1962年 日本警備保障株式会社を創業
酒問屋「岡永」三男の29歳・飯田亮が、学習院友人の戸田壽一と1962年7月に東京都渋谷区桜丘町で日本警備保障を設立、「安全はタダ」の日本に民間警備業を持ち込んだ。1964年東京オリンピック選手村警備の単独受注で信用を獲得、1966年に日本初の機械警備「SPアラーム」へ転じた。
創業〜設立から上場前後までどのようにして経営を軌道に乗せたのか?
- 飯田亮は1933年に東京赤坂の酒問屋「岡永」の三男として生まれ、学習院大学政経学部卒業後に家業へ入ったが、家業継承を望まず前金で代金が取れる業態として民間警備という未開拓市場へ着目した。1962年7月7日、学習院時代の友人・戸田壽一とともに資本金600万円・社員5名で東京都渋谷区桜丘町25番地に日本警備保障株式会社を設立し、二人とも29歳での創業となった。
- 創業初年度は「安全はタダ」の日本社会で法人顧客の開拓に難航し、売上はごく小さい水準にとどまった。転機は1964年10月の東京オリンピックで、選手村と一部会場の警備を単独で受注した実績が民間警備の社会的認知を一気に広げ、1965年末には法人からの警戒注文が殺到し、人手による巡回警備では捌ききれない需要が現れた。
- 飯田は1966年6月に日本初のオンライン安全システム「SPアラーム」を発売、巡回警備からセンサー+通信+監視センターの機械警備モデルへ主力を切り替えた。1968年府中3億円事件の批判のなかで「無人警備以外の注文をとるな」と社内に指示を出して機械警備一本に賭けを通し、1974年6月に東京証券取引所市場第二部へ上場、全国250カ所の警報基地・従業員3,300人・売上110億円規模の量産警備メーカーへと十数年で組織を膨らませた。
「安全はタダ」とされた日本社会で民間警備業を立ち上げ、東京オリンピック警備を機に需要急増が見えると、1966年に巡回警備から機械警備モデルへ転換、府中3億円事件の批判下でも『無人警備以外の注文をとるな』と機械警備一本へ賭けを通した。
1962年7月に資本金600万円で発足、1972年12月に株式額面変更を目的にエスピーアラームシステムズと合併し形式上の存続会社化、1974年6月に東京証券取引所市場第二部へ上場して機械警備拡大の調達基盤を整え、1978年5月に東証一部指定へ進んだ。
創業時は人手による巡回・常駐警備サービスから出発、1966年6月に日本初のオンライン安全システム『SPアラーム』を発売してセンサー+通信+監視センター型の機械警備モデルを確立、1975年3月には世界初のコンピュータ安全システム『CSS』へ発展させた。
創業時は法人顧客の開拓に難航したが、1964年東京オリンピック選手村警備の単独受注で社会的信用を獲得、1965年末には法人からの警戒注文が殺到、SPアラーム発売後は学校・銀行・店舗の夜間無人時間警備を中心とする法人ストック顧客基盤を形成した。
1962年7月の創業時は飯田・戸田を含む5名体制、1965年の警戒注文殺到と1966年のSPアラーム発売を経て急拡大し、1974年時点で従業員3,300人、12年で660倍に膨らんで人手依存からの離脱を支える組織規模へ到達した。
創業地は東京都渋谷区桜丘町25番地の小規模事務所、1966年のSPアラーム発売後はセンサーと専用通信網・監視センターという機械警備インフラへ投資の重心を移し、1974年時点で全国250カ所に警報基地を展開する拠点網へ拡大した。
セコム 創業地の主な拠点一都三県 の地理(日本警備保障株式会社 本社 → SPアラーム監視センター)
創業時のエピソード人物・ブランド・資金調達の細部
| 1961〜1962年 なぜ酒問屋の三男・飯田亮が家業を継がず警備業で独立したのか? | 江戸期から続く赤坂の酒問屋「岡永」の三男であった飯田は家業継承を望まず、前金で代金が取れる業態を条件に独立先を探した結果、当時の日本に存在しなかった民間警備という業態へ行き着いた。 飯田亮は1933年に東京赤坂の酒問屋「岡永」の三男として生まれ、学習院大学政経学部を卒業後、家業の岡永商店に入った。家業の酒問屋は得意先との掛売り・回収に時間を要する商習慣のなかにあり、現金回収の長期化に飯田は問題意識を持ったとされる。 飯田は後年「わたしが日本警備保障を設立した動機は、何も高邁なものはなく、何が何でも独立したいというガムシャラな独立心からである」(日経ビジネス 1973/8/6)と述懐している。家業を継がず、前金で代金を受け取れる業態を条件に独立先を探した結果、日本にまだ存在しなかった民間警備という未開拓の業態へ行き着き、学習院時代からの友人である戸田壽一を共同創業者に誘って二人で会社設立に踏み切った。 |
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| 1962年 なぜ「安全はタダ」と言われた日本で警備会社を起こせたのか? | 戦後日本では治安維持は警察の役割で「安全は無償」という社会通念が根強かった。飯田と戸田は欧米で広がっていた民間警備サービスの存在に着目し、官に依存しない安全提供という未開拓市場の存在を見立てて参入した。 日本警備保障の設立直前まで、日本社会には民間警備という業態そのものが存在しなかった。治安維持は警察が無償で担うべき公共サービスという通念が根強く、企業や施設が代金を払って安全を購入する発想は浸透していなかった。 飯田と戸田は欧米で既に民間警備会社が機能していた事例に着目し、官に頼り切れない法人施設の安全需要が日本にも潜在しているとの見立てを立てている。創業初年度は契約獲得に難航し、売上はごく小さい水準にとどまったが、二人は法人顧客への営業を地道に重ね、未開拓市場であるがゆえに先行者として参入する余地があると判断していた。 |
