第1章 年〜年

竹中工務店:初代竹中藤兵衛正高の創業と合名会社竹中工務店の設立

1610年〜一流一派を持たねば立てない業界での大隅流創始

竹中家の始祖竹中藤兵衛正高氏は、織田信長の普請奉行として清洲城下に住み、禄800石を受けていた。織田氏の滅亡後、正高氏は仕官を断念して清洲から名古屋に移り住み、刀剣を捨てて神社仏閣の造営を業とした。竹中工務店が創業を慶長15年(1610)としているのは、この年が清洲城下の武家も商工業者もその大部分が名古屋への移住を開始したいわゆる清洲越の年にあたるためである。清洲越の以前に竹中家は既に名古屋へ移って棟梁として仕事をしており、真の創業といえばさらに数年を遡る。名古屋に移った正高氏は居を菅原町に定め、以後この地で家業が継がれた。

  • 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)第1編「前史(創立以前)」
    • [1]始祖竹中藤兵衛正高は織田信長の普請奉行として清洲城下に住み、禄800石を賜わっていた
    • [2]織田氏の滅亡後、始祖は仕官を断念し清洲から名古屋に移り住み、刀剣を捨てて神社仏閣の造営を業として一家をなした
    • [3]竹中工務店が創業を慶長15年(1610)としているのは、この年が清洲城下の武家も商工業者もその大部分が名古屋への移住を開始したいわゆる清洲越の年であるから
    • [4]清洲越の以前に竹中家が名古屋に移っていて既に棟梁として仕事をしていたことは事実であり、真の創業といえばさらに数年を遡る
    • [5]清洲から名古屋に移り住んだ始祖は居を菅原町に定め、爾来この地にあって家業がつがれた

室町時代以来、商工業では市と座が特定の人だけに市場を独占させ、建築ではこの組織網の上にさらに技術上の流派があり、一流一派を樹立しない限り工匠として立つことは望めなかった。正高氏はこの必要から大隅流の絵様と祭事の規式を創始し、匠家として立つ足場を得た。大隅流は大和流の分派としか伝えられていないが、明治に至るまで竹中が大隅屋と呼びならされていたのはこの流派に由来する。技倆と功績は官位にも表れ、天保7年(1836)の棟札には正六位上がみえる。徳川時代に工匠などへ授けられる官位は一般に従六位が最高とされていたから、正六位上はかなり抜群のものであった。

  • 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)第1編「前史(創立以前)」
    • [6]室町時代の商工業は市と座が特定の人だけに市場を独占させ、建築ではこの組織網に加えて技術上の流派があり、一流一派を樹立しない限り工匠として立つことは到底望めなかった
    • [7]流派を持たない限り独立して業を営むことができず、この必要から生まれたのが大隅流の絵様と祭事の規式であった
    • [8]大隅流は大和流の分派としか伝えられておらず、明治に至るまで竹中が大隅屋と呼びならされていたのはこの大隅流に由来する
    • [9]棟札に散見される官位には正六位上があり、これは天保7年(1836)のものである
    • [10]徳川時代では工匠などに授けられる官位は一般に従六位が最高とされていたから、正六位上はかなり抜群のものであった

明治6年(1873)、12代竹中藤五郎氏は明治新政府が発注した名古屋鎮台営舎工事を引き受けた。名古屋分営が鎮台へ昇格して兵舎の拡張が急がれたものの、関西の三棟梁と呼ばれた伊藤平左衛門家・鈴木幸右衛門家・竹中藤右衛門家はいずれも仏寺と神社の建築を主業とし、洋風まがいの大建築には手が出なかった。設計の変更と追加工事がほぼ連日のように続き、そこへ物価と労銀の急騰が重なった。竹中が請け負った工事は合計30棟、延面積約5,000坪にのぼり、明治6年4月から翌年11月にかけて順に竣工したが、請負高10万余円に対して赤字は50%近くに達した。官が尊ばれ民が卑しめられた時代で、竹中は監督官の指示にただ従わされるばかりだった。そこで設計変更と物価の高騰を理由に陸軍を訴え、大審院まで争ったものの、手にしたのは敗訴を告げる判決書1枚にすぎなかった。鎮台工事でなめた苦汁は家業の伸長さえ阻んだが、失敗のいきさつに同情する人々が増え、竹中はその後、民間の工事に専念した。

