本山修策
経歴1951〜1987年
経歴
| 区分 | 所属先 | 就任年 | 役職 | 現任 | 1951年主要役職の状況(推定含む目安)1987年 |
|---|---|---|---|---|---|
| 民間 | 島根県 | 1951 | 副知事 | ||
| 日本瓦斯 | 1955 | 代表取締役社長(設立時・初代) | |||
| 1987 | 社長 退任 |
創業ストーリー
創業ストーリー
本山修策氏は1931年に東京帝国大学法学部を卒業し、同年に拓務省へ入省した。以後24年間を官界で過ごし、1955年に島根県副知事を最後に退いた。退官にあたって天下り先の話がいくつも持ち込まれたが、「役人という権力で、人様の作ったものに乗っかる」のは生きがいにそぐわないとして、すべて断った。新たな道を一から切り開くと決めた本山修策氏に、LPガスの事業を勧めたのは同郷の岩谷直治氏(岩谷産業社長)である。当時の家庭の燃料は炭や薪、練炭、石炭といった固形燃料が中心で、LPガスは1952〜53年ごろに市場へ出たばかりだった。本山修策氏はこれを戦後の「燃料革命」とみて、事業にする価値があると判断した。
- 会社年鑑(1986年版)【役員】
- [1](代)社長 本山修策(東大法6年卒、元島根県副知事)
- 日経ビジネス 1973年4月2日号
- [2]本山修策は昭和6年に拓務省へ入省し、昭和30年に島根県副知事を最後に退職するまで24年間役人生活を送った。天下り先の口がかけられたが「役人という権力で、人様の作ったものに乗っかるというのは、どうしても私の生きがいにそぐわない」として全部断り、「新しい人生をゼロから出発しよう」と考えていたところへ、同郷の岩谷直治(岩谷産業社長)からLPガスをやってみないかという話が持ち込まれた。家庭用燃料の王座は炭・薪・練炭・石炭でLPガスはほとんど知られておらず、「燃料革命」と考えてやってみる価値があるとし、昭和30年7月に日本瓦斯を設立。常務の石橋幸弘が当時22歳で岩谷産業から設立に参加し、社員は5人。会社を始める時に20年間いっさいのレジャーを断つ決心をし、囲碁・将棋・ゴルフをやめた
- [3]本山修策は昭和6年に拓務省へ入省し、昭和30年に島根県副知事を最後に退職するまで24年間役人生活を送った。天下り先の口がかけられたが「役人という権力で、人様の作ったものに乗っかるというのは、どうしても私の生きがいにそぐわない」として全部断り、「新しい人生をゼロから出発しよう」と考えていたところへ、同郷の岩谷直治(岩谷産業社長)からLPガスをやってみないかという話が持ち込まれた。家庭用燃料の王座は炭・薪・練炭・石炭でLPガスはほとんど知られておらず、「燃料革命」と考えてやってみる価値があるとし、昭和30年7月に日本瓦斯を設立。常務の石橋幸弘が当時22歳で岩谷産業から設立に参加し、社員は5人。会社を始める時に20年間いっさいのレジャーを断つ決心をし、囲碁・将棋・ゴルフをやめた
- [4]本山修策は昭和6年に拓務省へ入省し、昭和30年に島根県副知事を最後に退職するまで24年間役人生活を送った。天下り先の口がかけられたが「役人という権力で、人様の作ったものに乗っかるというのは、どうしても私の生きがいにそぐわない」として全部断り、「新しい人生をゼロから出発しよう」と考えていたところへ、同郷の岩谷直治(岩谷産業社長)からLPガスをやってみないかという話が持ち込まれた。家庭用燃料の王座は炭・薪・練炭・石炭でLPガスはほとんど知られておらず、「燃料革命」と考えてやってみる価値があるとし、昭和30年7月に日本瓦斯を設立。常務の石橋幸弘が当時22歳で岩谷産業から設立に参加し、社員は5人。会社を始める時に20年間いっさいのレジャーを断つ決心をし、囲碁・将棋・ゴルフをやめた
