竹中工務店:竹中式潜函工法の開発とデミング賞実施賞の受賞
1938年〜地下を丸ごと沈める潜函工法と、戦後の経営陣一新
1938年1月、合名会社竹中工務店を吸収合併し、東京・名古屋・九州の各支店を開設した。同じ年、地上で全地下部分を一体の潜函体として構築し、下部の地盤を掘削しながら所定の支持地盤へ定着させる竹中式潜函工法を、銅座松坂屋と上野松坂屋に用いた。在来の小規模な沈井工法に改良を加えたこの工法は、敷地利用率を98%まで高め、振動騒音を抑え、潜函体の沈下と地上階の躯体構築を同時に進めることで工期を縮めた。仮設の山止めが不要になるため、工費も抑えられた。1941年6月には、海外土木興業(後の竹中土木)の設立に参画した。
- 竹中工務店 有価証券報告書【沿革】
- [1]1938年1月、合名会社竹中工務店を吸収合併し、東京・名古屋・九州の各支店を開設した
- [5]1941年6月、海外土木興業(後の竹中土木)の設立に参画した
- 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)第2編 本史-1「創立から70年のあゆみ(1899-1969)」
- [2]竹中式潜函工法は地上に全地下部分を一体の潜函体として構築し、潜函の下部の地盤を掘削しながら所定の支持地盤に定着させる工法で、戦前は朝日新聞名古屋支局(昭和11年)、銅座松坂屋(13年)、上野松坂屋(13年)に施工した
- [3]在来の小規模な沈井工法に改良を加えた工法で、敷地利用率が98%まで可能、振動騒音が極めて小さい、潜函体の沈下作業と同時に地上階の躯体作業ができ工期が短縮できる、といった利点がある
- [4]仮設の山止めが不用になるので工費の節減が図れる
1945年2月11日、竹中工務店は経営陣の一新を断行した。第14代・竹中藤右衛門社長が取締役会長に、竹中錬一副社長が社長に、軍属としてタイ国に出張中の竹中宏平取締役が副社長に就任し、1899年の創立以来46年にわたる経営の責任は竹中藤右衛門氏から竹中錬一社長へ移った。翌1946年には相談役制を設け、竹中藤右衛門氏が相談役として経営陣の後見に当たった。終戦後は、復員者や帰還者をなるべく郷里に近い場所へ配置する方針から、各地に44の出張所を新設した。しかし職員が定着する傾向を是正しきれず、業界の不況も重なった1950年6月末、出張所の整理を断行し、支店9・営業所7・出張所26まで絞り込んだ。
- 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)第2編 本史-1「創立から70年のあゆみ(1899-1969)」
- [6]昭和20年8月15日の終戦の日に先立つ半年前の2月11日に、当社は経営陣の一新を断行した
- [7]第14代・竹中藤右衛門社長は取締役会長に、竹中錬一副社長が社長に、軍属としてタイ国に出張中の竹中宏平取締役が副社長に就任し、明治32年創立以来46年の長きにわたる経営の責任は竹中藤右衛門から新社長竹中錬一に継承された
- [8]翌21年には相談役制を設け、竹中藤右衛門会長は相談役に就任し、経営陣の後見に当たることになった
- [9]復員者・帰還者はなるべくその郷里に近いところに配置する方針から出張所を各地に開設し、44の出張所を新設した
- [10]職員が定着する傾向の是正が進まず、業界の不況も大きな原因となって25年6月末をもって整理を断行し、支店9・営業所7・出張所26が残置された
戦前の時点で建設技術を一定の水準まで身につけていた日本の建設界は、その後約10年にわたって停滞したが、戦後第一次ビルブームの象徴となった日活国際会館は、位置と規模と技術の面から、その水準が戻ったことを示した。日比谷に建ったこのビルは1950年1月に着工、1952年3月に完工し、地上で打ち込んだ巨大なコンクリートの箱が1日平均5センチの速さで沈んでいく光景が道行く人々の目を集めた。潜函工法は第2次世界大戦で途切れており、大規模な建築への適用はこの工事で果たされた。工事の成果は第三回毎日工業技術賞の受賞対象となった。竹中式潜函工法はその後も、大阪の第一生命ビルをはじめ1969年までに20件の建物に採り入れられた。
- 日本産業史 第2巻 建設・不動産(日本経済新聞社、1994年)「建設-新工法・新技術相次ぐ」
- [11]日活国際会館ビルはその位置、規模、技術などから戦後第一次のビルブームの象徴的地位を占め、戦前すでに一定の建設技術を獲得していた日本の建設界が約一〇年の停滞の後に再びその水準を回復した状況を示したものだった
- [12]二十五年一月着工、二十七年三月完工した日比谷角地の日活国際会館ビルで竹中工務店は潜凾(ケーソン)工法を採用し、地上で打設した巨大なコンクリートの箱が一日五センチの平均速度で沈んでゆく様子は、町を行く人々の目をひきつけた
