第2章 年〜年

京セラ:米国預託証券の発行と京セラへの商号変更

1971年〜大証二部に上場した京都セラミックと、サンディエゴのキョウセラ・インターナショナル

京都セラミックは1971年10月に株式を市場第二部へ上場した。前年12月に黒字へ転じた川内工場は、1971年には売上高の30%を占める規模になっていた。上場は時価発行ブームの時期にあたり、1株400円の時価発行で資金を得た。東京の市場第二部への上場時と市場第一部への上場時にも、時価発行を重ねた。株数の増加を抑えて手取り資金を厚くし、それを事業拡大に充当する循環が社長の稲盛和夫氏の描いた筋道だった。1973年9月には月商20億円を達成し、製品の約半分を輸出した。1974年には市場第一部への上場も実現。借入に依存せず増産投資を賄う手段として、株式市場を選んだとみられる。

  • 書籍『京セラ・超成長の秘密』1982年
    • [1]1971年10月に市場第二部へ上場。川内工場は1970年12月に黒字化し1971年に売上高の30%を占めた。1974年に市場第一部へ上場
    • [2]1971年10月に市場第二部へ上場。川内工場は1970年12月に黒字化し1971年に売上高の30%を占めた。1974年に市場第一部へ上場
    • [7]1971年10月に市場第二部へ上場。川内工場は1970年12月に黒字化し1971年に売上高の30%を占めた。1974年に市場第一部へ上場
  • 日経ビジネス 1975年12月8日
    • [3]上場時に1株400円で時価発行し、東京二部・一部上場時にも時価発行。株数を抑えて手取り資金を事業拡大に充てた
    • [4]上場時に1株400円で時価発行し、東京二部・一部上場時にも時価発行。株数を抑えて手取り資金を事業拡大に充てた
    • [5]上場時に1株400円で時価発行し、東京二部・一部上場時にも時価発行。株数を抑えて手取り資金を事業拡大に充てた
  • 野田経済 1191号 1973年12月5日
    • [6]1973年9月に月商20億円を達成。製品の約半分が輸出

京都セラミックの米国子会社キョウセラ・インターナショナルは、1971年4月にフェアチャイルドのセラミック工場を76万ドルで買収した。サンディエゴにあった工場では、約200人の工員を約60人に絞り、5月に生産を再開。契機は米国の保護主義的な動きと、赤字の工場を売却したいというフェアチャイルドの意向だった。当初は日本から輸入した半製品の加工にとどまり、1年以上赤字を計上。1973年には月産80万〜100万ドルに増え、DIP型パッケージは全社生産の3分の1をサンディエゴが担った。1974年5月には17エーカーの敷地に総額350万ドルを投じる新工場の建設に着手し、一貫生産へ移る計画を立てた。キョウセラ・インターナショナルは1982年には米国内に8カ所の営業所を持つまでになった。得意先の近くで受注生産する体制を、買収で早く整えたのだろう。