- [5]本山修策は昭和6年に拓務省へ入省し、昭和30年に島根県副知事を最後に退職するまで24年間役人生活を送った。天下り先の口がかけられたが「役人という権力で、人様の作ったものに乗っかるというのは、どうしても私の生きがいにそぐわない」として全部断り、「新しい人生をゼロから出発しよう」と考えていたところへ、同郷の岩谷直治(岩谷産業社長)からLPガスをやってみないかという話が持ち込まれた。家庭用燃料の王座は炭・薪・練炭・石炭でLPガスはほとんど知られておらず、「燃料革命」と考えてやってみる価値があるとし、昭和30年7月に日本瓦斯を設立。常務の石橋幸弘が当時22歳で岩谷産業から設立に参加し、社員は5人。会社を始める時に20年間いっさいのレジャーを断つ決心をし、囲碁・将棋・ゴルフをやめた
- [7]本山修策は昭和6年に拓務省へ入省し、昭和30年に島根県副知事を最後に退職するまで24年間役人生活を送った。天下り先の口がかけられたが「役人という権力で、人様の作ったものに乗っかるというのは、どうしても私の生きがいにそぐわない」として全部断り、「新しい人生をゼロから出発しよう」と考えていたところへ、同郷の岩谷直治(岩谷産業社長)からLPガスをやってみないかという話が持ち込まれた。家庭用燃料の王座は炭・薪・練炭・石炭でLPガスはほとんど知られておらず、「燃料革命」と考えてやってみる価値があるとし、昭和30年7月に日本瓦斯を設立。常務の石橋幸弘が当時22歳で岩谷産業から設立に参加し、社員は5人。会社を始める時に20年間いっさいのレジャーを断つ決心をし、囲碁・将棋・ゴルフをやめた
- 証券アナリストジャーナル 1973年11巻4号(本山修策 講演要旨)
- [6]LPガスは昭和27〜28年を境に液体の燃料として市場に登場し、それまで家庭・業務用の燃料は石炭・炭・まき・煉炭などの固形燃料だった。戦後における燃料革命のひとつ。発足時の資本金250万円・社員5人。私が創業開始した30年7月から12月までの売上は300万円。第1期・第2期は赤字、第3期にその赤字を消し、第4期から2割配当を続けた。30年の当初から工事部を設けた
- [8]LPガスは昭和27〜28年を境に液体の燃料として市場に登場し、それまで家庭・業務用の燃料は石炭・炭・まき・煉炭などの固形燃料だった。戦後における燃料革命のひとつ。発足時の資本金250万円・社員5人。私が創業開始した30年7月から12月までの売上は300万円。第1期・第2期は赤字、第3期にその赤字を消し、第4期から2割配当を続けた。30年の当初から工事部を設けた
1955年7月、本山修策氏は資本金250万円・社員5人で日本瓦斯を設立し、社長に就任した。出資は岩谷氏一族を中心とし、岩谷産業の関東地区の特約店として、同社から仕入れたプロパンガスを一般家庭へ直販し、ガス機器もあわせて売る会社という位置づけである。岩谷産業からは当時22歳の石橋幸弘氏が設立に加わった。しかし8月の1か月で10キロ容器が1本しか売れないほど、LPガスは家庭に知られていなかった。第1期と第2期は赤字で、第3期に累積の赤字を消し、第4期から2割の配当を続けた。本山修策氏は事業を始める際、20年間いっさいのレジャーを断つと決め、囲碁や将棋、ゴルフをやめた。
- 日経ビジネス 1973年4月2日号
- [9]本山修策は昭和6年に拓務省へ入省し、昭和30年に島根県副知事を最後に退職するまで24年間役人生活を送った。天下り先の口がかけられたが「役人という権力で、人様の作ったものに乗っかるというのは、どうしても私の生きがいにそぐわない」として全部断り、「新しい人生をゼロから出発しよう」と考えていたところへ、同郷の岩谷直治(岩谷産業社長)からLPガスをやってみないかという話が持ち込まれた。家庭用燃料の王座は炭・薪・練炭・石炭でLPガスはほとんど知られておらず、「燃料革命」と考えてやってみる価値があるとし、昭和30年7月に日本瓦斯を設立。常務の石橋幸弘が当時22歳で岩谷産業から設立に参加し、社員は5人。会社を始める時に20年間いっさいのレジャーを断つ決心をし、囲碁・将棋・ゴルフをやめた
