リンナイ:林内製作所の設立とシュバンク提携による赤外線バーナーの製造
1950年〜名古屋瓦斯へガス器具を納めてきた林内商会と、資本金100万円の林内製作所
林内製作所は1950年9月、個人商店の林内商会を改組し、株式会社として設立された。林内商会は1920年9月、のちに取締役社長となる内藤秀次郎氏と取締役となる林兼吉氏が創業した。同商会は創業当時から名古屋瓦斯(現東邦瓦斯)へガス器具を納め、大正末期から昭和10年代には全国各地の燃料供給会社にも器具を卸すようになった。1945年の戦災で全工場を焼失し、翌1946年には本社敷地内へ工場を再建してガス・石油器具の製造を再開。1992年に社長を務めていた内藤進氏は、家業を継ぐはずだった兄の戦死を受けて経営を担うことになったと振り返っている。工場の再建を終えた家業を法人に改め、燃料転換で増える需要に製造の規模を合わせようとしたとみられる。
- 証券 34(12) 1982年 p55-64
- [1]林内商会は1920年9月に内藤秀次郎・林兼吉が創業、名古屋瓦斯に納入、1945年戦災で全工場焼失、1946年再建、1950年9月に株式会社林内製作所に改組
- [2]林内商会は1920年9月に内藤秀次郎・林兼吉が創業、名古屋瓦斯に納入、1945年戦災で全工場焼失、1946年再建、1950年9月に株式会社林内製作所に改組
- [3]林内商会は1920年9月に内藤秀次郎・林兼吉が創業、名古屋瓦斯に納入、1945年戦災で全工場焼失、1946年再建、1950年9月に株式会社林内製作所に改組
- [4]林内商会は1920年9月に内藤秀次郎・林兼吉が創業、名古屋瓦斯に納入、1945年戦災で全工場焼失、1946年再建、1950年9月に株式会社林内製作所に改組
- 日経ビジネス 1992年10月26日号 p5
- [5]内藤進は家業を継ぐはずだった兄が戦死したため会社経営を担った
林内製作所は1954年に東京営業所を開設し、1955年8月には名古屋市に愛知工場を新設した。戦後の復興で家庭の燃料が薪・石炭から石油・ガスへ移り、製品の需要が増えていた。営業所はその後の昭和30年代に大阪・福岡・札幌・仙台へ広がった。販売はガス会社のブランドと営業網を通じる経路が中心だった。1978年時点でも、国内向け製品の約半分の納入先は東京瓦斯・東邦瓦斯・大阪瓦斯を含むガス会社。ガス会社とは毎年初めに1年分の販売契約を結び、ガス会社側は納入品を厳しく検査した。名古屋瓦斯1社との取引から出て、東京のガス会社へ納入先を広げるために営業拠点を先に置いたと推察される。
- 証券 34(12) 1982年 p55-64
- [6]1954年東京営業所、1955年8月愛知工場(名古屋市)新設。燃料が薪・石炭から石油・ガスへ移り需要増。昭和30年代に大阪・福岡・札幌・仙台営業所
- [7]1954年東京営業所、1955年8月愛知工場(名古屋市)新設。燃料が薪・石炭から石油・ガスへ移り需要増。昭和30年代に大阪・福岡・札幌・仙台営業所
- [8]1954年東京営業所、1955年8月愛知工場(名古屋市)新設。燃料が薪・石炭から石油・ガスへ移り需要増。昭和30年代に大阪・福岡・札幌・仙台営業所
- 日経ビジネス 1979年2月12日号 p104-106
- [9]国内向け製品の約半分は東京瓦斯・東邦瓦斯・大阪瓦斯などガス会社向け、毎年初めに1年分の販売契約、ガス会社の商品チェックは厳しい(1978年頃)
- [10]国内向け製品の約半分は東京瓦斯・東邦瓦斯・大阪瓦斯などガス会社向け、毎年初めに1年分の販売契約、ガス会社の商品チェックは厳しい(1978年頃)
- [11]国内向け製品の約半分は東京瓦斯・東邦瓦斯・大阪瓦斯などガス会社向け、毎年初めに1年分の販売契約、ガス会社の商品チェックは厳しい(1978年頃)
参考文献[1]-[11]
- 証券 34(12) 1982年 p55-64
- [1]林内商会は1920年9月に内藤秀次郎・林兼吉が創業、名古屋瓦斯に納入、1945年戦災で全工場焼失、1946年再建、1950年9月に株式会社林内製作所に改組
- [2]林内商会は1920年9月に内藤秀次郎・林兼吉が創業、名古屋瓦斯に納入、1945年戦災で全工場焼失、1946年再建、1950年9月に株式会社林内製作所に改組
- [3]林内商会は1920年9月に内藤秀次郎・林兼吉が創業、名古屋瓦斯に納入、1945年戦災で全工場焼失、1946年再建、1950年9月に株式会社林内製作所に改組
