イトマン:イトマン事件の露見と住金物産への吸収合併
イトマン事件の露見と住金物産への吸収合併
1990年〜3年で1兆3514億円へ膨らんだ不動産投融資
伊藤萬を率いた河村良彦氏は、1975年に住友銀行の常務から移ってきた銀行出身の経営者だった。立て直しの手は資金繰りの管理で、売り先が決まってからメーカーへ注文を出す方式に改め、在庫の金利負担を削った。ただ、繊維や食品の流通をその方式で回しても取扱高は伸びず、中堅の商社という位置から動けなかった。河村氏が次に選んだのは、1985年に始まった不動産の高騰局面を使って会社を一気に大きくする道だった。まず強めたのが、不動産を担保に取る金融である。担い手は子会社のイトマンファイナンスで、関西の地銀や住友銀行から案件の情報を得ながら、銀行本体では取れない危険度の融資を引き受けた。銀行出身の社長にとって、もっとも扱い慣れた商品はカネだった。
- 日経ビジネス 1990年10月22日号(日経BP)
- [1]河村良彦氏は住友銀行常務から1975年に伊藤萬へ転出し、社長として住銀と一体で不動産関連の投融資を拡大した
- 日経ビジネス 1990年7月30日号(日経BP)
- [2]経営不振の伊藤萬が立ち直った理由は、バンカー出身の河村社長が資金管理を徹底し、受注してからメーカーへ発注することで在庫金利を圧縮した点にある
- [3]その手法で繊維・食品などの物資流通を手掛けても扱い量は増えず、中堅商社の枠から抜け出せなかった
- [4]河村社長は1985年から始まった不動産ブームに乗じて伊藤萬を急成長させることに取り組んだ
- [5]てっとり早いのは不動産担保ローン、すなわちノンバンク事業の強化で、カネを扱い慣れたバンカー出身社長にとって自然な発想だった
- [6]古巣の住友銀行や関西の地銀と情報交換を密にし、銀行が貸せないハイリスクの部分をイトマンファイナンスが請け負って融資する事業を立ち上げた
不動産事業は、元手も実績も無いところから立ち上がった。出発点は1988年末、ワンルーム型マンションの分譲で伸びた杉山商事の引き取りだった。主力取引銀行が同じ住友銀行で、頼まれて買い取り、立て直しまで引き受けた。これを機に伊藤萬は、衣・食・住・遊を一体で手がける総合化の路線を掲げた。1989年には用地の買い集めを任せていた慶屋との訴訟が和解し、買い集め途中の東京・南青山と、三重県の奥志摩のリゾート用地が伊藤萬の手に移った。1990年2月には雅叙園観光へ資本を入れ、株式の取得額は108億円に上った。連結の売上高に不動産関連が占める比率は3年で3割へ届き、回転の速い分譲と回収の長い賃貸を並行して起こした商社はほかに無かった。この進出には、当時の副社長3人が揃って反対したという。
- 日経ビジネス 1990年7月30日号(日経BP)
- [7]伊藤萬の不動産事業はほとんどゼロの状態から、わずか3年で一気に拡大した
- [8]1988年末、経営危機に陥ったワンルームマンション大手の杉山商事を買い取った
- [9]杉山商事の買収は同社のメーンバンクでもあった住友銀行の要請に応じたもので、伊藤萬は再建に乗り出した
- [11]1989年に慶屋との訴訟が和解し、伊藤萬は地上げなかばの南青山の土地と奥志摩のリゾート用地を取得した
- [13]連結ベースの不動産関連売上構成比は3割に達し、足の短い分譲と足の長い賃貸を同時に立ち上げたのは伊藤萬くらいだった
- 日経ビジネス 1990年11月12日号増刊号(日経BP)
- [10]杉山商事の引き取りを機に伊藤萬は「衣・食・住・遊」の総合化路線を打ち出し、不動産事業へ進出した
- [12]1990年2月に経営参加した雅叙園観光の株式は取得総額108億円
- 日経ビジネス 1991年6月10日号(日経BP)
- [14]不動産事業への進出には当時の3人の副社長が全員反対したが、河村社長は聞き入れなかったと生え抜き役員が証言した