  • 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)第1編「前史(創立以前)」
    • [11]明治6年(1873)に明治新政府によって発注された名古屋鎮台営舎工事を12代藤五郎が引き受けた
    • [12]明治6年1月に名古屋分営が名古屋鎮台に昇格して兵舎の拡張が急がれたが、関西の三棟梁と呼ばれた伊藤平左衛門・鈴木幸右衛門・竹中藤右衛門の三家は仏寺と神社の建築を主業としており、洋風まがいの大建築には手が出なかった
    • [13]合計30棟・延面積約5,000坪が明治6年4月から翌年11月にかけて順次竣工したが、毎日のような設計変更と追加工事、物価・労銀の暴騰により、請負高10万余円に対して50%近い赤字となった
    • [15]鎮台工事による苦汁はその後の竹中に大きな影響を与え家業の進展をすら妨げたが、失敗の事情に同情を寄せる人たちも多くなり、これが竹中が以後民間工事に専念する大きな力となった
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 45_諸工業「竹中工務店」
    • [14]当時官尊民卑の時代で監督官の命ずるままに屈従させられ莫大な損失を被り、設計変更・追加工事・物価・労銀の高騰を理由に陸軍を相手に提訴して大審院まで持ち込んだが、結果は敗訴の判決書1枚を得ただけであった
参考文献[1]-[15]
  • 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)第1編「前史(創立以前)」
    • [1]始祖竹中藤兵衛正高は織田信長の普請奉行として清洲城下に住み、禄800石を賜わっていた
    • [2]織田氏の滅亡後、始祖は仕官を断念し清洲から名古屋に移り住み、刀剣を捨てて神社仏閣の造営を業として一家をなした
    • [3]竹中工務店が創業を慶長15年(1610)としているのは、この年が清洲城下の武家も商工業者もその大部分が名古屋への移住を開始したいわゆる清洲越の年であるから
    • [4]清洲越の以前に竹中家が名古屋に移っていて既に棟梁として仕事をしていたことは事実であり、真の創業といえばさらに数年を遡る
    • [5]清洲から名古屋に移り住んだ始祖は居を菅原町に定め、爾来この地にあって家業がつがれた
    • [6]室町時代の商工業は市と座が特定の人だけに市場を独占させ、建築ではこの組織網に加えて技術上の流派があり、一流一派を樹立しない限り工匠として立つことは到底望めなかった
    • [7]流派を持たない限り独立して業を営むことができず、この必要から生まれたのが大隅流の絵様と祭事の規式であった
    • [8]大隅流は大和流の分派としか伝えられておらず、明治に至るまで竹中が大隅屋と呼びならされていたのはこの大隅流に由来する
    • [9]棟札に散見される官位には正六位上があり、これは天保7年(1836)のものである
    • [10]徳川時代では工匠などに授けられる官位は一般に従六位が最高とされていたから、正六位上はかなり抜群のものであった
    • [11]明治6年(1873)に明治新政府によって発注された名古屋鎮台営舎工事を12代藤五郎が引き受けた
    • [12]明治6年1月に名古屋分営が名古屋鎮台に昇格して兵舎の拡張が急がれたが、関西の三棟梁と呼ばれた伊藤平左衛門・鈴木幸右衛門・竹中藤右衛門の三家は仏寺と神社の建築を主業としており、洋風まがいの大建築には手が出なかった
    • [13]合計30棟・延面積約5,000坪が明治6年4月から翌年11月にかけて順次竣工したが、毎日のような設計変更と追加工事、物価・労銀の暴騰により、請負高10万余円に対して50%近い赤字となった
    • [15]鎮台工事による苦汁はその後の竹中に大きな影響を与え家業の進展をすら妨げたが、失敗の事情に同情を寄せる人たちも多くなり、これが竹中が以後民間工事に専念する大きな力となった
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 45_諸工業「竹中工務店」
    • [14]当時官尊民卑の時代で監督官の命ずるままに屈従させられ莫大な損失を被り、設計変更・追加工事・物価・労銀の高騰を理由に陸軍を相手に提訴して大審院まで持ち込んだが、結果は敗訴の判決書1枚を得ただけであった

