第2章 年〜年

ヤクルト本社:藤沢工場の新設と化粧品・医薬品への多角化

6万5000人の宅配網へ従属させたジョアと化粧品

1970年〜主婦という非競合労働市場の開拓と6万5000店の配置

他社と競合しない労働力を主婦に求めた

宅配制度を始めた当初に集まった応募者は、新聞配達で集金を使い込んで解雇された者や、保険の外交で収入保証期間だけを渡り歩く者が多かった。1本10円そこそこの見慣れない商品を売る仕事に、歴史と信用のある乳業会社や新聞社、保険会社と競って人を集めても、条件で上回ることはできない。ヤクルト本社は配達の手数料を他業種より高く設定したが、松園尚巳氏は、報酬だけで人を繋ぎ止めれば顧客へ無理を重ねる悪循環になり、経営体質も虚弱になると判じた。そこで選んだのが、他の企業と競合しない労働市場を新たに開くことだった。家庭電化が進んで家計の支出がふくらみ、共稼ぎの必要が高まっていた家庭の主婦が、その相手だった。

  • 『証券アナリストジャーナル』1987年3月号「ヤクルト本社」(日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
    • [1]宅配制度の採用当初は新聞配達の使い込みで解雇された者や保険セールスの収入保証期間のみを渡り歩く者が集まった
    • [2]歴史と信用を持つ乳業メーカー・新聞社・保険会社とセールスマンを取り合っても勝てなかった
    • [5]家庭電化の進展で家計費がかさみ共稼ぎの必要性が高まっていたため主婦を販売戦力とすることに着目した
  • 『証券アナリストジャーナル』1980年3月号「ヤクルト本社」(日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
    • [3]配達員の手数料を他より高くしたが、マージン政策だけでは顧客に無理を願う悪循環になり経営体質も虚弱になると考えた
    • [4]他の企業と競合しない労働市場を開拓する必要があると考えた
人口2000人に1店を設置し報酬を本数に連動させた

1973年初めの時点で、婦人販売店の店主は全国で6万5000人を数えた。店は人口2000人ごとにほぼ1店の割合で配置され、売った本数が伸びるほど店主の取り分の率が高まる累進制が敷かれていた。これに奨励金や表彰の仕組みが細部まで組み合わされていた。平均的な店主は41歳、経験は4年2カ月だった。1613人の地域を受け持って日に260本を届け、月に約3万8000円を得ていた。定着率の高さを販売会社の経営者たちは新聞配達や牛乳配達との賃金差500円から1000円で説明したが、松園尚巳氏はその見方を採らなかった。盆と正月に下駄を買ってやるほかに子供へ愛情を示す手立てのなかった主婦が、月に3000円から4000円を自分の判断で使えるようになったこと、そこに定着の理由があるとみた。

  • 『日経ビジネス』1973年2月5日号
    • [6]1973年初めの婦人販売店主は全国で約6万5000人だった
    • [7]婦人販売店は人口2000人をメドに1店ずつ置かれ、収入は販売本数に比例して累進する仕組みだった
    • [8]奨励金制度と表彰制度が細かく設けられていた
    • [9]平均的な婦人販売店主は年齢41歳・経験4年2カ月・受け持ち人口1613人で毎日260本を配達し月収3万8000円ほどだった
  • 『証券アナリストジャーナル』1987年3月号「ヤクルト本社」(日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
    • [10]販売会社の経営者たちは定着率の高さを新聞配達や牛乳配達との賃金差500円から1000円で説明したが松園尚巳氏は同意しなかった
    • [11]松園尚巳氏は定着の理由を、月に3000円から4000円を子供への愛情表現に自由に使えることに求めた
配達を正業として扱い賃金を倍にした

1日4時間の配達で4000円という報酬について、販売店の経営者たちは、新聞や牛乳の配達より上だとして、これ以上は出せないと答えた。松園尚巳氏はこれを退け、8000円を払うと決めた。1日8時間の労働を正業とし、4時間の配達をその半分としか見ない通念を崩さないかぎり、配達に従事する者の劣等感は消えないと考えたからである。値上げはしないと自らに課したうえで、精神労働・距離労働・時間労働・重量労働に分けて負担の削減にかかった。制服を支給し、8億円を投じて専用の受け箱を配り、使い捨て容器で空き瓶の回収をなくして1人あたりの配達を200本から400本へ倍にした。報酬の原資は、値上げではなく配達の生産性から取り出された。