- [12]本山修策は昭和6年に拓務省へ入省し、昭和30年に島根県副知事を最後に退職するまで24年間役人生活を送った。天下り先の口がかけられたが「役人という権力で、人様の作ったものに乗っかるというのは、どうしても私の生きがいにそぐわない」として全部断り、「新しい人生をゼロから出発しよう」と考えていたところへ、同郷の岩谷直治(岩谷産業社長)からLPガスをやってみないかという話が持ち込まれた。家庭用燃料の王座は炭・薪・練炭・石炭でLPガスはほとんど知られておらず、「燃料革命」と考えてやってみる価値があるとし、昭和30年7月に日本瓦斯を設立。常務の石橋幸弘が当時22歳で岩谷産業から設立に参加し、社員は5人。会社を始める時に20年間いっさいのレジャーを断つ決心をし、囲碁・将棋・ゴルフをやめた
- [15]本山修策は昭和6年に拓務省へ入省し、昭和30年に島根県副知事を最後に退職するまで24年間役人生活を送った。天下り先の口がかけられたが「役人という権力で、人様の作ったものに乗っかるというのは、どうしても私の生きがいにそぐわない」として全部断り、「新しい人生をゼロから出発しよう」と考えていたところへ、同郷の岩谷直治(岩谷産業社長)からLPガスをやってみないかという話が持ち込まれた。家庭用燃料の王座は炭・薪・練炭・石炭でLPガスはほとんど知られておらず、「燃料革命」と考えてやってみる価値があるとし、昭和30年7月に日本瓦斯を設立。常務の石橋幸弘が当時22歳で岩谷産業から設立に参加し、社員は5人。会社を始める時に20年間いっさいのレジャーを断つ決心をし、囲碁・将棋・ゴルフをやめた
- 証券アナリストジャーナル 1973年11巻4号(本山修策 講演要旨)
- [10]LPガスは昭和27〜28年を境に液体の燃料として市場に登場し、それまで家庭・業務用の燃料は石炭・炭・まき・煉炭などの固形燃料だった。戦後における燃料革命のひとつ。発足時の資本金250万円・社員5人。私が創業開始した30年7月から12月までの売上は300万円。第1期・第2期は赤字、第3期にその赤字を消し、第4期から2割配当を続けた。30年の当初から工事部を設けた
- [14]LPガスは昭和27〜28年を境に液体の燃料として市場に登場し、それまで家庭・業務用の燃料は石炭・炭・まき・煉炭などの固形燃料だった。戦後における燃料革命のひとつ。発足時の資本金250万円・社員5人。私が創業開始した30年7月から12月までの売上は300万円。第1期・第2期は赤字、第3期にその赤字を消し、第4期から2割配当を続けた。30年の当初から工事部を設けた
- 証券 1973年25巻2号(287号)
- [11]岩谷氏一族を中心に岩谷産業の関東地区特約店として設立された旧日本瓦斯(設立昭和30年7月)が、額面500円を50円に変更するため昭和46年10月に営業活動を停止していた日本瓦斯(旧商号関東商事)に吸収合併された。旧日本瓦斯は岩谷産業からプロパンガスを仕入れ一般家庭へ直販し、ガス機器類も販売する目的で設立。岩谷産業は昭和38年9月に資本参加したが、現在では資金援助・従業員の出向は皆無で、営業取引も年間1億5,000万円程度
- 証券アナリストジャーナル 1974年12巻12号(本山修策 講演要旨)
- [13]30年7月に創業を開始し、8月1カ月間で10キロ容器1本しか売れなかった。創業当初から小売り直売主義に徹し代理店方式は採用せず、このようなディーラーの業界で株式を上場した会社は当社以外に1社もない。LPガスは家庭で大量に貯蔵できないため、大型貯蔵タンクを持つ充てん工場の自営を当初から手がけた。創業当初から工事部門を設け、設計・施工・供給の一貫した責任供給体制を打ち立てた。昭和30年の日本住宅公団設立にともない公団とタイアップし、翌31年春に配管による集中供給方式を開発実用化