1899年〜神戸進出と工務店の呼称に込めた設計施工一貫

明治32年(1899)1月25日、三井銀行小野浜倉庫の受注交渉のため名古屋と大阪を往復していた12代竹中藤五郎氏が、僅かな負傷を破傷風にこじらせて急逝した。銀行から工事の下命が伝えられたのは2月4日で、次男の錬一氏(のちの14代竹中藤右衛門氏)が棟梁の佐橋銀次郎氏を伴い、雪の朝に神戸へ向かった。錬一氏は父の急逝から僅か22日後の2月16日、現場近くに仮の住居を借り受け、父の名をそのまま屋号とする神戸支店を開設した。竹中はこの一歩を承業第1年と定めた。長男の昇太郎氏が名古屋にとどまって13代藤五郎を襲名し在来の日本建築を担当したため、神戸では専ら近代建築に志すこととなった。

  • 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)第2編 本史-1「創立から70年のあゆみ(1899-1969)」
    • [16]三井銀行小野浜倉庫の工事受注交渉のために名古屋・大阪間を往復していた12代藤五郎は、僅かの負傷が悪化して破傷風となり、明治32年(1899)1月25日に急逝した
    • [17]2月4日に銀行から工事下命が伝えられ、次男の錬一が棟梁佐橋銀次郎を伴って雪の朝に神戸へ向かった
    • [18]神戸の現場近くに仮の住居を借り受けて竹中藤五郎神戸支店としたのが2月16日で、父の急逝後僅か22日のことであり、これを承業第1年とした
    • [19]神戸の現場近くに仮の住居を借り受けて竹中藤五郎神戸支店としたのが2月16日で、父の急逝後僅か22日のことであり、これを承業第1年とした
    • [20]長男昇太郎は名古屋にとどまって家業を継ぎ13代藤五郎を襲名して在来の日本建築を担当し、神戸では専ら近代建築に志すこととなった

小野浜倉庫は煉瓦造瓦葺平家建の倉庫24棟、面積1,280坪で、明治32年2月下旬に着工し翌年3月に完成した。当時の手間賃は大工35銭、人夫25銭、煉瓦工と石工40銭ほどで、坪単価46.50円から総工費は59,520円となった。従来縁故のなかった土地へ急に出たため労力も資材も不足し、煉瓦積みには名古屋の三井製糸場で経験を積んだ職人を呼び寄せねばならなかった。神戸では大工や左官を1人得るにも困難が伴い、こうした人たちを名古屋から呼び寄せる状態が何年も続いた。精算の結果は漸く赤字を計上しずに済み、協力業者と専門工の確保がその後の大きな課題として残った。

  • 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)第2編 本史-1「創立から70年のあゆみ(1899-1969)」
    • [21]神戸・三井銀行小野浜倉庫は煉瓦造瓦葺平家建倉庫24棟・1,280坪で、明治32年2月下旬に着工し翌年3月にかけて完成した
    • [22]当時の手間賃は大工35銭、人夫25銭、煉瓦工と石工40銭ぐらいで、工事の坪単価は46.50円、総工費は59,520円であった
    • [23]従来縁故のなかった土地へ急に出てきたため労力も資材も困難が伴い、煉瓦積には名古屋の三井製糸場で経験のあった職人を呼び寄せねばならなかった
    • [24]神戸では大工、左官1人を得るにも困難が伴い、必要に応じてこれらの人たちを名古屋から呼び寄せねばならないことが何年も続いた
    • [25]精算の結果としては漸く赤字を出さないで済み、協力業者と専門工の確保がその後の大きな課題となった

明治42年(1909)5月16日、竹中は合名会社竹中工務店を設立し、本店を神戸、支店を名古屋として従来の個人営業を継承した。社員は竹中藤右衛門氏と竹中藤五郎氏の2名で、代表社員を置かない共同責任制をとった。個人営業時代は名古屋が本店、神戸が支店だったが、新興建築において名古屋とその周辺が立地条件として不利であることが実績から明らかになり、本支店を入れ替えた。呼称は最初に竹中建築事務所と決めて諸帳簿まで整えたものの、設計を事業とするかに受け取られる点が気になり、工務所も既に横河工務所があって設計監督が主業だった。設計と施工を一貫して進むのが本然の姿という父祖以来の信念を標榜する名称として工務店を選び、店の一字で顧客への奉仕を第一義とすることを示した。