- [4]林内商会は1920年9月に内藤秀次郎・林兼吉が創業、名古屋瓦斯に納入、1945年戦災で全工場焼失、1946年再建、1950年9月に株式会社林内製作所に改組
- [6]1954年東京営業所、1955年8月愛知工場(名古屋市)新設。燃料が薪・石炭から石油・ガスへ移り需要増。昭和30年代に大阪・福岡・札幌・仙台営業所
- [7]1954年東京営業所、1955年8月愛知工場(名古屋市)新設。燃料が薪・石炭から石油・ガスへ移り需要増。昭和30年代に大阪・福岡・札幌・仙台営業所
- [8]1954年東京営業所、1955年8月愛知工場(名古屋市)新設。燃料が薪・石炭から石油・ガスへ移り需要増。昭和30年代に大阪・福岡・札幌・仙台営業所
- 日経ビジネス 1992年10月26日号 p5
- [5]内藤進は家業を継ぐはずだった兄が戦死したため会社経営を担った
- 日経ビジネス 1979年2月12日号 p104-106
- [9]国内向け製品の約半分は東京瓦斯・東邦瓦斯・大阪瓦斯などガス会社向け、毎年初めに1年分の販売契約、ガス会社の商品チェックは厳しい(1978年頃)
- [10]国内向け製品の約半分は東京瓦斯・東邦瓦斯・大阪瓦斯などガス会社向け、毎年初めに1年分の販売契約、ガス会社の商品チェックは厳しい(1978年頃)
- [11]国内向け製品の約半分は東京瓦斯・東邦瓦斯・大阪瓦斯などガス会社向け、毎年初めに1年分の販売契約、ガス会社の商品チェックは厳しい(1978年頃)
1957年〜2億円のパテント料で得たシュバンクの赤外線バーナーと、石油こんろからの撤退
林内製作所は西独シュバンク社から赤外線燃焼方式の技術を導入し、1957年に赤外線燃焼方式のガスストーブを開発した。年間売上高が10億円に満たない当時の、2億円に上るパテント料の支払い。1979年に社長の内藤明人氏は、この支払いについて『パテント料はたしかにきつかったが、技術的に画期的なもので、どうしても欲しかった』と振り返った。シュバンク社から得たのは燃焼方式そのもので、ストーブへ組み込む技術と加工技術は自社で持っていた。1982年の証券誌は技術提携を1958年とし、赤外線ガスバーナーの製造を機にガス器具の比重が高まったと記す。組み立てでは差がつきにくい器具で、燃焼方式という中核の技術を先に押さえようとしたのだろう。
- 日経ビジネス 1979年2月12日号 p104-106
- [12]西独シュバンク社と技術提携し1957年に赤外線燃焼方式ガスストーブを開発。売上高10億円未満の時代に2億円のパテント料。組み込み・加工技術は自社
- [13]西独シュバンク社と技術提携し1957年に赤外線燃焼方式ガスストーブを開発。売上高10億円未満の時代に2億円のパテント料。組み込み・加工技術は自社
- [14]西独シュバンク社と技術提携し1957年に赤外線燃焼方式ガスストーブを開発。売上高10億円未満の時代に2億円のパテント料。組み込み・加工技術は自社
- [15]西独シュバンク社と技術提携し1957年に赤外線燃焼方式ガスストーブを開発。売上高10億円未満の時代に2億円のパテント料。組み込み・加工技術は自社
- 証券 34(12) 1982年 p55-64
- [16]1958年に西独シュバンク社と技術提携し赤外線ガスバーナーを製造、これを契機にガス器具製造のウエイトが高まった
林内製作所は1960年12月、愛知県尾張旭市に旭工場を新設した。昭和30年代の林内製作所は石油とガスの両方の燃焼器具を製造していた。赤外線ガスバーナーの製造を機にガス器具の比重が高まり、工場の新設で生産能力を増強した。赤外線燃焼方式のガスストーブは、その後の製品開発の足がかりとなった。1978年時点のガスストーブの国内シェアは70%である。赤外線ストーブの需要を取り込むため、名古屋市内の愛知工場に続く生産拠点を市外に求めたと考えられる。
- 証券 34(12) 1982年 p55-64
- [17]1960年12月旭工場(尾張旭市)新設で生産能力増強。昭和30年代は石油・ガス両燃焼器具を製造、赤外線ガスバーナーを契機にガス器具比重上昇
- [18]1960年12月旭工場(尾張旭市)新設で生産能力増強。昭和30年代は石油・ガス両燃焼器具を製造、赤外線ガスバーナーを契機にガス器具比重上昇
- [19]1960年12月旭工場(尾張旭市)新設で生産能力増強。昭和30年代は石油・ガス両燃焼器具を製造、赤外線ガスバーナーを契機にガス器具比重上昇
