大和ハウス工業:リゾートホテル・ホームセンター参入による非住宅への多角化
ネオポリスの開発力によるロイヤルホテル8棟の開業
1977年〜量的に満たされた住宅市場と、新築の外へ出た店舗事業部
第1次石油危機のあと、住宅は数の上で満たされた。1973年の住宅統計調査では世帯数2,910万に対し住宅数は3,006万戸で、すでに196万戸を上回っていた。空家率は1973年の5.5%から1976年には約6.8%へ上がり、先進12カ国の7〜8%に近づいた。石橋信夫氏は1976年8月、木材資源と土地の供給力からみて年間の住宅建築は150万戸前後が限界とみていた。政府の五カ年計画が求める年平均170〜180万戸は実現できないという見立てである。収益の低下は、市場の頭打ちより先に始まっていた。1974年3月期に148億円だった経常利益は、1978年3月期に62億円、1979年3月期には55億円まで下がっている。売上高が1,584億円から1,772億円へ動く間に、利益は3分の1へ縮んだ。
- 証券アナリストジャーナル 1976年9月号
- [1]1973年 住宅統計調査 世帯数2,910万世帯に対し住宅数3,006万戸で196万戸の超過
- [2]空家率 1973年調査5.5%、1976年時点で約6.8%、先進12カ国は7〜8%
- [3]石橋信夫氏 1976年8月 年間住宅建築は150万戸前後が限界で住宅建設五カ年計画(年平均170〜180万戸)の完全実施は不可能との見方
- [4]石橋信夫氏 1976年8月 年間住宅建築は150万戸前後が限界で住宅建設五カ年計画(年平均170〜180万戸)の完全実施は不可能との見方
- 会社年鑑 1976年版
- [5]1974年3月期 売上高1,584億円・経常利益148億円(単体)
- 会社年鑑
- [6]1978年3月期 経常利益62億円、1979年3月期 売上高1,772億円・経常利益55億円(単体)
石橋信夫氏がまず動かしたのは売り方だった。事業の性格上、代理店を通す販売では顧客の多様な要求に細かく応じられないとして、各県1〜2社へ代理店を集約し、直販の体制へ切り替えた。1976年8月の時点で、大阪の本社のもとに1支社24支店23営業所72出張所13工場を置いた。大都市への人口集中は1973年から1974年にかけて止まり、地方の中都市へ逆流が始まったとの見立てから、5〜10万人規模の地方都市のうち残るところにも営業所や出張所を新しく置く方針を採った。大規模な住宅団地の開発はそれまでに43か所を数え、これを足がかりに福岡・広島・岡山・三重・石川・宮城・群馬の各県で造成を進めた。人員は従業員5,500名、関係会社を含めれば8,600名となっていた。直販に切り替えた1977年3月期には、売上高が前期の1,505億円から3割増えて1,961億円に達した。
- 証券アナリストジャーナル 1976年9月号
- [7]代理店販売では顧客の多種多様な要求に対応しにくいとして代理店を1県1〜2社に集約し直販体制を強化
- [8]1976年8月時点の拠点 大阪の本社のほか1支社24支店23営業所72出張所13工場
- [9]1973年から1974年にかけて人口の大都市集中が止まり地方の中都市へ逆流を開始
- [10]残された地方の5〜10万都市に営業所・出張所を新設する方針
- [11]43の大規模住宅団地の開発実績を背景に福岡・広島・岡山・三重・石川・宮城・群馬の各県で大規模団地の造成を推進
- [12]1976年8月時点の従業員5,500名、本社と関係会社を合わせて8,600名
- 会社年鑑
- [13]1976年3月期 売上高1,505億円、1977年3月期 売上高1,961億円(単体)
1977年1月、平山修氏を中心に店舗事業部が発足した。営業所や販売店舗、配送センター、各種ストアの出店計画を持つ企業が増える一方で、遊休地の有効利用を求める土地所有者も増えていた。そこに着目し、全国の事業所網で適地を管理しながらテナント企業を開拓する。地主と企業の双方に利益をつくる仕組みである。翌1978年2月には日本住宅流通を設立し、建てた家が中古として市場に出る局面まで事業の範囲を広げた。同年4月には石川県の能登でリゾートホテルの経営を始めている。いずれも住宅を新しく建てて売る事業ではない。建てる力ではなく、土地と顧客の接点を持っていることのほうが元手になった。