  • 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)第2編 本史-1「創立から70年のあゆみ(1899-1969)」
    • [26]明治42年(1909)5月16日、合名会社竹中工務店が設立され、本店を神戸に、支店を名古屋において従来の個人営業を継承した
    • [27]社員は竹中藤右衛門、竹中藤五郎の2名で、代表社員を置かず両名の共同責任制をとった
    • [28]個人営業時代は本店を名古屋、支店を神戸に置いていたが、新興建築に関して名古屋とその周辺が立地条件として不利であることが実績からも明らかであり、本支店を転換した
    • [29]最初に決定した名称は竹中建築事務所で諸帳簿もこれで調整されたが、設計を事業とするかに受けとられる点が気になり、工務所も既に横河工務所があって設計監督が主業であった
    • [30]設計と施工とを一貫して進むのが本然の姿であり父祖以来のしきたりでも信念でもあったため、この信念を標榜する名称として工務店を考え出し、店によって顧客への奉仕を第一義とすることを示そうとした
参考文献[16]-[30]
  • 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)第2編 本史-1「創立から70年のあゆみ(1899-1969)」
    • [16]三井銀行小野浜倉庫の工事受注交渉のために名古屋・大阪間を往復していた12代藤五郎は、僅かの負傷が悪化して破傷風となり、明治32年(1899)1月25日に急逝した
    • [17]2月4日に銀行から工事下命が伝えられ、次男の錬一が棟梁佐橋銀次郎を伴って雪の朝に神戸へ向かった
    • [18]神戸の現場近くに仮の住居を借り受けて竹中藤五郎神戸支店としたのが2月16日で、父の急逝後僅か22日のことであり、これを承業第1年とした
    • [19]神戸の現場近くに仮の住居を借り受けて竹中藤五郎神戸支店としたのが2月16日で、父の急逝後僅か22日のことであり、これを承業第1年とした
    • [20]長男昇太郎は名古屋にとどまって家業を継ぎ13代藤五郎を襲名して在来の日本建築を担当し、神戸では専ら近代建築に志すこととなった
    • [21]神戸・三井銀行小野浜倉庫は煉瓦造瓦葺平家建倉庫24棟・1,280坪で、明治32年2月下旬に着工し翌年3月にかけて完成した
    • [22]当時の手間賃は大工35銭、人夫25銭、煉瓦工と石工40銭ぐらいで、工事の坪単価は46.50円、総工費は59,520円であった
    • [23]従来縁故のなかった土地へ急に出てきたため労力も資材も困難が伴い、煉瓦積には名古屋の三井製糸場で経験のあった職人を呼び寄せねばならなかった
    • [24]神戸では大工、左官1人を得るにも困難が伴い、必要に応じてこれらの人たちを名古屋から呼び寄せねばならないことが何年も続いた
    • [25]精算の結果としては漸く赤字を出さないで済み、協力業者と専門工の確保がその後の大きな課題となった
    • [26]明治42年(1909)5月16日、合名会社竹中工務店が設立され、本店を神戸に、支店を名古屋において従来の個人営業を継承した
    • [27]社員は竹中藤右衛門、竹中藤五郎の2名で、代表社員を置かず両名の共同責任制をとった
    • [28]個人営業時代は本店を名古屋、支店を神戸に置いていたが、新興建築に関して名古屋とその周辺が立地条件として不利であることが実績からも明らかであり、本支店を転換した
    • [29]最初に決定した名称は竹中建築事務所で諸帳簿もこれで調整されたが、設計を事業とするかに受けとられる点が気になり、工務所も既に横河工務所があって設計監督が主業であった
    • [30]設計と施工とを一貫して進むのが本然の姿であり父祖以来のしきたりでも信念でもあったため、この信念を標榜する名称として工務店を考え出し、店によって顧客への奉仕を第一義とすることを示そうとした