- 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)第2編 本史-1「創立から70年のあゆみ(1899-1969)」
- [13]第2次世界大戦による中断時期を経て、大規模建築物において劇的な成功を収め、建設業界、国内外の脚光を浴びた日比谷の日活国際会館を皮切りとした
- [14]日活国際会館における本工法の業績は26年の第三回毎日工業技術賞の受賞対象に選ばれ、大阪の第一生命ビルなど44年までに20件の建物で採用した
参考文献[1]-[14]
- 竹中工務店 有価証券報告書【沿革】
- [1]1938年1月、合名会社竹中工務店を吸収合併し、東京・名古屋・九州の各支店を開設した
- [5]1941年6月、海外土木興業(後の竹中土木)の設立に参画した
- 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)第2編 本史-1「創立から70年のあゆみ(1899-1969)」
- [2]竹中式潜函工法は地上に全地下部分を一体の潜函体として構築し、潜函の下部の地盤を掘削しながら所定の支持地盤に定着させる工法で、戦前は朝日新聞名古屋支局(昭和11年)、銅座松坂屋(13年)、上野松坂屋(13年)に施工した
- [3]在来の小規模な沈井工法に改良を加えた工法で、敷地利用率が98%まで可能、振動騒音が極めて小さい、潜函体の沈下作業と同時に地上階の躯体作業ができ工期が短縮できる、といった利点がある
- [4]仮設の山止めが不用になるので工費の節減が図れる
- [6]昭和20年8月15日の終戦の日に先立つ半年前の2月11日に、当社は経営陣の一新を断行した
- [7]第14代・竹中藤右衛門社長は取締役会長に、竹中錬一副社長が社長に、軍属としてタイ国に出張中の竹中宏平取締役が副社長に就任し、明治32年創立以来46年の長きにわたる経営の責任は竹中藤右衛門から新社長竹中錬一に継承された
- [8]翌21年には相談役制を設け、竹中藤右衛門会長は相談役に就任し、経営陣の後見に当たることになった
- [9]復員者・帰還者はなるべくその郷里に近いところに配置する方針から出張所を各地に開設し、44の出張所を新設した
- [10]職員が定着する傾向の是正が進まず、業界の不況も大きな原因となって25年6月末をもって整理を断行し、支店9・営業所7・出張所26が残置された
- [13]第2次世界大戦による中断時期を経て、大規模建築物において劇的な成功を収め、建設業界、国内外の脚光を浴びた日比谷の日活国際会館を皮切りとした
- [14]日活国際会館における本工法の業績は26年の第三回毎日工業技術賞の受賞対象に選ばれ、大阪の第一生命ビルなど44年までに20件の建物で採用した
- 日本産業史 第2巻 建設・不動産(日本経済新聞社、1994年)「建設-新工法・新技術相次ぐ」
- [11]日活国際会館ビルはその位置、規模、技術などから戦後第一次のビルブームの象徴的地位を占め、戦前すでに一定の建設技術を獲得していた日本の建設界が約一〇年の停滞の後に再びその水準を回復した状況を示したものだった
- [12]二十五年一月着工、二十七年三月完工した日比谷角地の日活国際会館ビルで竹中工務店は潜凾(ケーソン)工法を採用し、地上で打設した巨大なコンクリートの箱が一日五センチの平均速度で沈んでゆく様子は、町を行く人々の目をひきつけた
1953年〜社長直轄の研究所、東京タワー、そして海外設計事務所
1953年、大阪と東京に研究室を設けた。技術革新と工事量の増加で従来の規模では処理しきれなくなったため、1959年に研究室を改組し、社長直轄の竹中建築技術研究所とした。原子力・建築設備・建築生産・建築環境・建築材料・建築構造・地下構造の専門分科を置き、建築技術全般の調査研究に加えて、各店への機能的な指導・提案・援助と各店からの委託実験を担わせた。あわせて大阪には企画室を新設し、建築技術以外の分野の企画や調査、統計の業務を割り当てた。1964年12月には土木部門の研究を加え、名称を竹中技術研究所に改めた。
- 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)第2編 本史-1「創立から70年のあゆみ(1899-1969)」
- [15]昭和28年、大阪と東京に研究室を設置した
- [16]技術革新と工事量の増加に伴い従来の規模では処理しがたくなり、34年に研究室を改組して社長直轄の機関である「竹中建築技術研究所」とした