  • 『日経ビジネス』1983年4月4日号「編集長インタビュー 使われる心をわが心に」
    • [12]1日4時間の配達で4000円という報酬に対し販売店の経営者は新聞や牛乳の配達より上でこれ以上は出せないと答えた
    • [13]松園尚巳氏は配達員に8000円を払うと決めた
    • [14]8時間労働の正業に対し1日3〜4時間のアルバイト労働として報酬が少ないことが配達員の社会的評価の低さを生んでいると考えた
    • [16]制服を支給し、8億円をかけてプラスチックの受け箱を作った
  • 『証券アナリストジャーナル』1980年3月号「ヤクルト本社」(日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
    • [15]配達労働を精神労働・距離労働・時間労働・重量労働に分けて負担の軽減にあたった
    • [17]ワンウェイ容器への切り替えで1人が1日に配達できる本数は200本から400本へ倍増した
参考文献[1]-[17]
  • 『証券アナリストジャーナル』1987年3月号「ヤクルト本社」(日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
    • [1]宅配制度の採用当初は新聞配達の使い込みで解雇された者や保険セールスの収入保証期間のみを渡り歩く者が集まった
    • [2]歴史と信用を持つ乳業メーカー・新聞社・保険会社とセールスマンを取り合っても勝てなかった
    • [5]家庭電化の進展で家計費がかさみ共稼ぎの必要性が高まっていたため主婦を販売戦力とすることに着目した
    • [10]販売会社の経営者たちは定着率の高さを新聞配達や牛乳配達との賃金差500円から1000円で説明したが松園尚巳氏は同意しなかった
    • [11]松園尚巳氏は定着の理由を、月に3000円から4000円を子供への愛情表現に自由に使えることに求めた
  • 『証券アナリストジャーナル』1980年3月号「ヤクルト本社」(日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
    • [3]配達員の手数料を他より高くしたが、マージン政策だけでは顧客に無理を願う悪循環になり経営体質も虚弱になると考えた
    • [4]他の企業と競合しない労働市場を開拓する必要があると考えた
    • [15]配達労働を精神労働・距離労働・時間労働・重量労働に分けて負担の軽減にあたった
    • [17]ワンウェイ容器への切り替えで1人が1日に配達できる本数は200本から400本へ倍増した
  • 『日経ビジネス』1973年2月5日号
    • [6]1973年初めの婦人販売店主は全国で約6万5000人だった
    • [7]婦人販売店は人口2000人をメドに1店ずつ置かれ、収入は販売本数に比例して累進する仕組みだった
    • [8]奨励金制度と表彰制度が細かく設けられていた
    • [9]平均的な婦人販売店主は年齢41歳・経験4年2カ月・受け持ち人口1613人で毎日260本を配達し月収3万8000円ほどだった
  • 『日経ビジネス』1983年4月4日号「編集長インタビュー 使われる心をわが心に」
    • [12]1日4時間の配達で4000円という報酬に対し販売店の経営者は新聞や牛乳の配達より上でこれ以上は出せないと答えた
    • [13]松園尚巳氏は配達員に8000円を払うと決めた
    • [14]8時間労働の正業に対し1日3〜4時間のアルバイト労働として報酬が少ないことが配達員の社会的評価の低さを生んでいると考えた
    • [16]制服を支給し、8億円をかけてプラスチックの受け箱を作った

1971年〜店頭販売の拒否とジョアによる嗜好飲料視の打ち消し

店頭販売の要求を退けた

販売会社からは、店頭売りも並行させたいという要望がたびたび本社へ持ち込まれた。理由は、セールスマンや配達員が集めにくく定着しないというものだった。松園尚巳氏は、1時間かけて説明しても乳酸菌の効用が伝わらない相手に、何の説明もなく店先で売れば、客は嗜好飲料として買うにすぎず、もの珍しい期間が過ぎれば伸びは止まると答えた。宅配制度はそのまま貫かれ、それが後の発展の基礎になった『われわれは微生物を利用する、これまでになかった商品を確立するのだから安易な道があろうはずはなく、宅配以外に成功は期し難い』。駅の売店などでの店頭販売に手を付けたのは、1日の販売が1000万本を越えた1969年ごろからで、内容がある程度は理解されるようになったという判断が先にあった。

