の大発会から仲買人として開業。山一の杉野喜精の勧めで東京現物団に加入し公社債の売買を始めた。大正10年、日露戦争中に英仏で発行された外貨公債を「外貨公債のしおり」の刷り物で全国の銀行や会社にすすめ、2ヵ月に2億円売った。日銀への外貨債売却では日米の時差を利用した同日決済を正金銀行に提案し実行した。大正12年の関東大震災で社屋と帳簿を焼いたが有価証券は社員宿舎へ運び出し、仮事務所で業務を続けた。昭和47年8月9日死去
- 五十年史[本編](日興證券, 1970年)第1編3章第1節3「日華事変下の川島屋商店」「川島屋証券株式会社の設立」
- [19]1938年7月1日施行の有価証券引受業法で同日申請し、10月8日に第1号の免許会社となった。1938年12月28日の取締役会で日本興業銀行の下引受団加入のため引受業法による新会社の設立を決議し、資本金500万円の川島屋証券株式会社を1939年3月1日に設立、3日に営業開始
- 五十年史[本編](日興證券, 1970年)第2編1章第1節「設立の構想」・「当社新設合併の事情」
- [20](旧)日興証券は1920年6月、日本興業銀行の別働機関として興業債券の消化を担うために創立された。合併期日は昭和19年4月1日で、川島屋証券と(旧)日興証券の新設合併が正式に成立した。昭和19年4月に日興証券の社名で新発足したが、(旧)日興の社長だった福岡会長は興銀ビル4階の本店に、遠山社長はほとんど兜町にいた(遠山相談役の回想)
- 五十年史[本編](日興證券, 1970年)「遠山会長,吉野社長による新体制」ほか
- [21]昭和27年7月30日の臨時株主総会で会長制の復活と副社長制の新設を決め、遠山社長が会長に、吉野専務が社長に就任。昭和39年5月14日の取締役会で遠山会長が取締役相談役に
業績貢献
遠山元一氏:在任中の業績貢献
| 決算期 | 在任 | 売上高 | 前期比 | 営業利益率 | ROE | 主な施策 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1950年9月期 | 7億円 | — | — | — | ||
| 1951年9月期 | 10億円 | +42.9% | — | — | 証券投資信託法に基づく委託会社の登録を完了 | |
| 1952年9月期 | 20億円 | +100.0% | — | — | ||
| 1953年9月期 | 35億円 | +75.0% | — | — | ||
| 1954年9月期 | 20億円 | ▲42.9% | — | — | ||
| 1955年9月期 | 24億円 | +20.0% | — | — | ||
| 1956年9月期 | 43億円 | +79.2% | 25.6% | — | ||
| 1957年9月期 | 49億円 | +14.0% | 32.7% | — |
参考文献3件
参考文献
事実根拠:出所(日興コーディアルグループ)