- [17]原子力、建築設備・建築生産・建築環境・建築材料・建築構造・地下構造の専門分科を置き、建築技術全般に関する調査研究を行うとともに、各店に対して機能的な指導、提案、援助を行い、各店の委託、実験等をも併せ行うこととした
- [18]研究所の開設に伴い大阪には新しく「企画室」を置き、建築技術以外の分野の諸事項について企画調査統計などの業務を担当させた
- [19]従来の竹中建築技術研究所の研究項目に土木部門の研究を加えたため、39年12月以降、名称も「竹中技術研究所」と改めた
1955年頃から、鋼管内の土砂をオーガースクリューで排土しながら鋼管を地中深く押し込み、先端からコンクリートを注入して鋼管コンクリート杭を形成する竹中式オーガーパイル工法を開発し、1957年に大阪市内の作業所で実施した。無騒音・無振動で周辺地盤の沈下を起こさないこの工法は、崩壊性土質の多い大阪市内で特に有効だった。オーガーマシンの改良で径の大きい大深度の杭が打てるようになり、1962年には従来不可能とされていた地下5階以上の建物を施工できる竹中式深礎工法が生まれた。1958年に完成した東京タワーでは、良質でない地盤に4,000トンの重量を持つ鉄塔を安定させるため深礎工法を用い、鉄骨とアンテナの吊り上げにはわが国初のせり上げ工法を考案した。年中無休、1日12時間労働の突貫工事を1年7カ月続け、無災害で竣工にこぎつけた。
- 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)第2編 本史-1「創立から70年のあゆみ(1899-1969)」
- [20]竹中式オーガーパイル工法は昭和30年頃より開発し、オーガーマシンにより鋼管のなかの土砂をオーガースクリューで掘削排土しながら鋼管を地中深く押し込み、先端からコンクリートを注入しながら引抜いて鋼管コンクリート杭を形成する工法で、32年に大阪市内の作業所で実施された
- [21]この工法は無騒音、無振動であり、周辺地盤の沈下などを起こさず、特に崩壊性土質の多い大阪市内では極めて有効な工法であった
- [22]オーガーマシンが改良され、より径の大きい、より大深度の鋼管コンクリート杭の施工が可能になり、37年には従来不可能とされていた地下5階以上の建物が施工できる「竹中式深礎工法」を開発した
- [23]東京タワーは当社施工により昭和33年に完成し、良質でない地盤に4,000トンの重量をもつ鉄塔を安定させるために当社独特の深礎工法を用い、鉄骨及びアンテナの吊り上げにわが国初の「せり上げ工法」を考案、実施した
- [24]東京タワーの建設工事は年中無休、1日12時間労働という突貫工事で、1年7カ月の短期間に無災害で成し遂げられた
サンフランシスコに駐在員を派遣した1959年の前後から、在来の日本商社や銀行筋から建築設計の委託を受けることが増えた。1960年12月16日、構築物の設計・監理を目的とする現地法人 TAKENAKA & ASSOCIATES, INC.(略称SFTA)を資本金10万ドルでサンフランシスコに設立した。少数のスタッフで東京銀行や日本航空の各事務所を設計し、日本文化センターの設計コンペでは1位となった。1963年にバンコクでタイ・トーレ・テキスタイル・ミルズ工場第I期工事を施工したのが東南アジアでの建設活動の始まりで、1965年4月に海外事業本部を新設し、1972年には国際事業本部へ改称して組織と陣容を強化した。サンパウロ、デュッセルドルフ、テヘラン、ブラッセル、シンガポール、香港、ホノルルの各都市にも現地法人または駐在員事務所を置いた。
- 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)第2編 本史-1「創立から70年のあゆみ(1899-1969)」
- [25]昭和34年、サンフランシスコに駐在員を派遣した前後には、在来日本商社または銀行筋から建築設計の委託を受けることが多くなっていった
- [26]米国竹中工務店設計事務所(略称SFTA)は昭和35年(1960)12月16日設立、所在地サンフランシスコ市、資本金10万ドル、目的は構築物の設計・監理とこれに付随する一切の業務
- 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)第3編 本史-2「最近20年のあゆみ(1969-1989)」
- [27]少数のスタッフながら、東京銀行、日本航空、住友銀行などの各事務所の設計を行い、日本文化センターの設計コンペにおいて1位となった
- [28]バンコクにおいてタイ・トーレ・テキスタイル・ミルズ(T.T.T.M)工場第I期工事を38年に施工したのが東南アジアにおける建設活動の嚆矢となり、40年(1965)4月に「海外事業本部」を新設、47年にそれまでの海外事業本部を「国際事業本部」に改称し組織・陣容を強化した