- 大和ハウス工業の30年 1985
- [14]1977年1月 平山修を中心に店舗事業部が発足
- [15]店舗事業部 出店計画を持つ企業の増加と遊休地の有効利用を求める土地所有者の増加に着目し、事業所ネットワークで適地を管理しテナント企業を開拓して地主と企業相互の利益をはかる
- [16]店舗事業部 出店計画を持つ企業の増加と遊休地の有効利用を求める土地所有者の増加に着目し、事業所ネットワークで適地を管理しテナント企業を開拓して地主と企業相互の利益をはかる
- [17]店舗事業部 出店計画を持つ企業の増加と遊休地の有効利用を求める土地所有者の増加に着目し、事業所ネットワークで適地を管理しテナント企業を開拓して地主と企業相互の利益をはかる
- 大和ハウス工業 有価証券報告書【沿革】
- [18]1978年2月 日本住宅流通を設立
- [19]1978年4月 リゾートホテル経営を開始
参考文献[1]-[19]
- 証券アナリストジャーナル 1976年9月号
- [1]1973年 住宅統計調査 世帯数2,910万世帯に対し住宅数3,006万戸で196万戸の超過
- [2]空家率 1973年調査5.5%、1976年時点で約6.8%、先進12カ国は7〜8%
- [3]石橋信夫氏 1976年8月 年間住宅建築は150万戸前後が限界で住宅建設五カ年計画(年平均170〜180万戸)の完全実施は不可能との見方
- [4]石橋信夫氏 1976年8月 年間住宅建築は150万戸前後が限界で住宅建設五カ年計画(年平均170〜180万戸)の完全実施は不可能との見方
- [7]代理店販売では顧客の多種多様な要求に対応しにくいとして代理店を1県1〜2社に集約し直販体制を強化
- [8]1976年8月時点の拠点 大阪の本社のほか1支社24支店23営業所72出張所13工場
- [9]1973年から1974年にかけて人口の大都市集中が止まり地方の中都市へ逆流を開始
- [10]残された地方の5〜10万都市に営業所・出張所を新設する方針
- [11]43の大規模住宅団地の開発実績を背景に福岡・広島・岡山・三重・石川・宮城・群馬の各県で大規模団地の造成を推進
- [12]1976年8月時点の従業員5,500名、本社と関係会社を合わせて8,600名
- 会社年鑑 1976年版
- [5]1974年3月期 売上高1,584億円・経常利益148億円(単体)
- 会社年鑑
- [6]1978年3月期 経常利益62億円、1979年3月期 売上高1,772億円・経常利益55億円(単体)
- [13]1976年3月期 売上高1,505億円、1977年3月期 売上高1,961億円(単体)
- 大和ハウス工業の30年 1985
- [14]1977年1月 平山修を中心に店舗事業部が発足
- [15]店舗事業部 出店計画を持つ企業の増加と遊休地の有効利用を求める土地所有者の増加に着目し、事業所ネットワークで適地を管理しテナント企業を開拓して地主と企業相互の利益をはかる
- [16]店舗事業部 出店計画を持つ企業の増加と遊休地の有効利用を求める土地所有者の増加に着目し、事業所ネットワークで適地を管理しテナント企業を開拓して地主と企業相互の利益をはかる
- [17]店舗事業部 出店計画を持つ企業の増加と遊休地の有効利用を求める土地所有者の増加に着目し、事業所ネットワークで適地を管理しテナント企業を開拓して地主と企業相互の利益をはかる
- 大和ハウス工業 有価証券報告書【沿革】
- [18]1978年2月 日本住宅流通を設立
- [19]1978年4月 リゾートホテル経営を開始
1980年〜石橋殾一社長による営業の評価軸の組み替えと、ホームセンター奈良店
