青山商事:専売公社出身の4人による創業と郊外立地への転換
1964年〜専売公社を辞めた青山五郎氏が弟らと府中市の自宅1階で開いた洋服屋と、紳士服以外からの撤退
青山五郎氏は1949年4月に日本専売公社へ入社し、府中支局の経理課でたばこの葉の平均単価を算出する業務に携わった。30歳になったら事業を起こすと考えていた青山五郎氏は、34歳で同公社を退職した。青山五郎氏は1964年5月6日に広島県府中市で青山商事を設立し、社長に就任。創業メンバーは青山五郎氏と実弟、妻の弟2人の計4人で、専売公社の出身者は青山五郎氏1人である。店舗は青山五郎氏の自宅1階を使った10坪ほどの洋服店で、並行して東京の百貨店やストアに広島県の特産食品を卸した。扱う品目に衣料を選んだ理由は、のちに専務となる創業メンバーが紳士服の関連業界に勤めていた経験にあった。
- 日経ビジネス 1994年1月31日号〈挑む〉青山五郎氏
- [1]青山五郎氏は1949年4月に日本専売公社に入社し、府中支局経理課でたばこ葉などの平均単価を出す仕事をした
- [3]1964年5月に専売公社を退社し青山商事を設立、社長に就任(34歳)。設立日1964年5月6日は証券アナリストジャーナル1987年
- 日経ビジネス 1984年11月26日号
- [2]青山五郎氏は30歳になったら事業をしようと考えていた
- 証券アナリストジャーナル 25(12) 1987年 青山五郎
- [4]創業者は青山五郎氏、その弟、妻の弟2人の4人
- [5]創業時は自宅1階で約10坪の洋服店を営み、広島県特産の食料品を東京の百貨店・ストアへ卸した
- [6]衣料品を選んだのは現専務が紳士服関連業界にいたため
青山商事は1967年10月、食料品・婦人服・呉服から撤退し、紳士服一本の洋服店に転じた。初年度にあたる1965年3月期の年商は、婦人服や呉服を合わせても2,300万円。青山五郎氏は撤退の理由を、紳士服以外の部門では採算が取れなかったためと説明した。一方で青山五郎氏は紳士服に絞った理由を『当時のスーツは、工員の給料の何倍もして、普通の人には手が出なかった。安くする方法を考えれば、売れるとみた』と振り返り、その根拠は価格を下げれば需要を掘り起こせるという判断にある。青山五郎氏は背広を嗜好品でなく給料の余りで購入できる消耗品と位置づけ、その価格を3万円台と見積もった。 採算の合わない部門を整理し、値下げの余地が大きい紳士服に経営資源を集中した判断だったと考えられる。
- 証券アナリストジャーナル 25(12) 1987年 青山五郎
- [7]1967年10月に紳士服一本に絞り、紳士服以外のすべての部門から撤退した
- [8]初年度(1965年3月期)の年商は婦人服・呉服等すべてで2,300万円
- [9]撤退は紳士服以外が採算に合わなかったため
- [11]1964年頃から背広は嗜好品でなく消耗品であり、給料の残りで買える3万円台と考えた
- 日経ビジネス 1994年1月31日号〈挑む〉青山五郎氏
- [10]扱い品を洋服に絞ったのは、当時のスーツが工員の給料の何倍もし、安くすれば売れるとみたため
参考文献[1]-[11]
- 日経ビジネス 1994年1月31日号〈挑む〉青山五郎氏
- [1]青山五郎氏は1949年4月に日本専売公社に入社し、府中支局経理課でたばこ葉などの平均単価を出す仕事をした
- [3]1964年5月に専売公社を退社し青山商事を設立、社長に就任(34歳)。設立日1964年5月6日は証券アナリストジャーナル1987年
- [10]扱い品を洋服に絞ったのは、当時のスーツが工員の給料の何倍もし、安くすれば売れるとみたため
- 日経ビジネス 1984年11月26日号
- [2]青山五郎氏は30歳になったら事業をしようと考えていた
- 証券アナリストジャーナル 25(12) 1987年 青山五郎
- [4]創業者は青山五郎氏、その弟、妻の弟2人の4人
- [5]創業時は自宅1階で約10坪の洋服店を営み、広島県特産の食料品を東京の百貨店・ストアへ卸した
- [6]衣料品を選んだのは現専務が紳士服関連業界にいたため
- [7]1967年10月に紳士服一本に絞り、紳士服以外のすべての部門から撤退した
- [8]初年度(1965年3月期)の年商は婦人服・呉服等すべてで2,300万円
- [9]撤退は紳士服以外が採算に合わなかったため
- [11]1964年頃から背広は嗜好品でなく消耗品であり、給料の残りで買える3万円台と考えた
1968年〜職域販売の指定を外れて市外へ出た洋服屋と、東広島市西条の郊外1号店