営業の形は、代理店を置かずに家庭へ直接売る小売直売に絞った。安全な供給のために創業当初から工事部を設け、配管の設計と施工からガスの供給までを自社で一貫して引き受けた。1955年の日本住宅公団の発足をとらえて公団と提携し、翌1956年春には配管で団地の各戸へまとめて送る集中供給方式を実用化した。高圧のLPガスは家庭で大量に貯められないため、業者側が在庫を抱える必要があるとして、大型タンクを持つ充塡工場の自営にも当初から取り組んだ。1959年12月に田無工場、1960年8月に町田工場が完成し、1963年4月には日本瓦斯運輸、1965年2月には配管工事部門を切り出した日本瓦斯工事を設立した。
- 証券アナリストジャーナル 1974年12巻12号(本山修策 講演要旨)
- [16]30年7月に創業を開始し、8月1カ月間で10キロ容器1本しか売れなかった。創業当初から小売り直売主義に徹し代理店方式は採用せず、このようなディーラーの業界で株式を上場した会社は当社以外に1社もない。LPガスは家庭で大量に貯蔵できないため、大型貯蔵タンクを持つ充てん工場の自営を当初から手がけた。創業当初から工事部門を設け、設計・施工・供給の一貫した責任供給体制を打ち立てた。昭和30年の日本住宅公団設立にともない公団とタイアップし、翌31年春に配管による集中供給方式を開発実用化
- [18]30年7月に創業を開始し、8月1カ月間で10キロ容器1本しか売れなかった。創業当初から小売り直売主義に徹し代理店方式は採用せず、このようなディーラーの業界で株式を上場した会社は当社以外に1社もない。LPガスは家庭で大量に貯蔵できないため、大型貯蔵タンクを持つ充てん工場の自営を当初から手がけた。創業当初から工事部門を設け、設計・施工・供給の一貫した責任供給体制を打ち立てた。昭和30年の日本住宅公団設立にともない公団とタイアップし、翌31年春に配管による集中供給方式を開発実用化
- [19]30年7月に創業を開始し、8月1カ月間で10キロ容器1本しか売れなかった。創業当初から小売り直売主義に徹し代理店方式は採用せず、このようなディーラーの業界で株式を上場した会社は当社以外に1社もない。LPガスは家庭で大量に貯蔵できないため、大型貯蔵タンクを持つ充てん工場の自営を当初から手がけた。創業当初から工事部門を設け、設計・施工・供給の一貫した責任供給体制を打ち立てた。昭和30年の日本住宅公団設立にともない公団とタイアップし、翌31年春に配管による集中供給方式を開発実用化
- [20]30年7月に創業を開始し、8月1カ月間で10キロ容器1本しか売れなかった。創業当初から小売り直売主義に徹し代理店方式は採用せず、このようなディーラーの業界で株式を上場した会社は当社以外に1社もない。LPガスは家庭で大量に貯蔵できないため、大型貯蔵タンクを持つ充てん工場の自営を当初から手がけた。創業当初から工事部門を設け、設計・施工・供給の一貫した責任供給体制を打ち立てた。昭和30年の日本住宅公団設立にともない公団とタイアップし、翌31年春に配管による集中供給方式を開発実用化
- 証券アナリストジャーナル 1973年11巻4号(本山修策 講演要旨)
- [17]LPガスは昭和27〜28年を境に液体の燃料として市場に登場し、それまで家庭・業務用の燃料は石炭・炭・まき・煉炭などの固形燃料だった。戦後における燃料革命のひとつ。発足時の資本金250万円・社員5人。私が創業開始した30年7月から12月までの売上は300万円。第1期・第2期は赤字、第3期にその赤字を消し、第4期から2割配当を続けた。30年の当初から工事部を設けた
- 日本瓦斯 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
