東京三菱銀行:東京銀行合併による東京三菱銀行の発足と持株会社化
1984年〜バンク・オブ・カリフォルニアの子会社化と、手堅さの殻を破った伊夫伎一雄
三菱銀行は1984年6月、米国西海岸で最も古い銀行とされるバンク・オブ・カリフォルニアを買収した。頭取は山田春氏で、1972年1月に設けた現地法人の加州三菱銀行とは別に、既存の銀行の買収を選んだ。当時の三菱銀行は、1979年度ごろまで並んでいた富士・住友の両行に経常利益で差をつけられ、三和銀行にも迫られていた。行内で「青年将校」と呼ばれた若手・中堅行員は、守りの堅さだけでは他の都銀に追いつけないとみていた。この買収でも、彼らが主軸になって動いたという。買収時に20店まで縮んでいたバンク・オブ・カリフォルニアは、1987年には年約3000万ドルの利益を出すまでに持ち直した。
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社、1995年)「三菱銀行」
- [1]1984年6月、米国西海岸最古の銀行バンク・オブ・カリフォルニアを買収。1972年1月に海外現地法人第1号の加州三菱銀行を設立
- 財政金融ジャーナル 1986年「本部組織を改組しユニバーサル・バンキングに徹する三菱銀行」
- [2]1984年6月のカリフォルニア銀行買収は山田春頭取(1986年時点で会長)の時代の施策
- 日経ビジネス 1983年11月14日
- [3]経常利益は1979年度ごろまで富士・住友とほぼ並んだが直近2〜3年は差をつけられ、三和に急速に追い上げられている
- [4]「青年将校」と呼ばれる若手・中堅行員の間に「守りに強いだけでは他の都銀に勝てない」との危機感があり、バンカル買収でも主軸になって動いた
- [5]「青年将校」と呼ばれる若手・中堅行員の間に「守りに強いだけでは他の都銀に勝てない」との危機感があり、バンカル買収でも主軸になって動いた
- Decide 1987年
- [6]伊夫伎頭取談:バンカルは住宅融資の不良債権で経営が傾き買収時は20店、前期決算で約3000万ドルの利益まで回復
1986年6月に頭取に就任した伊夫伎一雄氏は、就任の翌月に都銀で初めて中途採用の求人広告を出した。8月末までに560人が応募し、システム部門を中心に30人近くを採った。同年10月には組織を組み替え、M&Aの仲介を担う情報開発本部と、都銀で初めてその名を冠した証券本部を新設した。下敷きは、副頭取時代の伊夫伎氏が率いた検討会が1986年3月にまとめた自由化への対応策で、組織案は専務の若井恒雄氏のチームが詰めた。リスクを避ける体質から、国際業務関係の利益は都銀上位5行で最下位に甘んじる年が多かった。首位の住友とは200億円前後の開きがあり、手堅さが収益の伸びを抑えていた。
- 日経ビジネス 1987年4月13日
- [7]1986年6月に伊夫伎一雄が頭取就任。同年7月11日に都銀のトップを切って中途採用の求人広告を新聞に掲載
- [8]8月末の1回目締切までに560人が応募し、システム部門を中心に10月以降30人近くを採用
- [9]1986年10月1日から組織改革を実施。情報開発本部(M&A仲介など)と証券本部を新設し、証券本部の名は都銀で初めて
- [11]リスク回避の体質から国際業務関係利益は都銀上位5行で最下位が多く、首位の住友とは200億円前後の開き
- [12]リスク回避の体質から国際業務関係利益は都銀上位5行で最下位が多く、首位の住友とは200億円前後の開き
- 財政金融ジャーナル 1986年「本部組織を改組しユニバーサル・バンキングに徹する三菱銀行」
- [10]伊夫伎副頭取を中心に1985年9月から研究し、1986年3月に基本方針を決定。組織は若井恒雄専務を長とするプロジェクトチームが検討