  • 日経ビジネス 1974年8月5日
    • [8]1971年4月、キョウセラ・インターナショナルがフェアチャイルドのサンディエゴのセラミック工場を76万ドルで買収し5月に再開。1973年に月産80万〜100万ドル、1974年5月に17エーカー・総額350万ドルの新工場に着手
    • [9]1971年4月、キョウセラ・インターナショナルがフェアチャイルドのサンディエゴのセラミック工場を76万ドルで買収し5月に再開。1973年に月産80万〜100万ドル、1974年5月に17エーカー・総額350万ドルの新工場に着手
    • [10]1971年4月、キョウセラ・インターナショナルがフェアチャイルドのサンディエゴのセラミック工場を76万ドルで買収し5月に再開。1973年に月産80万〜100万ドル、1974年5月に17エーカー・総額350万ドルの新工場に着手
    • [11]1971年4月、キョウセラ・インターナショナルがフェアチャイルドのサンディエゴのセラミック工場を76万ドルで買収し5月に再開。1973年に月産80万〜100万ドル、1974年5月に17エーカー・総額350万ドルの新工場に着手
    • [12]1971年4月、キョウセラ・インターナショナルがフェアチャイルドのサンディエゴのセラミック工場を76万ドルで買収し5月に再開。1973年に月産80万〜100万ドル、1974年5月に17エーカー・総額350万ドルの新工場に着手
    • [13]1971年4月、キョウセラ・インターナショナルがフェアチャイルドのサンディエゴのセラミック工場を76万ドルで買収し5月に再開。1973年に月産80万〜100万ドル、1974年5月に17エーカー・総額350万ドルの新工場に着手
  • 証券アナリストジャーナル 20巻10号 1982年
    • [14]1982年時点でキョウセラ・インターナショナルは米国内に8カ所の営業所を持つ
参考文献[1]-[14]
  • 書籍『京セラ・超成長の秘密』1982年
    • [1]1971年10月に市場第二部へ上場。川内工場は1970年12月に黒字化し1971年に売上高の30%を占めた。1974年に市場第一部へ上場
    • [2]1971年10月に市場第二部へ上場。川内工場は1970年12月に黒字化し1971年に売上高の30%を占めた。1974年に市場第一部へ上場
    • [7]1971年10月に市場第二部へ上場。川内工場は1970年12月に黒字化し1971年に売上高の30%を占めた。1974年に市場第一部へ上場
  • 日経ビジネス 1975年12月8日
    • [3]上場時に1株400円で時価発行し、東京二部・一部上場時にも時価発行。株数を抑えて手取り資金を事業拡大に充てた
    • [4]上場時に1株400円で時価発行し、東京二部・一部上場時にも時価発行。株数を抑えて手取り資金を事業拡大に充てた
    • [5]上場時に1株400円で時価発行し、東京二部・一部上場時にも時価発行。株数を抑えて手取り資金を事業拡大に充てた
  • 野田経済 1191号 1973年12月5日
    • [6]1973年9月に月商20億円を達成。製品の約半分が輸出
  • 日経ビジネス 1974年8月5日
    • [8]1971年4月、キョウセラ・インターナショナルがフェアチャイルドのサンディエゴのセラミック工場を76万ドルで買収し5月に再開。1973年に月産80万〜100万ドル、1974年5月に17エーカー・総額350万ドルの新工場に着手
    • [9]1971年4月、キョウセラ・インターナショナルがフェアチャイルドのサンディエゴのセラミック工場を76万ドルで買収し5月に再開。1973年に月産80万〜100万ドル、1974年5月に17エーカー・総額350万ドルの新工場に着手
    • [10]1971年4月、キョウセラ・インターナショナルがフェアチャイルドのサンディエゴのセラミック工場を76万ドルで買収し5月に再開。1973年に月産80万〜100万ドル、1974年5月に17エーカー・総額350万ドルの新工場に着手
    • [11]1971年4月、キョウセラ・インターナショナルがフェアチャイルドのサンディエゴのセラミック工場を76万ドルで買収し5月に再開。1973年に月産80万〜100万ドル、1974年5月に17エーカー・総額350万ドルの新工場に着手
    • [12]1971年4月、キョウセラ・インターナショナルがフェアチャイルドのサンディエゴのセラミック工場を76万ドルで買収し5月に再開。1973年に月産80万〜100万ドル、1974年5月に17エーカー・総額350万ドルの新工場に着手
    • [13]1971年4月、キョウセラ・インターナショナルがフェアチャイルドのサンディエゴのセラミック工場を76万ドルで買収し5月に再開。1973年に月産80万〜100万ドル、1974年5月に17エーカー・総額350万ドルの新工場に着手
  • 証券アナリストジャーナル 20巻10号 1982年
    • [14]1982年時点でキョウセラ・インターナショナルは米国内に8カ所の営業所を持つ

1976年〜ニューヨークで確かめて出したADRと、再結晶エメラルド・人工骨への多角化

京都セラミックは1976年に米国預託証券(ADR)を米国で発行した。前年の1975年9月9日には株価が2,990円をつけ、ソニーの2,640円を上回って株価日本一となった。社長の稲盛和夫氏は発行を証券会社任せにせず、自らニューヨークへ出向いてADRの仕組みと発行時の問題点を確かめた。判断の基準は、ADRの発行が正しいか否かという原理原則に置いた。発行したADRは発売当日に売り切れ、ニューヨークの証券市場でも高い評価を得た。高株価はそれだけ株主への責任を重くするという認識を、稲盛和夫氏は1975年の時点で示した。国内の高株価を背景に、海外の投資家へ直接資本を求める段階へ進んだと推察される。