1937年〜本店の大阪移転と株式会社竹中工務店の設立

大正9年(1920)4月、店主の竹中藤右衛門氏は設計部の島本四郎氏を帯同して渡米し、11月に帰国した。ニューヨーク市五番街の妻沼建築事務所の一室を借りて島本氏に大阪の堂ビルなどの設計を進めさせる一方、自身は各地を飛びまわり、調査の結果を神戸本店へ次々と送った。7月の第3回調査報告書では、一人でどしどし平面を進めて他の人々の意見を問わないことを大欠点と指弾し、平面を3通りでも4通りでも作って衆議に問うこと、他の図面にあることを重ねて図解しないことを設計部に求めた。帰国後はまず製作部門の拡充と施工の機械化に着手し、テーラーの科学的管理法の著書をアメリカから将来して社員に専攻させた。

  • 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)第2編 本史-1「創立から70年のあゆみ(1899-1969)」
    • [31]大正9年(1920)4月、竹中藤右衛門は設計部の島本四郎を帯同してアメリカに渡り、11月に帰国した
    • [32]ニューヨーク市五番街の妻沼建築事務所の一室を借り受けて島本四郎に大阪の堂ビルや某銀行の設計に当たらせ、自身は各地を飛びまわって調査結果を次々と神戸本店宛に送った
    • [33]7月の第3回調査報告書は、一人でどしどし平面を進めて他の人々の意見を問うことなきは大欠点であるとし、平面は3通りでも4通りでも作って衆議に問うこと、他の図面にあることを再び図面にのせないことを設計部に求めた
    • [34]帰国後第一に着手されたのが製作部門の強化拡充と施工の機械化で、テーラーの著書 The Principles of Scientific management をアメリカから将来して社員にこれを専攻させた

煉瓦や石による建築の技術を明治から大正の間に身につけ、耐震耐火の構造も取り込んでいったのがこの時期である。大正6年(1917)からは鉄骨鉄筋造や鉄筋コンクリート造の建物の施工が続き、竹中工務店は神戸の橋本汽船ビル、大阪の三越西館、三井物産神戸支店、横浜正金銀行神戸支店、大阪の高島屋を次々と手がけた。大正12年(1923)9月に起きた関東大震災は、燃える建物と崩れる建物をはっきりと選り分け、アメリカ式の建築を地震国の日本にそのまま持ち込む危うさをさらけ出した。同社はその救援に追われていた。そのさなかに施工していた大阪の堂島ビルディングが竣工したため、12月1日、本店を神戸江戸町から移し、大阪出張所は廃止、神戸は支店とした。合名会社設立以来、神戸に本店を置くことは満14年6カ月に及んだ。

  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「竹中工務店」
    • [35]明治から大正にかけて煉瓦や石の建築に習熟するとともに、耐震耐火構造の建築と取り組みその技術を吸収した
  • 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)第2編 本史-1「創立から70年のあゆみ(1899-1969)」
    • [36]大正6年(1917)以後、震災までの竣工では神戸の橋本汽船ビル、大阪の三越西館、三井物産神戸支店、横浜正金銀行神戸支店、大阪の高島屋などがあり、既に数多くの鉄骨鉄筋造やR・C造が建っていた
    • [37]大正12年9月の関東大震災で焼けるものは焼け倒れるものは倒れるという冷厳な審判を受け、アメリカ式建築が地震国である日本にそのまま応用されることの危険さが如実に示された
    • [38]関東大震災の救援に忙殺されている最中に施工中の大阪の堂島ビルディングが竣工したため、大正12年12月1日をもって本店を神戸江戸町からここに移し、従来の大阪出張所を廃止して神戸を支店とした
    • [39]合名会社設立以来、神戸に本店を置くこと満14年6カ月に及んだ

昭和12年(1937)9月1日、合名会社竹中工務店は株式会社竹中工務店の創立総会を開き、資本金150万円、本店を大阪市、支店を東京・名古屋・神戸・福岡・京都に置いた。取締役社長には竹中藤右衛門氏が就任し、専務取締役に山脇友三郎氏、常務取締役に福本常太郎氏を据えた。株式会社は昭和13年1月1日現在をもって合名会社を吸収合併し、合名会社は同25日に解散した。大陸への進出が始まったのもこの改組の年からで、それまでの外地工事は昭和9年の朝日新聞京城支局の新築があるだけだった。竹中工務店は名古屋で神社仏閣の造営を始めた1610年を創業年、14代竹中藤右衛門氏が神戸へ出た1899年を創立第1年として、双方を沿革に掲げている。

