第二電電(DDI)設立への出資決断
1984年実施本業のセラミックと無縁の通信事業に、京セラはなぜ中心となって出資したのか——巨大NTTへの新規参入という賭け
- 概要
- 1984年6月、京セラ社長の稲盛和夫氏が発起人となり、通信自由化を受けて第二電電企画(後のDDI・現KDDI)の設立に出資した経営判断。ファインセラミックと電子部品を本業とする京セラが、経営の責任を負う中心企業として、巨大なNTTが独占してきた通信市場への新規参入に挑んだ。
- 背景
- 1984年に電気通信事業法が成立し、翌1985年4月の施行で電電公社は民営化されてNTTとなり、通信市場が民間の新規参入に開かれた。長距離電話の料金が高い状況に稲盛は疑問を抱き、料金を下げて国民の負担を軽くする事業機会をそこに見た。
- 内容
- 稲盛は盛田昭夫・飯田亮ら新興企業の経営者に呼びかけ、京セラをはじめとする中核5社が責任を負う「緩い連合体」を組んだ。NTT出身の千本倖生を招いて技術陣を固め、稲盛自身は会長として本人出席を義務づけた月1回の取締役会に臨んだ。
- 含意
- 第二電電は1985年4月に事業を始め、値下げでNTTに挑んだ。2000年10月にKDD・IDOと合併してKDDIとなり、京セラは主要な株主として残った。本業と無縁の分野へ資本と情熱を注いだこの出資は、稲盛が私心の有無を自らに問うて決めた賭けだった。
志は事業の成否とどう関わるか
この判断の特徴は、財務の必要からではなく、通信料金の高さという社会の不合理へ、本業と無縁の経営者が私財を賭けて挑んだ点にある。京セラをファインセラミックで一代のうちに大企業へ育てた稲盛は、その成功体験をいったん脇に置き、巨大なNTTが独占してきた市場へ後発で割り込んだ。出資と危険を中核5社で分け合い、責任の所在をはっきりさせた「緩い連合体」の設計は、一社では背負いきれない賭けを、共同の事業として成り立たせるための工夫だった。
もっとも、料金を下げて国民の負担を軽くするという公益の旗印と、私心の有無を毎晩みずからに問うたという逸話は、事業の採算とは別の次元に置かれている。装置産業の通信で新規参入者が生き残れた例は多くなく、DDIがKDDIへ結実したのは、値下げ需要と携帯電話の普及に恵まれた面も否めない。本業の外へ資本と情熱を注いだこの決断は、経営判断を採算だけで測ってよいのか、動機や志は事業の成否とどう関わるのか——今日の企業にも重い問いを残している。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
電電公社の独占が解かれた
1980年代前半、国内の電話は日本電信電話公社がほぼ独占し、とりわけ長距離の料金は高かった。1984年に電気通信事業法が成立し、翌1985年4月の施行にあわせて電電公社は民営化されてNTTとなり、通信市場は民間の新規参入に開かれた。京セラ社長の稲盛和夫氏は、長距離電話の料金の高さに以前から疑問を抱いており、新規参入で料金が下がれば国民の負担が軽くなると考えていた[1][2]。
本業と技術のつながりが薄い通信
京セラは、絶縁部品や半導体パッケージといったファインセラミックと電子部品を本業とし、1984年3月期には単体で売上高2197億円、経常利益516億円をあげる高収益企業へ育っていた。稲盛が挑もうとした通信は、この本業と技術のつながりが薄い分野だった。巨大なNTTを相手に全国の回線網を敷くには巨額の資金が要り、稲盛は出資と危険を京セラ一社に集めず、複数の企業で分け合う道を選ぶ[3]。
決断
稲盛が呼びかけた「緩い連合体」
1984年6月、稲盛はソニーの盛田昭夫、セコムの飯田亮ら新興企業の経営者仲間に呼びかけ、第二電電企画を設立した。牛尾電機の牛尾治朗、三菱商事の三村庸平も非常勤取締役として名を連ねる。日常の業務は京セラ副会長を兼ねる森山信吾ら常勤役員に委ね、京セラをはじめとする中核5社が責任を負った。株主が横並びで寄り合う会社ではなく、責任の所在をはっきりさせた連合だった[4]。
技術と人も、寄せ集めで済ませなかった。DDIは電電公社系の人材派遣子会社にほとんど頼らず、独自の募集と引き抜きでNTTの技術者を20人あまり集める。先陣を切ったのがNTT出身の千本倖生で、それまで京セラの常務を兼ねていたが、DDIの経営に専念するため京セラの役員を退いた。稲盛は会長として、本人出席を義務づけた月1回の取締役会に臨み、工事が始まると東京・虎ノ門の本社に足繁く通った[5]。
「動機善なりや、私心なかりしか」
稲盛は、この参入を私利のためではないと繰り返した。DDIの創業にあたり社員には株を持たせながら、自分は一株も買わず、金のために事業を始めるのではないという考えを形で示す。社員にまず語ったのも、たった一度の人生を燃やしてみないか、電電公社の民営化で通信に挑めるのは百年に一度あるかないかだ、という志への誘いだった。京セラを一代で大企業へ育てた経営者が、なお本業と無縁の通信へ私財を投じる。稲盛は毎晩、その動機は善なのか、私心はないのかと、自らに厳しく問うたという[6][7]。
結果
DDI発足からKDDIへ
第二電電は1985年4月に事業を始め、専用回線から公衆電話へと料金競争を挑んだ。新規3社のなかでDDIは民間色が最も濃く、本業のセラミックで培った歩留まり管理やコスト低減の作法を通信の現場にも持ち込んで、地道な営業で顧客を広げていく。稲盛は京セラの経営を後進へ譲って会長となったのちもDDI会長を兼ね、1994年の時点でも両社の会長を担った[8]。
第二電電はその後も伸び、2000年10月に国際電電(KDD)と日本移動通信(IDO)を合併してディーディーアイとなり、翌2001年にKDDIへ社名を改めた。長距離・国際・携帯という異なる基盤が一社に束ねられ、NTTドコモに次ぐ通信大手が生まれる。京セラは合併後もKDDIの主要な株主として残り、1984年に本業の外へ投じた出資は、関連会社という別の柱を抱える結果へつながった[9][10]。
- 日経ビジネス 1985年10月14日号「第二電電。民間色を強く前面に」
- 日経ビジネス 1994年10月3日号「稲盛和夫氏[京セラ会長兼DDI(第二電電)会長]」
- 京セラ 有価証券報告書(2009年3月期)
- KDDI株式会社 企業情報 沿革
- 京セラ 稲盛和夫オフィシャルサイト「第二電電(現KDDI)を設立(1984年)——動機善なりや、私心なかりしか」
- 会社年鑑(1984年3月期・単体財務)