  • 野田経済 1249号 1976年4月7日
    • [15]1976年にADRを発行。稲盛和夫氏が自らニューヨークで仕組みと問題点を確かめ、原理原則に照らして発行を決めた
    • [17]1976年にADRを発行。稲盛和夫氏が自らニューヨークで仕組みと問題点を確かめ、原理原則に照らして発行を決めた
    • [18]1976年にADRを発行。稲盛和夫氏が自らニューヨークで仕組みと問題点を確かめ、原理原則に照らして発行を決めた
  • 書籍『京セラ・超成長の秘密』1982年
    • [16]1975年9月9日に株価2,990円でソニー(2,640円)を抜き株価日本一。ADRは発売当日に売り切れた(書籍は発行を1976年1月とする)
    • [19]1975年9月9日に株価2,990円でソニー(2,640円)を抜き株価日本一。ADRは発売当日に売り切れた(書籍は発行を1976年1月とする)
  • 日経ビジネス 1975年12月8日
    • [20]稲盛和夫氏は株価が高いほど株主への責任が強まると認識していた

再結晶エメラルドの研究は1969年に始まり、1973年に最初の純粋結晶ができた。白金のるつぼで原鉱石を溶かし、種結晶の周りに半年から1年かけて結晶を成長させる製法だった。天然エメラルドが払底し、質の低い石が高値で売られていたことが、社長の稲盛和夫氏の構想の出発点となった。宝飾は「クレサンベール」、人工歯根や人工関節などの医療用材料は「バイオセラム」の名で事業化した。1982年3月期の売上高は、宝飾が50億円、バイオセラムが約10億円にとどまった。2つの事業は、ICパッケージへの依存を薄める多角化構想の一環に位置づけられた。それでも1982年時点で両事業の売上高は全体の数%で、ICパッケージに代わる収益源には育っていなかった。研究の開始から事業化までに10年以上をかけた点で、2つの事業は目先の収益よりセラミックの結晶技術を外へ広げる試みだったとみられる。

  • 書籍『京セラ・超成長の秘密』1982年
    • [21]再結晶エメラルドの研究開始は1969年、最初の純粋結晶は1973年。天然エメラルドの払底が構想の動機
    • [22]再結晶エメラルドの研究開始は1969年、最初の純粋結晶は1973年。天然エメラルドの払底が構想の動機
    • [23]再結晶エメラルドの研究開始は1969年、最初の純粋結晶は1973年。天然エメラルドの払底が構想の動機
  • 証券アナリストジャーナル 20巻10号 1982年
    • [24]宝飾クレサンベールと医療用材料バイオセラム(人工歯根・人工関節)。1982年3月期の事業規模は宝飾が50億円、バイオセラムが約10億円
    • [25]宝飾クレサンベールと医療用材料バイオセラム(人工歯根・人工関節)。1982年3月期の事業規模は宝飾が50億円、バイオセラムが約10億円
  • 日経ビジネス 1982年12月27日
    • [26]クレサンベールとバイオセラムは多角化構想の一環で、1982年時点で売上高の数%
    • [27]クレサンベールとバイオセラムは多角化構想の一環で、1982年時点で売上高の数%

京都セラミックは1978年時点で、事業部の下に1人から300人規模の班を約300置いた。総務・経理・開発を除く部門を小組織に分け、各班が毎日正午締めで決算を出す仕組み。業績の物差しは、売上から原材料費と経費を引いた付加価値を総労働時間で割った「1時間当たり付加価値」だった。社内の取引にも価格交渉を持ち込み、単価が高ければ社外から購入してよいとした。狙いは『従業員一人一人にコスト意識を徹底させる』ことに置かれた。1981年時点では10〜15人のグループごとに「時間当たり」を毎月算出し、目標を達成したグループを表彰した。1978年3月期の棚卸資産回転日数は35.7日で、東証一部の製造業平均66日を下回った。