- 日経ビジネス 1979年2月12日号 p104-106
- [20]赤外線燃焼方式ガスストーブがリンナイの今日を築く足がかり。ガスストーブのシェア70%(1978年頃)
- [21]赤外線燃焼方式ガスストーブがリンナイの今日を築く足がかり。ガスストーブのシェア70%(1978年頃)
林内製作所は1964年に石油こんろと石油ストーブの製造を中止し、ガス器具を中心とする製品構成へ改めた。昭和30年代後半から昭和40年代前半にかけて、ガス普及率の向上がガス器具の新規需要を生んでいた。同じ1964年の10月には、愛知県丹羽郡大口町に大口工場を新設した。1982年時点の大口工場は愛知工場とともに燃焼部品の切削加工を担い、各工場の組み立てへ部品を供給していた。ガス器具はガス会社の年間契約で売れ、1978年時点では売上高の約4割について生産と販売の計画を事前に決められた。ガス会社の販路に製品を寄せたほうが需要の見通しを立てやすいと判断したと思われる。
- 証券 34(12) 1982年 p55-64
- [22]1964年に石油こんろ・石油ストーブの製造を中止しガス器具中心へ。昭和30年代後半〜40年代前半はガス普及率向上で新規需要。1964年10月大口工場(丹羽郡大口町)新設
- [23]1964年に石油こんろ・石油ストーブの製造を中止しガス器具中心へ。昭和30年代後半〜40年代前半はガス普及率向上で新規需要。1964年10月大口工場(丹羽郡大口町)新設
- [24]1964年に石油こんろ・石油ストーブの製造を中止しガス器具中心へ。昭和30年代後半〜40年代前半はガス普及率向上で新規需要。1964年10月大口工場(丹羽郡大口町)新設
- [25]1964年に石油こんろ・石油ストーブの製造を中止しガス器具中心へ。昭和30年代後半〜40年代前半はガス普及率向上で新規需要。1964年10月大口工場(丹羽郡大口町)新設
- 日経ビジネス 1979年2月12日号 p104-106
- [26]ガス会社と毎年初めに1年分の販売契約、売上の約4割の生産・販売計画を事前に設定できる(1978年頃)
参考文献[12]-[26]
- 日経ビジネス 1979年2月12日号 p104-106
- [12]西独シュバンク社と技術提携し1957年に赤外線燃焼方式ガスストーブを開発。売上高10億円未満の時代に2億円のパテント料。組み込み・加工技術は自社
- [13]西独シュバンク社と技術提携し1957年に赤外線燃焼方式ガスストーブを開発。売上高10億円未満の時代に2億円のパテント料。組み込み・加工技術は自社
- [14]西独シュバンク社と技術提携し1957年に赤外線燃焼方式ガスストーブを開発。売上高10億円未満の時代に2億円のパテント料。組み込み・加工技術は自社
- [15]西独シュバンク社と技術提携し1957年に赤外線燃焼方式ガスストーブを開発。売上高10億円未満の時代に2億円のパテント料。組み込み・加工技術は自社
- [20]赤外線燃焼方式ガスストーブがリンナイの今日を築く足がかり。ガスストーブのシェア70%(1978年頃)
- [21]赤外線燃焼方式ガスストーブがリンナイの今日を築く足がかり。ガスストーブのシェア70%(1978年頃)
- [26]ガス会社と毎年初めに1年分の販売契約、売上の約4割の生産・販売計画を事前に設定できる(1978年頃)
- 証券 34(12) 1982年 p55-64
- [16]1958年に西独シュバンク社と技術提携し赤外線ガスバーナーを製造、これを契機にガス器具製造のウエイトが高まった
- [17]1960年12月旭工場(尾張旭市)新設で生産能力増強。昭和30年代は石油・ガス両燃焼器具を製造、赤外線ガスバーナーを契機にガス器具比重上昇
- [18]1960年12月旭工場(尾張旭市)新設で生産能力増強。昭和30年代は石油・ガス両燃焼器具を製造、赤外線ガスバーナーを契機にガス器具比重上昇
- [19]1960年12月旭工場(尾張旭市)新設で生産能力増強。昭和30年代は石油・ガス両燃焼器具を製造、赤外線ガスバーナーを契機にガス器具比重上昇
- [22]1964年に石油こんろ・石油ストーブの製造を中止しガス器具中心へ。昭和30年代後半〜40年代前半はガス普及率向上で新規需要。1964年10月大口工場(丹羽郡大口町)新設
- [23]1964年に石油こんろ・石油ストーブの製造を中止しガス器具中心へ。昭和30年代後半〜40年代前半はガス普及率向上で新規需要。1964年10月大口工場(丹羽郡大口町)新設