グループが不動産と証券へ投じた資金は、1988年3月末に6201億円、1990年3月末に1兆1073億円、同年6月末に1兆3514億円と積み上がった。伊藤萬やイトマンファイナンスなど中核4社の借入金も、8160億円から1兆1253億円へ増えた。伸びた分は主に信託銀行と地方銀行の貸し出しで、住友銀行が占める比率は17%を切るところまで下がっていた。1990年3月末には、大蔵省が不動産業界向けの貸出総量に19年ぶりの規制を掛けた。続く5月24日の朝刊1面には、住友銀行が伊藤萬の土地がらみ債務の圧縮へ踏み切る意向を固めたという報道が載り、伊藤萬の首脳はこれに衝撃を受けた。銀行側で融資を審査する担当者たちの間には、この膨張を理由に3年ほど前から懸念が残っていた。
- 日経ビジネス 1990年11月12日号増刊号(日経BP)
- [15]伊藤萬グループの不動産・証券投融資は1988年3月6201億円、1990年3月1兆1073億円、1990年6月1兆3514億円
- [16]中核4社は伊藤萬・イトマンファイナンス・伊藤萬不動産販売・イトマントータルハウジングで、その借入金合計は8160億円から1兆1253億円へ増えた
- [17]1990年前半に増えたのは信託銀行や地方銀行からの借り入れで、住友銀行の融資シェアは17%弱にまで低下した
- 日経ビジネス 1990年7月30日号(日経BP)
- [18]1990年3月末、大蔵省は不動産業に対する融資総量規制を19年ぶりに実施した
- [19]1990年5月24日の日本経済新聞朝刊1面が、住友銀行が伊藤萬の土地債務圧縮に踏み切る意向を固めたと報じ、伊藤萬首脳に衝撃を与えた
- 日経ビジネス 1991年4月1日号(日経BP)
- [20]1988年から始まった連結ベースの借入金と不動産関連貸付金の急膨張が異常だったため、3年ほど前から取引金融機関の審査担当者の間に伊藤萬の経営状態への懸念がくすぶっていた
参考文献[1]-[20]
- 日経ビジネス 1990年10月22日号(日経BP)
- [1]河村良彦氏は住友銀行常務から1975年に伊藤萬へ転出し、社長として住銀と一体で不動産関連の投融資を拡大した
- 日経ビジネス 1990年7月30日号(日経BP)
- [2]経営不振の伊藤萬が立ち直った理由は、バンカー出身の河村社長が資金管理を徹底し、受注してからメーカーへ発注することで在庫金利を圧縮した点にある
- [3]その手法で繊維・食品などの物資流通を手掛けても扱い量は増えず、中堅商社の枠から抜け出せなかった
- [4]河村社長は1985年から始まった不動産ブームに乗じて伊藤萬を急成長させることに取り組んだ
- [5]てっとり早いのは不動産担保ローン、すなわちノンバンク事業の強化で、カネを扱い慣れたバンカー出身社長にとって自然な発想だった
- [6]古巣の住友銀行や関西の地銀と情報交換を密にし、銀行が貸せないハイリスクの部分をイトマンファイナンスが請け負って融資する事業を立ち上げた
- [7]伊藤萬の不動産事業はほとんどゼロの状態から、わずか3年で一気に拡大した
- [8]1988年末、経営危機に陥ったワンルームマンション大手の杉山商事を買い取った
- [9]杉山商事の買収は同社のメーンバンクでもあった住友銀行の要請に応じたもので、伊藤萬は再建に乗り出した
- [11]1989年に慶屋との訴訟が和解し、伊藤萬は地上げなかばの南青山の土地と奥志摩のリゾート用地を取得した
- [13]連結ベースの不動産関連売上構成比は3割に達し、足の短い分譲と足の長い賃貸を同時に立ち上げたのは伊藤萬くらいだった
- [18]1990年3月末、大蔵省は不動産業に対する融資総量規制を19年ぶりに実施した
- [19]1990年5月24日の日本経済新聞朝刊1面が、住友銀行が伊藤萬の土地債務圧縮に踏み切る意向を固めたと報じ、伊藤萬首脳に衝撃を与えた
- 日経ビジネス 1990年11月12日号増刊号(日経BP)
- [10]杉山商事の引き取りを機に伊藤萬は「衣・食・住・遊」の総合化路線を打ち出し、不動産事業へ進出した
- [12]1990年2月に経営参加した雅叙園観光の株式は取得総額108億円
- [15]伊藤萬グループの不動産・証券投融資は1988年3月6201億円、1990年3月1兆1073億円、1990年6月1兆3514億円
