京セラ京セラ創業——宮木電機の倉庫から米国半導体パッケージ市場へ

松風工業を連袂退職した27歳・稲盛和夫 氏は、京都財界人の出資300万円をどう半導体パッケージの世界市場へ結びつけたか

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時期 1959年4月
意思決定者 稲盛和夫 氏(創業者)ほか、宮木男也 氏・西枝一江 氏 出資して受け皿となった京都財界人
論点 ファインセラミックスの事業化(連袂退職した技術陣による専業メーカーの起業)
概要
1959年4月、松風工業を連袂退職した27歳の稲盛和夫 氏ら技術陣約30名が、宮木電機の宮木男也 氏・西枝一江 氏ら京都財界人の出資300万円を受け、京都市中京区西ノ京原町の宮木電機の倉庫を借りた工房で京都セラミック株式会社を発足させた。松下電子工業向け U 字ケルシマの量産で足場を築き、稲盛 氏自らの渡米営業を重ねて米TI・IBM・Intel から半導体パッケージを受注し、ファインセラミック専業から世界の半導体パッケージ供給者へ転じた。
背景
稲盛和夫 氏は松風工業のファインセラミックス研究室でフォルステライト磁器を国産合成し、松下電子工業向け U 字ケルシマの量産化を主導していた。だが会社経営の悪化と事業化方針を巡る上層部との対立が深まり、1958年末から翌年初頭にかけて開発陣の主要メンバーが連袂退職に至った。稲盛 氏の技術を高く評価した宮木電機の宮木男也 氏・西枝一江 氏が、退職組の受け皿として新会社の設立に動いた。
内容
京都セラミックは資本金300万円で設立され、筆頭株主は宮木男也 氏の4,300株、技術者本人の稲盛 氏は3,500株で第4位という独特な資本構成をとった。西枝一江 氏は自宅を担保に銀行から借入を起こして資金を融通した。会社は創業初年から松下電子工業向け U 字ケルシマを月産20万本で量産し、国内大手の門前払いを越えるため稲盛 氏自らが1962年から渡米営業を重ねた。
含意
国内で無名会社の若僧として相手にされなかった稲盛 氏は、技術評価の本場である米国で1965年に米TI、1966年に米IBMから受注を取り、米国での実績を日本市場への信用へ逆流させた。1969年には世界初の積層セラミックパッケージ HDP を約3ヶ月で開発して Intel に納入し、鹿児島川内工場を量産拠点に据えて、1971年10月の大阪証券取引所市場第二部上場へつながる成長基盤を初期十数年で築いた。
筆者の見解

無名の技術者に賭けた出資が生んだもの

この創業が示すのは、技術シーズを持った集団が既存の会社を離れ、それを見込んだ出資者の資力によって自前の会社を得た経緯である。技術者本人の稲盛 氏が筆頭株主にならず、宮木男也 氏や西枝一江 氏といった京都財界人が個人の資力で株式の大半を引き受けた資本構成は、事業の主導権を技術者側に残しながら資金の裏付けを外部から得る形になっていたとみられる。無名の27歳に賭けた出資の判断が、専業メーカーの出発を支えていた。

もう一つ見えてくるのは、国内で相手にされなかった無名企業が、米国市場での評価を経て日本での信用を得た経路である。稲盛 氏が繰り返した渡米営業は、技術を正当に評価する市場を国外に求めた選択であり、TI・IBM・Intel からの受注が国内大手への販路を開く裏付けになったと読める。ファインセラミックスという素材技術を、半導体の実装という具体的な用途へ結びつけた初期十数年の積み重ねが、その後の京セラの成長を支える基盤になっていったといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

松風工業からの連袂退職

稲盛和夫 氏は1932年に鹿児島市で生まれ、1955年に鹿児島大学工学部応用化学科を卒業して京都の老舗碍子メーカー松風工業に入社した[1]。配属先のファインセラミックス研究室でフォルステライト磁器を国産で合成し、松下電子工業向けの U 字ケルシマ(ブラウン管用の絶縁部品)の量産化を主導している[2]。老舗の碍子メーカーにあって、稲盛 氏は新素材であるファインセラミックスの分野で早くから実績を積み重ねていった。

だが松風工業の経営は悪化し、技術陣の処遇と新製品の事業化方針を巡って上層部との対立が深まっていった。1958年末から翌年初頭にかけて、稲盛 氏を含むセラミック開発陣の主要メンバーが連袂退職する事態に至った[3]。退職組の受け皿として動いたのが、稲盛 氏の技術を高く評価していた宮木電機の宮木男也 氏と西枝一江 氏で、両氏は新会社の設立に踏み切った[4]。技術者集団が行き場を失いかねないなか、京都の実業家たちが個人の資力で受け皿を用意した。

