第3章 年〜年

ANAホールディングス:国際定期便への参入とボーイング777の導入

1986年〜グアム線で始めた国際定期便と、初の生え抜き社長・近藤秋男氏

全日本空輸は1986年3月、東京-グアム線で初めての国際定期便を開設した。同年7月16日には成田からロサンゼルス線を、26日にはワシントン線を就航させた。ワシントンは日本からの直行便がなかった都市で、開設直後は空席が目立ったものの、1990年には通年の利用率が75%に達した。社長の中村大造氏は1986年12月、国際線は世界全体を対象にすると述べる一方、当分は国内線で稼いだ余力で運営すると説明した。中村大造氏は、国内では日本航空を追う立場から追われる立場に変わったとも述べ、組織の整備を課題に挙げた。近距離のグアムから入り、日本航空の飛んでいない都市を選んだのは、国内線の利益で吸収できる範囲に国際線の赤字を抑える判断だったとみられる。

  • ANAホールディングス 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
    • [1]1986年3月 国際定期便の運航を開始(東京-グアム)
  • Decide 1986年8月号
    • [2]1986年7月16日に成田-ロサンゼルス線、26日に成田-ワシントン線の第1番機が就航
  • 日経ビジネス 1990年6月11日号
    • [3]ワシントン線は1986年7月開設。日本から直行便のなかった路線で、当初は空席が目立ったが1990年時点で通年利用率75%
  • 日経ビジネス 1986年12月8日号
    • [4]中村大造社長は国際線をワールドワイドに展開するとしつつ、当分は国内線で稼いだ余力で国際線を運営すると説明(1986年12月)
    • [5]中村大造社長は国内では追われる立場になったとし、組織の整備が必要と述べた(1986年12月)

1987年5月、副社長の近藤秋男氏が社長に就任した。前社長の中村大造氏が急逝したためで、日本ヘリコプター輸送に入社した近藤秋男氏は、全日本空輸で初めての生え抜き社長となった。初代の美土路昌一氏から中村大造氏まで、歴代の社長は社外から迎えた人物だった。近藤秋男氏は1989年10月、国際線進出後の3年間で社員に大企業意識が芽生え、サービスの姿勢が緩むことを警戒していると語った。1988年11月には企業体質改善委員会を設け、社員の意識と業務の改革に着手していた。国際線の後発として実績のある海外の航空会社と競うには、規模の拡大に社内の意識が追いつくことを先に整える必要があったのだろう。

  • Decide 1989年
    • [6]近藤秋男氏は1983年に副社長、1987年5月に社長に就任
    • [7]中村大造社長の急逝で近藤秋男氏が社長に就任。日本ヘリコプター輸送入社の全日空初の生え抜き社長
    • [8]初代社長の美土路昌一氏から中村大造氏まで、歴代社長は社外から迎えた人物だった
  • 日経ビジネス 1989年10月23日号
    • [9]近藤秋男社長は国際線進出後3年で社員に大企業意識が芽生え、サービス精神が損なわれることを警戒(1989年10月)
    • [10]1988年11月に企業体質改善委員会を発足させ、意識改革・業務改革に着手

1988年、日本航空と東日本旅客鉄道(JR東日本)は提携することで一致した。国際線中心の日本航空と東京以北の鉄道を営むJR東日本は、互いの市場が重ならない組み合わせだった。JR東日本社長の住田正二氏は、かつて社長含みの顧問として全日本空輸に入り、経営方針の対立から10カ月で退社した経歴を持っていた。国内線では規制緩和を受け、日本航空と日本エアシステムが全日本空輸の路線に参入していた。社長の近藤秋男氏は1989年10月、国内でも守りに回るのではなく、積極的に前へ出る姿勢を社員に求めた。1993年時点でも、全日本空輸は国内線で得た利益を国際線で費やす構図を抜け出せていなかった。