1980年6月、創立25周年を機に石橋信夫氏は社長を石橋殾一氏へ譲り、自らは会長に就任した。石橋殾一氏は1927年5月に奈良県で生まれ、1947年3月に高知高等学校を出た。1958年7月、大和ハウス工業に入社した。それまでは郷里の中学校で約11年間、社会科を教えていた。入社後は九州工場長と社長室長を務めた。1966年5月に取締役経理部長となり、1968年に常務、1970年に専務、1976年に副社長と階段を上った。会長との間柄をたどると、石橋殾一氏の父親どうしがいとこにあたる。社長の座に就く際、石橋殾一氏は『創業以来25年も経てば、いろいろアカもたまるし、コケも生える。ただ、これは、私自身のアカであり、コケという感じで、反省している』と語った。ワンマンとして名の通った前任者が剛なら、こちらは柔だと評された。社内ではTQC運動を始めている。1980年3月期の売上高は1,827億円だった。
- 日経ビジネス 1980年12月15日号
- [20]1980年6月 創立25周年を機に石橋信夫社長から石橋殾一氏へ社長職を交代、石橋信夫氏は会長
- [21]石橋殾一氏 1927年5月25日 奈良県生まれ
- [22]石橋殾一氏 1947年3月高知高等学校卒業、同年4月から約11年間 奈良県の中学校で社会科の教員・教頭、1958年7月 大和ハウス工業入社
- [23]石橋殾一氏 九州工場長・社長室長を経て1966年5月 取締役経理部長、1968年 常務、1970年 専務、1976年 副社長
- [24]石橋信夫会長と石橋殾一氏の父親がいとこ同士
- [25]石橋殾一氏の社長就任の弁 創業以来25年でアカもたまりコケも生えるが、それは自身のアカでありコケだと反省
- [26]ワンマンで鳴らした石橋信夫前社長の剛に対し石橋殾一氏は柔と評された
- [27]石橋殾一氏 社長就任後ただちに社内へTQC運動を導入
- 会社年鑑
- [28]1980年3月期 売上高1,827億円・経常利益69億円(単体)
石橋殾一氏がまず手を付けたのは、ノルマ至上主義に固まった営業の評価だった。1970年代に入って成長が鈍った原因の一つは、営業ノルマの厳しさという社風にあった。歩合給の比重を下げ、業績の評価を個人単位から営業所単位へ移した。ノルマを満たすため客先を夜に訪ねて判をもらう習いに対しては『夜訪なんかするな』と言い続けた。失敗への対処も部下自身に考えさせる方式へ改めた。上から下へ流れる動脈は速いが静脈が弱いとして、下からの声を取り込む意図があった。経常利益は1982年3月期に96億円、1983年3月期に127億円、1985年3月期には173億円となった。底だった1979年3月期の55億円から3倍を超えている。
- 日経ビジネス 1986年9月29日号
- [29]石橋殾一氏 1980年の社長就任後まずノルマ至上主義に固まった社員の意識の切り替えに着手
- [30]大和ハウス工業 1970年代に入り成長が鈍化、営業ノルマの厳しい社風がその一因
- [31]営業マンの歩合給のウエートを下げ、業績評価を個人単位から営業所単位へ移行
- [32]石橋殾一氏 ノルマを満たすための夜間の訪問販売をやめるよう言い続けた
- [33]石橋殾一氏 仕事の中味を知るのは部下だとして失敗への対処を自分で考えさせた
- 日経ビジネス 1980年12月15日号
- [34]石橋殾一氏 上から下へのルートは速いが静脈が弱いとして下意上達に配慮
- 会社年鑑
- [35]経常利益(単体) 1979年3月期55億円、1982年3月期96億円、1983年3月期127億円、1985年3月期173億円
- [36]経常利益(単体) 1979年3月期55億円、1982年3月期96億円、1983年3月期127億円、1985年3月期173億円
1980年8月、奈良店がホームセンターの第1号として開店した。蓄えてきた家づくりの知識を生活の提案に使うという考えに立った。住宅関連商品と生活商品の供給、保守技術の提供、生活情報の提供を通じて、生活の改善に寄与する。日曜大工用品・カー用品・園芸・インテリア・レジャースポーツ用品・家電用品を並べた。佐賀・亀岡・岡山・橿原・泉ケ丘・三田・千葉・高槻・長久手と続き、1985年の時点で10店に達した。同じ1980年8月には、各研究開発部門を統合する総合技術研究所を設けている。1973年11月に奈良工場内へ完成した中央試験所は、建設省の工業化住宅性能認定制度の発足を受けたものである。実物大の住宅を持ち込む全天候性の環境装置を備えた。
