セイコーエプソン:エプソン販売の設立とセイコーエプソンの発足
日本電気互換機の失速からカラリオの55%シェアへ
1979年〜拡ウオッチへの多角化と、エプソン吸収によるセイコーエプソン発足
1979年4月期の諏訪精工舎は売上高1,000億円、従業員2,900人。子会社の信州精器は売上高480億円、従業員2,000人で、SEIKOブランドを使わず「EPSON」ブランドでプリンターを売り、世界の70%のシェアを確保していた。液晶表示パネルの生産量は年2,000万個でシャープと国内首位を争い、水晶発振子とC-MOSのLSIは香港などへの輸出が活発だった。グループ8社の申告所得を合計すると279億円になり、分社経営を採らず1社で事業を展開していれば申告所得の順位は56位に相当した。諏訪精工舎自身はC-MOSのLSIの大量生産工場へ100億円を投じたばかりで、作ったLSIの約半分は外へ売っていた。
- 日経ビジネス 1980年6月2日号
- [1]諏訪精工舎の1979年4月期の売上高は1,000億円、従業員数は2,900人だった
- [2]信州精器の1979年4月期の売上高は480億円、従業員数は2,000人だった
- [3]信州精器はSEIKOブランドを使わずEPSONブランドを確立し、プリンターで世界の70%のシェアを確保した
- [4]液晶表示パネルの生産量は1979年に2,000万個でシャープと国内生産のトップを争い、水晶発振子とC-MOSのLSIは香港などへの輸出が活発だった
- [5]グループ会社8社の申告所得の合計は279億円に達し、分社経営をとらず1社で事業を展開していれば申告所得ランキング56位に相当した
- [6]諏訪精工舎は100億円を投じてC-MOSのLSIの大量生産工場を建設した
- [7]C-MOSのLSIは約半分が外売りに回されていた
C-MOSのLSIと液晶表示パネルの値下がりが急速に進むと、カシオ計算機を先頭とするデジタルウオッチ勢が本業のウオッチに攻め込み、競争の激化で店頭の売値はさらに下がった。分解掃除の要らないデジタルウオッチは町の時計店から大きな稼ぎ口を奪い、カメラ店や家電量販店の値引き販売も加わって、転業や廃業に追い込まれる時計店が増えた。こうして、服部時計店が明治以来作り上げてきた強固な販売網が揺らぎ出した。技術が進んだ結果、ウオッチはもはや高い利益を見込める商品ではないとみた服部時計店の服部謙太郎社長は、時計以外の商品が売上に占める割合を10%台から30%程度に高めたい考えを示した。
- 日経ビジネス 1980年6月2日号
- [8]諏訪グループは本丸のウオッチ分野でカシオ計算機を筆頭としたデジタルウォッチの攻勢にさらされていた
- [9]デジタルウオッチを構成するC-MOSのLSIや液晶表示パネルのコストが急ピッチで低下し、激しいシェア争いで販売価格は一段と下がった
- [10]デジタルウォッチは分解掃除を必要とせず町の時計店は大きな収入源を絶たれ、カメラや家電品の量販店の大安売りが時計店に転廃業を促した
- [11]明治時代から服部時計店が築いた強力な販売網は揺らぎ始めていた
- [12]服部謙太郎服部時計店社長は、時計以外の取り扱い商品を増やし全売り上げ比10%台から30%程度にまで引き上げるのが理想だと述べた
1983年5月、国内の販売会社としてエプソン販売を設立。1985年11月には信州精器の後身であるエプソンを吸収合併し、商号をセイコーエプソンへ変更した。昭和45年度にはセイコー電子工業と諏訪精工舎の売上高は100%がウオッチだったが、エプソンを加えた3社の売上高に占める時計は40%を割っていた。「時計産業は成熟期を迎える。これを見越し、時計が利益を上げている間にセイコーグループは次の成長分野に打って出た。引き金となったプリンタが独り立ちするのに6〜9年かかりましたが」と、2社を率いる服部一郎社長は語っている。年商1,000億円そこそこで知名度も低かったこの会社が、理工系学生の人気企業ランキングで新日本製鉄を上回ったのは、その少し前のことである。
- セイコーエプソン 有価証券報告書 第83期(2025年3月期)【沿革】
- [13]1983年5月にエプソン販売を設立した
- [14]1985年11月にエプソンを吸収合併し、商号をセイコーエプソンへ変更した
