ニデックニデック創業——資本金200万円の精密小型モータが、米国経由の信用でHDDモータの世界シェアへ
国内大手に「若すぎて信用がない」と拒まれた27歳・永守重信 氏は、精密小型モータをどう米国経由の信用で世界市場へ結びつけたか
- 概要
- 1973年7月、ティアック・山科精機で計6年勤めた27歳の永守重信 氏が、京都市西京区で資本金200万円の日本電産株式会社を発足させた。国内の大手電機メーカーに「若すぎる、信用がない」と取引を拒まれたため渡米し、電話帳から探し当てた米3Mから5億円の受注を得て、米国での採用実績を国内信用へ逆流させる営業の型を創業直後に固めた。
- 背景
- 永守 氏は開業資金を貯めるのに最低10年はかかると見て35歳での独立を計画していたが、1972年以降の列島改造ブームによる土地投機とインフレ、円高への急転換を変動期の好機と読み替え、独立を7年前倒した。家族や周囲は全員が反対し、創業3ヶ月後の第一次オイルショックが省エネ要請を高め、創業前から手掛けていたブラシレスモータの需要拡大という追い風が偶然に重なった。
- 内容
- 創業初期の売上は95%が輸出で構成され、1974年にはオムロン創業者・立石一真 氏が主宰する京都エンタープライズ・デベロップメント(KED)から500万円の出資を受けた。その事実そのものが金融機関の融資を引き出し、調達資金は1975年2月に稼働した京都府亀岡工場へ集中投入された。米国の受注と国内の資本評価を外部から取り込み、生産基盤の整備を同じ時期に並行して進めた。
- 含意
- 1979年10月に8インチHDD向けスピンドルモータの開発へ踏み込み、1985年には不況下で45億円を投じて滋賀第3工場を新設し増産へ転じた。1988年3月期に売上258億円・経常利益26億円を計上して同年11月に京都・大阪両証券取引所市場第二部へ上場し、翌1989年の信濃特機買収で合併後の世界シェアは約88.7%に達した。
無名の技術者が信用を外から調達した創業
この創業から見えてくるのは、製品の性能ではなく企業の歴史と実績で取引の可否が決まる国内市場の慣行に、無名の新興メーカーがどう向き合ったかという問題である。永守 氏は国内で得られなかった信用を、性能と価格だけで評価される米国市場での採用実績と、日本初のベンチャーキャピタルからの出資という二つの外部評価に置き換えていったとみられる。若さと実績の乏しさという弱みを、評価の場を移すことで補った経緯が読み取れる。
もう一つ浮かび上がるのは、創業初期に固めた米国経由の信用調達という方法が、その後の集中投資を支える下地になっていた点である。国内で拒まれた無名メーカーが米国での実績を日本市場への信用へ逆流させた経路は、HDD向けスピンドルモータへの集中投資と、世界シェア約88.7%に至る独占的な地位の土台になっていったといえる。信用そのものを経営資源として外から取り込む手つきが、精密小型モータの専業メーカーを短期間で世界市場へ押し上げていったと読める。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
ティアック・山科精機の6年と、7年早めた独立
永守重信 氏は音響機器メーカーのティアックと山科精機で計6年にわたり、モータ技術に携わる技術者として勤めた[1]。当初は開業資金を貯めるのに最低でも10年はかかると見込み、35歳での独立を計画していた。だが独立は結果として7年早まった。サラリーマンとして経験を重ねながら、いずれ精密小型モータの専業メーカーを興す構想を、20代のうちから温めていた。
独立を早めた判断について、永守 氏は「1972年以降の列島改造ブームで土地投機やインフレが急速に進行し、世の中が混乱の兆しを見せていた」と述べ、「世の中が混乱しているときとか、変動期にある時というのはチャンスも多い」(東海総研マネジメント 1994/2)と当時の読みを振り返っている[2]。土地投機とインフレ、円高ドル安への急転換という経済の混乱を、氏はむしろ好機と捉え直していた。家族や周囲は独立に反対し、母からは人の倍働けるなら成功するという言葉が送られたと記録されている。
決断
京都市西京区の資本金200万円と、創業3ヶ月後のオイルショック
1973年7月、京都市西京区で資本金200万円の日本電産株式会社が発足した[3]。従業員は永守 氏を含む数名で、精密小型モータの専業メーカーとしての船出であった。創業から3ヶ月後の10月に第一次オイルショックが起こり、省エネルギーと省力化への要請が社会全体で高まった。永守 氏が創業前から手掛けていたブラシレスモータは、ブラシの摩耗がなく保守の手間が少ないという特性を備え、この省エネ要請と合致して需要が伸びる追い風が偶然に重なった。