三菱銀行は1988年10月にロンドン、1989年2月にスイス3取引所とパリに株式を上場した。続けて1989年9月19日、邦銀で初めてニューヨーク証券取引所に上場した。SECへ出す年次報告書は子会社をすべて連結して米国基準で3年分を作り直すもので、準備に8カ月と2〜3億円を要した。資金調達だけなら欧州で足りるという声が上位都銀の首脳から出るほど、米国の開示は重かった。企画部は上場を、都銀決算の透明度を高める作戦の一環と位置づけていた。旧来の営業利益で4位だった三菱は、新しい経理基準の業務利益で1988年度を試算すると2200億円で住友に次ぐ2位に上がった。
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社、1995年)「三菱銀行」
- [13]1988年10月ロンドン証券取引所に上場、1989年2月スイス3取引所とパリに上場
- 日経ビジネス 1989年12月4日
- [14]1989年9月19日、邦銀初のニューヨーク証券取引所上場。初値22 1/8ドル
- [15]SEC向けフォーム20-Fは子会社を全て連結し米国会計基準で作り直し、主要データは過去3年遡及。1988年11月から8カ月の作業で上場コスト2〜3億円
- [17]企画部は「ここ2〜3年、都銀決算の透明度を高くしようとしてきた作戦の一環」と説明
- Decide 1989年
- [16]上位都銀のトップ談「資金調達だけのためなら欧州で十分だ。米国はディスクロが厳しいだけで負担が大きい」
- 日経ビジネス 1989年7月31日
- [18]新経理基準の業務利益で88年度を試算すると住友2400億円・三菱2200億円で三菱が2位。旧基準の営業利益では4位
参考文献[1]-[18]
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社、1995年)「三菱銀行」
- [1]1984年6月、米国西海岸最古の銀行バンク・オブ・カリフォルニアを買収。1972年1月に海外現地法人第1号の加州三菱銀行を設立
- [13]1988年10月ロンドン証券取引所に上場、1989年2月スイス3取引所とパリに上場
- 財政金融ジャーナル 1986年「本部組織を改組しユニバーサル・バンキングに徹する三菱銀行」
- [2]1984年6月のカリフォルニア銀行買収は山田春頭取(1986年時点で会長)の時代の施策
- [10]伊夫伎副頭取を中心に1985年9月から研究し、1986年3月に基本方針を決定。組織は若井恒雄専務を長とするプロジェクトチームが検討
- 日経ビジネス 1983年11月14日
- [3]経常利益は1979年度ごろまで富士・住友とほぼ並んだが直近2〜3年は差をつけられ、三和に急速に追い上げられている
- [4]「青年将校」と呼ばれる若手・中堅行員の間に「守りに強いだけでは他の都銀に勝てない」との危機感があり、バンカル買収でも主軸になって動いた
- [5]「青年将校」と呼ばれる若手・中堅行員の間に「守りに強いだけでは他の都銀に勝てない」との危機感があり、バンカル買収でも主軸になって動いた
- Decide 1987年
- [6]伊夫伎頭取談:バンカルは住宅融資の不良債権で経営が傾き買収時は20店、前期決算で約3000万ドルの利益まで回復
- 日経ビジネス 1987年4月13日
- [7]1986年6月に伊夫伎一雄が頭取就任。同年7月11日に都銀のトップを切って中途採用の求人広告を新聞に掲載
- [8]8月末の1回目締切までに560人が応募し、システム部門を中心に10月以降30人近くを採用
- [9]1986年10月1日から組織改革を実施。情報開発本部(M&A仲介など)と証券本部を新設し、証券本部の名は都銀で初めて
- [11]リスク回避の体質から国際業務関係利益は都銀上位5行で最下位が多く、首位の住友とは200億円前後の開き
- [12]リスク回避の体質から国際業務関係利益は都銀上位5行で最下位が多く、首位の住友とは200億円前後の開き
- 日経ビジネス 1989年12月4日
- [14]1989年9月19日、邦銀初のニューヨーク証券取引所上場。初値22 1/8ドル