  • 『日経ビジネス』1973年2月5日号
    • [18]各地域の販売会社から店頭売りも並行して行ないたいという要望がたびたび本社に寄せられた
    • [22]駅の売店などでの店頭販売は1日の販売本数が1000万本を越えた1969年ごろから始めた
  • 『証券アナリストジャーナル』1980年3月号「ヤクルト本社」(日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
    • [19]販売会社が店頭売りを求めた理由はセールスマン・配達員が集めにくく定着しないことだった
    • [20]松園尚巳氏は、説明なしに店頭で売れば客は嗜好飲料として買うにすぎず将来の発展は望めないとして反対した
    • [21]宅配制度を貫いたことが今日の発展の基礎になったと述べた
嗜好飲料視を覆すためにジョアを開発した

ヤクルトが嗜好飲料と見なされることは、販売現場の負担に直結していた。訪ねた100軒のうち80軒は、小さくて安いという連想から耳を貸さず、残る20軒でようやく話が始まる。この評価を商品の側から覆すために開発されたのがジョアである。牛乳に含まれる乳固形分が8%ほどであるのに対し、ジョアには11%以上を入れ、高タンパク・低カロリーの食品として設計した。日本人にスプーンを使う習慣がないことを踏まえて固まらないようにし、嫌われる発酵臭も抜いた。タンパク質を牛乳より多く入れた分だけ粘性が高まったため、専用のストローを添えて発売した。1973年初めには、ジョアとスカールの工場が本社の設備として動いていた。

  • 『証券アナリストジャーナル』1980年3月号「ヤクルト本社」(日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
    • [23]ヤクルトが世間で嗜好飲料品視されがちなことが販売上の悩みだった
    • [24]セールスに行っても100軒のうち80軒は小さい・安い・だから嗜好飲料という連想から聞く耳を持たず、20軒がようやく話を聞いた
    • [25]嗜好飲料視される問題を解決する方策としてジョアを開発した
    • [26]牛乳の乳固形分は8%ほどだがジョアには11%以上を入れ高タンパク・低カロリーの食品とした
    • [27]日本人にスプーンを使う習慣がないため固くならないようにし、嫌われる牛乳の発酵臭を取り除いた
    • [28]タンパク質を牛乳より多く入れて粘性が高まったため特製のストローを付けて発売した
  • 『日経ビジネス』1973年2月5日号
    • [29]1973年初めの時点でジョアやスカールの工場が本社の設備として稼働していた
利益を生まない商品を宅配網の維持に充てた

オレンジジュースやラーメンを扱ったのは儲けのためではない。ヤクルトやジョアの説明に疲れ果てた販売店に、ひと息つく機会と多少の収入をもたらすための品だった。ジョアについては、粘りが強すぎて売りにくいとして、販売会社からタンパクを減らし果汁で味を調えるよう求める声が強かった。松園尚巳氏は、それでは自分から嗜好飲料の商売へ格を下げることになるとして退け、タンパクを多く含む仕様を変えなかった。化粧品は代田稔氏が微生物から取り出した美容素をもとにした商品で、客の関心を呼び込むきっかけにはなったが、利益を上げるまでには至らなかった。野菜ジュースだけは位置づけが違い、科学に立つ食品会社という評価を固めるために、2年でこの分野の首位に立った。商品を増やしたのは、市場を広げるためというより、宅配網を回し続けるためだった。

