第1章 年〜年

忠実屋:高木国勝の八王子での創業と株式会社忠実屋への改組

1935年〜「いろは屋」の看板を借りた八王子本町の10坪の食料品店と、聖書から採った屋号

忠実屋の起点は1935年10月、高木国勝氏が八王子の本町に開いた食料品店である。借りた売り場は10坪ほどで、品ぞろえの中心は漬物・佃煮・煮豆だった。品物は漬物と佃煮の製造卸「いろは屋」から仕入れ、店の看板もその屋号を名乗った。開業から2年ほどは自前の製造を持たず、仕入れた品を店頭で売る家業にとどまった。後年の忠実屋は八王子や多摩地区を中心に埼玉県・神奈川県へ店を広げ、1990年時点で中堅スーパーとなっていた。自前の屋号を持たずに卸の看板で客の信用を得る始め方は、小さな家業にとって負担の少ない選択だったとみられる。

  • 証券アナリストジャーナル 1977年 15巻12号 高木吉友(昭和52年11月18日 企業分析部会 講演要旨)
    • [1]1935年10月、高木国勝が八王子・本町に約10坪の店を借りて食料品店を開業。主な商品は漬物・佃煮・煮豆で、製造卸「いろは屋」の品を売り、その屋号を借りて使った
    • [2]1935年10月、高木国勝が八王子・本町に約10坪の店を借りて食料品店を開業。主な商品は漬物・佃煮・煮豆で、製造卸「いろは屋」の品を売り、その屋号を借りて使った
    • [3]1935年10月、高木国勝が八王子・本町に約10坪の店を借りて食料品店を開業。主な商品は漬物・佃煮・煮豆で、製造卸「いろは屋」の品を売り、その屋号を借りて使った
    • [4]1935年10月、高木国勝が八王子・本町に約10坪の店を借りて食料品店を開業。主な商品は漬物・佃煮・煮豆で、製造卸「いろは屋」の品を売り、その屋号を借りて使った
  • 経済ライフ 1990年「秀和、忠実屋高木社長に退陣勧告!!」後藤光昭
    • [5]1990年時点の忠実屋は八王子・多摩地区を中心に埼玉県・神奈川県に店舗を持つ中堅スーパー

店の屋号が「忠実屋」に替わったのは1937年である。開業から2年を経て、店は品物の一部を自前で製造し始めた。いろは屋は、仕入れ品と自家製品が同じ店に並ぶと万一の事故で責任が混ざることを懸念し、自社の看板を外すよう求めた。高木国勝氏は熱心なクリスチャンで、新しい屋号の出典は聖書のヨハネ伝10章。その中の『汝、死に至るまで(神に)忠実なれ、さらばわれ汝に生命の冠を与えん』という一節から、神と客に対して忠実であろうとする願いを店の名に込めた。この屋号は1993年、ダイエーへの吸収合併が決まった後も、75店の看板の掛け替えに10億円近くかかるため、しばらく残る見通しとされた。

  • 証券アナリストジャーナル 1977年 15巻12号 高木吉友(昭和52年11月18日 企業分析部会 講演要旨)
    • [6]1937年に屋号を「忠実屋」に変更。自前製造の開始で、いろは屋が事故時の混同を懸念し看板を外すよう求めた。クリスチャンの高木国勝がヨハネ伝10章の一節から屋号を採った
    • [7]1937年に屋号を「忠実屋」に変更。自前製造の開始で、いろは屋が事故時の混同を懸念し看板を外すよう求めた。クリスチャンの高木国勝がヨハネ伝10章の一節から屋号を採った
    • [8]1937年に屋号を「忠実屋」に変更。自前製造の開始で、いろは屋が事故時の混同を懸念し看板を外すよう求めた。クリスチャンの高木国勝がヨハネ伝10章の一節から屋号を採った
    • [9]1937年に屋号を「忠実屋」に変更。自前製造の開始で、いろは屋が事故時の混同を懸念し看板を外すよう求めた。クリスチャンの高木国勝がヨハネ伝10章の一節から屋号を採った
    • [10]1937年に屋号を「忠実屋」に変更。自前製造の開始で、いろは屋が事故時の混同を懸念し看板を外すよう求めた。クリスチャンの高木国勝がヨハネ伝10章の一節から屋号を採った
  • 日経ビジネス 1993年10月11日号
    • [11]1993年、ダイエーとの合併後も75店の看板の掛け替えに10億円近くかかるため忠実屋の名はしばらく残るとされた