  • 日経ビジネス 1978年11月20日
    • [28]1978年時点で約300の小組織(アミーバ)が毎日決算し、1時間当たり付加価値で評価。社内取引も価格交渉。1978年3月期の棚卸資産回転日数35.7日
    • [29]1978年時点で約300の小組織(アミーバ)が毎日決算し、1時間当たり付加価値で評価。社内取引も価格交渉。1978年3月期の棚卸資産回転日数35.7日
    • [30]1978年時点で約300の小組織(アミーバ)が毎日決算し、1時間当たり付加価値で評価。社内取引も価格交渉。1978年3月期の棚卸資産回転日数35.7日
    • [31]1978年時点で約300の小組織(アミーバ)が毎日決算し、1時間当たり付加価値で評価。社内取引も価格交渉。1978年3月期の棚卸資産回転日数35.7日
    • [32]1978年時点で約300の小組織(アミーバ)が毎日決算し、1時間当たり付加価値で評価。社内取引も価格交渉。1978年3月期の棚卸資産回転日数35.7日
    • [34]1978年時点で約300の小組織(アミーバ)が毎日決算し、1時間当たり付加価値で評価。社内取引も価格交渉。1978年3月期の棚卸資産回転日数35.7日
  • 日経ビジネス 1981年6月29日
    • [33]1981年時点で10〜15人のアメーバ組織ごとに時間当たり付加価値を毎月算出し、目標達成賞を設けた
参考文献[15]-[34]
  • 野田経済 1249号 1976年4月7日
    • [15]1976年にADRを発行。稲盛和夫氏が自らニューヨークで仕組みと問題点を確かめ、原理原則に照らして発行を決めた
    • [17]1976年にADRを発行。稲盛和夫氏が自らニューヨークで仕組みと問題点を確かめ、原理原則に照らして発行を決めた
    • [18]1976年にADRを発行。稲盛和夫氏が自らニューヨークで仕組みと問題点を確かめ、原理原則に照らして発行を決めた
  • 書籍『京セラ・超成長の秘密』1982年
    • [16]1975年9月9日に株価2,990円でソニー(2,640円)を抜き株価日本一。ADRは発売当日に売り切れた(書籍は発行を1976年1月とする)
    • [19]1975年9月9日に株価2,990円でソニー(2,640円)を抜き株価日本一。ADRは発売当日に売り切れた(書籍は発行を1976年1月とする)
    • [21]再結晶エメラルドの研究開始は1969年、最初の純粋結晶は1973年。天然エメラルドの払底が構想の動機
    • [22]再結晶エメラルドの研究開始は1969年、最初の純粋結晶は1973年。天然エメラルドの払底が構想の動機
    • [23]再結晶エメラルドの研究開始は1969年、最初の純粋結晶は1973年。天然エメラルドの払底が構想の動機
  • 日経ビジネス 1975年12月8日
    • [20]稲盛和夫氏は株価が高いほど株主への責任が強まると認識していた
  • 証券アナリストジャーナル 20巻10号 1982年
    • [24]宝飾クレサンベールと医療用材料バイオセラム(人工歯根・人工関節)。1982年3月期の事業規模は宝飾が50億円、バイオセラムが約10億円
    • [25]宝飾クレサンベールと医療用材料バイオセラム(人工歯根・人工関節)。1982年3月期の事業規模は宝飾が50億円、バイオセラムが約10億円
  • 日経ビジネス 1982年12月27日
    • [26]クレサンベールとバイオセラムは多角化構想の一環で、1982年時点で売上高の数%
    • [27]クレサンベールとバイオセラムは多角化構想の一環で、1982年時点で売上高の数%
  • 日経ビジネス 1978年11月20日
    • [28]1978年時点で約300の小組織(アミーバ)が毎日決算し、1時間当たり付加価値で評価。社内取引も価格交渉。1978年3月期の棚卸資産回転日数35.7日
    • [29]1978年時点で約300の小組織(アミーバ)が毎日決算し、1時間当たり付加価値で評価。社内取引も価格交渉。1978年3月期の棚卸資産回転日数35.7日
    • [30]1978年時点で約300の小組織(アミーバ)が毎日決算し、1時間当たり付加価値で評価。社内取引も価格交渉。1978年3月期の棚卸資産回転日数35.7日
    • [31]1978年時点で約300の小組織(アミーバ)が毎日決算し、1時間当たり付加価値で評価。社内取引も価格交渉。1978年3月期の棚卸資産回転日数35.7日
    • [32]1978年時点で約300の小組織(アミーバ)が毎日決算し、1時間当たり付加価値で評価。社内取引も価格交渉。1978年3月期の棚卸資産回転日数35.7日
    • [34]1978年時点で約300の小組織(アミーバ)が毎日決算し、1時間当たり付加価値で評価。社内取引も価格交渉。1978年3月期の棚卸資産回転日数35.7日
  • 日経ビジネス 1981年6月29日
    • [33]1981年時点で10〜15人のアメーバ組織ごとに時間当たり付加価値を毎月算出し、目標達成賞を設けた