- [29]海外においても、サンパウロ、デュッセルドルフ、テヘラン、ブラッセル、シンガポール、香港、ホノルルの各都市に現地法人または駐在員事務所を設置した
参考文献[15]-[29]
- 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)第2編 本史-1「創立から70年のあゆみ(1899-1969)」
- [15]昭和28年、大阪と東京に研究室を設置した
- [16]技術革新と工事量の増加に伴い従来の規模では処理しがたくなり、34年に研究室を改組して社長直轄の機関である「竹中建築技術研究所」とした
- [17]原子力、建築設備・建築生産・建築環境・建築材料・建築構造・地下構造の専門分科を置き、建築技術全般に関する調査研究を行うとともに、各店に対して機能的な指導、提案、援助を行い、各店の委託、実験等をも併せ行うこととした
- [18]研究所の開設に伴い大阪には新しく「企画室」を置き、建築技術以外の分野の諸事項について企画調査統計などの業務を担当させた
- [19]従来の竹中建築技術研究所の研究項目に土木部門の研究を加えたため、39年12月以降、名称も「竹中技術研究所」と改めた
- [20]竹中式オーガーパイル工法は昭和30年頃より開発し、オーガーマシンにより鋼管のなかの土砂をオーガースクリューで掘削排土しながら鋼管を地中深く押し込み、先端からコンクリートを注入しながら引抜いて鋼管コンクリート杭を形成する工法で、32年に大阪市内の作業所で実施された
- [21]この工法は無騒音、無振動であり、周辺地盤の沈下などを起こさず、特に崩壊性土質の多い大阪市内では極めて有効な工法であった
- [22]オーガーマシンが改良され、より径の大きい、より大深度の鋼管コンクリート杭の施工が可能になり、37年には従来不可能とされていた地下5階以上の建物が施工できる「竹中式深礎工法」を開発した
- [23]東京タワーは当社施工により昭和33年に完成し、良質でない地盤に4,000トンの重量をもつ鉄塔を安定させるために当社独特の深礎工法を用い、鉄骨及びアンテナの吊り上げにわが国初の「せり上げ工法」を考案、実施した
- [24]東京タワーの建設工事は年中無休、1日12時間労働という突貫工事で、1年7カ月の短期間に無災害で成し遂げられた
- [25]昭和34年、サンフランシスコに駐在員を派遣した前後には、在来日本商社または銀行筋から建築設計の委託を受けることが多くなっていった
- [26]米国竹中工務店設計事務所(略称SFTA)は昭和35年(1960)12月16日設立、所在地サンフランシスコ市、資本金10万ドル、目的は構築物の設計・監理とこれに付随する一切の業務
- 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)第3編 本史-2「最近20年のあゆみ(1969-1989)」
- [27]少数のスタッフながら、東京銀行、日本航空、住友銀行などの各事務所の設計を行い、日本文化センターの設計コンペにおいて1位となった
- [28]バンコクにおいてタイ・トーレ・テキスタイル・ミルズ(T.T.T.M)工場第I期工事を38年に施工したのが東南アジアにおける建設活動の嚆矢となり、40年(1965)4月に「海外事業本部」を新設、47年にそれまでの海外事業本部を「国際事業本部」に改称し組織・陣容を強化した
- [29]海外においても、サンパウロ、デュッセルドルフ、テヘラン、ブラッセル、シンガポール、香港、ホノルルの各都市に現地法人または駐在員事務所を設置した
1965年〜万博の集中管理体制と、建設業初のデミング賞実施賞
1965年以降の5年間、日本万国博覧会への取り組みは、施工における組織、技術、システム化に関する生産体制の大きな実験となった。最終年の1969年までにソ連館をはじめ23件のパビリオンと5件の会場施設を受注して完成させ、その請負総額は125億円、延5万坪に達した。28のパビリオン及び施設の工事単位に対して総合事務所を設け、渉外・技術・調達・コスト・事務・設計・設備の7担当を置き、毎週火曜日には全担当が各作業所と会議を持った。大阪本店の各部だけでなく、技術研究所・電算センター・各支店・各製作所・各竹和会・各協力会社が持つ技術と知識と機能をシステム化し、集中管理体制という組織的な工事管理で成果を収めた。
- 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)第3編 本史-2「最近20年のあゆみ(1969-1989)」
- [30]昭和40年以降、日本万国博と取り組んでの5年間は、施工における組織、技術、システム化などに関する生産体制の大きな実験であった