- [24]1964年に石油こんろ・石油ストーブの製造を中止しガス器具中心へ。昭和30年代後半〜40年代前半はガス普及率向上で新規需要。1964年10月大口工場(丹羽郡大口町)新設
- [25]1964年に石油こんろ・石油ストーブの製造を中止しガス器具中心へ。昭和30年代後半〜40年代前半はガス普及率向上で新規需要。1964年10月大口工場(丹羽郡大口町)新設
1965年〜大口町に設置した技術センターと、社名をリンナイに改めて出た豪州
林内製作所は1967年、社内に技術センターを新設して研究開発の体制を一本化した。前年の1966年に内藤明人氏が社長に就任し、国際企業への転換を決めていた。技術センターは開発設計と技術の2部門に分かれ、開発設計部門はガスを中心とする流体熱技術の研究と海外の技術情報の収集を受け持った。技術部門はその成果を商品に反映させる役割を担った。1964年に石油器具の製造を中止し、ガス器具を中心とする製品展開へ移った後の体制整備にあたる。研究開発の人員は1979年時点で200人を超え、社員全体の1割以上を占めた。
- 日経ビジネス 1979年2月12日号 p104-106
- [27]1966年内藤明人が社長就任、1967年技術センター新設で研究開発体制を一本化、開発設計と技術の2部門の2段階体制、人員200人超・社員の1割以上(1979年)
- [28]1966年内藤明人が社長就任、1967年技術センター新設で研究開発体制を一本化、開発設計と技術の2部門の2段階体制、人員200人超・社員の1割以上(1979年)
- [29]1966年内藤明人が社長就任、1967年技術センター新設で研究開発体制を一本化、開発設計と技術の2部門の2段階体制、人員200人超・社員の1割以上(1979年)
- [30]1966年内藤明人が社長就任、1967年技術センター新設で研究開発体制を一本化、開発設計と技術の2部門の2段階体制、人員200人超・社員の1割以上(1979年)
- [32]1966年内藤明人が社長就任、1967年技術センター新設で研究開発体制を一本化、開発設計と技術の2部門の2段階体制、人員200人超・社員の1割以上(1979年)
- 証券 34(12) 1982年 p55-64
- [31]1964年の石油こんろ・石油ストーブ製造中止でガス器具中心の製品展開へ
林内製作所は1971年、コンベック(ガスオーブン)をはじめ電子部品を組み込んだガス器具の製造を始めた。ガス器具メーカーとして売上高を拡大しながら、普及率の低い製品の拡販を図っていた。コンベックは1971年に開発された業界初のガス高速レンジである。エレクトロニクス化の流れに合わせた製品で、1977年秋のマイコン内蔵ガスレンジの開発へつながった。昭和40年代後半からは住宅着工戸数の増加と核家族化による設置箇所の増加で、ガス器具市場そのものも拡大した。技術センターで一本化した開発体制が、電子部品とガス燃焼を結びつける製品として最初に形にしたものと推測される。
- 証券 34(12) 1982年 p55-64
- [33]1971年にコンベック(ガスオーブン)等電子部品を組み込んだガス器具の製造開始。普及率の低い製品の拡販を図る。昭和40年代後半から住宅着工増・核家族化で市場拡大
- [34]1971年にコンベック(ガスオーブン)等電子部品を組み込んだガス器具の製造開始。普及率の低い製品の拡販を図る。昭和40年代後半から住宅着工増・核家族化で市場拡大
- [37]1971年にコンベック(ガスオーブン)等電子部品を組み込んだガス器具の製造開始。普及率の低い製品の拡販を図る。昭和40年代後半から住宅着工増・核家族化で市場拡大
- 日経ビジネス 1979年2月12日号 p104-106
- [35]1971年に業界初のガス高速レンジ(商品名コンベック)を開発、1977年秋にマイコン内蔵ガスレンジを開発
- [36]1971年に業界初のガス高速レンジ(商品名コンベック)を開発、1977年秋にマイコン内蔵ガスレンジを開発
林内製作所は1971年8月、商号をリンナイ株式会社に変更した。海外への展開は、それに先立つ1965年の台湾での現地組み立て工場の建設から始まった。1966年に社長に就任した内藤明人氏は『企業経営をやる以上、世界に通じるものを作らなければダメだ』という考えを持ち、就任を機に国際企業への転換を決めた。1979年時点のリンナイは世界10カ国に現地法人を持ち、うちオーストラリアに3社を置いていた。1982年時点の輸出はオーストラリアを中心とし、暖房機器を含む季節商品の生産を平準化する狙いがあった。創業者2人の姓から取った漢字の社名を片仮名に改めたのは、海外で通じる呼び名を求めたためと解される。