- [21]1955年7月 旧日本瓦斯設立(資本金250万円)/1959年12月 田無工場完成/1960年8月 町田工場完成/1963年4月 日本瓦斯運輸設立/1965年2月 日本瓦斯工事設立(配管工事施工部門を分離)/1966年6月 新日本瓦斯設立(都市ガス事業に進出)/1967年2月 我孫子ガスに経営参加/1967年9月 小山都市瓦斯設立/1968年6月 取手ガス設立/1971年1月 久喜都市ガス設立/1971年10月 額面金額変更のため合併/1973年2月 東京証券取引所市場第二部に上場/1979年1月 東京証券取引所市場第一部銘柄に指定替
事業の範囲を広げたのは1966年6月で、新日本瓦斯を設立して都市ガス事業に進出し、1967年から1971年にかけて我孫子・小山・取手・久喜の都市ガス会社を傘下に加えた。1963年9月には岩谷産業が資本参加したが、1973年時点で資金援助や出向はなく、同社との取引は年1億5,000万円程度にとどまっていた。1971年10月には株式の額面を500円から50円に改めるため、休眠中の関東商事が旧日本瓦斯を吸収合併し、1973年2月に東京証券取引所市場第二部へ上場した。小売直売の業者で株式を上場した会社は、1974年時点で日本瓦斯のほかになかった。1979年1月に市場第一部へ指定替えとなり、1987年6月、創業時から在籍した石橋幸弘氏が社長に就任した。
- 日本瓦斯 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
- [22]1955年7月 旧日本瓦斯設立(資本金250万円)/1959年12月 田無工場完成/1960年8月 町田工場完成/1963年4月 日本瓦斯運輸設立/1965年2月 日本瓦斯工事設立(配管工事施工部門を分離)/1966年6月 新日本瓦斯設立(都市ガス事業に進出)/1967年2月 我孫子ガスに経営参加/1967年9月 小山都市瓦斯設立/1968年6月 取手ガス設立/1971年1月 久喜都市ガス設立/1971年10月 額面金額変更のため合併/1973年2月 東京証券取引所市場第二部に上場/1979年1月 東京証券取引所市場第一部銘柄に指定替
- [25]1955年7月 旧日本瓦斯設立(資本金250万円)/1959年12月 田無工場完成/1960年8月 町田工場完成/1963年4月 日本瓦斯運輸設立/1965年2月 日本瓦斯工事設立(配管工事施工部門を分離)/1966年6月 新日本瓦斯設立(都市ガス事業に進出)/1967年2月 我孫子ガスに経営参加/1967年9月 小山都市瓦斯設立/1968年6月 取手ガス設立/1971年1月 久喜都市ガス設立/1971年10月 額面金額変更のため合併/1973年2月 東京証券取引所市場第二部に上場/1979年1月 東京証券取引所市場第一部銘柄に指定替
- [27]1955年7月 旧日本瓦斯設立(資本金250万円)/1959年12月 田無工場完成/1960年8月 町田工場完成/1963年4月 日本瓦斯運輸設立/1965年2月 日本瓦斯工事設立(配管工事施工部門を分離)/1966年6月 新日本瓦斯設立(都市ガス事業に進出)/1967年2月 我孫子ガスに経営参加/1967年9月 小山都市瓦斯設立/1968年6月 取手ガス設立/1971年1月 久喜都市ガス設立/1971年10月 額面金額変更のため合併/1973年2月 東京証券取引所市場第二部に上場/1979年1月 東京証券取引所市場第一部銘柄に指定替
- 証券 1973年25巻2号(287号)
- [23]岩谷氏一族を中心に岩谷産業の関東地区特約店として設立された旧日本瓦斯(設立昭和30年7月)が、額面500円を50円に変更するため昭和46年10月に営業活動を停止していた日本瓦斯(旧商号関東商事)に吸収合併された。旧日本瓦斯は岩谷産業からプロパンガスを仕入れ一般家庭へ直販し、ガス機器類も販売する目的で設立。岩谷産業は昭和38年9月に資本参加したが、現在では資金援助・従業員の出向は皆無で、営業取引も年間1億5,000万円程度