  • Decide 1988年
    • [11]1988年 日本航空とJR東日本が提携で一致
    • [12]日航は海外、JR東日本は国内(東京以北)で市場が競合しない組み合わせ
    • [13]住田正二JR東日本社長は運輸次官退官後に社長含みの顧問として全日空入りし、若狭得治会長と経営方針で対立して10カ月で退社
  • 日経ビジネス 1989年10月23日号
    • [14]国内では規制緩和と競争促進で日本航空・日本エアシステムが全日空の路線に参入(1989年10月時点)
    • [15]近藤秋男社長は国内でも守る立場ではなく積極的に前に進む姿勢が必要と述べた(1989年10月)
  • Decide 1993年
    • [16]全日空は国内線で稼いだ利益を国際線で費消する構図が続いた(1993年時点)
参考文献[1]-[16]
  • ANAホールディングス 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
    • [1]1986年3月 国際定期便の運航を開始(東京-グアム)
  • Decide 1986年8月号
    • [2]1986年7月16日に成田-ロサンゼルス線、26日に成田-ワシントン線の第1番機が就航
  • 日経ビジネス 1990年6月11日号
    • [3]ワシントン線は1986年7月開設。日本から直行便のなかった路線で、当初は空席が目立ったが1990年時点で通年利用率75%
  • 日経ビジネス 1986年12月8日号
    • [4]中村大造社長は国際線をワールドワイドに展開するとしつつ、当分は国内線で稼いだ余力で国際線を運営すると説明(1986年12月)
    • [5]中村大造社長は国内では追われる立場になったとし、組織の整備が必要と述べた(1986年12月)
  • Decide 1989年
    • [6]近藤秋男氏は1983年に副社長、1987年5月に社長に就任
    • [7]中村大造社長の急逝で近藤秋男氏が社長に就任。日本ヘリコプター輸送入社の全日空初の生え抜き社長
    • [8]初代社長の美土路昌一氏から中村大造氏まで、歴代社長は社外から迎えた人物だった
  • 日経ビジネス 1989年10月23日号
    • [9]近藤秋男社長は国際線進出後3年で社員に大企業意識が芽生え、サービス精神が損なわれることを警戒(1989年10月)
    • [10]1988年11月に企業体質改善委員会を発足させ、意識改革・業務改革に着手
    • [14]国内では規制緩和と競争促進で日本航空・日本エアシステムが全日空の路線に参入(1989年10月時点)
    • [15]近藤秋男社長は国内でも守る立場ではなく積極的に前に進む姿勢が必要と述べた(1989年10月)
  • Decide 1988年
    • [11]1988年 日本航空とJR東日本が提携で一致
    • [12]日航は海外、JR東日本は国内(東京以北)で市場が競合しない組み合わせ
    • [13]住田正二JR東日本社長は運輸次官退官後に社長含みの顧問として全日空入りし、若狭得治会長と経営方針で対立して10カ月で退社
  • Decide 1993年
    • [16]全日空は国内線で稼いだ利益を国際線で費消する構図が続いた(1993年時点)

1990年〜外国人乗員で費用を抑えたワールドエアーネットワークと、国際線の赤字

1990年6月、全日本空輸はワールドエアーネットワークを設立した。国際チャーター便を専門に運航する会社で、運航基地を東南アジアに置き、乗員は一部を除いて外国人を採用する方針をとった。チャーター便の運賃は正規の約6割で、日本人乗員を充てると採算割れになるため、取締役の吉川謙三氏は費用削減を最大の動機に挙げた。同じ1990年、全日本空輸は福岡-バンコク線で当面の赤字を問わず単独運航を打ち出し、日本航空との調整の末に路線を得た。全日本空輸は、ワシントン線を2〜3割の利用率から黒字にした実績を根拠に挙げていた。赤字を抱えた国際線を広げ続けるには、乗員の人件費を本体の水準から切り離す仕組みが要ると判断したと思われる。