  • 『証券アナリストジャーナル』1980年3月号「ヤクルト本社」(日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
    • [30]オレンジジュースやラーメンはサイドビジネスで、説明に疲労する販売店に息抜きと幾らかの利益を得させる戦略上のものだった
    • [31]販売会社からジョアはドロッとしすぎて売れないのでタンパクを減らし果汁を入れて味を良くしてほしいという要望が強かった
    • [32]松園尚巳氏はその要望を自ら嗜好飲料業に身を落とすものだとして退け高タンパクの姿勢を堅持した
    • [33]化粧品は代田稔氏が微生物から得た美容素を商品化したもので、関心をもってもらうきっかけには役立ったが利益を生むほどではなかった
    • [34]野菜ジュースは科学食品メーカーとしての位置づけを強固にするために手がけ、2年でこの分野のトップメーカーになった
参考文献[18]-[34]
  • 『日経ビジネス』1973年2月5日号
    • [18]各地域の販売会社から店頭売りも並行して行ないたいという要望がたびたび本社に寄せられた
    • [22]駅の売店などでの店頭販売は1日の販売本数が1000万本を越えた1969年ごろから始めた
    • [29]1973年初めの時点でジョアやスカールの工場が本社の設備として稼働していた
  • 『証券アナリストジャーナル』1980年3月号「ヤクルト本社」(日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
    • [19]販売会社が店頭売りを求めた理由はセールスマン・配達員が集めにくく定着しないことだった
    • [20]松園尚巳氏は、説明なしに店頭で売れば客は嗜好飲料として買うにすぎず将来の発展は望めないとして反対した
    • [21]宅配制度を貫いたことが今日の発展の基礎になったと述べた
    • [23]ヤクルトが世間で嗜好飲料品視されがちなことが販売上の悩みだった
    • [24]セールスに行っても100軒のうち80軒は小さい・安い・だから嗜好飲料という連想から聞く耳を持たず、20軒がようやく話を聞いた
    • [25]嗜好飲料視される問題を解決する方策としてジョアを開発した
    • [26]牛乳の乳固形分は8%ほどだがジョアには11%以上を入れ高タンパク・低カロリーの食品とした
    • [27]日本人にスプーンを使う習慣がないため固くならないようにし、嫌われる牛乳の発酵臭を取り除いた
    • [28]タンパク質を牛乳より多く入れて粘性が高まったため特製のストローを付けて発売した
    • [30]オレンジジュースやラーメンはサイドビジネスで、説明に疲労する販売店に息抜きと幾らかの利益を得させる戦略上のものだった
    • [31]販売会社からジョアはドロッとしすぎて売れないのでタンパクを減らし果汁を入れて味を良くしてほしいという要望が強かった
    • [32]松園尚巳氏はその要望を自ら嗜好飲料業に身を落とすものだとして退け高タンパクの姿勢を堅持した
    • [33]化粧品は代田稔氏が微生物から得た美容素を商品化したもので、関心をもってもらうきっかけには役立ったが利益を生むほどではなかった
    • [34]野菜ジュースは科学食品メーカーとしての位置づけを強固にするために手がけ、2年でこの分野のトップメーカーになった

1980年〜東証二部上場と資本の外に残った販売網

内定から7年をかけて上場にたどり着いた

1973年2月の時点で、ヤクルト本社は東証上場を内定し、経営組織と販売方法の総仕上げにかかっていた。東京証券取引所市場第二部への上場が実現したのは1980年1月23日で、そこまでに7年近くを要した。その間、本社株は全国の販売会社や原液製造会社が分け持ち、各社のオーナー経営者55人が取締役に就いていた。この構成では、取締役の過半が同調すれば社長案を否決でき、社長その人を解くことさえ可能だった。松園尚巳氏も、代表権を3カ月ほど外された時期がある。これに先立つ1972年2月には、額面を変える目的で、名目上の存続会社を相手に吸収合併の手続きも踏んでいる。

  • 『日経ビジネス』1973年2月5日号
    • [35]1973年2月の時点でヤクルト本社は東証上場を内定し経営組織・販売方法の再点検にとりかかっていた
    • [37]本社株式は各地の販売会社や原液製造会社に分散して持たれ、そのオーナー経営者ら合計55人が取締役に名を連ねていた
    • [38]取締役会の多数が一致すれば社長の意見を採用しないことも社長を罷免することもできる構造だった
    • [39]松園尚巳氏は3カ月ほど代表権を取り上げられたことがあった
  • 『証券』1980年 新規上場会社紹介「株式会社ヤクルト本社」
    • [36]1980年1月23日に東京証券取引所市場第二部へ株式を上場した
    • [40]1972年2月に額面変更のため形式上の存続会社である株式会社ヤクルト本社に吸収合併された
売出しを行わず全株を公募した

