波多野鶴吉
グンゼ・元取締役社長
社長就任1901年10月
生年月日—
学歴—
出自—
経歴1886〜1918年
経歴
| 区分 | 所属先 | 就任年 | 役職 | 現任 | 1886年主要役職の状況(推定含む目安)1918年 |
|---|---|---|---|---|---|
| 民間 | グンゼ(旧・郡是製絲) | 1895 | 設立 | ||
| 1896 | 取締役 | ||||
| 1901 | 取締役社長 | ||||
| 1918 | 社長 死去 | ||||
| 他 | 何鹿郡蚕糸業組合 | 1886 | — | ||
| 1891 | — |
社長就任までの出自
出自
1858年、何鹿郡延村の大庄屋である羽室家の次男に生まれ、1866年に上林馬場村の波多野家の養子となった。1875年から京都で数学を学び、数学書『啓蒙方程式』を自費で刊行して塾も開いたが、貸本屋や土地の買収などの事業はいずれも実らなかった。養家の資産を使い果たして1881年に郷里へ戻り、翌年から小学校で教えるかたわら、郷土の産業を興すことを天職とし、その手段を蚕糸業に定めた。
社長に選ばれた経緯
抜擢
1896年5月の創立総会では創立委員長として議長を務め、取締役に選ばれたが、社長には実兄の羽室嘉右衛門氏が就任した。1900年からの不況で羽室嘉右衛門氏が頭取を務める明瞭銀行が破綻し、1901年7月に羽室嘉右衛門氏らが郡是製絲の役員を辞した。同年10月の取締役会で波多野鶴吉氏が取締役社長に就任し、創立を主導した本人が名実ともに経営を担った。
在任中の主な施策
施策
養蚕農家との繭の取引に公正を求め、1898年の未定取引、1905年の特約取引を経て、1909年に繭の重さと品質で値を決める正量取引を始めた。品質の統一にも力を入れ、1900年のパリ万国博覧会では郡是製絲の生糸が金牌の筆頭に挙げられた。1902年には米国の機業家スキンナー商会が輸出生糸の一手引き取りを申し出て、取引は1914年まで続いた。1909年4月には川合信水氏を迎えて教育部を設け、社長以下の幹部も修養を受ける体制をつくった。
創業ストーリー
創業ストーリー
参考文献5件
参考文献
- グンゼ株式会社八十年史(グンゼ, 1978)「波多野鶴吉とその周辺」
- グンゼ株式会社八十年史(グンゼ, 1978)「何鹿郡の蚕糸業と波多野鶴吉の活動」
- グンゼ株式会社八十年史(グンゼ, 1978)「地方銀行の破綻」「安田善次郎の来訪」
- グンゼ株式会社八十年史(グンゼ, 1978)「波多野鶴吉の死去」
- 郡是四十年小史(郡是製絲, 1936)
事実根拠:出所(グンゼ)