  • 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)第2編 本史-1「創立から70年のあゆみ(1899-1969)」
    • [40]昭和12年9月1日に株式会社竹中工務店の創立総会を開催し、資本金150万円、本店は大阪市、支店は東京市・名古屋市・神戸市・福岡市・京都市であった
    • [41]取締役社長は竹中藤右衛門、専務取締役は山脇友三郎、常務取締役は福本常太郎であった
    • [42]株式会社は昭和13年1月1日現在をもって合名会社を吸収合併し、合名会社は同25日に解散した
    • [43]大陸への進出を開始したのは合名会社を株式会社に改組した昭和12年からで、それまでは昭和9年の朝日新聞京城支局の新築が最初であり外地での工事は絶無であった
  • 竹中工務店 有価証券報告書【沿革】
    • [44]1610年に初代竹中藤兵衛正高が名古屋で創業し神社仏閣の造営に従事、1899年に14代竹中藤右衛門が神戸に店舗を開設して創立第1年とすることを、いずれも沿革に記載している
参考文献[31]-[44]
  • 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)第2編 本史-1「創立から70年のあゆみ(1899-1969)」
    • [31]大正9年(1920)4月、竹中藤右衛門は設計部の島本四郎を帯同してアメリカに渡り、11月に帰国した
    • [32]ニューヨーク市五番街の妻沼建築事務所の一室を借り受けて島本四郎に大阪の堂ビルや某銀行の設計に当たらせ、自身は各地を飛びまわって調査結果を次々と神戸本店宛に送った
    • [33]7月の第3回調査報告書は、一人でどしどし平面を進めて他の人々の意見を問うことなきは大欠点であるとし、平面は3通りでも4通りでも作って衆議に問うこと、他の図面にあることを再び図面にのせないことを設計部に求めた
    • [34]帰国後第一に着手されたのが製作部門の強化拡充と施工の機械化で、テーラーの著書 The Principles of Scientific management をアメリカから将来して社員にこれを専攻させた
    • [36]大正6年(1917)以後、震災までの竣工では神戸の橋本汽船ビル、大阪の三越西館、三井物産神戸支店、横浜正金銀行神戸支店、大阪の高島屋などがあり、既に数多くの鉄骨鉄筋造やR・C造が建っていた
    • [37]大正12年9月の関東大震災で焼けるものは焼け倒れるものは倒れるという冷厳な審判を受け、アメリカ式建築が地震国である日本にそのまま応用されることの危険さが如実に示された
    • [38]関東大震災の救援に忙殺されている最中に施工中の大阪の堂島ビルディングが竣工したため、大正12年12月1日をもって本店を神戸江戸町からここに移し、従来の大阪出張所を廃止して神戸を支店とした
    • [39]合名会社設立以来、神戸に本店を置くこと満14年6カ月に及んだ
    • [40]昭和12年9月1日に株式会社竹中工務店の創立総会を開催し、資本金150万円、本店は大阪市、支店は東京市・名古屋市・神戸市・福岡市・京都市であった
    • [41]取締役社長は竹中藤右衛門、専務取締役は山脇友三郎、常務取締役は福本常太郎であった
    • [42]株式会社は昭和13年1月1日現在をもって合名会社を吸収合併し、合名会社は同25日に解散した
    • [43]大陸への進出を開始したのは合名会社を株式会社に改組した昭和12年からで、それまでは昭和9年の朝日新聞京城支局の新築が最初であり外地での工事は絶無であった
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「竹中工務店」
    • [35]明治から大正にかけて煉瓦や石の建築に習熟するとともに、耐震耐火構造の建築と取り組みその技術を吸収した
  • 竹中工務店 有価証券報告書【沿革】
    • [44]1610年に初代竹中藤兵衛正高が名古屋で創業し神社仏閣の造営に従事、1899年に14代竹中藤右衛門が神戸に店舗を開設して創立第1年とすることを、いずれも沿革に記載している

出典・参考

5件
出典・参考
  • 竹中工務店 有価証券報告書【沿革】
  • 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)第1編「前史(創立以前)」
  • 竹中工務店九十年史(竹中工務店、1989年)第2編 本史-1「創立から70年のあゆみ(1899-1969)」
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 45_諸工業「竹中工務店」
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)「竹中工務店」

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