- [31]その最終の年であった44年、当社はソ連館をはじめとして23件のパビリオンと5件の会場施設を受注、完成させ、その請負総額は125億円、延5万坪に達した
- [32]28のパビリオン及び施設の工事単位に対し総合事務所を設け、渉外、技術、調達、コスト、事務、設計、設備という7つの各担当を設置し、毎週火曜日にはすべての担当が各作業所と会議を持った
- [33]大阪本店の各部はもちろん、技術研究所、電算センターをはじめ各支店、各製作所、各竹和会、各協力会社など、各々が持っている技術や知識、機能をシステム化することができ、集中管理体制という組織的な工事管理によって大きな成果を収めた
高度成長のもとでの受注拡大は、品質に徹する竹中工務店にとって一つの試練の期間でもあった。仕事が急に増えて生産が限界に近づくと品質の確保が難しくなり、支店間・作業所間の品質のばらつきが目立ち、補償工事費は年とともに増えた。1965年に品質管理の導入の可能性を調査したものの、当時の品質管理はもっぱら製造業で行われるもので、注文一品生産である建築への適用に理解が及ばず、いったん断念した。かわりに1967年5月にZD運動を導入し、作業所をはじめ各部署でZDグループを編成して10年間続けたが、成果は作業員レベルにとどまり、経営者・管理者レベルでは見るべきものを上げられなかった。1973年のオイルショックに伴う建設資材の高騰と物不足は、資材の安定供給の上に経営を行ってきた建設業界の存立基盤を大きく揺るがした。
- 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)第3編 本史-2「最近20年のあゆみ(1969-1989)」
- [34]昭和30年代半ばから始まる高度成長で当社も厳しい競争のなかで受注高を伸ばしたが、同時に品質に徹しようとする当社にとっては一つの試練の期間であった
- [35]急激に仕事が増えると生産が限界に近づき品質の確保が難しくなり、工事量の増大に伴って支店間、作業所間の品質のばらつきも目立ち始め、補償工事費は年とともに増加してきた
- [36]40年に品質管理の導入の可能性について調査を行ったが、当時は品質管理は専ら製造業で行われており、注文一品生産である建築の分野に導入する可能性について十分に理解するに至らず断念した
- [37]42年5月にZD運動を導入し、作業所を始めとする各部署でZDグループを編成して10年にわたり続けたが、経営者、管理者レベルでは見るべき成果を上げることはできなかった
- [38]48年のオイルショックによる同年秋からの建設資材の高騰と物不足で、資材の安定供給のうえに経営を行ってきた建設業界はその存立の基盤を大きく揺るがせられた
業績の低迷を打開するには、営業活動を活発にして受注を伸ばすだけでは足りず、作品の品質の維持・向上が欠かせなかった。改めて調査すると、全社的品質管理が高度経済成長の原動力の一つであり、組立産業である自動車業界で大きな成功を収めた事実が確認された。建設業でも品質管理活動を展開できるという確信を得て、1976年2月、竹中錬一社長がTQCの導入に踏み切った。目的を企業体質の改善と作品の品質向上、業績の向上と定め、ZD運動の反省から、経営者と経営幹部が率先して実践すること、管理者のリーダーシップで全社に徹底すること、企画設計段階における品質を充実させることの三つを重視した。同月1日の社員総会で社長がQCスタートを宣言し、24日の第1回QC推進中央委員会でQC推進基本方針を決めた。1979年11月12日、建設業として初めてデミング賞実施賞を受賞した。
- 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)第3編 本史-2「最近20年のあゆみ(1969-1989)」
- [39]この苦境のもとで業績の低迷を打開するためには、単に営業活動を活発化して受注を伸ばすだけではなく、従来の当社の基本方針である作品の品質の維持・向上は欠かすことができなかった
- [40]改めて調査した結果、全社的品質管理すなわちTQCはわが国の高度経済成長の原動力の一つであった事実が確認され、特に組立産業である自動車業界においてTQCが大きな成功を収めたということがヒントとなった
- [41]建設業においても品質管理活動の展開が可能であるという確信が得られ、51年2月、竹中錬一社長はTQCの導入を決断した
- [42]導入の目的を「企業体質を改善し、作品の品質を向上させ、業績を高めること」と定め、ZD運動の反省に基づき、経営者・経営幹部自身が率先してTQCを理解し実践すること、管理者のリーダーシップによって全社に徹底を図ること、企画設計段階における品質を充実させることの三つを重視した
