ALSOK:地域会社32社の独立採算と家庭向け機械警備タクルス
1980年〜本社から分社化した地域会社32社と常駐警備の切り出し
綜合警備保障の地域会社は1980年4月時点で32社を数え、どこも黒字を出していた。村井順社長の見立てでは、支社という形のままだと本社に頼る気持ちが抜けない。独立採算の別会社に切り出せば、働いて努力した分がそのまま業績の数字に表れ、社員の取り組みにも本気さが出る。分社で採算を見る単位を細かくし、親方日の丸の意識をなくすことを狙った。車の扱いにも違いが出た。支社だったころは古くなった車を新車に替えていたが、地域会社になってからは、整備すればまだ走れる車は使い続けるようになった。グループが使う自動車は全体で1,700台に上り、一台ごとの使用期間を半年延ばすだけでも費用に大きな差が出た。
- 日経ビジネス 1980年4月21日号(須藤公明)
- [1]1980年4月時点で地域会社は32社に上り、すべて黒字
- [2]村井順社長は「支社ならば本社への甘えが残るが、別会社化して独立採算にすれば、労働、努力の結果が素直に業績に反映されるので、従業員は真剣になる」と述べた
- [3]利益単位としての小集団化が、親方日の丸意識をなくす
- [4]青木香取締役は「支社時代には中古になったからといって自動車を買い替えていたものが、地域会社になると、手を入れればもう少し使えるというようになった」と述べた
- [5]グループ全体で1700台の自動車を使っている
地域会社が黒字を外さなかったのは、渡す事業を選んでいたからである。本社は財産・社員・顧客・ノウハウを対価なしで地域会社へ渡したが、切り出した業務は資本がなくても人さえいれば回る常駐警備に限った。機械警備の要であるガードセンターの中央監視装置は、契約先で異常が起きれば直ちに消防署と警察署へ通報する設備であり、生まれたばかりの地域会社が抱えるには重すぎた。償却の負担が大きい機械警備は本社が持ち、地域会社には常駐警備で稼いだ利益を蓄えて地力をつけ、そのうえで打って出ることが求められた。確実に稼げる部分に限って移した結果、地域会社が赤字を出す心配はほとんどなかった。
- 日経ビジネス 1980年4月21日号(須藤公明)
- [6]支社が築き上げた財産、社員と顧客、そしてノウハウをタダで譲渡する作戦
- [7]資本がいらず人間でできる常駐警備から分離している
- [8]ガードセンターの中央監視装置は、どの契約先のどこに事故が発生したかを認知すると同時に消防署、警察署に通報する
- [9]償却負担のかかる機械警備は、常駐警備で利益を蓄積、体力をつけてから出て来ればよく、それまでは本社で受け持つという方針
- [10]収益が保証されている部分を切り離すため、滅多なことでは地域会社は赤字経営にならない
村井順社長は、先々の成長と得意先の開拓をにらみ、地域会社の資本金の最大50%をその土地の会社や有力者に引き受けてもらうことにした。海外の警備会社が日本へじかに乗り込んでくるという話をあまり聞かないのには、理由がある。警備は各国の社会の仕組みに深く結びついており、機械などのハード面は他国でもまねられても、ソフト面は模倣できない場合が多いからである。地域会社は社員も自前で採用して地元に根を張り、30代後半から60代前半まで年齢に幅のある各社の社長に対し、村井社長は、指導しても口出しはせず、手を貸しても従わせはしないという原則で臨んだ。
- 日経ビジネス 1980年4月21日号(須藤公明)
- [11]先々の発展、顧客獲得をねらって、地域会社の資本金の50%までは地元の企業や名士に出資してもらっている
- [12]地域会社の資本金の50%までは、地元の企業や名士に出資してもらっている
- [15]従業員も地域会社は独自に採用し、地に根を張る作戦
- [16]村井順社長は「地域会社の社長は30代後半から60代前半までバラバラだが、指導するが干渉しない、協力するが支配しないことを原則にしている」と述べた
- Softnomics 2000年「トップに訊け 綜合警備保障株式会社 代表取締役副社長 村井温氏」
- [13]村井温副社長は、海外の警備会社が日本に直接進出するという話をあまり聞かないのは、警備のソフトの部分が真似できないためで、安全にも文化があると述べた
- [14]村井温副社長は、警備はその国の社会構造に深く根ざしているため、機械のようなハードの部分は外国で真似ができても、ソフトの部分は真似できないことが多いと述べた
