島津源蔵(初代)
経歴1860〜1894年
経歴
| 区分 | 所属先 | 就任年 | 役職 | 現任 | 1860年主要役職の状況(推定含む目安)1894年 |
|---|---|---|---|---|---|
| 民間 | 木屋町島津家(仏具三具足) | 1860 | 開業 | ||
| 島津製作所(個人経営) | 1875 | 創業 | |||
| 1894 | 死去 | ||||
| 研究 | 京都師範学校 | 1886 | — |
社長就任までの出自
出自
1839年、京都の醒ケ井魚棚で仏具三具足を製造する島津清兵衛氏の二男に生まれた。父に従って家業を修め、1860年に21歳で木屋町二条下る西生州町に分家し、仏具三具足の製造を始めた。木屋町二条は高瀬川舟運の終点にあたる物資の集散地で、のちに京都府が勧業場と舎密局を置く界隈だった。島津製作所が株式会社に改組したのは没後の1917年で、会社の社長には就任していない。
社長に選ばれた経緯
抜擢
在任中の主な施策
施策
創業ストーリー
創業ストーリー
明治初めの京都は東京遷都で商工業が沈み、京都府は政府から交付された計25万両を元手に殖産興業を進めた。1870年12月に舎密局の仮局、1871年2月に勧業場が設けられ、舎密局では伝習生への理化学教育と、飲料・薬品・ガラスなどの試作が始まった。島津源蔵氏は家業のかたわら舎密局に通って講義と実験に加わり、輸入された教育用器械の修理や整備も度々頼まれた。資源の乏しい日本は科学立国を目指すべきだと考え、その具体策として教育用理化学器械の製造を生涯の事業に据えると決めた。
- 島津製作所百十年史(島津製作所, 1985年)第1章 創業のこころ
- [5]明治の京都は幕末の戦乱と東京遷都で商工業が沈んだ。明治2年に勧業資金10万両、翌年に産業基立金15万両、合わせて25万両が交付され、京都府は殖産興業を展開した。明治3年12月に舎密局の仮局、明治4年2月に勧業場が設けられ、舎密局は伝習生に理化学教育を行い、リモナーデ・ラムネ・薬品・ガラスなどの製造や検査を行った
- [6]明治の京都は幕末の戦乱と東京遷都で商工業が沈んだ。明治2年に勧業資金10万両、翌年に産業基立金15万両、合わせて25万両が交付され、京都府は殖産興業を展開した。明治3年12月に舎密局の仮局、明治4年2月に勧業場が設けられ、舎密局は伝習生に理化学教育を行い、リモナーデ・ラムネ・薬品・ガラスなどの製造や検査を行った
- [7]進取の気に富む初代源蔵は、舎密局が開局されると家業もそこそこに足繁く通って理化学の教育を受講し、種々の実験に加わった。責任者の明石博高に見込まれ、輸入された教育用器材の科学器械などの修理、整備を頼まれることもしばしばであった
- [8]資源の乏しいわが国の進むべき道は科学立国であるとの理想が芽生え、その具体策として教育用理化学器械の製造に一生を賭けようと決意した。初代源蔵が木屋町二条下るの陋屋で理化学器械製造の業を始めたのは明治8年(1875)3月31日で、わずか間口3間半の一小屋から事業を興した
1875年3月31日、木屋町二条下るの間口3間半の小屋で理化学器械製造の業を始めた。1872年の学制で小学校に理科系の科目は置かれたものの、授業は教師の口述が中心で注文はすぐには入らず、舎密局で輸入器械を修理し、研究実験用器具を製作する程度にとどまった。京都府学務課長の原田千之介氏は後年、資力のない一商人が器械製造を企てて苦心を重ね、親戚や友人からも相手にされなくなったと記している。
- 島津製作所百十年史(島津製作所, 1985年)第1章 創業のこころ
- [9]資源の乏しいわが国の進むべき道は科学立国であるとの理想が芽生え、その具体策として教育用理化学器械の製造に一生を賭けようと決意した。初代源蔵が木屋町二条下るの陋屋で理化学器械製造の業を始めたのは明治8年(1875)3月31日で、わずか間口3間半の一小屋から事業を興した
- [10]明治5年(1872)頒布の学制で下等小学に究理論講などが置かれたが、教授法はほとんどが教師の単調な口述を暗記させるのみであった。さっそく注文が舞い込む情勢ではなく、創業当時の仕事は舎密局に出入して輸入器械を修理し、研究実験用器具を製作する程度で、事業運営は困難を極めた
- [11]「理化学的工芸雑誌」第1号の祝辞で京都府学務課長の原田千之助は、島津氏は素力ある者ではなく一貧憐むべき商估にすぎないが初めて器械の製造を企て苦慮百端、親戚朋友もこれを狂視し顧みることなきに至った、と記した
転機は1877年に訪れた。同年8月の第1回内国博覧会に錫製の医療用拡張器を出して褒状を受け、これを聞いた槇村正直知事は島津源蔵氏に博覧会を視察させた。12月には原田氏が発案した軽気球の製作を任され、羽二重に樹脂を塗った球体を仕上げて、6日に京都仙洞御所の広場で人を乗せた気球を36メートルの高さまで揚げた。売り出した4万8,000枚の観覧券は売り切れた。