1947年、高木国勝氏の子の高木吉友氏が家業を継いだ。高木吉友氏は屋号の由来にそむかないことを経営の軸に置き、社是を『地域社会の豊かな生活のために忠実に奉仕し、みずからの幸せを達成する』と定めた。この社是を経営の基本理念とし、すべての判断の拠り所にする方針を、高木吉友氏は1977年の講演で表明。1993年、長男で前副社長の高木国夫氏は、ダイエーへの吸収合併が決まった後も、この精神を忠実屋の創業精神として受け継ぐ考えを示した。高木国夫氏は、合併で商品や陳列、経営方針が入れ替わり、外見は同じでも創業精神は消えるとの見方も添えた。屋号の由来から社是を導いた組み立ては、看板の名を社員の判断の物差しへ変える試みだったと推察される。

  • 証券アナリストジャーナル 1977年 15巻12号 高木吉友(昭和52年11月18日 企業分析部会 講演要旨)
    • [12]1947年(昭和22年)に高木吉友が家業を継承し、屋号の由来にそむかない社是を経営の基本理念として全ての判断の基準に置いた
    • [13]1947年(昭和22年)に高木吉友が家業を継承し、屋号の由来にそむかない社是を経営の基本理念として全ての判断の基準に置いた
    • [14]1947年(昭和22年)に高木吉友が家業を継承し、屋号の由来にそむかない社是を経営の基本理念として全ての判断の基準に置いた
  • 日経ビジネス 1993年10月11日号
    • [15]1993年、高木国夫は合併後も「地域社会の豊かな生活のために忠実に奉仕し…」という創業精神を受け継ぎたいとし、合併で経営の中身が変わり創業精神は消失するとの見方を示した
    • [16]1993年、高木国夫は合併後も「地域社会の豊かな生活のために忠実に奉仕し…」という創業精神を受け継ぎたいとし、合併で経営の中身が変わり創業精神は消失するとの見方を示した
参考文献[1]-[16]
  • 証券アナリストジャーナル 1977年 15巻12号 高木吉友(昭和52年11月18日 企業分析部会 講演要旨)
    • [1]1935年10月、高木国勝が八王子・本町に約10坪の店を借りて食料品店を開業。主な商品は漬物・佃煮・煮豆で、製造卸「いろは屋」の品を売り、その屋号を借りて使った
    • [2]1935年10月、高木国勝が八王子・本町に約10坪の店を借りて食料品店を開業。主な商品は漬物・佃煮・煮豆で、製造卸「いろは屋」の品を売り、その屋号を借りて使った
    • [3]1935年10月、高木国勝が八王子・本町に約10坪の店を借りて食料品店を開業。主な商品は漬物・佃煮・煮豆で、製造卸「いろは屋」の品を売り、その屋号を借りて使った
    • [4]1935年10月、高木国勝が八王子・本町に約10坪の店を借りて食料品店を開業。主な商品は漬物・佃煮・煮豆で、製造卸「いろは屋」の品を売り、その屋号を借りて使った
    • [6]1937年に屋号を「忠実屋」に変更。自前製造の開始で、いろは屋が事故時の混同を懸念し看板を外すよう求めた。クリスチャンの高木国勝がヨハネ伝10章の一節から屋号を採った
    • [7]1937年に屋号を「忠実屋」に変更。自前製造の開始で、いろは屋が事故時の混同を懸念し看板を外すよう求めた。クリスチャンの高木国勝がヨハネ伝10章の一節から屋号を採った
    • [8]1937年に屋号を「忠実屋」に変更。自前製造の開始で、いろは屋が事故時の混同を懸念し看板を外すよう求めた。クリスチャンの高木国勝がヨハネ伝10章の一節から屋号を採った
    • [9]1937年に屋号を「忠実屋」に変更。自前製造の開始で、いろは屋が事故時の混同を懸念し看板を外すよう求めた。クリスチャンの高木国勝がヨハネ伝10章の一節から屋号を採った
    • [10]1937年に屋号を「忠実屋」に変更。自前製造の開始で、いろは屋が事故時の混同を懸念し看板を外すよう求めた。クリスチャンの高木国勝がヨハネ伝10章の一節から屋号を採った
    • [12]1947年(昭和22年)に高木吉友が家業を継承し、屋号の由来にそむかない社是を経営の基本理念として全ての判断の基準に置いた
    • [13]1947年(昭和22年)に高木吉友が家業を継承し、屋号の由来にそむかない社是を経営の基本理念として全ての判断の基準に置いた
    • [14]1947年(昭和22年)に高木吉友が家業を継承し、屋号の由来にそむかない社是を経営の基本理念として全ての判断の基準に置いた
  • 経済ライフ 1990年「秀和、忠実屋高木社長に退陣勧告!!」後藤光昭
    • [5]1990年時点の忠実屋は八王子・多摩地区を中心に埼玉県・神奈川県に店舗を持つ中堅スーパー
  • 日経ビジネス 1993年10月11日号
    • [11]1993年、ダイエーとの合併後も75店の看板の掛け替えに10億円近くかかるため忠実屋の名はしばらく残るとされた
    • [15]1993年、高木国夫は合併後も「地域社会の豊かな生活のために忠実に奉仕し…」という創業精神を受け継ぎたいとし、合併で経営の中身が変わり創業精神は消失するとの見方を示した
    • [16]1993年、高木国夫は合併後も「地域社会の豊かな生活のために忠実に奉仕し…」という創業精神を受け継ぎたいとし、合併で経営の中身が変わり創業精神は消失するとの見方を示した