上場にあたって、ヤクルト本社は1000万株すべてを公募で出し、既存株主による売出しを行わなかった。公募価格は1株1450円で、払込は1980年1月22日、受渡はその翌日に置かれた。引受は野村証券500万株、大和証券300万株を中心に組まれ、うち84万株が従業員持株会へ割り当てられた。創業者利益を取るための上場だという見方が一部にあったが、公募で得た資金はすべて会社へ入った。持株比率は最大の尚株式会社が9.9%、二番目の松園氏でも6.35%にとどまっていた。経営を圧迫する借入金はなく市場から資金を取る必要も当面はなかったから、狙いは予防医学に立つ事業だという認識を広く一般に持ってもらうことに置かれた。

  • 『証券アナリストジャーナル』1980年3月号「ヤクルト本社」(日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
    • [41]上場する株式はすべて公募公開とし、増資のメリットはすべてヤクルト本社に吸収する形にした
    • [44]創業者利益を取るためという見方が一部にあったが、上場株はすべて公募公開で増資のメリットはすべてヤクルト本社に吸収された
    • [46]経営を圧迫する借入金はなく大衆資金の導入も当面は不要で、上場の狙いは予防医学に貢献する事業の意義を広く理解してもらうことにあった
  • 『証券』1980年 新規上場会社紹介「株式会社ヤクルト本社」
    • [42]公募は1000万株・1株1450円で、払込期日は1980年1月22日、受渡日は1月23日だった
    • [43]幹事別引受株数は野村証券500万株・大和証券300万株ほかで、うち84万株が従業員持株会への割当だった
    • [45]上場時の大株主は尚株式会社9.9%、松園尚巳6.35%、小野塚祐一郎2.84%、従業員持株会2.83%だった
上場したのは種菌と原液を管理する本社だけだった

上場時のヤクルト本社の従業員は3142人で、本店と9つの支店、11の工場、3つの研究所を持っていた。その外側には、1973年初めの時点で原液製造会社4社400人、瓶詰会社38社1750人、販売会社130社7490人、瓶詰販売会社23社2260人が連なり、末端に6万5000人の婦人販売店が置かれていた。1983年には販売会社が150社を数え、配達に従事する主婦は5万人を超え、グループ全体の従事者は10万人に及んだ。本社が全国に対して握っていたのは、商標権と特許権、中央研究所で培養する種菌、そして直轄に移した原液の製造だった。市場に載ったのはその中核の1社にすぎず、宅配網を繋ぎ止めていたのは資本ではなく、報酬と労働環境の設計だった。