- [15]SEC向けフォーム20-Fは子会社を全て連結し米国会計基準で作り直し、主要データは過去3年遡及。1988年11月から8カ月の作業で上場コスト2〜3億円
- [17]企画部は「ここ2〜3年、都銀決算の透明度を高くしようとしてきた作戦の一環」と説明
- Decide 1989年
- [16]上位都銀のトップ談「資金調達だけのためなら欧州で十分だ。米国はディスクロが厳しいだけで負担が大きい」
- 日経ビジネス 1989年7月31日
- [18]新経理基準の業務利益で88年度を試算すると住友2400億円・三菱2200億円で三菱が2位。旧基準の営業利益では4位
1990年〜不良債権処理を先に済ませた若井恒雄と、日本信託銀行の子会社化
業務純益が前期比3割近く減った1990年6月に頭取に就任した若井恒雄氏は、1992年4月から全国銀行協会連合会の会長を務めた。三菱銀行の不良債権は、大蔵省の基準では2000億円ほどだが、米国SECの基準では6500億円ほどになるという。若井氏は、公表を渋ることこそがかえって信用不安を招くとみて、1993年3月を目標に開示を進める方針を示した。ただし問題のある金融機関の救済策を先に整えることを条件とした。1993年9月末の破綻先・延滞債権は計5945億円で、半年で920億円増えていた。三菱銀行は都銀で総貸出に占める不良債権の比率が最も低く、1995年3月期に一掃する計画を立てた。
- 日経ビジネス 1990年7月16日
- [19]若井恒雄は1990年6月に頭取就任。1990年3月期の業務純益は前期比3割近く減少
- 日経ビジネス 1992年8月3日
- [20]1992年4月から全国銀行協会連合会会長。三菱銀行の不良債権は大蔵省基準で約2000億円、SEC基準で約6500億円とされ関心を集めた
- 金融財政事情 43(18) 1992年 若井恒雄
- [21]不良資産の開示は1993年3月が目標。公表に消極的だったことが信用不安を招くとし、セーフティネットを考えておく必要を示した
- [22]不良資産の開示は1993年3月が目標。公表に消極的だったことが信用不安を招くとし、セーフティネットを考えておく必要を示した
- 証券アナリストジャーナル 1994年
- [23]1993年9月末の破綻先債権1374億円・延滞債権4570億円、合計5945億円で1993年3月末比920億円増
- Decide 1994年
- [24]三菱銀行は都銀で総貸出に占める不良債権比率が最も低く、1995年3月期に不良債権を一掃する計画
三菱銀行は1994年11月、日本信託銀行の第三者割当増資を引き受けて株式の68%を取得し、子会社にした。同じ月には証券子会社の三菱ダイヤモンド証券を設けた。常務の谷野剛氏は1994年1月、大企業・中堅企業の直接金融の需要に応えるため、証券子会社の設立を重要な戦略と位置づけていた。前年の設立では都銀に認可が下りておらず、当初は債券業務から始め、株式業務へ広げる計画だった。すでに1986年には、三菱グループ企業向けの貸出が国内貸出の5%台と、10年前の半分以下に低下していた。大企業が銀行借入から離れるなか、信託と証券の子会社は、その取引を銀行の外で取り戻す手段と見込まれていたと推察される。
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社、1995年)「三菱銀行」
- [25]1994年11月、日本信託銀行の第三者割当増資で株式の68%を取得し子会社化。同月、証券子会社の三菱ダイヤモンド証券を設立
- [26]1994年11月、日本信託銀行の第三者割当増資で株式の68%を取得し子会社化。同月、証券子会社の三菱ダイヤモンド証券を設立
- 証券アナリストジャーナル 1994年
- [27]谷野剛常務:直接金融ニーズに応えるため証券子会社設立は重要な戦略。前年は都銀の設立が認められず、今後申請。当初はボンド・ハウス、のち株式関連業務を強化
- [28]谷野剛常務:直接金融ニーズに応えるため証券子会社設立は重要な戦略。前年は都銀の設立が認められず、今後申請。当初はボンド・ハウス、のち株式関連業務を強化
