島津源蔵
経歴1917〜1939年
経歴
| 区分 | 所属先 | 就任年 | 役職 | 現任 | 1917年主要役職の状況(推定含む目安)1939年 |
|---|---|---|---|---|---|
| 民間 | 島津製作所 | 1917 | 取締役社長 | ||
| 1939 | 社長 退任(次期社長就任による) |
社長就任までの出自
出自
初代・島津源蔵の長男として生まれ、本名を梅次郎といった。1894年12月に初代が没すると家督を相続して二代目源蔵を襲名し、満26歳で所主となった。継いだのは一中小企業にすぎない器械製作業だった。1896年10月、第三高等学校の村岡範為馳教授の実験場を自らの工場が引き受け、直径1メートルのガラス回転板を備えたウィムシャースト起電機を電源にエックス線写真の撮影に成功した。翌1897年には鉛蓄電池の製造を開始し、装置の電源を自前でまかなった。生涯の発明考案は178件に及ぶ。
社長に選ばれた経緯
抜擢
1917年9月1日の創立総会で取締役に選ばれ、互選で社長へ就任した。前任はおらず、42年続いた個人経営を株式会社へ改める改組そのものが人事だった。第1次世界大戦で国内の工業生産額は1914年の13億7,000万円から1919年に67億4,000万円へ増加し、島津の受注も急増していた。外部資本を入れて理化学器械を広げ産業機械へ出るため、日本電池の設立に尽力した内貴清兵衛氏の協力で発起人43名を集めた。資本金200万円・株式4万株は183人が引き受け、弟の島津源吉氏と島津常三郎氏が常務取締役に並んだ。
在任中の主な施策
施策
「将来を見越して計画は大なるべし」との方針で京都府葛野郡に約3万3,000平方メートルを買い、1919年10月に三条工場22棟を建てた。同年12月に名古屋の竹崎鉄工所を合併して歯車減速機に入り、1920年にギヤカップリングの名で売り出した。文部省の理化学生徒実験要目に応じた教育用理化学器械、松村式繰り返し衝撃試験機に始まる材料試験機、ダイアナ号などのレントゲン装置を出した。1934年と1937年の増資では資本金を200万円から1,200万円へ引き上げ、1938年4月に京都証券取引所へ上場した。
業績貢献
島津源蔵氏:在任中の業績貢献
参考文献2件
- 島津製作所百十年史(島津製作所, 1985年)
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)