- Decide(決断)1986年2月号(3巻11号・通巻26号、サバイバル出版)
- [15]昭和45年度にはセイコー電子工業と諏訪精工舎の売上高は100%がウォッチだったが、エプソンを加えた3社の売上高のうち時計は40%を割っていた
- [16]服部一郎は、時計産業の成熟を見越し時計が利益を上げている間に次の成長分野へ打って出た、引き金となったプリンタが独り立ちするのに6〜9年かかったと語った
- [17]年商1,000億円そこそこで知名度も低かったエプソンが、リクルート調査の学生が選ぶ人気企業ランキング理工系編で新日鉄を上回った
参考文献[1]-[17]
- 日経ビジネス 1980年6月2日号
- [1]諏訪精工舎の1979年4月期の売上高は1,000億円、従業員数は2,900人だった
- [2]信州精器の1979年4月期の売上高は480億円、従業員数は2,000人だった
- [3]信州精器はSEIKOブランドを使わずEPSONブランドを確立し、プリンターで世界の70%のシェアを確保した
- [4]液晶表示パネルの生産量は1979年に2,000万個でシャープと国内生産のトップを争い、水晶発振子とC-MOSのLSIは香港などへの輸出が活発だった
- [5]グループ会社8社の申告所得の合計は279億円に達し、分社経営をとらず1社で事業を展開していれば申告所得ランキング56位に相当した
- [6]諏訪精工舎は100億円を投じてC-MOSのLSIの大量生産工場を建設した
- [7]C-MOSのLSIは約半分が外売りに回されていた
- [8]諏訪グループは本丸のウオッチ分野でカシオ計算機を筆頭としたデジタルウォッチの攻勢にさらされていた
- [9]デジタルウオッチを構成するC-MOSのLSIや液晶表示パネルのコストが急ピッチで低下し、激しいシェア争いで販売価格は一段と下がった
- [10]デジタルウォッチは分解掃除を必要とせず町の時計店は大きな収入源を絶たれ、カメラや家電品の量販店の大安売りが時計店に転廃業を促した
- [11]明治時代から服部時計店が築いた強力な販売網は揺らぎ始めていた
- [12]服部謙太郎服部時計店社長は、時計以外の取り扱い商品を増やし全売り上げ比10%台から30%程度にまで引き上げるのが理想だと述べた
- セイコーエプソン 有価証券報告書 第83期(2025年3月期)【沿革】
- [13]1983年5月にエプソン販売を設立した
- [14]1985年11月にエプソンを吸収合併し、商号をセイコーエプソンへ変更した
- Decide(決断)1986年2月号(3巻11号・通巻26号、サバイバル出版)
- [15]昭和45年度にはセイコー電子工業と諏訪精工舎の売上高は100%がウォッチだったが、エプソンを加えた3社の売上高のうち時計は40%を割っていた
- [16]服部一郎は、時計産業の成熟を見越し時計が利益を上げている間に次の成長分野へ打って出た、引き金となったプリンタが独り立ちするのに6〜9年かかったと語った
- [17]年商1,000億円そこそこで知名度も低かったエプソンが、リクルート調査の学生が選ぶ人気企業ランキング理工系編で新日鉄を上回った
1987年〜日本電気PC-9800への互換機参入と、BIOSをめぐる著作権紛争
松下電器製のIBM互換機は、BIOSの類似を指摘されて撤退を余儀なくされていた。1987年当時の市場では、日本電気が1982年に売り出した16ビットのPC-9800シリーズがシェアの90%超を押さえ、対応するソフトも5,000本に近かった。独自仕様のパソコンでこれを切り崩すのはまず無理で、同じソフトが動く互換機を本家より安い値で出すのが近道だった。壁になったのは基本ソフトのBIOSである。パソコンのソフトにも著作権が及ぶため自前で作る必要があるものの、手順をまるで変えて作っても結果は似通ってしまう。日本電気の互換機を考えていたメーカーは、最終的な判断を下せずにいた。
- Decide(決断)1987年2月号(5巻2号・通巻40号、サバイバル出版)
- [18]松下電器製のIBM互換機のBIOSがIBMのものと似ていると指摘され、松下電器はIBM互換機から撤退した