1948年〜資本金15万円の有限会社から100万円の株式会社への改組と、横山町の鉄筋3階建て2号店

忠実屋が資本金15万円の有限会社として法人の形を取ったのは、家業を継いだ翌年の1948年である。個人で営んできた食料品店は、二代目の高木吉友氏のもとで会社組織に移った。有限会社の資本金15万円は、1954年の株式会社への改組で100万円に増えた。1993年、長男の高木国夫氏は、忠実屋を父の高木吉友氏が創業した会社と位置づけた。高木吉友氏は1991年6月3日に死去するまで、秀和による株式の買い占めへの対抗に力を注いだ。店を創業したのは高木国勝氏であり、会社としての忠実屋は高木吉友氏による法人化を起点に数えられていたと思われる。

  • 証券アナリストジャーナル 1977年 15巻12号 高木吉友(昭和52年11月18日 企業分析部会 講演要旨)
    • [17]1948年(昭和23年)に有限会社(資本金15万円)として発足し、1954年(昭和29年)に株式会社(資本金100万円)へ組織替え
    • [18]1948年(昭和23年)に有限会社(資本金15万円)として発足し、1954年(昭和29年)に株式会社(資本金100万円)へ組織替え
    • [19]1948年(昭和23年)に有限会社(資本金15万円)として発足し、1954年(昭和29年)に株式会社(資本金100万円)へ組織替え
  • 日経ビジネス 1993年10月11日号
    • [20]高木国夫は忠実屋を父・高木吉友が創業したと述べ、高木吉友は1991年6月3日に死去
    • [21]高木国夫は忠実屋を父・高木吉友が創業したと述べ、高木吉友は1991年6月3日に死去

1954年、株式会社への組織変更とともに資本金は100万円。社長の高木吉友氏は、漬物・佃煮・煮豆を主に売ってきた店が総合食品店へ移った起点を、この改組の時点に置いた。改組後の本社は八王子・八幡町の店で、1977年の講演の時点でも同じ店が本社だった。この段階の忠実屋は扱う品を食品に限り、衣料や家庭用品の売り場をまだ持たなかった。高木吉友氏が1991年に死去するまでに育てた忠実屋は、1993年時点で75店舗を構える中堅スーパーとなっていた。

  • 証券アナリストジャーナル 1977年 15巻12号 高木吉友(昭和52年11月18日 企業分析部会 講演要旨)
    • [22]1954年に株式会社(資本金100万円)へ組織替えし、これを総合食品店としての始まりとした。本社は八王子・八幡町の店。非食品への着手は1960年
    • [23]1954年に株式会社(資本金100万円)へ組織替えし、これを総合食品店としての始まりとした。本社は八王子・八幡町の店。非食品への着手は1960年
    • [24]1954年に株式会社(資本金100万円)へ組織替えし、これを総合食品店としての始まりとした。本社は八王子・八幡町の店。非食品への着手は1960年
    • [25]1954年に株式会社(資本金100万円)へ組織替えし、これを総合食品店としての始まりとした。本社は八王子・八幡町の店。非食品への着手は1960年
  • 日経ビジネス 1993年10月11日号
    • [26]高木吉友は忠実屋を75店舗を展開する中堅スーパーに育てた(1993年時点)

1959年4月、忠実屋は八王子・横山町に鉄筋3階建ての2号店を開設した。ただ当時の八王子では、2階で物を売ることを嫌う風潮が強かった。高木吉友氏も上の階での商売は時期が早いと判断し、2階と3階を約1年使わずに置いて、その間を他地域の売り場の視察に充てた。視察の結論は、食品だけでは時代に遅れるというもので、1960年に上の階で衣料と家庭用品を売る決断につながった。のちの忠実屋は八王子と多摩地区を地盤とし、1990年時点で大手スーパーの店舗が少ない地域に店を構える中堅スーパーとなった。売り場を使う当てのないまま3階建てを先に建てた判断には、食品の1店にとどまらない構想が早くからあったのだろう。