  • ANAホールディングス 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
    • [17]1990年6月 ワールドエアーネットワーク株式会社(現・株式会社エアージャパン)設立
  • 日経ビジネス 1990年8月27日号
    • [18]ワールドエアネットワークは国際チャーター便専門会社。運航基地を東南アジアに置き、乗員は一部を除き外国人を採用する方針
    • [19]チャーター運賃は正規の約6割で日本人乗員では採算割れ。吉川謙三取締役(経営企画担当)はコスト削減が最大の動機と説明
  • 日経ビジネス 1990年9月17日号
    • [20]福岡-バンコク線で全日空は当面の赤字にこだわらず単独運航を打ち出し、日航との争いで路線を得た(1990年9月)
    • [21]全日空は米ワシントン線を2〜3割の利用者から黒字化させた実績を挙げた

全日本空輸は1989年7月、オーストリア航空との共同運航で東京-ウィーン線を開設した。直後に東欧の民主化が進み、1990年春にはオーストリア航空への出資比率を3.5%から9%に引き上げた。一方、1990年の日米路線の配分で全日本空輸はニューヨークとホノルルの2路線を求めたが、認められたのはニューヨーク線だけだった。1990年10月、全日本空輸は長期経営計画「2000年ビジョン」を策定した。専務の伊地知尚氏は、3大空港の完成で発着容量が倍近くに増えれば、日本航空の後を追うだけでは存続できないと説明した。1991年1〜2月には、全社員1万2682人から選んだ567人を研修し、職種を越えて課題を議論させる運動を始めた。

  • 日経ビジネス 1990年6月11日号
    • [22]1989年7月 オーストリア航空との共同運航で東京-ウィーン線を開設(モスクワ経由・週2便)
    • [23]東欧民主化を受け、1990年春にオーストリア航空への出資比率を3.5%から9%に引き上げ
  • Decide 1990年
    • [24]1990年の日米路線配分で全日空はニューヨーク・ホノルルの2路線を狙ったが、ニューヨーク線のみ認められた
  • 日経ビジネス 1991年9月30日号
    • [25]1990年10月 長期経営計画「2000年ビジョン」を策定
    • [26]伊地知尚専務:3大空港プロジェクト完成で発着容量が2倍近くになり、日航の後追いでは生き残れないと説明
    • [27]1991年1〜2月 全社員1万2682人から推進役567人を選んで研修し、職場横断の「ファースト・チョイス・プログラム」を開始

1993年6月、専務の普勝清治氏が社長に就任した。就任時には名古屋-ホノルル線の運休や成田-ワシントン線の減便など、国際線の縮小がすでに始まっていた。普勝清治氏は1993年を仕事を見切る年と定め、同年9月に社長直轄の緊急構造改革会議を設けた。1994年1月の構造改革プランでは、間接部門を2割縮め、1995年度末までに約1万5000人の人員を1割減らす目標を掲げた。日本の人件費は米国の1.8〜2倍で、747-400の年間飛行時間は米国の約5000時間に対し約2500時間だった。過去の不況は1年半から2年で回復したが、普勝清治氏は今回の不況は同じ経過をたどらないとみていた。