- [19]日本電気が1982年に発売した16ビットのPC-9800シリーズはシェアが90%を超え、累計出荷台数は100万台を突破していた
- [20]PC-9800シリーズ用のソフトは5,000本近くに達しているといわれた
- [21]独自方式のパソコンでは日本電気の牙城を崩すことは不可能に近く、同じソフトが使える互換機を安く販売するのが手っ取り早かった
- [22]パソコンのソフトも著作権の対象であるためBIOSは独自に開発しなければならないが、まったく異なった手順で開発してもどうしても似てくる問題があった
- [23]こうした問題のため日本電気互換機を検討しているメーカーも最終的な決断をしかねていた
セイコーエプソンは当初3月9日に発表を予定していたが、著作権問題を考慮して10日と11日の両日、問題のパソコンを日本電気へ預けた。日本電気は検討の結果「BIOSなどで著作権を侵害している部分がある」として発売の延期を申し入れたが、エプソンは「侵害していない自信がある」として3月13日に発表へ踏み切る。日本電気は態度を硬化させ、東京地方裁判所へ製造販売差し止めの仮処分を申請した。エプソンは4月にPC-286のモデル1、2、3の製造と販売の中止を発表し、代わりにモデル0を出荷。両社は同年11月に和解している。ハードよりソフトが重い時代に入ったことを、この一件は日本の産業へ突きつけた。
- Decide(決断)1987年2月号(5巻2号・通巻40号、サバイバル出版)
- [24]セイコーエプソンは当初3月9日に発表を予定していたが著作権問題を考慮し、10日と11日の両日に当該パソコンを日本電気に預けた
- [25]日本電気はBIOSなどで著作権を侵害している部分があるとして発売延期を申し入れたが、セイコーエプソンは侵害していない自信があるとして3月13日に発表に踏み切った
- [29]すでにハードよりもソフトが重要な意味を持つ情報化社会に突入しているとされた
- 日経ビジネス 1990年8月27日号
- [26]1987年3月、日本電気は東京地裁に製造販売差し止めの仮処分を申請した
- [27]1987年4月にエプソンはPC-286モデル1、2、3の製造販売中止を発表し、PC-286モデル0を出荷した
- [28]1987年11月にエプソンと日本電気は和解した
互換機へ出た狙いは機械そのものではなかった。「システムメーカーに脱皮して、パソコンと一緒にプリンターなど周辺機器も売り込む」ためだと相澤進専務は言う。最初のPC-286モデル0は35万7000円で、ほぼ同じ機能の日本電気製が39万8000円から43万3000円だったから5万円以上安い。1987年11月にはラップトップ型のPC-286Lを日本電気に先駆けて発売した。だが1989年6月に出した45万8000円のPC-286 NOTE EXECUTIVEは、東芝が19万8000円で出したダイナブックに価格で勝負にならなかった。台数は1年目の6万台から12万台へ伸びたあと、3万台、9万台と鳴かず飛ばずに終わる。それでもプリンターの販売は1988年3月期の年13万台から1990年3月期の20万台へ伸びており、船としての役目は果たしていた。
- 日経ビジネス 1990年8月27日号
- [30]エプソンがパソコン市場に進出したのはシステムメーカーに脱皮してパソコンと一緒にプリンターなど周辺機器も売り込むためだと相澤進専務は述べた
- [31]最初のPC-286モデル0は35万7000円で、ほぼ同じ機能の日本電気製品が39万8000円から43万3000円だったから5万円以上安かった
- [32]1987年11月に日本電気に先駆けて98互換機のラップトップ型PC-286Lを売り出した
- [33]1989年6月発売のPC-286 NOTE EXECUTIVEは45万8000円で、A4判サイズで厚さ35ミリ・重量2.2キログラムだったが、東芝のダイナブックは19万8000円だった
- [34]エプソンの互換機は1年目の6万台から次の年は12万台に増やしたが、その後は3万台、9万台と鳴かず飛ばずだった
- [35]プリンターの販売台数は1988年3月期の年間13万台から1990年3月期には年間20万台に達した
参考文献[18]-[35]
- Decide(決断)1987年2月号(5巻2号・通巻40号、サバイバル出版)
