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NC装置の高シェアと「利益率35%」を掲げた超高収益経営

1985年実施

「利益率35%の旗は降ろさない」——高シェアと高利益の同時実現を貫いた稲葉清右衛門社長の経営

時期 1985
意思決定者 稲葉清右衛門(社長)
論点 利益率重視の経営
概要
1980年代半ば、ファナックはNC(数値制御)装置で国内シェア約75%・世界約50%を握り、売上高経常利益率が3割半ばに達する日本トップ級の超高収益企業となっていた。社長・稲葉清右衛門が「利益率35%」を経営の基本に据え、高シェアと高利益を同時に追う経営を貫いた結果である。
背景
稲葉社長は富士通社内でNCの実用化に苦しんだ創業期に、当時社長から「利益なくして企業は成り立たない」と叩き込まれ、技術より先に利益から発想する経営観を体得した。1972年に富士通ファナックとして分離独立して以降、その本領を発揮した。
内容
商品開発ではまず市場調査で競争相手に勝てる価格を決め、利益率35%を前提に製造原価を割り出して開発する。高シェアと高利益の同時実現を研究者への至上命令とし、「利益率35%の旗は降ろさない」と公言。「買える技術は外から買ってこい」と自主技術主義も退けた。
含意
工作機械不況で減収減益となった1983年3月期でさえ売上高経常利益率36%弱を保ち、1984年には本誌「賃上げ余力ランキング」で2年連続1位となるなど、収益力・生産性で群を抜いた。規模の拡大とともに利益率が薄まるという経験則に数値目標で挑む姿勢は、その後の高収益体質の原型となった。
筆者の見解

「利益率」経営が数値の上でも定着した1980年代半ば

この経営の核心は、財務危機への対応ではなく、「まず利益率を決め、そこから商品を設計する」という発想を組織の隅々まで徹底させた点にある。市場で勝てる価格を先に置き、利益率35%を前提に原価を絞り込む手法は、本来は両立の難しい高シェアと高収益を、同じ商品の上に同時に成り立たせようとするものであった。本稿が主に依拠する数値は1983年3月期の決算と1984年春の調査記事によるものだが、その後も業績は拡大し、単体の経常利益は1984年3月期の438億円から1985年3月期には519億円へ、売上高もほぼ同期間に1,154億円から1,417億円へと伸び、売上高経常利益率はなお3割半ばを保った。NC工作機械での高シェアと日本トップ級の高利益率という同社の姿は、1980年代半ばに定着し、頂点に達した時期とみられる。

もっとも、稲葉社長の手法は、需要変動の大きいNC・ロボット市場では諸刃でもある。実際、1980年代末以降は工作機械需要の波を受けて業績が大きく上下し、「利益率35%」という数値そのものを常に守り続けられたわけではない。それでも、価格と利益率を起点に事業を律するという発想と、「買える技術は買ってこい」と割り切って開発資源を集中させる姿勢は、その後も同社の高収益体質を支える背骨として残った。規模の拡大とともに利益率が薄まるという常識に、あえて数値目標で挑み続けた点に、この経営判断の特異さがうかがえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

富士通の一技術者から、NC装置の世界一メーカーへ

稲葉清右衛門社長は1925年(大正14年)に茨城県で生まれ、1946年に東京大学工学部を卒業して富士通信機製造(現・富士通)へ入社した。造兵学を学んだ機械技術者にとって、通信機メーカーの富士通で機械技術はあくまで傍流であり、稲葉社長は入社当初から逆風のなかに置かれた。転機となったのは技術担当常務からコントロール(制御)の開発を命じられたことで、1956年、米国で生まれたばかりのNC(数値制御)工作機械の報告に接した稲葉社長はただちにNCへ飛びつき、日本で初めてのNC装置を開発してタレット・パンチプレスに装着し実験した[1]