決断

宮木電機の倉庫と300万円の出資

1959年4月1日、京都市中京区西ノ京原町の宮木電機の倉庫を借り受けた工房で、資本金300万円・従業員約30名の京都セラミック株式会社が発足した[5]。宮木電機社長の宮木男也 氏は、出資は子会社化のためではなく「稲盛という青年に賭ける」ものであり、「ムダ金になることもある」(私の履歴書 稲盛和夫 2004)と述べたと記録されている[6]。専務の西枝一江 氏は自宅を担保に銀行から個人借入を起こし、必要資金を融通した[7]

出資の中核は宮木男也 氏と西枝一江 氏の二人で、両氏と京都の実業家・交川有 氏らが個人として株式の大半を引き受けた。創業時の筆頭株主は宮木男也 氏の4,300株、技術者本人の稲盛 氏は3,500株で第4位にとどまり、技術者が筆頭株主にならない独特な資本構成となった[8]。会社は初年から松下電子工業向けの U 字ケルシマを月産20万本で量産し、1961年度には営業利益11.9百万円で黒字化を果たしている[9]

国内の門前払いと渡米営業

創業期の主力である U 字ケルシマは安定した収入をもたらしたが、新規顧客の開拓は難航した。稲盛 氏は後年、「私も27歳と若く、製品を大手電子メーカーに売り込みに行っても、無名会社の若僧ということで、日参してもなかなか相手にしてもらえなかった」(野田経済 京セラ精神で一丸 1973/12)と、国内大手の門前払いに苦しんだ日々を振り返っている[10]。その体験が、稲盛 氏を米国市場の開拓へと向かわせた。

稲盛 氏は「アメリカはベンチャービジネスの本場」で「秀れた技術については素直に認めてもらえた」(野田経済 京セラ精神で一丸 1973/12)と語り、1962年に初めて渡米した[11]。初回は受注に至らなかったが、以降も繰り返し渡米を続け、1965年に米テキサス・インスツルメンツから、1966年には米IBM から IC 用アルミナ基板の大口受注を獲得した[12]。米国での採用実績が、日本市場への信用を逆流させていった。

結果

積層セラミックパッケージと Intel

1969年、稲盛 氏は米TI社を訪れた際に技術者から、IC を湿気から守るために2枚のセラミック板を重ね合わせた試作品を見せられ、こうしたものを作れないかと持ちかけられた[13]。稲盛 氏はこの試作品に「セラミックの歴史が新しい1頁を開こうとしているのを感じた」(私の履歴書 稲盛和夫 2004)と述懐し、これが将来の命運を握る新製品に育つと直感した[14]。多層構造のパッケージが半導体の実装を変えると、稲盛 氏はいち早く読み取っていた。

技術陣は薄い密着液を塗布してプレスで圧着する工法で焼成時の層密着を実現し、世界初の積層セラミックパッケージ HDP を約3ヶ月で開発した[15]。同年、創業間もない Intel に納入していたガラスシールパッケージに不良が続いたため、京セラは HDP での代替納入を提案して受け入れられている[16]。1969年7月には鹿児島県川内に量産工場を新設し、1971年に Intel が市販した世界初の MPU・i4004 にも京セラの積層パッケージが採用された。

株式公開と急成長のなかのアメーバ経営

京都セラミックは創業から数年で売上を年々伸ばし、1963年5月には滋賀蒲生工場を新設して量産能力を拡張した。従業員数も1962年度には129名に達し、創業者の稲盛 氏が現場の細部まで目を配ることが難しくなりつつあった[17]。この時期、稲盛 氏は製造工程を「アメーバ」と呼ぶ独立採算の小集団に分割し、各アメーバが時間当たりの付加価値で自らの採算を測る仕組みを社内に導入していった[18]。後に「アメーバ経営」として体系化される管理手法の原型が、急成長下の現場運用として早くに生まれた。

半導体パッケージの量産投資が拡大するなか、京都セラミックは公開企業として資金調達の基盤を整えた。1971年10月、設立12年目で大阪証券取引所市場第二部に株式を上場し、翌1972年9月には東京証券取引所市場第二部にも上場している[19]。1972年3月期には売上高が65億円規模に達し、従業員数も1,000名を超え、宮木電機の倉庫を借りた約30名の工房は、十数年で半導体パッケージの量産メーカーへと姿を変えた[20]

出典・参考
  • 私の履歴書 稲盛和夫(日本経済新聞社, 2004)
  • 京セラ社史(2000)
  • 野田経済 京セラ精神で一丸 1973/12
  • 有価証券報告書(沿革)
  • 日経ビジネス 1975/07/09

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