- 日経ビジネス 1987年4月13日
- [29]三菱グループ企業向け融資のシェアは国内貸出の5%台で、約10年前の半分以下
三菱銀行は1995年3月に東京銀行との合併を決め、1996年4月に東京三菱銀行が生まれた。両行を組み合わせる案は、数年前から話題にのぼっていた。東京銀行は海外で強いが国内で弱く、三菱銀行は国内に厚みを持つ一方で海外が薄いという、互いを補う関係にあったためである。合併では三菱銀行を存続会社とし、比率を1対0.8と定めた。若井恒雄氏が会長となり、頭取の座には東京銀行頭取だった高垣佑氏が就任した。高垣氏は合併を5年、10年先の尺度で捉えるべきだとし、両行は国際競争力に優れた銀行づくりと、将来の持株会社化までを視野に置いた。特定の企業集団に属さず外国為替を専門とする東京銀行は、上場する2100社のうち約6割を取引先に持っていた。系列の枠を越えたこの取引網を取り込み、国内の薄さを埋めることが狙いだったとみられる。
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社、1995年)「三菱銀行」
- [30]1996年4月東京銀行と合併し東京三菱銀行に。存続会社は三菱銀、合併比率1対0.8、会長に若井三菱銀頭取、頭取に高垣東銀頭取
- [32]1996年4月東京銀行と合併し東京三菱銀行に。存続会社は三菱銀、合併比率1対0.8、会長に若井三菱銀頭取、頭取に高垣東銀頭取
- Decide 1994年
- [31]海外に強く国内に弱い東銀と、国内は磐石だが海外が手薄の三菱との組み合わせは3、4年前から話題
- 日経ビジネス 1995年9月4日
- [33]高垣頭取は5カ月前に合併を決断し、5年・10年の時間で考えるべきとした。ザ・バンクと呼ばれる国際競争力ある銀行を目指し、銀行持株会社も視野
- 日経ビジネス 1995年4月10日
- [34]東銀はどのグループにも属さない中立の外為専門銀行で、上場企業2100社のおよそ6割と取引
参考文献[19]-[34]
- 日経ビジネス 1990年7月16日
- [19]若井恒雄は1990年6月に頭取就任。1990年3月期の業務純益は前期比3割近く減少
- 日経ビジネス 1992年8月3日
- [20]1992年4月から全国銀行協会連合会会長。三菱銀行の不良債権は大蔵省基準で約2000億円、SEC基準で約6500億円とされ関心を集めた
- 金融財政事情 43(18) 1992年 若井恒雄
- [21]不良資産の開示は1993年3月が目標。公表に消極的だったことが信用不安を招くとし、セーフティネットを考えておく必要を示した
- [22]不良資産の開示は1993年3月が目標。公表に消極的だったことが信用不安を招くとし、セーフティネットを考えておく必要を示した
- 証券アナリストジャーナル 1994年
- [23]1993年9月末の破綻先債権1374億円・延滞債権4570億円、合計5945億円で1993年3月末比920億円増
- [27]谷野剛常務:直接金融ニーズに応えるため証券子会社設立は重要な戦略。前年は都銀の設立が認められず、今後申請。当初はボンド・ハウス、のち株式関連業務を強化
- [28]谷野剛常務:直接金融ニーズに応えるため証券子会社設立は重要な戦略。前年は都銀の設立が認められず、今後申請。当初はボンド・ハウス、のち株式関連業務を強化
- Decide 1994年
- [24]三菱銀行は都銀で総貸出に占める不良債権比率が最も低く、1995年3月期に不良債権を一掃する計画
- [31]海外に強く国内に弱い東銀と、国内は磐石だが海外が手薄の三菱との組み合わせは3、4年前から話題
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社、1995年)「三菱銀行」
- [25]1994年11月、日本信託銀行の第三者割当増資で株式の68%を取得し子会社化。同月、証券子会社の三菱ダイヤモンド証券を設立