- 島津製作所百十年史(島津製作所, 1985年)第1章 創業のこころ
- [12]明治10年(1877)8月の第1回内国博覧会に初代源蔵は錫製の医療用ブージー(拡張器)を出品し褒状を受けた。京都府知事槇村正直はこれを聞いて源蔵の事業に注目し、同博覧会を視察させた
- [13]京都府学務課長の原田千之介が軽気球の飛揚を槇村知事に進言し、製作を初代源蔵に頼んだ。羽二重にダンマー(樹脂)ゴムを胡麻油でとかして塗った球体を作り、明治10年12月6日、京都仙洞御所の広場で中田寅吉を乗せた軽気球を36メートルの高さまで揚げた。4万8,000枚の観覧券は売り切れた
- [14]京都府学務課長の原田千之介が軽気球の飛揚を槇村知事に進言し、製作を初代源蔵に頼んだ。羽二重にダンマー(樹脂)ゴムを胡麻油でとかして塗った球体を作り、明治10年12月6日、京都仙洞御所の広場で中田寅吉を乗せた軽気球を36メートルの高さまで揚げた。4万8,000枚の観覧券は売り切れた
1878年からは舎密局に招かれたドイツ人のゴットフリード・ワグネル氏に3年間師事し、西洋の科学技術と器械製作の技術を学んだ。1881年1月に工場を改装し、同年4月の第2回内国博覧会では蒸留器が有功二等賞に入った。1882年には物性・音学・熱学など5部門・計110点の物理器械を載せた「理化器械目録表」を出し、小中学校の理化教育に要る器械を一覧で示した。
- 島津製作所百十年史(島津製作所, 1985年)第1章 創業のこころ
- [15]明治11年(1878)には舎密局においてドイツ人ワグネルに出会い、その後3年間にわたってワグネルから西洋の科学技術の教えを受け、理化学器械製造の技術を深めることとなる
- [16]明治14年(1881)1月に工場を改装し、同年4月の第2回内国博覧会に蒸留器などを出品し、蒸留器が有功二等賞に入賞した。明治15年には「理化器械目録表」を発刊。日本における最初の理化学器械カタログとされ、小中学校の理化教育に必要な器械を網羅し、「物性・固体」「水学・気学」「音学」「熱学・光学」「磁気・電気」の5部門、計110点の物理器械を載せた
- [17]明治14年(1881)1月に工場を改装し、同年4月の第2回内国博覧会に蒸留器などを出品し、蒸留器が有功二等賞に入賞した。明治15年には「理化器械目録表」を発刊。日本における最初の理化学器械カタログとされ、小中学校の理化教育に必要な器械を網羅し、「物性・固体」「水学・気学」「音学」「熱学・光学」「磁気・電気」の5部門、計110点の物理器械を載せた
1886年7月に月刊誌「理化学的工芸雑誌」を創刊し、同年には社屋の一部を理化学会として開いて、教員向けの公開実験や分析の依頼を引き受けた。同じ1886年には京都師範学校金工科の教師にも招かれた。店舗兼工場は1886年1月の北隣3戸の買収で創業時の4倍に広がり、1888年と1894年1月にも北隣の土地を取得して、創業から20年で一町内を所有するに至った。1894年12月8日に満54歳で死去し、長男の梅次郎氏が二代目源蔵を襲名して所主を継いだ。個人経営の島津が資本金200万円の株式会社に改まるのは、その23年後の1917年である。
- 島津製作所百十年史(島津製作所, 1985年)第1章 創業のこころ
- [18]明治19年(1886)7月に月刊誌「理化学的工芸雑誌」を創刊した。同年、社屋の一部を開放して理化学会と称する実験講習の場を設け、諸学校の先生などの求めに応じて公開の実験をし、顧客の分析依頼に応じた。また明治19年(1886)、初代源蔵は京都師範学校金工科教師に招かれた
- [19]明治19年(1886)7月に月刊誌「理化学的工芸雑誌」を創刊した。同年、社屋の一部を開放して理化学会と称する実験講習の場を設け、諸学校の先生などの求めに応じて公開の実験をし、顧客の分析依頼に応じた。また明治19年(1886)、初代源蔵は京都師範学校金工科教師に招かれた
- [20]明治19年(1886)1月に北隣3戸を買収して工場兼店舗を拡大し、店の規模は創業時代の4倍(約330平方メートル)となった。明治21年に北隣の土地約190平方メートルを買収して店舗を新築し、明治27年(1894)1月にさらに北隣の敷地約310平方メートルを買収した。間口3間半の一小屋から事業を興し、20年を経て一町内全部を所有するに至った
- [21]初代源蔵は明治27年(1894)12月8日、脳溢血により世を去った。享年56歳(満54歳)。長男梅次郎は家督を相続し、二代目源蔵を襲名、所主となった
- 島津製作所百十年史(島津製作所, 1985年)
- [22]1917年9月1日に創立総会を開き、島津家の個人経営を資本金200万円の株式会社島津製作所へ改組した
参考文献1件
事実根拠:出所(島津製作所)