  • 証券アナリストジャーナル 1977年 15巻12号 高木吉友(昭和52年11月18日 企業分析部会 講演要旨)
    • [27]1959年(昭和34年)4月、2号店として八王子・横山町に鉄筋3階建て店舗を開設。2階での商売がタブー視され2・3階を約1年空け、各地を見学のうえ1960年に2階衣料・3階家庭用品を始めた
    • [28]1959年(昭和34年)4月、2号店として八王子・横山町に鉄筋3階建て店舗を開設。2階での商売がタブー視され2・3階を約1年空け、各地を見学のうえ1960年に2階衣料・3階家庭用品を始めた
    • [29]1959年(昭和34年)4月、2号店として八王子・横山町に鉄筋3階建て店舗を開設。2階での商売がタブー視され2・3階を約1年空け、各地を見学のうえ1960年に2階衣料・3階家庭用品を始めた
    • [30]1959年(昭和34年)4月、2号店として八王子・横山町に鉄筋3階建て店舗を開設。2階での商売がタブー視され2・3階を約1年空け、各地を見学のうえ1960年に2階衣料・3階家庭用品を始めた
  • 経済ライフ 1990年「秀和、忠実屋高木社長に退陣勧告!!」後藤光昭
    • [31]1990年時点で忠実屋は八王子・多摩地区中心の中堅スーパーで、同地区はダイエーや西友など大手スーパーの店舗が少ない
参考文献[17]-[31]
  • 証券アナリストジャーナル 1977年 15巻12号 高木吉友(昭和52年11月18日 企業分析部会 講演要旨)
    • [17]1948年(昭和23年)に有限会社(資本金15万円)として発足し、1954年(昭和29年)に株式会社(資本金100万円)へ組織替え
    • [18]1948年(昭和23年)に有限会社(資本金15万円)として発足し、1954年(昭和29年)に株式会社(資本金100万円)へ組織替え
    • [19]1948年(昭和23年)に有限会社(資本金15万円)として発足し、1954年(昭和29年)に株式会社(資本金100万円)へ組織替え
    • [22]1954年に株式会社(資本金100万円)へ組織替えし、これを総合食品店としての始まりとした。本社は八王子・八幡町の店。非食品への着手は1960年
    • [23]1954年に株式会社(資本金100万円)へ組織替えし、これを総合食品店としての始まりとした。本社は八王子・八幡町の店。非食品への着手は1960年
    • [24]1954年に株式会社(資本金100万円)へ組織替えし、これを総合食品店としての始まりとした。本社は八王子・八幡町の店。非食品への着手は1960年
    • [25]1954年に株式会社(資本金100万円)へ組織替えし、これを総合食品店としての始まりとした。本社は八王子・八幡町の店。非食品への着手は1960年
    • [27]1959年(昭和34年)4月、2号店として八王子・横山町に鉄筋3階建て店舗を開設。2階での商売がタブー視され2・3階を約1年空け、各地を見学のうえ1960年に2階衣料・3階家庭用品を始めた
    • [28]1959年(昭和34年)4月、2号店として八王子・横山町に鉄筋3階建て店舗を開設。2階での商売がタブー視され2・3階を約1年空け、各地を見学のうえ1960年に2階衣料・3階家庭用品を始めた
    • [29]1959年(昭和34年)4月、2号店として八王子・横山町に鉄筋3階建て店舗を開設。2階での商売がタブー視され2・3階を約1年空け、各地を見学のうえ1960年に2階衣料・3階家庭用品を始めた
    • [30]1959年(昭和34年)4月、2号店として八王子・横山町に鉄筋3階建て店舗を開設。2階での商売がタブー視され2・3階を約1年空け、各地を見学のうえ1960年に2階衣料・3階家庭用品を始めた
  • 日経ビジネス 1993年10月11日号
    • [20]高木国夫は忠実屋を父・高木吉友が創業したと述べ、高木吉友は1991年6月3日に死去
    • [21]高木国夫は忠実屋を父・高木吉友が創業したと述べ、高木吉友は1991年6月3日に死去
    • [26]高木吉友は忠実屋を75店舗を展開する中堅スーパーに育てた(1993年時点)
  • 経済ライフ 1990年「秀和、忠実屋高木社長に退陣勧告!!」後藤光昭
    • [31]1990年時点で忠実屋は八王子・多摩地区中心の中堅スーパーで、同地区はダイエーや西友など大手スーパーの店舗が少ない

出典・参考

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出典・参考
  • 証券アナリストジャーナル 1977年 15巻12号 高木吉友(昭和52年11月18日 企業分析部会 講演要旨)
  • 日経ビジネス 1993年10月11日号
  • 経済ライフ 1990年「秀和、忠実屋高木社長に退陣勧告!!」後藤光昭

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