- 証券 34(12) 1982年 p55-64
- [38]1971年8月リンナイ株式会社に商号変更。輸出はオーストラリア中心で季節商品の生産平準化が狙い(1982年時点、輸出比率6.2%)
- [42]1971年8月リンナイ株式会社に商号変更。輸出はオーストラリア中心で季節商品の生産平準化が狙い(1982年時点、輸出比率6.2%)
- 日経ビジネス 1979年2月12日号 p104-106
- [39]1965年台湾に現地組立工場、1966年内藤明人社長就任を契機に国際化、1979年時点で10カ国に現地法人(オーストラリア3社)
- [40]1965年台湾に現地組立工場、1966年内藤明人社長就任を契機に国際化、1979年時点で10カ国に現地法人(オーストラリア3社)
- [41]1965年台湾に現地組立工場、1966年内藤明人社長就任を契機に国際化、1979年時点で10カ国に現地法人(オーストラリア3社)
参考文献[27]-[42]
- 日経ビジネス 1979年2月12日号 p104-106
- [27]1966年内藤明人が社長就任、1967年技術センター新設で研究開発体制を一本化、開発設計と技術の2部門の2段階体制、人員200人超・社員の1割以上(1979年)
- [28]1966年内藤明人が社長就任、1967年技術センター新設で研究開発体制を一本化、開発設計と技術の2部門の2段階体制、人員200人超・社員の1割以上(1979年)
- [29]1966年内藤明人が社長就任、1967年技術センター新設で研究開発体制を一本化、開発設計と技術の2部門の2段階体制、人員200人超・社員の1割以上(1979年)
- [30]1966年内藤明人が社長就任、1967年技術センター新設で研究開発体制を一本化、開発設計と技術の2部門の2段階体制、人員200人超・社員の1割以上(1979年)
- [32]1966年内藤明人が社長就任、1967年技術センター新設で研究開発体制を一本化、開発設計と技術の2部門の2段階体制、人員200人超・社員の1割以上(1979年)
- [35]1971年に業界初のガス高速レンジ(商品名コンベック)を開発、1977年秋にマイコン内蔵ガスレンジを開発
- [36]1971年に業界初のガス高速レンジ(商品名コンベック)を開発、1977年秋にマイコン内蔵ガスレンジを開発
- [39]1965年台湾に現地組立工場、1966年内藤明人社長就任を契機に国際化、1979年時点で10カ国に現地法人(オーストラリア3社)
- [40]1965年台湾に現地組立工場、1966年内藤明人社長就任を契機に国際化、1979年時点で10カ国に現地法人(オーストラリア3社)
- [41]1965年台湾に現地組立工場、1966年内藤明人社長就任を契機に国際化、1979年時点で10カ国に現地法人(オーストラリア3社)
- 証券 34(12) 1982年 p55-64
- [31]1964年の石油こんろ・石油ストーブ製造中止でガス器具中心の製品展開へ
- [33]1971年にコンベック(ガスオーブン)等電子部品を組み込んだガス器具の製造開始。普及率の低い製品の拡販を図る。昭和40年代後半から住宅着工増・核家族化で市場拡大
- [34]1971年にコンベック(ガスオーブン)等電子部品を組み込んだガス器具の製造開始。普及率の低い製品の拡販を図る。昭和40年代後半から住宅着工増・核家族化で市場拡大
- [37]1971年にコンベック(ガスオーブン)等電子部品を組み込んだガス器具の製造開始。普及率の低い製品の拡販を図る。昭和40年代後半から住宅着工増・核家族化で市場拡大
- [38]1971年8月リンナイ株式会社に商号変更。輸出はオーストラリア中心で季節商品の生産平準化が狙い(1982年時点、輸出比率6.2%)
- [42]1971年8月リンナイ株式会社に商号変更。輸出はオーストラリア中心で季節商品の生産平準化が狙い(1982年時点、輸出比率6.2%)
出典・参考
3件
- 日経ビジネス 1979年2月12日号 p104-106
- 日経ビジネス 1992年10月26日号 p5
- 証券 34(12) 1982年 p55-64