- [26]1994年11月、日本信託銀行の第三者割当増資で株式の68%を取得し子会社化。同月、証券子会社の三菱ダイヤモンド証券を設立
- [30]1996年4月東京銀行と合併し東京三菱銀行に。存続会社は三菱銀、合併比率1対0.8、会長に若井三菱銀頭取、頭取に高垣東銀頭取
- [32]1996年4月東京銀行と合併し東京三菱銀行に。存続会社は三菱銀、合併比率1対0.8、会長に若井三菱銀頭取、頭取に高垣東銀頭取
- 日経ビジネス 1987年4月13日
- [29]三菱グループ企業向け融資のシェアは国内貸出の5%台で、約10年前の半分以下
- 日経ビジネス 1995年9月4日
- [33]高垣頭取は5カ月前に合併を決断し、5年・10年の時間で考えるべきとした。ザ・バンクと呼ばれる国際競争力ある銀行を目指し、銀行持株会社も視野
- 日経ビジネス 1995年4月10日
- [34]東銀はどのグループにも属さない中立の外為専門銀行で、上場企業2100社のおよそ6割と取引
1996年〜東京銀行と合併した東京三菱銀行と、三菱東京フィナンシャル・グループの設立
東京三菱銀行が1996年4月1日に発足する前日、米国ではケミカルとチェース・マンハッタンが合併した。新しいチェースは従業員の約16%にあたる1万2000人程度の削減策をすぐに示した。これに対し東京三菱は、3年で2000人を減らす案を非公式に匂わせるにとどめ、新しい長期計画の開始も1997年4月へ持ち越した。4つある副頭取の席は旧三菱と旧東京で2つずつ分け合い、旧三菱側は頭取のたすき掛けを続けない意向を示していた。人員の計画が固まったのは1999年で、行員を合併前の2万115人から2000年度末までに1万7000人へ減らすとした。対等を掲げた合併だっただけに、両行の均衡を保つ人事が人員削減の速さより先に立ったのだろう。
- 日経ビジネス 1996年4月8日
- [35]1996年4月1日の東京三菱発足の前日、米国でケミカル・バンキングとチェース・マンハッタンが合併。新チェースは全従業員の約16%、1万2000人程度の削減策を打ち出した
- [36]1996年4月1日の東京三菱発足の前日、米国でケミカル・バンキングとチェース・マンハッタンが合併。新チェースは全従業員の約16%、1万2000人程度の削減策を打ち出した
- [37]東京三菱は3年間で2000人の削減などの合理化策を匂わしているが非公式。新長期計画は1997年4月から
- [38]副頭取4席は旧三菱と旧東京で2人ずつ。旧三菱幹部は4分の3を望み、頭取のたすき掛け人事を恒久化しない意向
- 政治と経済 25(4) 1999年「公的資金見送り派――東京三菱銀行頭取 岸曉氏」
- [39]2000年度末までに行員を合併前の2万115人から1万7000人へ削減、国内店舗を328から282へ
頭取の岸曉氏は1998年、全国銀行協会連合会の会長として金融危機への対応に当たった。東京三菱でも大蔵省の金融検査官への接待が明るみに出たが、岸氏は公的資金を注入する金融2法の実施を控えて会長を続けた。行内では公務員への接待を全面的に禁じ、用件は日中に聞きに行くよう改めた。1997年9月中間期には約1兆1000億円の不良債権を引き当てており、体力には余裕があった。1999年春、大手行が公的資金を申請するなかで、東京三菱は自助努力を促すのが法の趣旨だとして申請を見送った。代わりに三菱グループ企業を引受先とする2442億円の増資と、本店などの売却で自己資本を約4000億円積み増した。
- 日経ビジネス 1998年3月9日
- [40]岸曉は東京三菱銀行頭取・全銀協会長。東京三菱も大蔵省の金融検査官を接待した事実が判明したが、金融2法の実施に空白期間をつくれないとして会長を当面続投
- [41]岸曉は東京三菱銀行頭取・全銀協会長。東京三菱も大蔵省の金融検査官を接待した事実が判明したが、金融2法の実施に空白期間をつくれないとして会長を当面続投
- [42]公務員・みなし公務員の接待を全面禁止し、聞きたいことは日中に聞きに行くとした