- [16]中核4社は伊藤萬・イトマンファイナンス・伊藤萬不動産販売・イトマントータルハウジングで、その借入金合計は8160億円から1兆1253億円へ増えた
- [17]1990年前半に増えたのは信託銀行や地方銀行からの借り入れで、住友銀行の融資シェアは17%弱にまで低下した
- 日経ビジネス 1991年6月10日号(日経BP)
- [14]不動産事業への進出には当時の3人の副社長が全員反対したが、河村社長は聞き入れなかったと生え抜き役員が証言した
- 日経ビジネス 1991年4月1日号(日経BP)
- [20]1988年から始まった連結ベースの借入金と不動産関連貸付金の急膨張が異常だったため、3年ほど前から取引金融機関の審査担当者の間に伊藤萬の経営状態への懸念がくすぶっていた
1990年〜従業員一同名義の告発状と7000億円の投融資圧縮
不動産部門の利益がどこで生まれていたのかを疑わせる文書が、1990年9月に出回った。差出人を伊藤萬従業員一同とし、監査に当たる朝日新和会計社へ宛てた、決算を問う告発の書面である。疑いの柱は、不動産と株式とゴルフ会員権を売り買いで回す取引に置かれていた。系列各社や得意先との売買に関連会社をはさんで手数料を取り、本社はそこへ金利を課して利益に振り替えていたという筋立てだった。帳簿の利益は積み上がる一方で、物件の簿価は上がり続け、やがて売却そのものが成り立たなくなる仕組みだった。買い集めが途中の南青山の本社ビル用地は、簿価800億円と実勢の倍近くに膨れていた。開発案件で順調に運んだのは吉祥寺の商業ビルだけで、投融資を本気で縮めれば巨額の赤字が表に出る状態だった。
- 日経ビジネス 1990年11月12日号増刊号(日経BP)
- [21]1990年9月、伊藤萬の決算に関する告発状が出回った
- [22]告発状は「伊藤萬従業員一同」の差出人名で、監査を担当する朝日新和会計社へ送られた
- [23]告発状が指摘した疑惑の中心は、不動産・株式・ゴルフ会員権の転がしに関する疑惑だった
- [24]グループ内や得意先との間で物件を売買し、間に関連会社を介在させて手数料を吸い上げ、それをさらに本社が金利の形で吸い上げていたという指摘だった
- [25]この取引形態は高収益につながる一方で資産の簿価は上昇を続け、いずれ処分不能となる
- [26]地上げ半ばの南青山の本社ビル予定地は簿価800億円と、実勢価格の倍近くに達した
- [28]伊藤萬は不動産投融資を本格的に圧縮しようとすると大赤字が避けられない状態にあった
- 日経ビジネス 1990年7月30日号(日経BP)
- [27]開発案件は吉祥寺の商業ビルを除いてほとんどが難航していた
住友銀行の幹部は1990年9月半ば、投融資の膨らみ方を河村氏へ示し、反省を促した。河村氏は逆に動き、不動産を担当していた住友銀行出身の役員4人を10月1日付で退任させた。11日には記者会見を開き、不動産事業から全面的に退くことと、1年で7000億円の投融資を縮める方針を示した。19日に配った資料は、翌年3月までの回収先を並べていた。459億円を本社の在庫売却で、3932億円を受取手形の期日取り立てで、2546億円を開発に投じた資金の回収で賄う組み立てだった。住友銀行の経営陣は終始反対し、確実な3500億円を先に片づけて残りは時間を掛けよという立場だった。手形の回収は融資先の不動産が買い手を見つけることを前提としており、圧縮の速さは伊藤萬の一存で決まらなかった。
- 日経ビジネス 1990年10月22日号(日経BP)
- [29]膨らむ一方の伊藤萬の不動産投融資に業を煮やした住友銀行幹部は、1990年9月半ばにその拡大ぶりを明らかにして反省を促した
- [30]河村社長は1990年10月1日付で、不動産部門にかかわっていた住友銀行出身の4役員を退任させた
- 日経ビジネス 1990年11月12日号増刊号(日経BP)
- [31]1990年10月11日の記者会見で河村社長は不動産事業からの完全撤退を宣言し、1年で7000億円の不動産投融資を圧縮する方針を打ち出した
- [32]1990年10月19日の記者会見で不動産投融資圧縮計画を示した資料が配布され、翌年3月までの圧縮額の内訳が示された