  • 『証券』1980年 新規上場会社紹介「株式会社ヤクルト本社」
    • [47]上場時の従業員数は3142人で、本店・北海道支店ほか9支店・札幌工場ほか10工場・中央研究所ほか2研究所を持っていた
  • 『日経ビジネス』1973年2月5日号
    • [48]1973年初めのグループは原液製造会社4社400人・瓶詰会社38社1750人・販売会社130社7490人・瓶詰販売会社23社2260人・婦人販売店6万5000人で構成されていた
  • 『日経ビジネス』1983年4月4日号「編集長インタビュー 使われる心をわが心に」
    • [49]1983年時点で販売会社は150社、配達に従事する主婦は5万人以上、グループの従事者は10万人にのぼった
  • 『証券アナリストジャーナル』1980年3月号「ヤクルト本社」(日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
    • [50]本社は商標権と特許権を保有し、中央研究所で培養する種菌をもとに各地へ原液を供給する立場にあった
参考文献[35]-[50]
  • 『日経ビジネス』1973年2月5日号
    • [35]1973年2月の時点でヤクルト本社は東証上場を内定し経営組織・販売方法の再点検にとりかかっていた
    • [37]本社株式は各地の販売会社や原液製造会社に分散して持たれ、そのオーナー経営者ら合計55人が取締役に名を連ねていた
    • [38]取締役会の多数が一致すれば社長の意見を採用しないことも社長を罷免することもできる構造だった
    • [39]松園尚巳氏は3カ月ほど代表権を取り上げられたことがあった
    • [48]1973年初めのグループは原液製造会社4社400人・瓶詰会社38社1750人・販売会社130社7490人・瓶詰販売会社23社2260人・婦人販売店6万5000人で構成されていた
  • 『証券』1980年 新規上場会社紹介「株式会社ヤクルト本社」
    • [36]1980年1月23日に東京証券取引所市場第二部へ株式を上場した
    • [40]1972年2月に額面変更のため形式上の存続会社である株式会社ヤクルト本社に吸収合併された
    • [42]公募は1000万株・1株1450円で、払込期日は1980年1月22日、受渡日は1月23日だった
    • [43]幹事別引受株数は野村証券500万株・大和証券300万株ほかで、うち84万株が従業員持株会への割当だった
    • [45]上場時の大株主は尚株式会社9.9%、松園尚巳6.35%、小野塚祐一郎2.84%、従業員持株会2.83%だった
    • [47]上場時の従業員数は3142人で、本店・北海道支店ほか9支店・札幌工場ほか10工場・中央研究所ほか2研究所を持っていた
  • 『証券アナリストジャーナル』1980年3月号「ヤクルト本社」(日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
    • [41]上場する株式はすべて公募公開とし、増資のメリットはすべてヤクルト本社に吸収する形にした
    • [44]創業者利益を取るためという見方が一部にあったが、上場株はすべて公募公開で増資のメリットはすべてヤクルト本社に吸収された
    • [46]経営を圧迫する借入金はなく大衆資金の導入も当面は不要で、上場の狙いは予防医学に貢献する事業の意義を広く理解してもらうことにあった
    • [50]本社は商標権と特許権を保有し、中央研究所で培養する種菌をもとに各地へ原液を供給する立場にあった
  • 『日経ビジネス』1983年4月4日号「編集長インタビュー 使われる心をわが心に」
    • [49]1983年時点で販売会社は150社、配達に従事する主婦は5万人以上、グループの従事者は10万人にのぼった

筆者考察

ヤクルトの多角化は、売る物を増やす話ではなく、売る人を減らさないための話だった。1日1600万本まで伸びた配達は1970年代の半ばで頭打ちになり、以降10年ほど1500万本の前後から動かなくなる。本数が伸びない宅配網は、そのままでは店主の収入も伸びない網である。ジュースもラーメンも化粧品も、利益を期待して並べたのではなく、ヤクルトとジョアの説明で疲れた販売店に、息抜きと幾らかの実入りを与えるために置かれた。商品が販路を養うという逆立ちした関係が、この会社の多角化の正体だった。

だから店頭売りの要求は退けられ続けた。店先に置けば本数は増えるが、説明する人がいらなくなり、6万5000人を繋ぎ止める理由が消える。松園尚巳氏が守ったのは乳酸菌の科学性というより、説明を要する商品であり続けることのほうだった。1980年に上場したとき、市場に載ったのは商標と種菌と原液を握る1社だけで、130社の販売会社も6万5000人の店主も資本の外にいた。資本でまとめられない組織をまとめる手段が、報酬と制服と受け箱だったのである。

1970年〜1983年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 利益率 億円
1970年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1971年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1972年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1973年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1974年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1975年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1976年01月期 単体 630 n/a 49 7.8% 14 n/a
1977年01月期 単体 718 +14.0% 56 7.8% 15 n/a
1978年01月期 単体 869 +21.0% 76 8.7% 19 n/a
1979年01月期 単体 885 +1.8% 87 9.8% 34 n/a
1980年01月期 単体 919 +3.8% 90 9.8% 47 n/a
1981年01月期 単体 965 +5.0% 86 8.9% 50 n/a
1982年01月期 単体 992 +2.8% 77 7.8% 39 n/a
1983年01月期 単体 1,057 +6.6% 95 9.0% 45 n/a

出所:会社年鑑

出典・参考

5件
出典・参考
  • 『日経ビジネス』1973年2月5日号
  • 『証券アナリストジャーナル』1980年3月号「ヤクルト本社」(日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
  • 『日経ビジネス』1983年4月4日号「編集長インタビュー 使われる心をわが心に」
  • 『証券アナリストジャーナル』1987年3月号「ヤクルト本社」(日本証券アナリスト協会企業分析部会 講演要旨)
  • 『証券』1980年 新規上場会社紹介「株式会社ヤクルト本社」

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