1979年〜サイバネット工業など4社の吸収合併と、カメラのヤシカを加えた京セラ

1979年、京都セラミックは社内の役員が反対するなかで、経営が傾いていたサイバネット工業への出資に踏み切った。サイバネット工業はステレオやキャッシュ・レジスターを作るメーカーで、1980年からは複写機市場にも参入した。滋賀工場長だった徳永秀雄氏が出向し、サイバネット工業の営業を担った。社長の稲盛和夫氏が電子機器という川下の分野への展開を考え始めたのは、1970年代後半のことだった。エンジン用セラミックの実用化は早くて10年後とされ、それまでの開発費を賄う新たな収益源を要した。1982年には16ビットのパソコンやCDプレーヤーを携え、電子機器の分野への本格参入を図った。ICパッケージ事業の成長に限界が見えたことも、完成品への接近を促したと考えられる。

  • 日経ビジネス 1982年12月27日
    • [35]1979年、業績不振のサイバネット工業に役員の反対を押し切って資本参加。川下作戦の構想は昭和50年代初め。エンジン用セラミックの実用化は早くて10年後
    • [38]1979年、業績不振のサイバネット工業に役員の反対を押し切って資本参加。川下作戦の構想は昭和50年代初め。エンジン用セラミックの実用化は早くて10年後
    • [39]1979年、業績不振のサイバネット工業に役員の反対を押し切って資本参加。川下作戦の構想は昭和50年代初め。エンジン用セラミックの実用化は早くて10年後
    • [40]1979年、業績不振のサイバネット工業に役員の反対を押し切って資本参加。川下作戦の構想は昭和50年代初め。エンジン用セラミックの実用化は早くて10年後
  • 書籍『京セラ・超成長の秘密』1982年
    • [36]サイバネット工業はステレオ・キャッシュレジスターのメーカーで1979年に京セラグループ入り、1980年に複写機へ参入。滋賀工場長の徳永秀雄氏が出向し営業を担当
    • [37]サイバネット工業はステレオ・キャッシュレジスターのメーカーで1979年に京セラグループ入り、1980年に複写機へ参入。滋賀工場長の徳永秀雄氏が出向し営業を担当

京都セラミックは1982年10月1日、サイバネット工業、クレサンベール、日本キャスト、ニューメディカルの子会社4社を吸収合併した。同じ日に商号を京セラへ変更。合併で従業員は約5,500名から約7,500名に増え、北見・福島・東京・伊勢の工場が加わった。1983年4月には子会社の鹿児島エレクトロニクスも合併する予定とした。ICパッケージは米国半導体業界の不振とプラスチックへの代替で伸び悩み、売上高に占める比率は80%から50%強へ下がった。合併の背景には、膨らんだ組織を引き締めるべきだという社長の稲盛和夫氏の危機意識があった。セラミックの語を外した社名は、部品の外へ広げた事業の幅に合わせたものと思われる。

  • 日経ビジネス 1982年12月27日
    • [41]1982年10月1日にサイバネット工業・クレサンベール・日本キャスト・ニューメディカルの4子会社を吸収合併。ICパッケージの売上比率は80%から50%強へ低下。組織引き締めの危機意識
    • [45]1982年10月1日にサイバネット工業・クレサンベール・日本キャスト・ニューメディカルの4子会社を吸収合併。ICパッケージの売上比率は80%から50%強へ低下。組織引き締めの危機意識
    • [46]1982年10月1日にサイバネット工業・クレサンベール・日本キャスト・ニューメディカルの4子会社を吸収合併。ICパッケージの売上比率は80%から50%強へ低下。組織引き締めの危機意識
  • 証券アナリストジャーナル 20巻10号 1982年
    • [42]10月1日から京セラ株式会社へ社名変更。合併で従業員約7,500名、北見・福島・東京・伊勢の工場が加わり、鹿児島エレクトロニクスは1983年4月合併予定
    • [43]10月1日から京セラ株式会社へ社名変更。合併で従業員約7,500名、北見・福島・東京・伊勢の工場が加わり、鹿児島エレクトロニクスは1983年4月合併予定
    • [44]10月1日から京セラ株式会社へ社名変更。合併で従業員約7,500名、北見・福島・東京・伊勢の工場が加わり、鹿児島エレクトロニクスは1983年4月合併予定