- [33]内訳は本社在庫の売却で459億円、受取手形の期日回収で3932億円、開発関係資金回収で2546億円、合計7000億円弱
- [34]磯田一郎会長退陣後の住友銀行経営陣は、まず確実に3500億円分を圧縮し残り半分は気長に処理すべきだとして、この計画に一貫して反対した
住友銀行が退任を求めた相手は、1990年2月に入社して不動産事業の統括に就いた伊藤寿永光氏だった。協和綜合開発研究所の代表取締役を務め、雅叙園観光の株を買い集めた側にいた。伊藤萬が抱える不動産の投融資は、その多くが伊藤氏の関わる案件で占められていた。河村氏は退任を受け入れず、10月11日の会見で『伊藤氏との二人三脚で不動産関連事業の資金回収にあたる』と述べた。この時点で、不動産の中身と資金の出入りを分かっていたのは河村氏と伊藤氏の2人だけという状態に陥っていた。雅叙園観光への出資について、河村氏は『雅叙園の第三者割り当て増資引き受けは伊藤君に対するほんの好意。大したカネじゃない』と説明し、『雅叙園の会社の中身など興味はない』とまで語った。同じ9月には河村氏名義の140億円の手形が、許永中氏を実質の持ち主とされる関西新聞社へ振り出されていた。大阪地方検察庁が河村・伊藤両氏の特別背任容疑で内偵に入ったとも伝えられた。
- 日経ビジネス 1991年4月1日号(日経BP)
- [35]伊藤寿永光氏は1990年2月に伊藤萬へ入社し、不動産事業を取り仕切る企画管理本部長に就いた
- 日経ビジネス 1990年10月22日号(日経BP)
- [36]住友銀行が解任を要請していると言われた伊藤寿永光常務は、協和綜合開発研究所代表取締役で、雅叙園観光株の買い占めに関わった
- [38]1990年10月11日の記者会見で河村社長は伊藤常務の解任の意思を示さなかった
- [39]伊藤萬は不動産の内容や資金の状況を河村社長と伊藤常務の二人しか把握していない状態に陥っていた
- 日経ビジネス 1990年11月12日号増刊号(日経BP)
- [37]伊藤萬の不動産投融資のかなりの部分は伊藤常務が絡んでいる案件だった
- [40]河村社長は1990年2月に経営参加した雅叙園観光の株式を最後まで持ち続けると主張し、現在は全くメリットのない投資であることを自ら認めていた
- [41]1990年9月に河村社長名義で140億円の手形が関西新聞社(本社・大阪)へ振り出され、同社の実質的なオーナーは許永中氏とされた
- [42]大阪地検が河村・伊藤両氏について特別背任の疑いで内偵を始めたと言われた
参考文献[21]-[42]
- 日経ビジネス 1990年11月12日号増刊号(日経BP)
- [21]1990年9月、伊藤萬の決算に関する告発状が出回った
- [22]告発状は「伊藤萬従業員一同」の差出人名で、監査を担当する朝日新和会計社へ送られた
- [23]告発状が指摘した疑惑の中心は、不動産・株式・ゴルフ会員権の転がしに関する疑惑だった
- [24]グループ内や得意先との間で物件を売買し、間に関連会社を介在させて手数料を吸い上げ、それをさらに本社が金利の形で吸い上げていたという指摘だった
- [25]この取引形態は高収益につながる一方で資産の簿価は上昇を続け、いずれ処分不能となる
- [26]地上げ半ばの南青山の本社ビル予定地は簿価800億円と、実勢価格の倍近くに達した
- [28]伊藤萬は不動産投融資を本格的に圧縮しようとすると大赤字が避けられない状態にあった
- [31]1990年10月11日の記者会見で河村社長は不動産事業からの完全撤退を宣言し、1年で7000億円の不動産投融資を圧縮する方針を打ち出した
- [32]1990年10月19日の記者会見で不動産投融資圧縮計画を示した資料が配布され、翌年3月までの圧縮額の内訳が示された
- [33]内訳は本社在庫の売却で459億円、受取手形の期日回収で3932億円、開発関係資金回収で2546億円、合計7000億円弱
- [34]磯田一郎会長退陣後の住友銀行経営陣は、まず確実に3500億円分を圧縮し残り半分は気長に処理すべきだとして、この計画に一貫して反対した
- [37]伊藤萬の不動産投融資のかなりの部分は伊藤常務が絡んでいる案件だった