富士通の一技術者から身を起こした稲葉社長は、やがて世界一のNCメーカーを築き上げる。1972年(昭和47年)に計算制御部門が富士通ファナックとして分離独立すると同社専務に就き、1975年(昭和50年)5月には社長に就任した。分離の時点で同部門はすでに高収益部門へ育っており、独立を機に稲葉社長の本領は一段と発揮された。1982年には社名から「富士通」の文字が外れ、富士通とは親子ではなく兄弟の関係と評されるまでになった。1980年代初頭には、主力のNC装置で国内シェア約75%・世界シェア約50%を握る、専業では希有の高収益企業となっていた[2]

「利益なくして企業は成り立たない」——創業期に体得した利益の発想

稲葉社長の経営を貫く「利益率」への強いこだわりは、富士通社内でNCの実用化に苦しんだ創業期に根を持つ。NC事業は当初の10年余り赤字が続き、「利益は事務屋の考えること」と漠然と構えていた技術者・稲葉社長も窮地に立たされた。この時期、当時社長の岡田完二郎から「利益なくして、企業は成り立たない」と繰り返し叩き込まれ、技術屋こそが赤字の根源になりうると思い知ったという。ここから稲葉社長は、技術に先立ってまず利益から発想するという独特の経営観を体得していく[3]

決断

「利益率35%」を先に決める商品開発哲学

稲葉社長の商品開発は、通常とは逆の順序をたどる。まず市場調査をもとに、競争相手に絶対に勝てる販売価格を決める。次に利益率を35%と置き、そこから逆算して許される製造原価を割り出し、その原価を目標に開発を進める。競争力のある「高シェア」と「高利益」を同じ商品で同時に実現することが、研究所の技術者に課せられた至上命令であった。極めて困難な条件だが、稲葉社長はこの点について頑として妥協しなかった[4]

「利益率35%の旗は降ろさない」「買える技術は買ってこい」

稲葉社長は「経営の基本となる利益率を維持するためだったら、他のことは、納得が行けば妥協しますよ」と語り、常に利益から発想した。世間が「本当にできるのか」といぶかしむほど、「利益率35%の旗は降ろさない」と公言してはばからない。企業規模が拡大すれば利益率は低下するという経験則そのものを破ろうと、10年後(本文の「68年3月期」=1993年3月期)には売上高2000億円・経常利益700億円を達成し、なお売上高経常利益率35%を維持すると宣言していた[5][6]

利益を守るためなら、技術者としての面子にもこだわらなかった。稲葉社長は「自主技術という発想はもう古い」として自力開発への固執を退け、「買える技術は外から買ってこい」と担当役員に説いた。技術進歩の速い分野では自力だけでは限界があり取り残される——そう見た稲葉社長は、必要な技術は金で買い、社内の資源を利益に直結する開発へ集中させた。同時に、向こう2年半で総額約360億円の設備投資を計画し、山梨・富士コンプレックスの拡張と本社移転、米GMとの合弁によるロボット工場(GMF)の建設に踏み切ろうとしていた[7][8]

結果

減収の年も「36%弱」、賃上げ余力は2年連続1位

稲葉社長の「利益率」経営は、数値の上に明確に表れた。主力のNC装置は国内シェア約75%・世界シェア約50%を握り、工作機械業界の不況で減収減益となった1983年3月期でさえ、売上高827億円に対し経常利益297億円、売上高経常利益率は36%弱を記録している。減益の年にこの水準を保った点に、同社の収益体質の厚みがうかがえる[9]

高収益は、収益力・生産性の外部比較でも際立った。日経ビジネスが1984年春闘を前に試算した「賃上げ余力ランキング」で、ファナックは賃上げ余力313.0%と2年連続で首位に立ち、「NC装置のトップ企業」「FA化のリーダー」と評された。同ランキングでの1984年3月期の予想経常利益は385億円、従業員はわずか1,019人であり、記事は同社の生産性を「既に超Aクラス」と位置づけている[10][11]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1983年10月3日号「稲葉清右衛門氏(ファナック社長)超優良企業の過激なワンマン」(日経マグロウヒル社)
  • 日経ビジネス 1984年3月19日号「84年『賃上げ余力ランキング』。ファナック1位、2位は任天堂が大躍進」(日経マグロウヒル社)
  • 会社年鑑(1986年版)