- [18]松下電器製のIBM互換機のBIOSがIBMのものと似ていると指摘され、松下電器はIBM互換機から撤退した
- [19]日本電気が1982年に発売した16ビットのPC-9800シリーズはシェアが90%を超え、累計出荷台数は100万台を突破していた
- [20]PC-9800シリーズ用のソフトは5,000本近くに達しているといわれた
- [21]独自方式のパソコンでは日本電気の牙城を崩すことは不可能に近く、同じソフトが使える互換機を安く販売するのが手っ取り早かった
- [22]パソコンのソフトも著作権の対象であるためBIOSは独自に開発しなければならないが、まったく異なった手順で開発してもどうしても似てくる問題があった
- [23]こうした問題のため日本電気互換機を検討しているメーカーも最終的な決断をしかねていた
- [24]セイコーエプソンは当初3月9日に発表を予定していたが著作権問題を考慮し、10日と11日の両日に当該パソコンを日本電気に預けた
- [25]日本電気はBIOSなどで著作権を侵害している部分があるとして発売延期を申し入れたが、セイコーエプソンは侵害していない自信があるとして3月13日に発表に踏み切った
- [29]すでにハードよりもソフトが重要な意味を持つ情報化社会に突入しているとされた
- 日経ビジネス 1990年8月27日号
- [26]1987年3月、日本電気は東京地裁に製造販売差し止めの仮処分を申請した
- [27]1987年4月にエプソンはPC-286モデル1、2、3の製造販売中止を発表し、PC-286モデル0を出荷した
- [28]1987年11月にエプソンと日本電気は和解した
- [30]エプソンがパソコン市場に進出したのはシステムメーカーに脱皮してパソコンと一緒にプリンターなど周辺機器も売り込むためだと相澤進専務は述べた
- [31]最初のPC-286モデル0は35万7000円で、ほぼ同じ機能の日本電気製品が39万8000円から43万3000円だったから5万円以上安かった
- [32]1987年11月に日本電気に先駆けて98互換機のラップトップ型PC-286Lを売り出した
- [33]1989年6月発売のPC-286 NOTE EXECUTIVEは45万8000円で、A4判サイズで厚さ35ミリ・重量2.2キログラムだったが、東芝のダイナブックは19万8000円だった
- [34]エプソンの互換機は1年目の6万台から次の年は12万台に増やしたが、その後は3万台、9万台と鳴かず飛ばずだった
- [35]プリンターの販売台数は1988年3月期の年間13万台から1990年3月期には年間20万台に達した
1990年〜初の減収減益と、安川英昭体制での記録媒体撤退とプリンターへの集中
減収減益は初めてのことだった。1990年度は売上高4,569億円で前年度比3%減、経常利益は201億円で40%の減少となった。足を引っ張ったのは情報機器事業で、89年度の2,380億円が90年度には2,060億円に縮んだ。研究開発担当の相沢進専務は、その根に「肥大化した組織特有の意思決定の遅さ」があると見ていた。手当てとして1991年1月、コンピューター・プリンター・周辺機器の3事業本部を統べる情報機器システム事業統括を置いて土橋光広専務に決裁権を集め、同年7月には次長や副事業部長、副本部長など役割の曖昧な中間ポストを大半なくした。物流も見直され、完成品の置き場を諏訪周辺22カ所の倉庫に求めてトラックを走らせていた状態から、建屋だけで25億円をかけたEBLセンターへ一本化された。
- 日経ビジネス 1991年7月22日号
- [36]セイコーエプソンの1990年度の売上高は4,569億円で前年度比3%減だった
- [37]1990年度の経常利益は201億円で前年度比40%減だった
- [38]1989年度に売上高2,380億円だった情報機器事業は1990年度に2,060億円へ落ち込んだ
- [39]相沢進専務は1990年度の減収減益の原因を肥大化した組織特有の意思決定の遅さにあると見ていた
- [40]1991年1月にコンピューター、プリンター、周辺機器の3事業本部を掌握する情報機器システム事業統括を新設し、土橋光広専務を起用して決裁権限を集中した