- 大和ハウス工業 有価証券報告書【沿革】
- [37]1980年8月 ホームセンター事業に参入
- 大和ハウス工業の30年 1985
- [38]1980年8月 ホームセンター第一号店として奈良店が開店
- [39]ホームセンター事業 家づくりのノウハウで生活指導を行い、住宅関連商品・生活商品の提供、メンテナンス技術の提供、生活関連情報の提供を通じて生活改善に寄与する構想
- [40]ホームセンター事業 家づくりのノウハウで生活指導を行い、住宅関連商品・生活商品の提供、メンテナンス技術の提供、生活関連情報の提供を通じて生活改善に寄与する構想
- [41]ホームセンターの取扱商品 日曜大工用品・カー用品・園芸・エクステリア・インテリア・レジャースポーツ用品・家電用品
- [42]ホームセンター 奈良店に続き佐賀・亀岡・岡山・橿原・泉ケ丘・三田・千葉・高槻・長久手を開設し1985年時点で10店舗
- [43]1980年8月 各研究開発部門を統合する総合技術研究所を設立
- [44]1973年11月 奈良工場内に中央試験所が完成、工業化住宅性能認定制度の発足を受け実物大の住宅を持ち込む全天候性の環境装置を設置
- [45]1973年11月 奈良工場内に中央試験所が完成、工業化住宅性能認定制度の発足を受け実物大の住宅を持ち込む全天候性の環境装置を設置
参考文献[20]-[45]
- 日経ビジネス 1980年12月15日号
- [20]1980年6月 創立25周年を機に石橋信夫社長から石橋殾一氏へ社長職を交代、石橋信夫氏は会長
- [21]石橋殾一氏 1927年5月25日 奈良県生まれ
- [22]石橋殾一氏 1947年3月高知高等学校卒業、同年4月から約11年間 奈良県の中学校で社会科の教員・教頭、1958年7月 大和ハウス工業入社
- [23]石橋殾一氏 九州工場長・社長室長を経て1966年5月 取締役経理部長、1968年 常務、1970年 専務、1976年 副社長
- [24]石橋信夫会長と石橋殾一氏の父親がいとこ同士
- [25]石橋殾一氏の社長就任の弁 創業以来25年でアカもたまりコケも生えるが、それは自身のアカでありコケだと反省
- [26]ワンマンで鳴らした石橋信夫前社長の剛に対し石橋殾一氏は柔と評された
- [27]石橋殾一氏 社長就任後ただちに社内へTQC運動を導入
- [34]石橋殾一氏 上から下へのルートは速いが静脈が弱いとして下意上達に配慮
- 会社年鑑
- [28]1980年3月期 売上高1,827億円・経常利益69億円(単体)
- [35]経常利益(単体) 1979年3月期55億円、1982年3月期96億円、1983年3月期127億円、1985年3月期173億円
- [36]経常利益(単体) 1979年3月期55億円、1982年3月期96億円、1983年3月期127億円、1985年3月期173億円
- 日経ビジネス 1986年9月29日号
- [29]石橋殾一氏 1980年の社長就任後まずノルマ至上主義に固まった社員の意識の切り替えに着手
- [30]大和ハウス工業 1970年代に入り成長が鈍化、営業ノルマの厳しい社風がその一因
- [31]営業マンの歩合給のウエートを下げ、業績評価を個人単位から営業所単位へ移行
- [32]石橋殾一氏 ノルマを満たすための夜間の訪問販売をやめるよう言い続けた
- [33]石橋殾一氏 仕事の中味を知るのは部下だとして失敗への対処を自分で考えさせた
- 大和ハウス工業 有価証券報告書【沿革】
- [37]1980年8月 ホームセンター事業に参入
- 大和ハウス工業の30年 1985
- [38]1980年8月 ホームセンター第一号店として奈良店が開店
- [39]ホームセンター事業 家づくりのノウハウで生活指導を行い、住宅関連商品・生活商品の提供、メンテナンス技術の提供、生活関連情報の提供を通じて生活改善に寄与する構想
- [40]ホームセンター事業 家づくりのノウハウで生活指導を行い、住宅関連商品・生活商品の提供、メンテナンス技術の提供、生活関連情報の提供を通じて生活改善に寄与する構想