青山商事が府中市の外へ出た契機は、創業6年目にあたる1970年の府中市長選挙である。現職で兄の青山春雄氏が2期目を目指し、府中市が本社で東証1部に上場する北川鉄工所の社長の北川実夫氏が対立候補として立った。青山五郎氏は兄を支援したが兄は落選し、青山商事は北川鉄工所の職域販売の指定店から外された。青山五郎氏は販路を市外に求め、量販店が建設を始めていたショッピングセンターに7店を出店し、福山市や尼崎市にも進出した。景気の良い時期で衝動買いが多く、ショッピングセンター内の店の販売は好調だった。 地元の政争で失った職域販売が、結果として広域展開の起点になったとみられる。
- 日経ビジネス 1994年1月31日号〈挑む〉青山五郎氏
- [12]1970年、創業6年目に兄の府中市長選をめぐる出来事があった
- [13]府中市長の青山春雄氏の2期目の選挙に、北川鉄工所(府中市本社・東証1部)社長の北川実夫氏が立候補した
- [14]青山五郎氏は兄を応援したが選挙は敗北し、青山商事は北川鉄工所内の職域販売指定店を外された
- 証券アナリストジャーナル 25(12) 1987年 青山五郎
- [15]量販店がショッピングセンターを作り始めた頃、それに7店舗を出店した(福山市・尼崎市のSCへの出店は日経ビジネス1994年1月31日号)
- [16]景気の良い時期で衝動買いがはやり、ショッピングセンターではよく売れた
青山五郎氏は1972年頃から、ショッピングセンターの店舗で販売が振るわなくなったと感じた。ウィンドーショッピングの途中で購入する客が減り、半年前や1年前に来店した客が目的を持って再来店する傾向が強まった。冷やかし客の多い売場に人手を割く非効率も、青山五郎氏には疑問だった。同じ1972年に青山五郎氏は同業者と米国西海岸を視察し、郊外のショッピングセンターに客が自家用車で乗り付けて大量に購入する光景を目にした。青山五郎氏は1973年から郊外立地の調査に着手し、同年に自社の1店舗で2,000人に背広の購入先の希望を尋ねるアンケートを実施。 衝動買いに依存した売場の限界を、米国の郊外の商業施設で見た光景が裏づけたのだろう。
- 証券アナリストジャーナル 25(12) 1987年 青山五郎
- [17]1972年頃から買い物の形態が変わり、ショッピングセンターで物が売れなくなった
- [18]ウィンドーショッピングしながら買う人が減り、半年前・1年前に買った人が再び買いにくる目的買いの時代になった
- [21]1973年から郊外店の調査を始め、同年に自社の店で2,000人に背広をどういう店で買うかのアンケートをした
- 日経ビジネス 1994年1月31日号〈挑む〉青山五郎氏
- [19]SCの店は冷やかし客が多く効率が悪いと青山五郎氏は考えた
- 日経ビジネス 1984年11月26日号
- [20]1972年に米国の流通業を視察し、カリフォルニアで郊外型店舗の盛況を見た(同業者との同行・車客の大量購入は日経ビジネス1994年1月31日号)
アンケートの回答は品揃えの豊富な店が36%で1位、立地の良い店が26%で2位となり、両者を合わせて62%にのぼる。青山五郎氏は、多様な需要に応える品揃えには少なくとも150坪の売場が要り、都心ではその広さの土地を確保できないと判断した。交通手段別に調べると車で背広を購入しに行くという回答が最多だったため、郊外の主要道路と生活道路の交差点を最適な立地と定めた。1974年4月に開設した東広島市西条の1号店は、洋服店としては国内初の郊外店舗にあたる。店の前の国道2号線は長距離トラックの通行が中心で、青山商事は店の所在を知らせる宣伝から着手した。郊外店は目的を持った客が中心で販売員が少なく済み、地価や家賃も安いため、宣伝費を払った後でも利益を確保できた。
- 証券アナリストジャーナル 25(12) 1987年 青山五郎
- [22]アンケート結果は1位品揃いの豊富な店36%、2位立地のいい所26%で、合計62%
- [23]品揃えには最低150坪が必要で、都心にその土地はないと考えた
- [24]交通手段別では車で背広を買いに行く人が最多で、郊外の主要道路と生活道路の交差点が最良と判断した
- [26]東広島の店の前は国道2号線で長距離トラックばかり走り、まず場所を知らせる宣伝を始めた
- [27]郊外店は必ず買う客しか来ないため販売員が少なく、地価・家賃も安く、宣伝費を差し引いても利益が上がった
- 日経ビジネス 1994年1月31日号〈挑む〉青山五郎氏
- [25]1974年4月、郊外型店の1号店を広島県西条に開店した(洋服店で国内最初の郊外店舗は証券アナリストジャーナル1987年)
参考文献[12]-[27]
- 日経ビジネス 1994年1月31日号〈挑む〉青山五郎氏