  • Decide 1993年
    • [28]1993年6月末 普勝清治専務が社長に昇格。日本ヘリコプター輸送入社の生え抜き
    • [29]名古屋-ホノルル線の運休、成田-ワシントン線の減便など国際線のリストラに着手済み(1993年)
  • 日経ビジネス 1994年4月18日号
    • [30]普勝清治社長は1993年を「見切りの年」とし、同年9月に社長直轄の緊急構造改革会議を設置
    • [31]1994年1月の構造改革プラン:間接部門の2割スリム化、1995年度末までに1万5000人規模の人員を1割削減
    • [32]日本の人件費は米国の1.8〜2倍、747-400の年間飛行時間は米国航空会社5000時間に対し全日空2500時間
    • [33]過去の不況は1年半〜2年で回復したが、今回は議論の間に乗り切れる不況ではないと普勝社長は述べた
参考文献[17]-[33]
  • ANAホールディングス 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
    • [17]1990年6月 ワールドエアーネットワーク株式会社(現・株式会社エアージャパン)設立
  • 日経ビジネス 1990年8月27日号
    • [18]ワールドエアネットワークは国際チャーター便専門会社。運航基地を東南アジアに置き、乗員は一部を除き外国人を採用する方針
    • [19]チャーター運賃は正規の約6割で日本人乗員では採算割れ。吉川謙三取締役(経営企画担当)はコスト削減が最大の動機と説明
  • 日経ビジネス 1990年9月17日号
    • [20]福岡-バンコク線で全日空は当面の赤字にこだわらず単独運航を打ち出し、日航との争いで路線を得た(1990年9月)
    • [21]全日空は米ワシントン線を2〜3割の利用者から黒字化させた実績を挙げた
  • 日経ビジネス 1990年6月11日号
    • [22]1989年7月 オーストリア航空との共同運航で東京-ウィーン線を開設(モスクワ経由・週2便)
    • [23]東欧民主化を受け、1990年春にオーストリア航空への出資比率を3.5%から9%に引き上げ
  • Decide 1990年
    • [24]1990年の日米路線配分で全日空はニューヨーク・ホノルルの2路線を狙ったが、ニューヨーク線のみ認められた
  • 日経ビジネス 1991年9月30日号
    • [25]1990年10月 長期経営計画「2000年ビジョン」を策定
    • [26]伊地知尚専務:3大空港プロジェクト完成で発着容量が2倍近くになり、日航の後追いでは生き残れないと説明
    • [27]1991年1〜2月 全社員1万2682人から推進役567人を選んで研修し、職場横断の「ファースト・チョイス・プログラム」を開始
  • Decide 1993年
    • [28]1993年6月末 普勝清治専務が社長に昇格。日本ヘリコプター輸送入社の生え抜き
    • [29]名古屋-ホノルル線の運休、成田-ワシントン線の減便など国際線のリストラに着手済み(1993年)
  • 日経ビジネス 1994年4月18日号
    • [30]普勝清治社長は1993年を「見切りの年」とし、同年9月に社長直轄の緊急構造改革会議を設置
    • [31]1994年1月の構造改革プラン:間接部門の2割スリム化、1995年度末までに1万5000人規模の人員を1割削減
    • [32]日本の人件費は米国の1.8〜2倍、747-400の年間飛行時間は米国航空会社5000時間に対し全日空2500時間
    • [33]過去の不況は1年半〜2年で回復したが、今回は議論の間に乗り切れる不況ではないと普勝社長は述べた

1995年〜ボーイング777と幅運賃で固めた国内線と、若狭得治氏が差し戻した普勝清治氏の役員人事

全日本空輸は1995年12月、ボーイング777型機を導入した。1996年時点で、全日本空輸は国内線の供給力の51%を占めていた。1社だけが運航する独占路線の旅客数は、日本航空の年間71万人に対し全日本空輸は632万人だった。運輸省の研究会がまとめた新運賃制度は、標準原価を上限に25%下までの範囲で各社が運賃を決める仕組みだった。国際線では1994年にビジネスクラスの座席間隔を50インチに広げ、1996年にはファーストクラスへフルフラットシートを入れた。1997年1月の経営者調査では、北米線と欧州線でいずれも日本航空を上回る首位となった。便数と独占路線で差を持つ国内線が、運賃の自由度が広がるほど全日本空輸の収益源として厚みを増す構図だったと考えられる。

  • ANAホールディングス 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
    • [34]1995年12月 ボーイング777型機導入
  • Decide 1996年
    • [35]全日空は国内線の供給力で51%のシェアを占める(1996年時点)
    • [36]独占路線の旅客数は日航71万人(年間)に対し全日空632万人
    • [37]運輸省航空運賃制度研究会の新制度:標準原価を最高額とし、25%低い範囲内で各社が自由に運賃を設定
  • 日経ビジネス 1997年1月6日号
    • [38]1994年にビジネスクラスのシート間隔を50インチに拡大、1996年にファーストクラスへフルフラットシートを導入
    • [39]1997年1月の経営者評価のエアラインランキングで北米向け・欧州向けとも全日空が首位