- [41]ホームセンターの取扱商品 日曜大工用品・カー用品・園芸・エクステリア・インテリア・レジャースポーツ用品・家電用品
- [42]ホームセンター 奈良店に続き佐賀・亀岡・岡山・橿原・泉ケ丘・三田・千葉・高槻・長久手を開設し1985年時点で10店舗
- [43]1980年8月 各研究開発部門を統合する総合技術研究所を設立
- [44]1973年11月 奈良工場内に中央試験所が完成、工業化住宅性能認定制度の発足を受け実物大の住宅を持ち込む全天候性の環境装置を設置
- [45]1973年11月 奈良工場内に中央試験所が完成、工業化住宅性能認定制度の発足を受け実物大の住宅を持ち込む全天候性の環境装置を設置
1985年〜会員権で建設費を賄ったロイヤルホテルの同時開業
1978年4月に石川県の能登で始めたホテルは、7年にわたって副業の域を出なかった。転機は1985年で、同年4月に鹿児島県の霧島、1986年4月に北海道の鹿部でホテルを開業した。1987年には三重県の伊勢志摩・佐賀県の唐津・福島県の裏磐梯・宮城県の蔵王が続き、3年で8つのホテルからなる連鎖をつくった。客室数は227室から401室まで、いずれもその地域では最大級である。石橋信夫氏は1992年までに全国40カ所・総室数1万2,000室の日本最大のリゾートホテル連鎖とする計画を掲げた。1988年2月の時点で32カ所の用地を確保している。ホテル1棟あたりの投資額は40〜50億円で、40カ所では2,000億円近い資金を要し、主に外債の発行で賄う計画だった。
- 大和ハウス工業 有価証券報告書【沿革】
- [46]1978年4月 リゾートホテル経営を開始
- 日経ビジネス 1988年2月15日号
- [47]1978年以降は石川県・能登で副業として細々と展開していたのみ
- [48]1985年4月 霧島、1986年4月 鹿部、1987年 伊勢志摩・唐津・裏磐梯・宮城蔵王などを開業し3年間で8ホテルのチェーンを形成
- [49]1985年4月 霧島、1986年4月 鹿部、1987年 伊勢志摩・唐津・裏磐梯・宮城蔵王などを開業し3年間で8ホテルのチェーンを形成
- [50]8ホテルの客室数は227室〜401室でいずれも地元最大級
- [51]石橋信夫会長 1992年までに全国40カ所・総室数1万2,000室の日本最大のリゾートホテルチェーンとする計画、32カ所の用地を確保済み
- [52]石橋信夫会長 1992年までに全国40カ所・総室数1万2,000室の日本最大のリゾートホテルチェーンとする計画、32カ所の用地を確保済み
- [53]ホテル1棟当たりの投資額40〜50億円、40カ所で2,000億円近い資金
- [54]ホテル事業の資金は主に外債の発行などで調達する予定
会員制は、客を集めることと建設費を先に手当てすることの二つを同時に果たす仕掛けだった。入会金と預託金を合わせて250万円、法人会員は350万円を払い込めば、全国どこのホテルでも1泊1,000円で泊まれる。1986年10月から1987年3月にかけての第1期販売で約7,300人を集め、155億円の入会金収入を得た。ホテルの数が一気に増えたことが会員権の価値を高め、それがまた入会金の増加につながった。周辺では土地付き別荘の分譲を並行させ、ホテルとゴルフ場を建てて地価が上がった土地の値上がり益を取り込んだ。1万5,000円だった土地が6〜7万円で売れたという。8棟のうち5棟は減価償却後も黒字となり、残る3棟の赤字は別荘の分譲で吸収できていた。
- 日経ビジネス 1988年2月15日号
- [55]会員制の採用目的は集客の増加とホテル建設費の捻出の2つ
- [56]入会金と預託金で250万円(法人会員350万円)を払い込むと全国どこのホテルでも1泊1,000円で宿泊できる
- [57]1986年10月から1987年3月の第1期会員権販売で約7,300人・155億円の入会金収入
- [58]利用できるホテル数の増加が会員権の付加価値を高め入会金収入の増大に寄与
- [59]ホテル周辺で土地付き別荘の分譲を展開しホテル・ゴルフ場の建設で上がった地価の値上がり益を取り込む