永守 氏は自信作の精密小型モータを携えて国内の大手電機メーカーを回ったが、取引はことごとく断られた。氏は後年、「製品がダメなのか」と尋ねると「いや製品はいい」と返され、それでも「君は若すぎて経験もない。立派な工場もないし、お金もない」(東海総研マネジメント 1994/2)と取引を拒まれた現場を振り返っている[4]。製品の性能ではなく、企業の歴史と実績で取引の可否が決まる国内市場の慣行が、無名の新興メーカーの前に壁として立ちはだかった。
電話帳から探し当てた3Mと、5億円の初注文
国内での営業を見切った永守 氏は渡米し、電話帳を頼りに3M(スリーエム)を訪ねた。氏は「あなたの会社の機械で使っているモーターを半分の大きさにできる」(日経産業新聞 2016/4/28)と売り込み、3Mはまずサンプル品を発注した[5]。出来上がった試作を見た3Mは高く評価し、続けて5億円という創業間もない会社には破格の注文を出した[6]。年齢や資本金ではなく性能と価格で評価される市場を国外に見つけ出したことが、無名メーカーの最初の足がかりとなった。
3Mの採用を機に、創業初期の日本電産は売上の95%が輸出で構成された[7]。米国の大手企業に採用された実績は、国内では得られなかった信用を外から取り込む働きをした。国内大手に門前払いされた無名メーカーが、性能評価の本場である米国での実績を、日本市場への信用へと逆流させていった。この営業の型が創業直後に固まり、以後の受注開拓を支える方法として定着した。
結果
KEDの出資が変えた資金繰りと、亀岡工場
1974年、永守 氏はオムロン創業者の立石一真 氏が主宰する京都エンタープライズ・デベロップメント(KED)から500万円の出資を受けた[8]。氏はこの出資について「500万円というお金は、決して大金ではありませんでした」としつつ、「それまで貸し渋っていた金融機関が、むしろ積極的にお金を貸してくれるようになりまして」「KEDのお陰で一気に信用がついた」(東海総研マネジメント 1994/2)と振り返っている[9]。日本初のベンチャーキャピタルからの出資という事実そのものが、金融機関の融資を引き出す信用として働いた。
調達した資金は京都府亀岡市の工場建設へ集中的に充てられ、1975年2月に亀岡工場が稼働した[10]。創業期の日本電産は、3Mの受注によって米国での採用実績を、KEDの出資によって資本市場の評価を、それぞれ無形の信用として外部から取り込んでいた。二つの信用を手掛かりに、運転資金の確保と生産基盤の整備が同じ時期に並行して進んだ。1976年4月には米国ミネソタ州セントポールに現地法人を設け、海外拠点を広げる出発点とした[11]。
HDDスピンドルモータへの集中投資と、独占への到達
1979年10月、日本電産は8インチ型ハードディスクドライブ向けのスピンドルモータ開発に着手した[12]。極めて高い回転精度が求められる領域で、量産化までに数年の集中的な開発期間を要した。1985年には不況下で日本電産は危ないという根拠のない噂が業界に流れたが、永守 氏は大手企業からの引き合いが強いことを根拠に、45億円を投じて滋賀県に第3工場を新設し増産へ転じた[13]。要求精度の高いコンピュータ周辺機器向けモータへ経営資源を集めるこの選択が、後のシェア拡大を支えた。
この集中投資は数年を経て数字に表れた。1988年3月期に日本電産は売上258億円・経常利益26億円を計上し、同年11月に京都証券取引所と大阪証券取引所市場第二部へ株式を上場した[14]。1989年にはHDD向けスピンドルモータで世界シェア72.2%、生産台数1400万台に達し、世界シェア16.5%の2位・信濃特機を引き離した[15]。同年、価格競争で債務超過に陥った信濃特機をティアックから買収し、公正取引委員会に「従業員の雇用を維持する」(小型ハードディスクに関する市場調査 1990)と確約して独占禁止法の認可を得て、合併後の世界シェアは約88.7%に達した[16]。
- 有価証券報告書(沿革)
- 東海総研マネジメント 1994/2
- 日経産業新聞 2016/4/28
- 日経ビジネス 1989/3/27
- 小型ハードディスクに関する市場調査 1990
- 日経産業新聞 1989/5/22