- [12]1970年、創業6年目に兄の府中市長選をめぐる出来事があった
- [13]府中市長の青山春雄氏の2期目の選挙に、北川鉄工所(府中市本社・東証1部)社長の北川実夫氏が立候補した
- [14]青山五郎氏は兄を応援したが選挙は敗北し、青山商事は北川鉄工所内の職域販売指定店を外された
- [19]SCの店は冷やかし客が多く効率が悪いと青山五郎氏は考えた
- [25]1974年4月、郊外型店の1号店を広島県西条に開店した(洋服店で国内最初の郊外店舗は証券アナリストジャーナル1987年)
- 証券アナリストジャーナル 25(12) 1987年 青山五郎
- [15]量販店がショッピングセンターを作り始めた頃、それに7店舗を出店した(福山市・尼崎市のSCへの出店は日経ビジネス1994年1月31日号)
- [16]景気の良い時期で衝動買いがはやり、ショッピングセンターではよく売れた
- [17]1972年頃から買い物の形態が変わり、ショッピングセンターで物が売れなくなった
- [18]ウィンドーショッピングしながら買う人が減り、半年前・1年前に買った人が再び買いにくる目的買いの時代になった
- [21]1973年から郊外店の調査を始め、同年に自社の店で2,000人に背広をどういう店で買うかのアンケートをした
- [22]アンケート結果は1位品揃いの豊富な店36%、2位立地のいい所26%で、合計62%
- [23]品揃えには最低150坪が必要で、都心にその土地はないと考えた
- [24]交通手段別では車で背広を買いに行く人が最多で、郊外の主要道路と生活道路の交差点が最良と判断した
- [26]東広島の店の前は国道2号線で長距離トラックばかり走り、まず場所を知らせる宣伝を始めた
- [27]郊外店は必ず買う客しか来ないため販売員が少なく、地価・家賃も安く、宣伝費を差し引いても利益が上がった
- 日経ビジネス 1984年11月26日号
- [20]1972年に米国の流通業を視察し、カリフォルニアで郊外型店舗の盛況を見た(同業者との同行・車客の大量購入は日経ビジネス1994年1月31日号)
1975年〜完全買い取りの仕入れと全店POSで展開した郊外店と、売上高128億円で迎えた他社の参入
青山商事は仕入れをメーカーからの完全買い取りとし、売れ残りの危険を自社で負った。紳士服の業界ではメーカーへ売れ残りを返品する委託仕入れが慣行で、メーカーは返品分の在庫にかかる金利を卸値に上乗せした。青山五郎氏によれば、他社が2万円で仕入れるスーツを青山商事は1万5,000円で仕入れた。青山五郎氏は、資金負担が重いのは全量を買い取る初年度だけで、翌年からは販売した分の補充で済むと説明した。仕入れ先と価格帯を3〜4万円台に絞り、1柄あたり約3,000着をまとめて発注したことも仕入れ値を下げた。店舗は繁華街の30坪前後の店の数倍にあたる150坪ほどの売場と約40台の駐車場を備え、幹線道路沿いに出店した。
- 証券アナリストジャーナル 25(12) 1987年 青山五郎
- [28]業界の洋服店はメーカーとの委託仕入れだったが、青山商事は売れ残りリスクを自社で負う完全買取り仕入れを採った
- [29]委託では返品分のリスクに利息がかかり、完全買取りならメーカーは安く売っても得になる
- 日経ビジネス 1984年11月26日号
- [30]他社で2万円のスーツを青山商事は1万5,000円で仕入れている(青山五郎社長)
- [31]資金的に苦しいのは初年度だけで、翌年からは売れた分の仕入れで済む(青山五郎社長)
- [32]仕入れ先と3〜4万円台の価格帯に絞り、1柄の注文は約3,000着
- [33]郊外の幹線道路沿いに150坪程度の店舗と約40台の駐車場を備え、繁華街の平均的な店は30坪程度
青山商事は1983年7月、本社の大型コンピューターにPOSレジをつなぎ、POSシステムを稼働させた。青山五郎氏は1993年のインタビューで、自社のPOSは1点管理を原則とし、1枚480円のシャツでも販売した社員と経緯を追跡できると説明した。青山五郎氏はPOSの用途を売れ筋の発見より、売れない商品の把握に置いた。売れない商品は時間がたつほど値を下げなければ販売できなくなるため、早めの割引や店頭の前面への陳列で優先して販売した。福山店では1984年までの約1年間、購入に至らなかった理由を縫製・広告・色柄・ブランドの面から調べる売り逃し分析を続けた。 完全買い取りでは売れ残りがそのまま自社の損失になるため、在庫を1点ずつ追う仕組みが欠かせなかったと推察される。
- 証券アナリストジャーナル 25(12) 1987年 青山五郎