参考文献[1]-[16]
- 日経ビジネス 1980年4月21日号(須藤公明)
- [1]1980年4月時点で地域会社は32社に上り、すべて黒字
- [2]村井順社長は「支社ならば本社への甘えが残るが、別会社化して独立採算にすれば、労働、努力の結果が素直に業績に反映されるので、従業員は真剣になる」と述べた
- [3]利益単位としての小集団化が、親方日の丸意識をなくす
- [4]青木香取締役は「支社時代には中古になったからといって自動車を買い替えていたものが、地域会社になると、手を入れればもう少し使えるというようになった」と述べた
- [5]グループ全体で1700台の自動車を使っている
- [6]支社が築き上げた財産、社員と顧客、そしてノウハウをタダで譲渡する作戦
- [7]資本がいらず人間でできる常駐警備から分離している
- [8]ガードセンターの中央監視装置は、どの契約先のどこに事故が発生したかを認知すると同時に消防署、警察署に通報する
- [9]償却負担のかかる機械警備は、常駐警備で利益を蓄積、体力をつけてから出て来ればよく、それまでは本社で受け持つという方針
- [10]収益が保証されている部分を切り離すため、滅多なことでは地域会社は赤字経営にならない
- [11]先々の発展、顧客獲得をねらって、地域会社の資本金の50%までは地元の企業や名士に出資してもらっている
- [12]地域会社の資本金の50%までは、地元の企業や名士に出資してもらっている
- [15]従業員も地域会社は独自に採用し、地に根を張る作戦
- [16]村井順社長は「地域会社の社長は30代後半から60代前半までバラバラだが、指導するが干渉しない、協力するが支配しないことを原則にしている」と述べた
- Softnomics 2000年「トップに訊け 綜合警備保障株式会社 代表取締役副社長 村井温氏」
- [13]村井温副社長は、海外の警備会社が日本に直接進出するという話をあまり聞かないのは、警備のソフトの部分が真似できないためで、安全にも文化があると述べた
- [14]村井温副社長は、警備はその国の社会構造に深く根ざしているため、機械のようなハードの部分は外国で真似ができても、ソフトの部分は真似できないことが多いと述べた
1980年〜50時間の新人教育と合格率20%の昇格試験
会社の盛衰は社員をどう育て、働きにどう報いるかで決まると村井順社長は考えており、その根には、サービス業では人こそが最も大きな資産だという見方があった。東京と大阪に置いた研修所は空きが出ないほど稼働し、教育費は審査抜きで通った。入社直後の研修は5泊6日で50時間を超え、業界平均である20時間の2倍半に及んだうえ、半年たつと1泊2日・約18時間の研修が再び組まれた。社長自身も社員と直接対話する場を年100回以上持つと決め、胸にしまった思いを聞いてもらいたい社員のために木曜の午後をまるごと空けていた。
- 日経ビジネス 1980年4月21日号(須藤公明)
- [17]サービス産業の企業にとって人材が最大の財産で、従業員の教育と働きに対する報酬、報い方が浮沈のカギになるという村井順社長の考え
- [18]青木香取締役は「東京と大阪に研修所があるが、使わない日はない。教育関係の費用はノーチェックですべて通す」と述べた
- [19]新人教育は5泊6日で50時間以上。業界の平均は20時間で、その2倍半にあたる
- [20]新人教育の半年後に1泊2日、18時間ほどの研修をする
- [21]村井順社長は「最低、年に100回は従業員と直接対話している。言い足りない、話を聞いてほしいという従業員に、木曜の午後はすべて空けて待っている」と述べた
社内資格は新入社員から部長まで10段階あり、下から6段目の司令までは筆記試験と役員面接で選ばれた。昇格試験に通るのは20%前後にとどまった。情実も学歴も判断材料にしない試験で昇進が決まる仕組みである。昇任が決まった者は、1泊2日で18時間に及ぶ研修をあらためて受けた。実力本位の人事は具体例にも表れ、本社総務部長には高卒で入社した生え抜き、山口綜合警備保障の社長には30代の若手が就いた。高卒者の定着率は85%で業界トップに立ち、70%がせいぜいという業界平均を大きく上回った。人手そのものが商品である業種では、辞めない人を作ることは、採り直す人を減らすことと同じ意味を持った。
- 日経ビジネス 1980年4月21日号(須藤公明)
- [22]新入社員から部長まで社内資格は10段階。その6段目、司令までは筆記試験と役員面接によって選抜し、昇格試験の合格率は20%前後