- [41]1991年7月下旬の全社的な組織改革で、副本部長や副事業部長、次長など権限のはっきりしない中間的な役職を原則廃止した
- [42]製品が完成する都度、諏訪周辺で22カ所ある倉庫の空きを求めてトラックが走る状態で、建屋費用だけで25億円を投じて広丘事業所にEBLセンターを開設した
国内のコンピュータ・システム事業部は開発と設計に500人を抱えていたが、1991年6月に社長となった安川英昭がパソコン部門の人員を半減させるよう命じ、そのうち200人をプリンターをはじめ伸びの見込める事業部へ移し、残った300人で製品の品ぞろえと生産の体制を作り直した。機種も前年度の約10から今年度は5前後まで減らし、CPU搭載基板を本体基板と別にして、使う側が部品を入れ替えれば性能を引き上げられるつくりに改めた。1992年3月期の売上高は4,707億円で前期比3%増に届いたのみで、経常利益は前期の201億円が58億円まで沈み、92年度の経営方針は第一項目に「ものづくりの原点に立ち返り、生産革新を起こす」を掲げた。新卒250人全員を1年間製造現場へ置き、非製造部門から1,000人を現場に近い部門へ動かす計画を立てた。
- 日経ビジネス 1991年10月21日号
- [43]安川英昭は1991年6月にセイコーエプソン社長へ就任した
- 日経ビジネス 1992年11月9日号
- [44]パソコン部門の陣容の半減指令を出したのは安川社長だった
- [45]開発・設計など500人体制だったコンピュータ・システム事業部から200人をプリンターなど成長性の高い事業部へ移し、300人という枠で対応可能な製品展開と生産体制を構築することにした
- [46]前年度は約10機種を発売したが今年度の予定は5機種程度で、CPUを組み込んだ基板を本体基板と切り離し、利用者が部品を取り換えて機能を強化できるようにした
- [47]1992年3月期の売上高は前期比3%増の4,707億円、経常利益は前期の201億円から58億円へ大幅に減少した
- [48]1992年度経営方針の第一項目に「ものづくりの原点に立ち返り、生産革新を起こす」を掲げた
- [49]1992年4月入社の高専以上の新卒250人全員を1年間現場に配置し、非製造部門から製造・営業現場へ1,000人を目標にローテーション人事を進めた
1995年からパソコン事業を大幅に縮小して子会社のエプソン販売へ移管し、フロッピーディスクドライブやハードディスクドライブなどの記録媒体事業からも撤退して、プリンター事業へ経営資源を集中させた。「エプソンの特徴が出せない事業は、売り上げが出ていても続ける意味がない。30年以上も取り組んでいるプリンター事業には技術とノウハウの蓄積がある」と安川社長は語る。1995年以降は消費者向けに「カラリオ」の名で売り込んでインクジェットプリンターの国内市場でシェア首位に立ち、1996年に初めて写真画質をうたった機種は空前の大ヒットとなって、後継機を含め55%のシェアを握った。1999年3月期の単独売上高は8,247億円、経常利益523億円、連結では1兆500億円。捨てた事業の数だけ、残した一本が重くなった。
- 日経ビジネス 1998年3月30日号
- [50]エプソンは1995年からパソコン事業を大幅に縮小して子会社のエプソン販売に移管し、フロッピーディスクドライブ、ハードディスクドライブなどの記録媒体事業からも撤退してプリンター事業に経営資源を集中させた
- [51]安川英昭社長はエプソンの特徴が出せない事業は売り上げが出ていても続ける意味がない、30年以上取り組んでいるプリンター事業には技術とノウハウの蓄積があると語った
- [52]1995年以降は消費者向けにカラリオというブランド名で売り込み、インクジェットプリンターの国内市場でシェアトップに躍り出た
- [53]1996年に初めて写真画質をうたって発売した機種はエプソン史上空前の大ヒット商品となり、後継機を含めて55%のシェアを握った
- 日経ビジネス 1999年9月20日号
- [54]セイコーエプソンの1999年3月期の単独売上高は8,247億円、単独の経常利益は523億円、連結売上高は1兆500億円だった
参考文献[36]-[54]
- 日経ビジネス 1991年7月22日号