京セラはカメラメーカーのヤシカとの合併を1983年3月31日に発表し、同年10月1日付で合併を実施。ヤシカは京セラのヤシカ事業本部となり、元ヤシカ社長の遠藤良三氏が京セラの副社長に就任した。合併の時点で、京セラの従業員は内外あわせて約1万人を数えた。経営不振のヤシカは、京セラに支援を求めた。社長の稲盛和夫氏の持論は自社技術の延長線上で多角化することにあり、光学機器はその外の分野だった。合併を決める前、稲盛和夫氏は私心の有無を自問し、円福寺の西片擔雪老師に相談した。1982年時点の京セラは、販売力の弱さをOEM供給と量販店との提携で補った。ヤシカの量産技術と販路を取り込む計算も、合併の背後にあったと推測される。

  • 日経ビジネス 1984年3月19日
    • [47]ヤシカ合併は1983年3月31日発表、10月1日発足。ヤシカが支援を求め、稲盛和夫氏は西片擔雪老師に相談した
    • [50]ヤシカ合併は1983年3月31日発表、10月1日発足。ヤシカが支援を求め、稲盛和夫氏は西片擔雪老師に相談した
    • [52]ヤシカ合併は1983年3月31日発表、10月1日発足。ヤシカが支援を求め、稲盛和夫氏は西片擔雪老師に相談した
  • 日経ビジネス 1983年10月31日
    • [48]1983年10月1日の合併でヤシカは京セラのヤシカ事業本部に。元ヤシカ社長遠藤良三氏が副社長。稲盛和夫氏の持論は自社技術の延長線上での多角化
    • [49]1983年10月1日の合併でヤシカは京セラのヤシカ事業本部に。元ヤシカ社長遠藤良三氏が副社長。稲盛和夫氏の持論は自社技術の延長線上での多角化
    • [51]1983年10月1日の合併でヤシカは京セラのヤシカ事業本部に。元ヤシカ社長遠藤良三氏が副社長。稲盛和夫氏の持論は自社技術の延長線上での多角化
  • 日経ビジネス 1982年12月27日
    • [53]1982年時点で京セラは販売力の弱さをOEMと量販店との提携で補った
参考文献[35]-[53]
  • 日経ビジネス 1982年12月27日
    • [35]1979年、業績不振のサイバネット工業に役員の反対を押し切って資本参加。川下作戦の構想は昭和50年代初め。エンジン用セラミックの実用化は早くて10年後
    • [38]1979年、業績不振のサイバネット工業に役員の反対を押し切って資本参加。川下作戦の構想は昭和50年代初め。エンジン用セラミックの実用化は早くて10年後
    • [39]1979年、業績不振のサイバネット工業に役員の反対を押し切って資本参加。川下作戦の構想は昭和50年代初め。エンジン用セラミックの実用化は早くて10年後
    • [40]1979年、業績不振のサイバネット工業に役員の反対を押し切って資本参加。川下作戦の構想は昭和50年代初め。エンジン用セラミックの実用化は早くて10年後
    • [41]1982年10月1日にサイバネット工業・クレサンベール・日本キャスト・ニューメディカルの4子会社を吸収合併。ICパッケージの売上比率は80%から50%強へ低下。組織引き締めの危機意識
    • [45]1982年10月1日にサイバネット工業・クレサンベール・日本キャスト・ニューメディカルの4子会社を吸収合併。ICパッケージの売上比率は80%から50%強へ低下。組織引き締めの危機意識
    • [46]1982年10月1日にサイバネット工業・クレサンベール・日本キャスト・ニューメディカルの4子会社を吸収合併。ICパッケージの売上比率は80%から50%強へ低下。組織引き締めの危機意識
    • [53]1982年時点で京セラは販売力の弱さをOEMと量販店との提携で補った
  • 書籍『京セラ・超成長の秘密』1982年
    • [36]サイバネット工業はステレオ・キャッシュレジスターのメーカーで1979年に京セラグループ入り、1980年に複写機へ参入。滋賀工場長の徳永秀雄氏が出向し営業を担当
    • [37]サイバネット工業はステレオ・キャッシュレジスターのメーカーで1979年に京セラグループ入り、1980年に複写機へ参入。滋賀工場長の徳永秀雄氏が出向し営業を担当
  • 証券アナリストジャーナル 20巻10号 1982年
    • [42]10月1日から京セラ株式会社へ社名変更。合併で従業員約7,500名、北見・福島・東京・伊勢の工場が加わり、鹿児島エレクトロニクスは1983年4月合併予定
    • [43]10月1日から京セラ株式会社へ社名変更。合併で従業員約7,500名、北見・福島・東京・伊勢の工場が加わり、鹿児島エレクトロニクスは1983年4月合併予定
    • [44]10月1日から京セラ株式会社へ社名変更。合併で従業員約7,500名、北見・福島・東京・伊勢の工場が加わり、鹿児島エレクトロニクスは1983年4月合併予定
  • 日経ビジネス 1984年3月19日
    • [47]ヤシカ合併は1983年3月31日発表、10月1日発足。ヤシカが支援を求め、稲盛和夫氏は西片擔雪老師に相談した
    • [50]ヤシカ合併は1983年3月31日発表、10月1日発足。ヤシカが支援を求め、稲盛和夫氏は西片擔雪老師に相談した
    • [52]ヤシカ合併は1983年3月31日発表、10月1日発足。ヤシカが支援を求め、稲盛和夫氏は西片擔雪老師に相談した
  • 日経ビジネス 1983年10月31日
    • [48]1983年10月1日の合併でヤシカは京セラのヤシカ事業本部に。元ヤシカ社長遠藤良三氏が副社長。稲盛和夫氏の持論は自社技術の延長線上での多角化
    • [49]1983年10月1日の合併でヤシカは京セラのヤシカ事業本部に。元ヤシカ社長遠藤良三氏が副社長。稲盛和夫氏の持論は自社技術の延長線上での多角化
    • [51]1983年10月1日の合併でヤシカは京セラのヤシカ事業本部に。元ヤシカ社長遠藤良三氏が副社長。稲盛和夫氏の持論は自社技術の延長線上での多角化