- [60]1万5,000円の土地が6〜7万円で売れた
- [61]8ホテルのうち5つが減価償却費を差し引いても黒字、3つの赤字分は別荘分譲で吸収
3年で7つのホテルを建てた実績に、約90の自治体が誘致を申し入れた。立地の良い土地を選べたうえ、テニスコートやマリーナ、排水設備を自治体が負担し、3年間は固定資産税を免除する例まであった。石橋信夫氏は『リゾートホテルは絶対にいけると勘がひらめいた。遅くとも65年には週休2日制が完全に定着して、需要は格段に大きくなるだろうと。そうなってから取り組んだのでは遅いので、いま一気に突っ走るんだ』と語り、用地も進出の時期も付帯設備もすべて自ら決めた。開発用地の選定と取得、地元との折衝は、大阪地区の羽曳野を皮切りに全国44カ所へ広げたネオポリスで積んだものである。弱いのは運営で、接客とイベントの企画の経験は浅かった。1978年に開いた能登のホテルマン1期生を本社へ戻して教育役に仕立て、ほかのホテルへ出張指導に出していた。急いだことが条件を有利にした一方で、速さに見合う運営の厚みは残されたままだった。
- 日経ビジネス 1988年2月15日号
- [62]3年間で7つのホテルを建設した実績に注目し約90の自治体が誘致を申し入れ
- [63]進出に際し立地の良い土地を選べ、テニスコート・マリーナ・排水設備を自治体が負担し3年間固定資産税が免除される例もあった
- [64]石橋信夫会長 リゾートホテルは絶対にいけると勘がひらめいたと述べ、週休2日制の定着を見込んで一気に展開
- [65]開業した8ホテルの用地・進出時期・付帯設備はすべて石橋信夫会長が自ら決断
- [66]全国44カ所でネオポリスと呼ぶ新興住宅地を開発し、用地の選定・取得・地元との折衝のノウハウを蓄積
- [68]接客やイベント企画などホテルの運営・管理の経験は浅く、1978年開業の能登のホテルマン1期生を本社へ戻して教育・研修スタッフとし他のホテルへ出張指導に派遣
- [69]接客やイベント企画などホテルの運営・管理の経験は浅く、1978年開業の能登のホテルマン1期生を本社へ戻して教育・研修スタッフとし他のホテルへ出張指導に派遣
- 日本企業要覧 1975年版
- [67]大和団地 羽曳野ネオポリスを皮切りに大阪地区で7つのネオポリスを開発
参考文献[46]-[69]
- 大和ハウス工業 有価証券報告書【沿革】
- [46]1978年4月 リゾートホテル経営を開始
- 日経ビジネス 1988年2月15日号
- [47]1978年以降は石川県・能登で副業として細々と展開していたのみ
- [48]1985年4月 霧島、1986年4月 鹿部、1987年 伊勢志摩・唐津・裏磐梯・宮城蔵王などを開業し3年間で8ホテルのチェーンを形成
- [49]1985年4月 霧島、1986年4月 鹿部、1987年 伊勢志摩・唐津・裏磐梯・宮城蔵王などを開業し3年間で8ホテルのチェーンを形成
- [50]8ホテルの客室数は227室〜401室でいずれも地元最大級
- [51]石橋信夫会長 1992年までに全国40カ所・総室数1万2,000室の日本最大のリゾートホテルチェーンとする計画、32カ所の用地を確保済み
- [52]石橋信夫会長 1992年までに全国40カ所・総室数1万2,000室の日本最大のリゾートホテルチェーンとする計画、32カ所の用地を確保済み
- [53]ホテル1棟当たりの投資額40〜50億円、40カ所で2,000億円近い資金
- [54]ホテル事業の資金は主に外債の発行などで調達する予定
- [55]会員制の採用目的は集客の増加とホテル建設費の捻出の2つ
- [56]入会金と預託金で250万円(法人会員350万円)を払い込むと全国どこのホテルでも1泊1,000円で宿泊できる
- [57]1986年10月から1987年3月の第1期会員権販売で約7,300人・155億円の入会金収入
- [58]利用できるホテル数の増加が会員権の付加価値を高め入会金収入の増大に寄与
- [59]ホテル周辺で土地付き別荘の分譲を展開しホテル・ゴルフ場の建設で上がった地価の値上がり益を取り込む