1997年6月、専務の野村吉三郎氏が社長に就任した。名誉会長の若狭得治氏は1993年に普勝清治氏を社長に登用した際、3期目に次期社長候補を副社長に置くよう求めていた。普勝清治氏が後継候補を挙げないなか、会長の杉浦喬也氏は野村吉三郎氏と吉川謙三氏を副社長とする案を示した。普勝清治氏は複数副社長制と、若狭得治氏の側近である専務の飯島光雄氏の留任に反対し、社長を退くと伝えた。全日本空輸は5月13日に吉川謙三氏の社長就任を発表したが、29日に野村吉三郎氏の社長就任を発表し直した。若狭得治氏は名誉会長を、杉浦喬也氏は会長を退任し、普勝清治氏を含む3人は相談役に移った。

  • 日経ビジネス 1998年9月7日号
    • [40]野村吉三郎氏は1997年6月に全日本空輸社長に就任(前職は専務・東京支店長)
  • 日経ビジネス 1997年6月30日号
    • [41]若狭得治氏は4年前に普勝清治氏を社長にする際、3期目に次期社長を副社長にするよう求めたと説明
    • [44]1997年5月13日に吉川謙三氏の社長就任を発表、29日に杉浦氏の会長退任と野村吉三郎氏の社長就任を発表
  • Decide 1997年
    • [42]普勝社長が後継候補を指名しないなか、杉浦喬也会長の人事案は吉川謙三・全日空ビルディング社長と野村吉三郎専務を副社長とした
    • [45]若狭得治名誉会長・杉浦喬也会長・普勝清治社長はいずれも退任し、相談役に就任
  • 日経ビジネス 1997年5月26日号
    • [43]普勝社長は「副社長は不要」とし、若狭氏側近の飯島光雄専務の留任や複数副社長制に反対した

全日本空輸は1998年3月期に32億円の当期赤字を計上し、30年ぶりに無配となった。それまで航空機の売却益で利益を確保してきたが、売却できる機材は2機しか残っていなかった。社長の野村吉三郎氏は3年間の再建計画で、社員1000人の削減と人件費の年間100億円圧縮を掲げた。乗務の有無にかかわらず月65時間分を保障する手当の見直しをめぐり、乗員組合は1998年4月にストライキに入り、損害は40億円を超えた。国際線は開設以来赤字が続き、黒字の国内線がその負担を負っていた。全日本空輸はユナイテッド航空やルフトハンザと共同運航で提携していた。国内線の利益で国際線を支える構図が限界に近づき、単独で国際線網を維持する前提そのものが問われる段階に入ったと推察される。