- 日経ビジネス 1997年12月15日
- [43]東京三菱は不良債権比率が低いうえ、1997年9月中間期に約1兆1000億円の不良債権引当を実施
- 政治と経済 25(4) 1999年「公的資金見送り派――東京三菱銀行頭取 岸曉氏」
- [44]大手行が資本注入を申請するなか、東京三菱は公的資金の申請を見送った。岸頭取は早期健全化法の趣旨は自主的努力とした
- [45]三菱グループ主要企業を引受先とする第三者割当増資2442億円と、丸の内本店・旧東京銀行本店の売却1006億円で自己資本を約4000億円増やす
1999年に興銀・第一勧業・富士の3行統合と住友・さくらの合併が決まると、残る東京三菱と三和銀行の統合が取りざたされた。頭取の岸曉氏は、規模を追うより銀行の質と業務の速さを高めるという考えを周囲に示していた。三和銀行との交渉はまとまらず、三和は2000年7月に東海銀行などとの統合で合意した。3グループが生まれると、首位だった東京三菱は総資産で4位に下がる立場にあった。東京三菱は2000年4月に三菱信託・日本信託と統合で合意し、2001年4月の株式移転で三菱東京フィナンシャル・グループを設けて上場を終えた。業態の垣根を越えるグループ内の信託と組めば、主導権を手放さずに商品の幅を広げられると判断したと考えられる。
- ビジネス・インテリジェンス 14(1) 2000年1月「"次"は東京三菱と三和?カギ握る伊夫伎、渡辺、佐伯」
- [46]興銀・一勧・富士の3行統合と住友・さくらの合併合意の後、大型再編に加わっていない東京三菱と三和の合併・統合が注目された。岸頭取は「規模を追求するよりも、銀行の質と業務のスピードアップを図る」と周辺に語った
- [47]興銀・一勧・富士の3行統合と住友・さくらの合併合意の後、大型再編に加わっていない東京三菱と三和の合併・統合が注目された。岸頭取は「規模を追求するよりも、銀行の質と業務のスピードアップを図る」と周辺に語った
- 財界人 13(7) 2000年5月「何があったか動かざる巨艦東京三菱の身内統合」
- [48]他の都銀が合従連衡するなかで、東京三菱は交渉中の三和銀行に逃げられたと評された
- 財政金融ジャーナル 40(5) 2000年5月「東京三菱、三菱信託が事業統合 日本、東京加え三信託は合併へ」
- [49]都銀3グループの誕生で、それまでトップだった東京三菱は一挙に4位に転落することになり新戦略を探っていた。三菱信託も信託業界の再編で戦略を模索。都銀と信託の垣根を越えた統合
- 三菱UFJフィナンシャル・グループ 有価証券報告書(2025年3月期)「沿革」
- [50]2000年4月、東京三菱銀行・三菱信託銀行・日本信託銀行が持株会社設立による経営統合に基本合意(2000年7月に三和・東海・東洋信託も基本合意)。2001年4月、株式移転で三菱東京フィナンシャル・グループを設立
参考文献[35]-[50]
- 日経ビジネス 1996年4月8日
- [35]1996年4月1日の東京三菱発足の前日、米国でケミカル・バンキングとチェース・マンハッタンが合併。新チェースは全従業員の約16%、1万2000人程度の削減策を打ち出した
- [36]1996年4月1日の東京三菱発足の前日、米国でケミカル・バンキングとチェース・マンハッタンが合併。新チェースは全従業員の約16%、1万2000人程度の削減策を打ち出した
- [37]東京三菱は3年間で2000人の削減などの合理化策を匂わしているが非公式。新長期計画は1997年4月から
- [38]副頭取4席は旧三菱と旧東京で2人ずつ。旧三菱幹部は4分の3を望み、頭取のたすき掛け人事を恒久化しない意向
- 政治と経済 25(4) 1999年「公的資金見送り派――東京三菱銀行頭取 岸曉氏」
- [39]2000年度末までに行員を合併前の2万115人から1万7000人へ削減、国内店舗を328から282へ