| 1964年10月 なぜ創業2年目の無名企業が東京オリンピック選手村警備を単独受注できたのか? | 警察力だけでは国際イベントの会場・選手村警備を担保しきれない実情があり、民間警備会社を活用する必要が出てきた。日本警備保障は当時ほぼ唯一の民間警備事業者であった事情から、単独で受注する形となった。 1964年10月の東京オリンピックでは、各国選手団が宿泊する選手村と一部会場の警備を日本警備保障が単独で受注した。創業からわずか2年、社員も小規模の無名企業による国家的イベントの警備受注である。 警察力だけでは国際イベントの会場・選手村警備を担保しきれないとの判断が組織委員会側にあったうえで、当時の日本でこれを請け負える民間警備会社がほぼ存在しなかったという事情も背景にあった。国際的な舞台での実績は民間警備の社会的認知を一気に広げ、創業期の信用形成の起点となった。翌1965年末には法人からの「警戒」注文が殺到し(読売新聞 1965/12/23)、人手による巡回警備では捌ききれない需要が見え始めた。 |
| 1966年6月 なぜ1966年に機械警備(SPアラーム)へ舵を切ったのか? | オリンピック後の警戒注文殺到で人手による巡回警備の限界が見え、警備員を増やしても需要拡大に追いつかないと判断した飯田が、センサーと通信回線で異常を監視センターへ送る仕組みへの転換を決断した。 1964年の東京オリンピック警備以降、法人からの警戒注文は急増したが、巡回警備は警備員を増やすほど人件費が膨らみ、需要拡大に追いつけない構造を抱えていた。飯田はこの課題への回答として、1966年6月に日本初のオンライン安全システム「SPアラーム」を開発・発売している。 センサーが施設の異常を検知し、通信回線で監視センターへ通報、駆けつけ要員が現場へ向かう仕組みで、巡回警備で膨らむ人件費を抑えつつ契約数を伸ばせる構造を生んだ。学校・銀行・店舗など夜間の無人時間が長い施設が初期の主要顧客となり、月額の利用料を継続的に受け取るストック収益型の事業形態が、後のセコムの収益モデルの原型を成した。 |
| 1968〜1969年 なぜ府中3億円事件の批判のなかで「無人警備」へ賭けを通したのか? | 1968年12月の府中3億円事件で無人警備では犯行を防げないという批判が一部から出たが、飯田は人件費依存からの脱却こそ警備業の産業化に必要と判断し、1969年に「今後は無人警備以外の注文をとるな」と社内へ指示を出した。 1968年12月、東京府中市で現金輸送車から3億円が奪われる事件が発生し、日本警備保障が運営に関与していた現場でもあったため、無人警備への批判が一部から出た。飯田は批判を受けつつも機械警備への確信を強め、1969年に「今後は無人警備以外の注文をとるな」(読売新聞 1969/4/8)と社内へ指示を出している。 ガードマン主体の常駐・巡回警備から離れ、センサー網と監視センターによる集中管理を主力に据えるとの判断で、創業から7年で経営モデルそのものを切り替える賭けでもあった。この決断が機械警備モデルへの傾斜を決定づけ、1974年時点で全国250カ所に警報基地、従業員3,300人、年間売上110億円・経常利益11億円という年30%超の成長率を支える構造をつくった(読売新聞 1974/10/2)。 |
歴史的証言当事者が何を考えていたか。その思想について
創業から11年目に、家業の酒問屋から離れて民間警備という未開拓業態を選んだ動機を振り返った発言
「わたしが日本警備保障を設立した動機は、何も高邁なものはなく、何が何でも独立したいというガムシャラな独立心からである」
1968年12月の府中3億円事件で無人警備への批判が出るなか、機械警備一本へ賭けを通すために社内へ出した指示
「今後は無人警備以外の注文をとるな」
府中3億円事件の現場対応で日本警備保障の若手警備員が犯人と格闘した状況を伝えた記事
「犯人と最初に格闘した日本警備保障会社の中谷利美さん(23)は、まだ入社してわずか4ヶ月目」
創業12年目の日本警備保障の規模と成長率を伝えた記事、5名体制から3,300人体制への660倍の組織膨張を示す
「この会社は、犯罪、災害、火災などに対する「安全」を売り物にしている警備会社である。1962年、わずか5にのメンバーで、巡回専門のガードマン会社としてスタートしたが、東京オリンピックや大阪万国博の警備を担当してからは、年間30%を超える、ソニーも顔負けの急成長ぶりで、いまでは全国250か所に警報基地を持ち、従業員3300人。年間売り上げ110億円、経常利益11億円の優良会社にのしあがった」
1974年時点で同社が機械警備モデルにより人手依存から離脱した収益構造を獲得していたことを伝えた記事
「人手をできるだけはぶき、機械による警備に重点をおいたところに、その発展の秘密があるようだ」
参考文献
- 日経ビジネス 1973/8/6「10年で新産業樹立した日本警備保障の飯田社長」
- 有価証券報告書
- 読売新聞 1965/12/23「『警戒』注文が殺到・ガードマン会社歳末繁盛記」
- 読売新聞 1969/4/8「『金色の凶弾』なお17発」
- 読売新聞 1974/10/2「『不安時代』を稼ぐ『不安産業』」
- 日経ビジネス 1973/8/6
- 読売新聞 1969/4/8
- 読売新聞 1974/10/2