- [36]セイコーエプソンの1990年度の売上高は4,569億円で前年度比3%減だった
- [37]1990年度の経常利益は201億円で前年度比40%減だった
- [38]1989年度に売上高2,380億円だった情報機器事業は1990年度に2,060億円へ落ち込んだ
- [39]相沢進専務は1990年度の減収減益の原因を肥大化した組織特有の意思決定の遅さにあると見ていた
- [40]1991年1月にコンピューター、プリンター、周辺機器の3事業本部を掌握する情報機器システム事業統括を新設し、土橋光広専務を起用して決裁権限を集中した
- [41]1991年7月下旬の全社的な組織改革で、副本部長や副事業部長、次長など権限のはっきりしない中間的な役職を原則廃止した
- [42]製品が完成する都度、諏訪周辺で22カ所ある倉庫の空きを求めてトラックが走る状態で、建屋費用だけで25億円を投じて広丘事業所にEBLセンターを開設した
- 日経ビジネス 1991年10月21日号
- [43]安川英昭は1991年6月にセイコーエプソン社長へ就任した
- 日経ビジネス 1992年11月9日号
- [44]パソコン部門の陣容の半減指令を出したのは安川社長だった
- [45]開発・設計など500人体制だったコンピュータ・システム事業部から200人をプリンターなど成長性の高い事業部へ移し、300人という枠で対応可能な製品展開と生産体制を構築することにした
- [46]前年度は約10機種を発売したが今年度の予定は5機種程度で、CPUを組み込んだ基板を本体基板と切り離し、利用者が部品を取り換えて機能を強化できるようにした
- [47]1992年3月期の売上高は前期比3%増の4,707億円、経常利益は前期の201億円から58億円へ大幅に減少した
- [48]1992年度経営方針の第一項目に「ものづくりの原点に立ち返り、生産革新を起こす」を掲げた
- [49]1992年4月入社の高専以上の新卒250人全員を1年間現場に配置し、非製造部門から製造・営業現場へ1,000人を目標にローテーション人事を進めた
- 日経ビジネス 1998年3月30日号
- [50]エプソンは1995年からパソコン事業を大幅に縮小して子会社のエプソン販売に移管し、フロッピーディスクドライブ、ハードディスクドライブなどの記録媒体事業からも撤退してプリンター事業に経営資源を集中させた
- [51]安川英昭社長はエプソンの特徴が出せない事業は売り上げが出ていても続ける意味がない、30年以上取り組んでいるプリンター事業には技術とノウハウの蓄積があると語った
- [52]1995年以降は消費者向けにカラリオというブランド名で売り込み、インクジェットプリンターの国内市場でシェアトップに躍り出た
- [53]1996年に初めて写真画質をうたって発売した機種はエプソン史上空前の大ヒット商品となり、後継機を含めて55%のシェアを握った
- 日経ビジネス 1999年9月20日号
- [54]セイコーエプソンの1999年3月期の単独売上高は8,247億円、単独の経常利益は523億円、連結売上高は1兆500億円だった
筆者考察
主力を替えるのに最も良い時機は、いまの主力がまだ稼いでいるうちである。諏訪精工舎が1979年4月期に1,000億円を売り上げていた頃、デジタルウオッチの登場で時計の値段は落ち、分解掃除の要らない時計は町の時計店から収入源を奪い、明治以来の販売網を揺らしていた。時計はもう利益率の高い商品ではない。そこでグループは、時計が利益を出している間にプリンターと液晶と半導体へ人と金を寄せ、1985年に諏訪精工舎はエプソンを吸収してセイコーエプソンになる。時計が売上に占める割合は、100%から40%割れまで下がっていた。
借り物の規格で戦うかぎり、値段でも機能でも本家の一歩内側でしか動けない。1987年に日本電気のPC-9800互換機へ出たセイコーエプソンは、BIOSの著作権を争って差し止めの仮処分申請まで受け、和解の後も価格では日本電気に、携帯性では東芝のダイナブックに挟まれた。1990年度の初の減収減益はその帰結である。安川英昭が採った手は、パソコンの開発陣を500人から300人へ削り、記録媒体からも退いて、30年やってきたプリンターへ残りを賭けることだった。カラリオが国内シェア55%を取り、1999年3月期の連結売上高は1兆500億円に届く。捨てた事業の数だけ、残した一本が重くなった。