- [40]河村社長は1990年2月に経営参加した雅叙園観光の株式を最後まで持ち続けると主張し、現在は全くメリットのない投資であることを自ら認めていた
- [41]1990年9月に河村社長名義で140億円の手形が関西新聞社(本社・大阪)へ振り出され、同社の実質的なオーナーは許永中氏とされた
- [42]大阪地検が河村・伊藤両氏について特別背任の疑いで内偵を始めたと言われた
- 日経ビジネス 1990年7月30日号(日経BP)
- [27]開発案件は吉祥寺の商業ビルを除いてほとんどが難航していた
- 日経ビジネス 1990年10月22日号(日経BP)
- [29]膨らむ一方の伊藤萬の不動産投融資に業を煮やした住友銀行幹部は、1990年9月半ばにその拡大ぶりを明らかにして反省を促した
- [30]河村社長は1990年10月1日付で、不動産部門にかかわっていた住友銀行出身の4役員を退任させた
- [36]住友銀行が解任を要請していると言われた伊藤寿永光常務は、協和綜合開発研究所代表取締役で、雅叙園観光株の買い占めに関わった
- [38]1990年10月11日の記者会見で河村社長は伊藤常務の解任の意思を示さなかった
- [39]伊藤萬は不動産の内容や資金の状況を河村社長と伊藤常務の二人しか把握していない状態に陥っていた
- 日経ビジネス 1991年4月1日号(日経BP)
- [35]伊藤寿永光氏は1990年2月に伊藤萬へ入社し、不動産事業を取り仕切る企画管理本部長に就いた
1991年〜本業回帰の断念と住金物産への吸収合併
河村良彦氏が解任された後を継ぎ、1991年1月にイトマンの社長へ就いたのが、副社長だった芳村昌一氏だった。1932年に京都府で生まれ、1955年に神戸大学法学部を出て伊藤萬へ入り、食品部長から常務・専務・副社長と上がった。据えた土台は二つで、一つは起こした事件の後始末を最後まで付けることだった。もう一つは、どのような形であれ会社を倒産させず、取引先と社員を混乱に巻き込まないことである。同年8月、大阪地方検察庁特別捜査部は河村氏ら4人を、自社株の取得と特別背任などの商法違反で起訴した。最初に打ったのは本業への回帰で、広げすぎた事業を絞り、繊維と食料、産業機械と物資という得意な4分野へ寄せた。本体と子会社を合わせて負う利子付きの借金は、1兆2000億円に上っていた。
- 日経ビジネス 1992年10月19日号(日経BP)
- [43]芳村昌一氏は河村良彦前社長の解任の後を受け、1991年1月にイトマン社長へ就任した
- [44]芳村昌一氏は1932年京都府生まれ、1955年3月神戸大学法学部卒業後に同年伊藤萬入社。1980年食品部長、1984年常務、1986年専務、1987年副社長を経て1991年1月社長就任
- [45]芳村社長が就任以来の基本に据えた一つめは、あれだけの事件を起こした以上その後始末をきちんとやることで、事件にかかわる残務整理にまず取り組んだ
- [46]二つめは社会的混乱を招くことを避けることで、いかなる形であれ倒産はさせないという方針だった
- [48]自主再建のために打った手はまず本業回帰で、総花的な膨張経営から選択的な均衡経営へ戻し、繊維・食料・産業機械・物資の4分野に事業領域を絞った
- [49]グループ全体の有利子負債は1兆2000億円と巨額だった
- 日経ビジネス 1991年8月26日号(日経BP)
- [47]大阪地方検察庁特別捜査部は、イトマン前社長の河村良彦容疑者ら4人を自社株取得・特別背任など商法違反の罪で起訴した
自主再建を阻んだのは、子会社のイトマンファイナンスだった。本体から1800億円を直に回したうえ、他行が出した1000億円分にも保証を付けていた。1991年の秋から不動産市況の下落をまともに受け、担保に取った不動産から利息を取り立てられなくなった。支えるために利息を減らし免じた結果、入るはずの資金が途絶え、元本まで戻らない先も出てきた。1992年3月期に累積損失を消す計画は、そこで崩れた。経常利益は見込みの半分ほどで止まった。加えて、許永中氏への200億円の融資で担保としていた鹿児島県のアカラカントリーが競売に掛かり、落札額は15億円にとどまった。このゴルフ場は、伊藤氏が入社して2カ月で200億円を引き出した案件だった。
