倒産ブランド「メンソレータム」の商標だけを買った判断
1975年実施会社を救うのか、ブランドを取るのか——近江兄弟社の倒産で宙に浮いた商標に、ロート製薬はどう応じたか
- 概要
- 1975年、経営破綻した近江兄弟社が手放したメンソレータムの商標について、ロート製薬が会社の救済ではなく米メンソレータム社からの商標使用権取得という形で軟膏市場へ参入した経営判断。負債20億円と従業員約260名を引き継がず、ブランド資産だけを切り出した。
- 背景
- 胃腸薬シロンと目薬に収益を依存する構造からの脱却が課題であり、第三の柱が要った。軟膏市場では大塚製薬のオロナインが先行し、長年メンソレータムを扱ってきた近江兄弟社は倒産して、そのブランドは帰属の定まらないまま宙に浮いていた。
- 内容
- 米メンソレータム社から国内の商標使用権を期間10年・ロイヤリティ売上高の7.5%で取得した。倒産企業の負債と人員は抱えず、自動化した本社工場で少人数に生産を絞る設計とし、目薬・胃腸薬に次ぐ三本目の柱に育てる構えをとった。
- 含意
- 倒産の局面でブランドという無形資産だけを取り出す手法であり、負債の遮断と既存ブランドの継承を同時に果たした。ただし近江兄弟社が「メンターム」で市場へ復帰し、独占には至らなかった。13年後には源流企業そのものを買収する道へつながる。
会社を買わず、ブランドを買うということ
この判断の核心は、倒産した会社を丸ごと救うのではなく、そこに残ったブランドという無形資産だけを取り出した点にある。再建に踏み込めば、約20億円の負債と数百名の人員が付いて回った。ロート製薬はそれを負わず、確立済みのブランドと顧客だけを継承し、少品種を量産する自社の強みで生産を担った。ゼロから広告を積み上げてブランドを育てる時間と費用を省きつつ、破綻企業の重荷は遮断する——大衆薬という成熟市場で、参入の手数料をいかに小さくするかに徹した設計だったとみることができる。
もっとも、借りたブランドは自分のものではない。近江兄弟社が「メンターム」で戻り、独占には至らず、ライセンスに依存する構造は契約の条件しだいで揺らぐ弱さを残した。だからこそ13年後、ロート製薬は源流企業そのものを買い、使用権を所有権へと引き上げていく。倒産の局面でブランドだけを切り出したこの一手は、身軽な参入の妙であると同時に、いずれ源流を所有せざるをえないという宿題も同時に抱え込んでいた。軽く入って、後で重く決める——多角化の入口としての性格が、この判断にはよく表れている。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
胃腸薬と目薬に依存した収益構造
ロート製薬は、明治期に胃腸薬「胃活」で出発し、戦後は個人経営から株式会社へ改組して、胃腸薬シロンと目薬を二本柱に伸びた会社である。創業以来「少品種多量生産販売」に徹し、少ない品目に全精力を注いで良い製品を安く大衆へ届けることを掲げてきた。この一点集中は、大量生産による原価の低さと、広告を絞り込んで投じることによるブランド認知を同時に生む強みであった。一方でそれは、二つの主力に業績を託す構造でもあった[1]。
近江兄弟社の倒産と宙に浮いたブランド
軟膏の分野では、大塚製薬のオロナインが広告と流通で高い認知を築き、市場を事実上リードしていた。そこへ、長くメンソレータムを製造・販売してきた近江兄弟社が経営破綻に至る。負債はおよそ20億円、従業員は約260名を数え、会社を再建するには負債と人員をそのまま引き受けねばならなかった。歴史あるメンソレータムのブランドは、扱い手を失って帰属の定まらないまま宙に浮き、その将来をだれが担うのかが問われることになった[2]。
決断
会社ではなく、商標を買う
ロート製薬は、近江兄弟社そのものの救済には向かわなかった。1975年、米メンソレータム社と直接に契約し、メンソレータム軟膏やリップスティックなど数品目について、国内での製造販売と輸入販売の権利を取得する。期間は10年、ロイヤリティは売上高の7.5%前後とされた。近江が米側へ実質的に払っていた比率のおよそ半分以下にあたり、間の商流を省いた分だけ双方の取り分が改善する設計であった。倒産企業の負債も人員も抱えず、ブランドという無形資産だけを切り出す判断である[3]。
引き継いだ生産は、自動化した本社工場で少人数に絞る構えをとった。副社長の山田安邦は、近江が約260名で担っていた分を「30人の人手でやってみせます」と語り、少品種を量産して原価を抑えるロート流の強みを、そのまま軟膏へ持ち込もうとした。米側の事前了解を取れば色や感触の異なる製品も出せるとして、先行するオロナインを追う姿勢も早くからのぞかせた。ロート製薬は、この事業を数年のうちに目薬・胃腸薬に次ぐ三本目の柱へ育てる構えであった[4]。
結果
三社競合の定着と、13年後の帰結
メンソレータムはロート製薬の主力ブランドとして定着し、1980年代にかけて外皮用薬と医薬部外品の売上を押し上げた。内服薬と点眼薬に偏っていた収益は、ここで分散へ向かう。もっとも独占には至らなかった。ブランドを手放した近江兄弟社は「メンターム」の名で市場へ復帰し、従業員が小売店を一軒ずつ自転車で回る営業で巻き返しを図る。岩原社長は「ロートさんに対する競争心があってこそ、それが可能になった」と語り、やがてメンソレータムの三分の一ほどまで売上を戻したという。オロナインを含む三社の競合が定着した[5]。
商標を借りるという足場は、やがて借り続けることの限界に突き当たる。ライセンスに依存する構造では、契約更新や条件の変更に事業が左右されかねない。ロート製薬は1988年7月、ついに源流の米メンソレータム社そのものを買収して完全子会社化する。会社を買わずブランドだけを買った1975年の判断は、13年を経て、ブランドの源流ごと所有する判断へと接ぎ木された。商標の使用権から所有権へという移行の起点が、この倒産ブランドの取得にあった[6]。
- 『企業の歴史 : 明治百年』(経済春秋社編, 1968)ロート製薬の項
- 財界 1975年6月号(財界研究所)
- 日経ビジネス 1987年12月7日号「近江兄弟社 社長も社員も自転車でセールス」(日経BP)
- 日経トップリーダー 2016年8月号「編集長インタビュー 山田邦雄氏[ロート製薬会長兼CEO] 突進し、頭をぶつければ次が見える」(日経BP)