- [34]1983年7月、POSレジを大型コンピューターと直結してPOSシステムを確立した
- 日経ビジネス 1993年6月28日号 編集長インタビュー 青山五郎氏
- [35]青山商事のPOSは1点管理主義で、480円のシャツ1枚でも誰がどう売ったか追える
- [36]売れ筋でなく売れない商品に焦点を当てている
- [37]死に筋は時間がたつほど値下げが必要になるため、早めの割引や前面陳列で重点的に売る
- 日経ビジネス 1984年11月26日号
- [38]福山店では1984年時点で1年ほど前から売れない原因(縫製・広告・色柄・ブランド)を探る売り逃し分析を行っている
青山商事の1984年3月期の売上高は128億7615万円、経常利益は7億3031万円で、5年前の売上高36億円から拡大した。店舗数は1984年11月に46店に達し、1984年の新規出店は11月までで12店を数える。一方で郊外に紳士服店をチェーン展開する他社が数年前から増え、青山五郎氏は業界の郊外進出の始まりを1983年頃とみた。開店前の宣伝で押し上げた売上高は年を追って伸び悩み、1982年3月開設の高知店の年商は初年度の7億円から数年で5億円に低下した。青山商事は1982年から電通と提携して商圏に住む人々の意識を調査し、既存店の商品構成や接客の見直しに充てた。 他社の参入と既存店の伸び悩みを抱えながら出店を続けるには、外部から資金を調達する手段が必要になったと思われる。
- 日経ビジネス 1984年11月26日号
- [39]1984年3月期の売上高128億7615万円・経常利益7億3031万円、5年前の売上高は36億円
- [40]店舗数は1984年11月に46店、同年は11月までに12店を新規出店
- [42]1982年3月開店の高知店は初年度売上7億円が数年で5億円に低下した
- [43]1982年から電通と提携し商圏住民の意識調査(ブルースカイ)を実施し、高知店で商品構成・接客を見直した
- 証券アナリストジャーナル 25(12) 1987年 青山五郎
- [41]紳士服業界が郊外へ進出し始めたのは1983年頃で、それまでは青山商事だけだった(他社の郊外チェーン増加は日経ビジネス1984年11月26日号)
参考文献[28]-[43]
- 証券アナリストジャーナル 25(12) 1987年 青山五郎
- [28]業界の洋服店はメーカーとの委託仕入れだったが、青山商事は売れ残りリスクを自社で負う完全買取り仕入れを採った
- [29]委託では返品分のリスクに利息がかかり、完全買取りならメーカーは安く売っても得になる
- [34]1983年7月、POSレジを大型コンピューターと直結してPOSシステムを確立した
- [41]紳士服業界が郊外へ進出し始めたのは1983年頃で、それまでは青山商事だけだった(他社の郊外チェーン増加は日経ビジネス1984年11月26日号)
- 日経ビジネス 1984年11月26日号
- [30]他社で2万円のスーツを青山商事は1万5,000円で仕入れている(青山五郎社長)
- [31]資金的に苦しいのは初年度だけで、翌年からは売れた分の仕入れで済む(青山五郎社長)
- [32]仕入れ先と3〜4万円台の価格帯に絞り、1柄の注文は約3,000着
- [33]郊外の幹線道路沿いに150坪程度の店舗と約40台の駐車場を備え、繁華街の平均的な店は30坪程度
- [38]福山店では1984年時点で1年ほど前から売れない原因(縫製・広告・色柄・ブランド)を探る売り逃し分析を行っている
- [39]1984年3月期の売上高128億7615万円・経常利益7億3031万円、5年前の売上高は36億円
- [40]店舗数は1984年11月に46店、同年は11月までに12店を新規出店
- [42]1982年3月開店の高知店は初年度売上7億円が数年で5億円に低下した
- [43]1982年から電通と提携し商圏住民の意識調査(ブルースカイ)を実施し、高知店で商品構成・接客を見直した
- 日経ビジネス 1993年6月28日号 編集長インタビュー 青山五郎氏
- [35]青山商事のPOSは1点管理主義で、480円のシャツ1枚でも誰がどう売ったか追える
- [36]売れ筋でなく売れない商品に焦点を当てている
- [37]死に筋は時間がたつほど値下げが必要になるため、早めの割引や前面陳列で重点的に売る
出典・参考
4件
- 日経ビジネス 1984年11月26日号
- 証券アナリストジャーナル 25(12) 1987年 青山五郎
- 日経ビジネス 1993年6月28日号 編集長インタビュー 青山五郎氏
- 日経ビジネス 1994年1月31日号〈挑む〉青山五郎氏