- 日経ビジネス 1992年10月19日号(日経BP)
- [50]イトマンファイナンスは直接子会社としてはスケールが大きすぎ、1991年秋以降の不動産市況悪化の直撃を受けた
- [51]イトマンはイトマンファイナンスへ直接1800億円を貸し付け、住友銀行以外の各行から受けた融資1000億円にも債務保証していた
- [52]不動産市況の悪化でイトマンファイナンスは不動産担保融資の金利を徴収できない状態になり、支援のため金利を減免した結果、1991年秋以降は巨額の金利が入らなくなった
- [53]イトマンファイナンスの融資はすべてと言ってよいほど不動産担保融資で、元本さえ回収の難しいものも出てきた
- [54]1992年3月期決算で累積損失を一掃する計画が狂った
- [55]1992年3月期は経常利益が当初計画の半分ほどにしかならなかった
- [56]許永中氏に対する融資200億円の担保だったアカラカントリー(鹿児島県)が競売にかけられ、15億円で落札された
- 日経ビジネス 1991年6月10日号(日経BP)
- [57]鹿児島県日置郡のアカラカントリー倶楽部には、伊藤寿永光氏の入社からわずか2カ月後に200億円が融資された
1992年9月の中間決算では、利息として帳簿に立てられない分が半年で60億円に届き、赤字が動かせなくなった。芳村氏は9月1日に住友銀行の巽外夫頭取を訪ね、合併も選択肢に入れた再建の枠組みが要るとして支援を求めた。7日には西川善文専務の同席で住金物産の山本順英社長と初めて向き合い、鋼材なら商いが重ならないとして、ほぼ話をまとめた。17日に双方が合意し、翌18日に公表した。交換比率は5対1で、およそ1万人の株主に保有株の価値の下落を受け入れさせる内容だった。その2日後、巽頭取は住友金属工業の新宮康男会長を訪ね、傘下の鉄鋼商社による救済合併への協力を求めている。新宮氏は『分かりました。引き受けましょう。老舗、イトマンが消滅するのは残念ですが、ほかに方法がなければ仕方ありません』と答え、ほぼ即答で引き受けた。1993年4月1日、イトマンは住金物産に吸収され、1883年の創業から110年を数えた名が消えた。芳村氏は『名前にこだわって実体をなくすよりも、名を捨てて実を残すことの方が大事です』と述べた。
- 日経ビジネス 1992年10月19日号(日経BP)
- [58]1992年9月中間決算では未収利息としても計上できない金額が上期だけで60億円ほどに達し、赤字決算が避けられない状況になった
- [59]芳村社長は1992年9月1日に住友銀行の巽外夫頭取と会い、合併を視野に入れた新たな再建対策が必要になったとして支援を求めた
- [60]1992年9月7日、住友銀行の西川善文専務の立ち会いで住金物産の山本順英社長と初めて会い、鋼材を扱う住金物産とイトマンなら補完的な関係になり合併は双方にメリットがあるとしてほぼ合意に達した
- [61]1992年9月17日に双方が合意し、イトマンを解散会社とすることや株式の交換比率を9月18日に発表した
- [62]合併比率は5対1で、イトマンの株主は約1万人だった
- [65]1993年4月1日付で住金物産と合併し、1883年に創業して110年の歴史を持つイトマンの名前が消えることになった
- [66]芳村社長は、のれんを守るとは名前を残しながら中身を発展させることだが、今のイトマンにはそれほどの力はないと判断した
- 日経ビジネス 1993年3月22日号(日経BP)
- [63]1992年9月3日、住友銀行の巽外夫頭取が住友金属工業本社を訪ね、新宮康男会長にイトマン問題の処理への協力を依頼した。この時点で巽頭取は住金グループの鉄鋼商社である住金物産による救済合併を固めていた
- [64]新宮康男会長の返事はほとんど即答だったと巽外夫頭取は語っている
参考文献[43]-[66]
- 日経ビジネス 1992年10月19日号(日経BP)
- [43]芳村昌一氏は河村良彦前社長の解任の後を受け、1991年1月にイトマン社長へ就任した