- [23]昇進は情実も学歴も一切関係ない試験制度でなされている
- [24]昇任となれば、また1泊2日、18時間にわたる昇任研修が待ち受けている
- [25]青木香取締役は「本社の総務部長は高卒の生え抜き。地域会社でいえば、山口綜合警備保障の社長に30代の若手を就けている。人事は実力一本でしている」と述べた
- [26]高卒の定着率は85%で業界一。業界平均は精々70%
効率の向上で上がった利益を従業員へ分配する制度も置いた。特別賞与がそれで、夏は2か月、冬は3か月を基準とし、業績が上がればこれ以外に7月と9月へ1か月ずつ出した。従業員にとっては約束された成功報酬だったが、会社はこれを翌年の賃上げ原資であり、負担能力を推し量るモノサシになると位置づけた。固定給を先へ積めば景気が落ちても下げられないが、賞与で配れば、払える年に払って翌年の水準を決められる。1979年6月期の売上高は311億円、地域会社を含めたグループでは485億円に達し、従業員は6,500人、グループでは1万1,500人を数えた。資本金は1億2,000万円にとどまっていた。
- 日経ビジネス 1980年4月21日号(須藤公明)
- [27]効率向上であがった利益を従業員に分配する制度がある
- [28]特別賞与は夏2カ月、冬3カ月が基準。業績があがれば、これ以外に7月と9月に1カ月ずつ出す
- [29]特別賞与は翌年の賃上げ原資であり、負担能力を推し量るモノサシになる
- [30]1979年6月期の売上高は311億円、グループでは485億円。従業員は6500人、グループは1万1500人
- [31]資本金は1億2000万円
参考文献[17]-[31]
- 日経ビジネス 1980年4月21日号(須藤公明)
- [17]サービス産業の企業にとって人材が最大の財産で、従業員の教育と働きに対する報酬、報い方が浮沈のカギになるという村井順社長の考え
- [18]青木香取締役は「東京と大阪に研修所があるが、使わない日はない。教育関係の費用はノーチェックですべて通す」と述べた
- [19]新人教育は5泊6日で50時間以上。業界の平均は20時間で、その2倍半にあたる
- [20]新人教育の半年後に1泊2日、18時間ほどの研修をする
- [21]村井順社長は「最低、年に100回は従業員と直接対話している。言い足りない、話を聞いてほしいという従業員に、木曜の午後はすべて空けて待っている」と述べた
- [22]新入社員から部長まで社内資格は10段階。その6段目、司令までは筆記試験と役員面接によって選抜し、昇格試験の合格率は20%前後
- [23]昇進は情実も学歴も一切関係ない試験制度でなされている
- [24]昇任となれば、また1泊2日、18時間にわたる昇任研修が待ち受けている
- [25]青木香取締役は「本社の総務部長は高卒の生え抜き。地域会社でいえば、山口綜合警備保障の社長に30代の若手を就けている。人事は実力一本でしている」と述べた
- [26]高卒の定着率は85%で業界一。業界平均は精々70%
- [27]効率向上であがった利益を従業員に分配する制度がある
- [28]特別賞与は夏2カ月、冬3カ月が基準。業績があがれば、これ以外に7月と9月に1カ月ずつ出す
- [29]特別賞与は翌年の賃上げ原資であり、負担能力を推し量るモノサシになる
- [30]1979年6月期の売上高は311億円、グループでは485億円。従業員は6500人、グループは1万1500人
- [31]資本金は1億2000万円
1982年〜日本電気と立石電機に委ねた機械と家庭向けタクルス
警備は人の数に頼るものから、機械が主役を担うものへと変わりつつあった。コンピューターを使うシステムを入れた百貨店や超高層ビルでは、配置する要員が半減している。ただし、コンピューターや各種センサーを自ら設計して作る技術は綜合警備保障になく、日本電気や立石電機などの力を借りた。一流メーカーとの提携を原則にしたのは、警備の需要が多様になり地域も広がるなかで、自前では応じられないとみたためである。消防設備士や電気工事士など700人を超える有資格者を社内に抱えていたから、正確さや扱いやすさの面で細かい注文をメーカーに数多く出すことができた。
- 日経ビジネス 1980年4月21日号(須藤公明)
- [32]警備も、人手依存から機械中心の時代になっている