- [24]岩谷氏一族を中心に岩谷産業の関東地区特約店として設立された旧日本瓦斯(設立昭和30年7月)が、額面500円を50円に変更するため昭和46年10月に営業活動を停止していた日本瓦斯(旧商号関東商事)に吸収合併された。旧日本瓦斯は岩谷産業からプロパンガスを仕入れ一般家庭へ直販し、ガス機器類も販売する目的で設立。岩谷産業は昭和38年9月に資本参加したが、現在では資金援助・従業員の出向は皆無で、営業取引も年間1億5,000万円程度
- 証券アナリストジャーナル 1974年12巻12号(本山修策 講演要旨)
- [26]30年7月に創業を開始し、8月1カ月間で10キロ容器1本しか売れなかった。創業当初から小売り直売主義に徹し代理店方式は採用せず、このようなディーラーの業界で株式を上場した会社は当社以外に1社もない。LPガスは家庭で大量に貯蔵できないため、大型貯蔵タンクを持つ充てん工場の自営を当初から手がけた。創業当初から工事部門を設け、設計・施工・供給の一貫した責任供給体制を打ち立てた。昭和30年の日本住宅公団設立にともない公団とタイアップし、翌31年春に配管による集中供給方式を開発実用化
- 日本瓦斯 有価証券報告書(2006年3月期)【役員の状況】
- [28]石橋幸弘 昭和25年4月 岩谷産業入社、昭和30年7月 当社入社、昭和62年6月 代表取締役社長就任
業績貢献
本山修策氏:在任中の業績貢献
| 決算期 | 在任 | 売上高 | 前期比 | 営業利益率 | ROE | 主な施策 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1965年7月期 | 10億円 | — | — | — | 日本瓦斯工事を設立 | |
| 1966年7月期 | 11億円 | +10.0% | — | — | 新日本瓦斯を設立 | |
| 1967年7月期 | 14億円 | +27.3% | — | — | 我孫子ガスに経営参加 | |
| 1968年7月期 | 14億円 | +0.0% | — | — | 小山都市瓦斯を設立取手ガスを設立 | |
| 1969年7月期 | 15億円 | +7.1% | — | — | ||
| 1970年7月期 | 18億円 | +20.0% | — | — | ||
| 1971年7月期 | 22億円 | +22.2% | — | — | 久喜都市ガスを設立関東商事が商号を日本瓦斯に変更 | |
| 1972年7月期 | 27億円 | +22.7% | — | — | 額面金額変更のため合併 | |
| 1973年7月期 | 39億円 | +44.4% | — | — | 東京証券取引所市場第二部に上場カセットコンロ用ガスボンベの製造を開始 | |
| 1974年7月期 | 68億円 | +74.4% | — | — | ||
| 1975年7月期 | 75億円 | +10.3% | — | — | ||
| 1976年7月期 | 87億円 | +16.0% | — | — | 都市ガス工事施工部門を分離しニチガス開発を設立ニチガス物流計算センターを設立 | |
| 1977年7月期 | 104億円 | +19.5% | — | — | ||
| 1978年7月期 | 119億円 | +14.4% | — | — | ||
| 1979年7月期 | 130億円 | +9.2% | — | — | 東京証券取引所市場第一部銘柄に指定替 | |
| 1980年7月期 | 184億円 | +41.5% | — | — | ||
| 1981年7月期 | 209億円 | +13.6% | — | — | ||
| 1982年7月期 | 235億円 | +12.4% | — | — | ||
| 1983年7月期 | 244億円 | +3.8% | — | — | ||
| 1984年7月期 | 263億円 | +7.8% | — | — | 鹿沼ガスに経営参加 |
参考文献3件
参考文献
事実根拠:出所(日本瓦斯)