- [44]芳村昌一氏は1932年京都府生まれ、1955年3月神戸大学法学部卒業後に同年伊藤萬入社。1980年食品部長、1984年常務、1986年専務、1987年副社長を経て1991年1月社長就任
- [45]芳村社長が就任以来の基本に据えた一つめは、あれだけの事件を起こした以上その後始末をきちんとやることで、事件にかかわる残務整理にまず取り組んだ
- [46]二つめは社会的混乱を招くことを避けることで、いかなる形であれ倒産はさせないという方針だった
- [48]自主再建のために打った手はまず本業回帰で、総花的な膨張経営から選択的な均衡経営へ戻し、繊維・食料・産業機械・物資の4分野に事業領域を絞った
- [49]グループ全体の有利子負債は1兆2000億円と巨額だった
- [50]イトマンファイナンスは直接子会社としてはスケールが大きすぎ、1991年秋以降の不動産市況悪化の直撃を受けた
- [51]イトマンはイトマンファイナンスへ直接1800億円を貸し付け、住友銀行以外の各行から受けた融資1000億円にも債務保証していた
- [52]不動産市況の悪化でイトマンファイナンスは不動産担保融資の金利を徴収できない状態になり、支援のため金利を減免した結果、1991年秋以降は巨額の金利が入らなくなった
- [53]イトマンファイナンスの融資はすべてと言ってよいほど不動産担保融資で、元本さえ回収の難しいものも出てきた
- [54]1992年3月期決算で累積損失を一掃する計画が狂った
- [55]1992年3月期は経常利益が当初計画の半分ほどにしかならなかった
- [56]許永中氏に対する融資200億円の担保だったアカラカントリー(鹿児島県)が競売にかけられ、15億円で落札された
- [58]1992年9月中間決算では未収利息としても計上できない金額が上期だけで60億円ほどに達し、赤字決算が避けられない状況になった
- [59]芳村社長は1992年9月1日に住友銀行の巽外夫頭取と会い、合併を視野に入れた新たな再建対策が必要になったとして支援を求めた
- [60]1992年9月7日、住友銀行の西川善文専務の立ち会いで住金物産の山本順英社長と初めて会い、鋼材を扱う住金物産とイトマンなら補完的な関係になり合併は双方にメリットがあるとしてほぼ合意に達した
- [61]1992年9月17日に双方が合意し、イトマンを解散会社とすることや株式の交換比率を9月18日に発表した
- [62]合併比率は5対1で、イトマンの株主は約1万人だった
- [65]1993年4月1日付で住金物産と合併し、1883年に創業して110年の歴史を持つイトマンの名前が消えることになった
- [66]芳村社長は、のれんを守るとは名前を残しながら中身を発展させることだが、今のイトマンにはそれほどの力はないと判断した
- 日経ビジネス 1991年8月26日号(日経BP)
- [47]大阪地方検察庁特別捜査部は、イトマン前社長の河村良彦容疑者ら4人を自社株取得・特別背任など商法違反の罪で起訴した
- 日経ビジネス 1991年6月10日号(日経BP)
- [57]鹿児島県日置郡のアカラカントリー倶楽部には、伊藤寿永光氏の入社からわずか2カ月後に200億円が融資された
- 日経ビジネス 1993年3月22日号(日経BP)
- [63]1992年9月3日、住友銀行の巽外夫頭取が住友金属工業本社を訪ね、新宮康男会長にイトマン問題の処理への協力を依頼した。この時点で巽頭取は住金グループの鉄鋼商社である住金物産による救済合併を固めていた
- [64]新宮康男会長の返事はほとんど即答だったと巽外夫頭取は語っている
出典・参考
8件
- 日経ビジネス 1990年10月22日号(日経BP)
- 日経ビジネス 1990年7月30日号(日経BP)
- 日経ビジネス 1990年11月12日号増刊号(日経BP)
- 日経ビジネス 1991年6月10日号(日経BP)
- 日経ビジネス 1991年4月1日号(日経BP)
- 日経ビジネス 1991年8月26日号(日経BP)
- 日経ビジネス 1992年10月19日号(日経BP)
- 日経ビジネス 1993年3月22日号(日経BP)