1979年〜1999年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 利益率 | |||
| 1979年 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1980年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1981年04月期 | 単体 | 1,211 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1982年04月期 | 単体 | 1,217 | +0.5% | n/a | n/a | n/a |
| 1983年04月期 | 単体 | 1,512 | +24.2% | n/a | n/a | n/a |
| 1984年03月期 | 単体 | 2,034 | +34.5% | n/a | n/a | n/a |
| 1985年03月期 | 単体 | 2,360 | +16.0% | n/a | n/a | n/a |
| 1986年03月期 | 単体 | 3,060 | +29.7% | n/a | n/a | n/a |
| 1987年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1988年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1989年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1990年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1991年03月期 | 単体 | 4,569 | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1992年03月期 | 単体 | 4,707 | +3.0% | 50 | 1.1% | n/a |
| 1993年03月期 | 単体 | 4,314 | ▲8.3% | n/a | n/a | n/a |
| 1994年03月期 | 単体 | 4,446 | +3.1% | n/a | n/a | n/a |
| 1995年03月期 | 単体 | 5,109 | +14.9% | n/a | n/a | n/a |
| 1996年03月期 | 単体 | 6,009 | +17.6% | n/a | n/a | n/a |
| 1997年03月期 | 単体 | 6,229 | +3.7% | n/a | n/a | n/a |
| 1998年03月期 | 単体 | 8,151 | +30.9% | n/a | n/a | n/a |
| 1999年03月期 | 単体 | 8,247 | +1.2% | n/a | n/a | n/a |
出所:ダイヤモンド会社要覧 非上場会社版 1985年版、長野県会社年鑑 1986年版、日経産業新聞 1987/4/27、日経ビジネス 1991/7/22、日経産業新聞 1992/6/6、日経産業新聞 1993/6/26、日経ビジネス 1994/8/1、日本経済新聞 19958/8、日本経済新聞 1996/6/7、日本経済新聞 1997/6/7、日本経済新聞 1998/6/5、日本経済新聞 1999/5/28
出典・参考
10件
- セイコーエプソン 有価証券報告書 第83期(2025年3月期)【沿革】
- 日経ビジネス 1980年6月2日号
- Decide(決断)1986年2月号(3巻11号・通巻26号、サバイバル出版)
- Decide(決断)1987年2月号(5巻2号・通巻40号、サバイバル出版)
- 日経ビジネス 1990年8月27日号
- 日経ビジネス 1991年7月22日号
- 日経ビジネス 1991年10月21日号
- 日経ビジネス 1992年11月9日号
- 日経ビジネス 1998年3月30日号
- 日経ビジネス 1999年9月20日号