- [60]1万5,000円の土地が6〜7万円で売れた
- [61]8ホテルのうち5つが減価償却費を差し引いても黒字、3つの赤字分は別荘分譲で吸収
- [62]3年間で7つのホテルを建設した実績に注目し約90の自治体が誘致を申し入れ
- [63]進出に際し立地の良い土地を選べ、テニスコート・マリーナ・排水設備を自治体が負担し3年間固定資産税が免除される例もあった
- [64]石橋信夫会長 リゾートホテルは絶対にいけると勘がひらめいたと述べ、週休2日制の定着を見込んで一気に展開
- [65]開業した8ホテルの用地・進出時期・付帯設備はすべて石橋信夫会長が自ら決断
- [66]全国44カ所でネオポリスと呼ぶ新興住宅地を開発し、用地の選定・取得・地元との折衝のノウハウを蓄積
- [68]接客やイベント企画などホテルの運営・管理の経験は浅く、1978年開業の能登のホテルマン1期生を本社へ戻して教育・研修スタッフとし他のホテルへ出張指導に派遣
- [69]接客やイベント企画などホテルの運営・管理の経験は浅く、1978年開業の能登のホテルマン1期生を本社へ戻して教育・研修スタッフとし他のホテルへ出張指導に派遣
- 日本企業要覧 1975年版
- [67]大和団地 羽曳野ネオポリスを皮切りに大阪地区で7つのネオポリスを開発
1977年〜1989年の業績
| 決算期 | 区分 | 売上高 | 経常利益 | 純利益 | 主な投資 | ||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 億円 | YoY | 億円 | 利益率 | 億円 | |||
| 1977年03月期 | 単体 | 1,961 | n/a | 111 | 5.7% | 52 | n/a |
| 1978年03月期 | 単体 | 1,681 | ▲14.3% | 62 | 3.7% | 35 | n/a |
| 1979年03月期 | 単体 | 1,772 | +5.4% | 55 | 3.1% | 26 | n/a |
| 1980年03月期 | 単体 | 1,827 | +3.1% | 69 | 3.8% | 34 | n/a |
| 1981年03月期 | 単体 | 2,016 | +10.3% | 66 | 3.3% | 34 | n/a |
| 1982年03月期 | 単体 | 2,246 | +11.4% | 96 | 4.3% | 49 | n/a |
| 1983年03月期 | 単体 | 2,652 | +18.1% | 127 | 4.8% | 60 | n/a |
| 1984年03月期 | 単体 | 2,857 | +7.7% | 144 | 5.0% | 65 | 中国(上海市)に駐在員事務所を開設(1984) |
| 1985年03月期 | 単体 | 3,182 | +11.4% | 173 | 5.4% | 70 | n/a |
| 1986年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | 上海国際房産有限公司を設立し外国人向賃貸住宅の経営を開始(1985/07) |
| 1987年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | 豪州に「ダイワハウスオーストラリア」を設立(1987) |
| 1988年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
| 1989年03月期 | 単体 | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a | n/a |
出所:会社年鑑
出典・参考
9件
- 大和ハウス工業 有価証券報告書【沿革】
- 会社年鑑 1976年版
- 会社年鑑
- 証券アナリストジャーナル 1976年9月号
- 日経ビジネス 1980年12月15日号
- 日経ビジネス 1986年9月29日号
- 日経ビジネス 1988年2月15日号
- 日本企業要覧 1975年版
- 大和ハウス工業の30年 1985