1971年〜1983年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 利益率
1971年03月期 単体 70 n/a 23 12 17.1% n/a
1972年03月期 単体 65 ▲7.1% 18 11 16.9% n/a
1973年03月期 単体 112 +72.3% 37 19 17.0% n/a
1974年03月期 単体 238 +112.5% 87 43 18.1% n/a
1975年03月期 単体 208 ▲12.6% 55 32 15.4% n/a
1976年03月期 単体 296 +42.3% 98 52 17.6% n/a
1977年03月期 単体 401 +35.5% 146 71 17.7% n/a
1978年03月期 単体 386 ▲3.7% 119 65 16.8% n/a
1979年03月期 単体 503 +30.3% 135 68 13.5% n/a
1980年03月期 単体 819 +62.8% 243 120 14.7% n/a
1981年03月期 単体 1,005 +22.7% 244 133 13.2% n/a
1982年03月期 単体 1,018 +1.3% 268 135 13.3% n/a
1983年03月期 単体 1,332 +30.8% 346 171 12.8% n/a

出所:会社年鑑、証券調査

出典・参考

11件
出典・参考
  • 野田経済 1191号 1973年12月5日
  • 日経ビジネス 1974年8月5日
  • 日経ビジネス 1975年12月8日
  • 野田経済 1249号 1976年4月7日
  • 日経ビジネス 1978年11月20日
  • 日経ビジネス 1981年6月29日
  • 証券アナリストジャーナル 20巻10号 1982年
  • 日経ビジネス 1982年12月27日
  • 日経ビジネス 1983年10月31日
  • 日経ビジネス 1984年3月19日
  • 書籍『京セラ・超成長の秘密』1982年

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