- [44]大手行が資本注入を申請するなか、東京三菱は公的資金の申請を見送った。岸頭取は早期健全化法の趣旨は自主的努力とした
- [45]三菱グループ主要企業を引受先とする第三者割当増資2442億円と、丸の内本店・旧東京銀行本店の売却1006億円で自己資本を約4000億円増やす
- 日経ビジネス 1998年3月9日
- [40]岸曉は東京三菱銀行頭取・全銀協会長。東京三菱も大蔵省の金融検査官を接待した事実が判明したが、金融2法の実施に空白期間をつくれないとして会長を当面続投
- [41]岸曉は東京三菱銀行頭取・全銀協会長。東京三菱も大蔵省の金融検査官を接待した事実が判明したが、金融2法の実施に空白期間をつくれないとして会長を当面続投
- [42]公務員・みなし公務員の接待を全面禁止し、聞きたいことは日中に聞きに行くとした
- 日経ビジネス 1997年12月15日
- [43]東京三菱は不良債権比率が低いうえ、1997年9月中間期に約1兆1000億円の不良債権引当を実施
- ビジネス・インテリジェンス 14(1) 2000年1月「"次"は東京三菱と三和?カギ握る伊夫伎、渡辺、佐伯」
- [46]興銀・一勧・富士の3行統合と住友・さくらの合併合意の後、大型再編に加わっていない東京三菱と三和の合併・統合が注目された。岸頭取は「規模を追求するよりも、銀行の質と業務のスピードアップを図る」と周辺に語った
- [47]興銀・一勧・富士の3行統合と住友・さくらの合併合意の後、大型再編に加わっていない東京三菱と三和の合併・統合が注目された。岸頭取は「規模を追求するよりも、銀行の質と業務のスピードアップを図る」と周辺に語った
- 財界人 13(7) 2000年5月「何があったか動かざる巨艦東京三菱の身内統合」
- [48]他の都銀が合従連衡するなかで、東京三菱は交渉中の三和銀行に逃げられたと評された
- 財政金融ジャーナル 40(5) 2000年5月「東京三菱、三菱信託が事業統合 日本、東京加え三信託は合併へ」
- [49]都銀3グループの誕生で、それまでトップだった東京三菱は一挙に4位に転落することになり新戦略を探っていた。三菱信託も信託業界の再編で戦略を模索。都銀と信託の垣根を越えた統合
- 三菱UFJフィナンシャル・グループ 有価証券報告書(2025年3月期)「沿革」
- [50]2000年4月、東京三菱銀行・三菱信託銀行・日本信託銀行が持株会社設立による経営統合に基本合意(2000年7月に三和・東海・東洋信託も基本合意)。2001年4月、株式移転で三菱東京フィナンシャル・グループを設立
出典・参考
23件
- 三菱UFJフィナンシャル・グループ 有価証券報告書(2025年3月期)「沿革」
- 日本会社史総覧(東洋経済新報社、1995年)「三菱銀行」
- 日経ビジネス 1983年11月14日
- 財政金融ジャーナル 1986年「本部組織を改組しユニバーサル・バンキングに徹する三菱銀行」
- 日経ビジネス 1987年4月13日
- 日経ビジネス 1989年12月4日
- 日経ビジネス 1989年7月31日
- 日経ビジネス 1990年7月16日
- 日経ビジネス 1992年8月3日
- 証券アナリストジャーナル 1994年
- 日経ビジネス 1995年9月4日
- 日経ビジネス 1995年4月10日
- 日経ビジネス 1996年4月8日
- 日経ビジネス 1997年12月15日
- 日経ビジネス 1998年3月9日
- 財政金融ジャーナル 40(5) 2000年5月「東京三菱、三菱信託が事業統合 日本、東京加え三信託は合併へ」
- Decide 1987年
- Decide 1989年
- 金融財政事情 43(18) 1992年 若井恒雄
- Decide 1994年
- 政治と経済 25(4) 1999年「公的資金見送り派――東京三菱銀行頭取 岸曉氏」
- ビジネス・インテリジェンス 14(1) 2000年1月「"次"は東京三菱と三和?カギ握る伊夫伎、渡辺、佐伯」
- 財界人 13(7) 2000年5月「何があったか動かざる巨艦東京三菱の身内統合」