- [44]昭和54年度デミング賞受賞式は11月12日に行われ、当社が建設業として初めてデミング賞実施賞を受賞した
- 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)年表
- [43]昭和51年2月1日、社員総会で社長「QCスタート」宣言、2月24日、第1回QC推進中央委員会開催(当社における「QC推進基本方針」決定)
参考文献[30]-[44]
- 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)第3編 本史-2「最近20年のあゆみ(1969-1989)」
- [30]昭和40年以降、日本万国博と取り組んでの5年間は、施工における組織、技術、システム化などに関する生産体制の大きな実験であった
- [31]その最終の年であった44年、当社はソ連館をはじめとして23件のパビリオンと5件の会場施設を受注、完成させ、その請負総額は125億円、延5万坪に達した
- [32]28のパビリオン及び施設の工事単位に対し総合事務所を設け、渉外、技術、調達、コスト、事務、設計、設備という7つの各担当を設置し、毎週火曜日にはすべての担当が各作業所と会議を持った
- [33]大阪本店の各部はもちろん、技術研究所、電算センターをはじめ各支店、各製作所、各竹和会、各協力会社など、各々が持っている技術や知識、機能をシステム化することができ、集中管理体制という組織的な工事管理によって大きな成果を収めた
- [34]昭和30年代半ばから始まる高度成長で当社も厳しい競争のなかで受注高を伸ばしたが、同時に品質に徹しようとする当社にとっては一つの試練の期間であった
- [35]急激に仕事が増えると生産が限界に近づき品質の確保が難しくなり、工事量の増大に伴って支店間、作業所間の品質のばらつきも目立ち始め、補償工事費は年とともに増加してきた
- [36]40年に品質管理の導入の可能性について調査を行ったが、当時は品質管理は専ら製造業で行われており、注文一品生産である建築の分野に導入する可能性について十分に理解するに至らず断念した
- [37]42年5月にZD運動を導入し、作業所を始めとする各部署でZDグループを編成して10年にわたり続けたが、経営者、管理者レベルでは見るべき成果を上げることはできなかった
- [38]48年のオイルショックによる同年秋からの建設資材の高騰と物不足で、資材の安定供給のうえに経営を行ってきた建設業界はその存立の基盤を大きく揺るがせられた
- [39]この苦境のもとで業績の低迷を打開するためには、単に営業活動を活発化して受注を伸ばすだけではなく、従来の当社の基本方針である作品の品質の維持・向上は欠かすことができなかった
- [40]改めて調査した結果、全社的品質管理すなわちTQCはわが国の高度経済成長の原動力の一つであった事実が確認され、特に組立産業である自動車業界においてTQCが大きな成功を収めたということがヒントとなった
- [41]建設業においても品質管理活動の展開が可能であるという確信が得られ、51年2月、竹中錬一社長はTQCの導入を決断した
- [42]導入の目的を「企業体質を改善し、作品の品質を向上させ、業績を高めること」と定め、ZD運動の反省に基づき、経営者・経営幹部自身が率先してTQCを理解し実践すること、管理者のリーダーシップによって全社に徹底を図ること、企画設計段階における品質を充実させることの三つを重視した
- [44]昭和54年度デミング賞受賞式は11月12日に行われ、当社が建設業として初めてデミング賞実施賞を受賞した
- 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)年表
- [43]昭和51年2月1日、社員総会で社長「QCスタート」宣言、2月24日、第1回QC推進中央委員会開催(当社における「QC推進基本方針」決定)
出典・参考
5件
- 竹中工務店 有価証券報告書【沿革】
- 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)第2編 本史-1「創立から70年のあゆみ(1899-1969)」
- 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)第3編 本史-2「最近20年のあゆみ(1969-1989)」
- 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)年表
- 日本産業史 第2巻 建設・不動産(日本経済新聞社、1994年)「建設-新工法・新技術相次ぐ」