  • Decide 1998年
    • [46]1998年3月期 32億円の当期赤字を計上し30年ぶりに無配に転落
    • [48]3年間の再建計画:社員1000人削減、ベア中止、投融資1200億円圧縮、人件費を年間100億円圧縮
    • [50]全日空の国際線は開設以来赤字が続き、黒字の国内線に負担がかかる構造(1998年)
    • [51]全日空はユナイテッド航空、ルフトハンザ航空とコードシェアで提携(1998年)
  • 日経ビジネス 1998年4月13日号
    • [47]これまで航空機の売却代金で黒字を確保してきたが、売却できる機材は2機しかなかった(1998年4月)
  • 日経ビジネス 1998年9月7日号
    • [49]月65時間分の飛行手当保障の見直しをめぐり乗員組合が10年ぶりのストライキに入り、40億円超の損害
参考文献[34]-[51]
  • ANAホールディングス 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
    • [34]1995年12月 ボーイング777型機導入
  • Decide 1996年
    • [35]全日空は国内線の供給力で51%のシェアを占める(1996年時点)
    • [36]独占路線の旅客数は日航71万人(年間)に対し全日空632万人
    • [37]運輸省航空運賃制度研究会の新制度:標準原価を最高額とし、25%低い範囲内で各社が自由に運賃を設定
  • 日経ビジネス 1997年1月6日号
    • [38]1994年にビジネスクラスのシート間隔を50インチに拡大、1996年にファーストクラスへフルフラットシートを導入
    • [39]1997年1月の経営者評価のエアラインランキングで北米向け・欧州向けとも全日空が首位
  • 日経ビジネス 1998年9月7日号
    • [40]野村吉三郎氏は1997年6月に全日本空輸社長に就任(前職は専務・東京支店長)
    • [49]月65時間分の飛行手当保障の見直しをめぐり乗員組合が10年ぶりのストライキに入り、40億円超の損害
  • 日経ビジネス 1997年6月30日号
    • [41]若狭得治氏は4年前に普勝清治氏を社長にする際、3期目に次期社長を副社長にするよう求めたと説明
    • [44]1997年5月13日に吉川謙三氏の社長就任を発表、29日に杉浦氏の会長退任と野村吉三郎氏の社長就任を発表
  • Decide 1997年
    • [42]普勝社長が後継候補を指名しないなか、杉浦喬也会長の人事案は吉川謙三・全日空ビルディング社長と野村吉三郎専務を副社長とした
    • [45]若狭得治名誉会長・杉浦喬也会長・普勝清治社長はいずれも退任し、相談役に就任
  • 日経ビジネス 1997年5月26日号
    • [43]普勝社長は「副社長は不要」とし、若狭氏側近の飯島光雄専務の留任や複数副社長制に反対した
  • Decide 1998年
    • [46]1998年3月期 32億円の当期赤字を計上し30年ぶりに無配に転落
    • [48]3年間の再建計画:社員1000人削減、ベア中止、投融資1200億円圧縮、人件費を年間100億円圧縮
    • [50]全日空の国際線は開設以来赤字が続き、黒字の国内線に負担がかかる構造(1998年)
    • [51]全日空はユナイテッド航空、ルフトハンザ航空とコードシェアで提携(1998年)
  • 日経ビジネス 1998年4月13日号
    • [47]これまで航空機の売却代金で黒字を確保してきたが、売却できる機材は2機しかなかった(1998年4月)

1986年〜1998年の業績

決算期 区分 売上高 経常利益純利益 主な投資
億円 YoY 億円 億円 利益率
1986年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1987年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1988年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1989年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1990年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1991年03月期 単体 n/a n/a n/a n/a n/a n/a
1992年03月期 連結 8,751 n/a 231 74 0.8% n/a
1993年03月期 連結 8,888 +1.6% 114 ▲12 ▲0.1% n/a
1994年03月期 連結 8,572 ▲3.6% ▲51 ▲94 ▲1.1% n/a
1995年03月期 連結 9,142 +6.6% ▲60 ▲75 ▲0.8% n/a
1996年03月期 連結 9,673 +5.8% 78 ▲86 ▲0.9% n/a
1997年03月期 連結 10,217 +5.6% 157 43 0.4% n/a
1998年03月期 連結 10,805 +5.8% 2 ▲54 ▲0.5% n/a

出所:会社年鑑

出典・参考

21件
出典・参考
  • ANAホールディングス 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
  • Decide 1986年8月号
  • 日経ビジネス 1986年12月8日号
  • 日経ビジネス 1989年10月23日号
  • 日経ビジネス 1990年6月11日号
  • 日経ビジネス 1990年8月27日号
  • 日経ビジネス 1990年9月17日号
  • 日経ビジネス 1991年9月30日号
  • 日経ビジネス 1994年4月18日号
  • 日経ビジネス 1997年1月6日号
  • 日経ビジネス 1997年6月30日号
  • 日経ビジネス 1997年5月26日号
  • 日経ビジネス 1998年9月7日号
  • 日経ビジネス 1998年4月13日号
  • Decide 1988年
  • Decide 1989年
  • Decide 1990年
  • Decide 1993年
  • Decide 1996年
  • Decide 1997年
  • Decide 1998年

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