- [33]小原清・綜合警備研究室参事は「百貨店や超高層ビルの場合、コンピューターを利用したシステムを導入することで、人手は半分になった」と述べた
- [34]コンピューターや各種センサーを設計、生産するノウハウはなく、日本電気や立石電機などに依存している
- [35]一流メーカーと手を組むことが基本で、そうしなければ多様化、広域化する警備に対応できないという判断
- [36]消防設備士、電気工事士などの有資格者が700人を超える
- [37]設計の段階では、正確さ、使い易さを考慮して様々な注文をつけている
異常を見つけるだけで終わらせず、手当てまでしてこそ警備だという点で、村井順社長と小原清参事の考えは同じだった。綜合警備保障は1982年12月にビルメンテナンスで菱電サービスと提携し、1983年3月には東京都公安委員会の警備業認定証を第1号として受けた。1984年9月に設けた綜警電気工事は、警備用機器の据え付け工事を受け持つ会社である。発見から処置までを自社の人員と機器で完結させるには、機器を売って取り付け、点検のたびに建物へ入り続ける工程まで手元に置く必要があった。その工程を自前で組めたのは、機械警備と有資格者を本社が抱えたままだったからだ。
- 日経ビジネス 1980年4月21日号(須藤公明)
- [38]村井順社長も小原清参事も、火災や侵入を発見するだけでは警備ではなく、処置をしてこそ意味があると異口同音に述べた
- ALSOK 有価証券報告書【沿革】
- [39]1982年12月、ビルメンテナンスの分野で菱電サービスと業務提携
- [40]1983年3月、東京都公安委員会による警備業認定証(第1号)を取得
- [41]1984年9月、警備用機器の設置工事を行う綜警電気工事を設立
1941年2月に東京で生まれた村井恒夫氏は、1964年3月に慶応義塾大学商学部を卒業して日本勧業銀行に入ったが、就職先を銀行にしたのは動く日本経済を間近で確かめたかったからだと本人は語っている。綜合警備保障では1968年8月の取締役就任に始まり、1970年8月に常務、1980年11月に副社長、1982年9月に代表取締役副社長と昇り、1986年9月に代表取締役社長となった。一般家庭向けの機械警備「タクルス」を同社が開発・発売したのは1988年4月である。法人の建物を守ってきた仕組みを住宅へ向け直した商品である。ただし2000年の時点でも家庭向け警備の普及率は全警備会社を合わせて1%に達しておらず、タクルスは市場が育つのを待つ商品だった。
- 日経ビジネス 1986年11月24日号(藤田俊一)
- [42]村井恒夫は昭和16年(1941年)2月10日、東京生まれ
- [43]1964年3月に慶応義塾大学商学部を卒業し、同年4月に日本勧業銀行へ入行
- [44]銀行を選んだのは「生きた日本経済を自分の目で見てみたかったから」
- ALSOK 有価証券報告書【役員の状況】
- [45]1968年8月に当社取締役就任、1970年8月に常務取締役、1980年11月に取締役副社長、1982年9月に代表取締役副社長
- [46]村井恒夫は1986年9月に代表取締役社長に就任
- ALSOK 有価証券報告書【沿革】
- [47]1988年4月、一般家庭向け機械警備「タクルス」を開発、発売
- Softnomics 2000年「トップに訊け 綜合警備保障株式会社 代表取締役副社長 村井温氏」
- [48]村井温副社長は、ホームセキュリティの日本での普及率は全警備会社を含めても1%にも達していないと述べた
参考文献[32]-[48]
- 日経ビジネス 1980年4月21日号(須藤公明)
- [32]警備も、人手依存から機械中心の時代になっている
- [33]小原清・綜合警備研究室参事は「百貨店や超高層ビルの場合、コンピューターを利用したシステムを導入することで、人手は半分になった」と述べた
- [34]コンピューターや各種センサーを設計、生産するノウハウはなく、日本電気や立石電機などに依存している
- [35]一流メーカーと手を組むことが基本で、そうしなければ多様化、広域化する警備に対応できないという判断
- [36]消防設備士、電気工事士などの有資格者が700人を超える
- [37]設計の段階では、正確さ、使い易さを考慮して様々な注文をつけている
- [38]村井順社長も小原清参事も、火災や侵入を発見するだけでは警備ではなく、処置をしてこそ意味があると異口同音に述べた
- ALSOK 有価証券報告書【沿革】
- [39]1982年12月、ビルメンテナンスの分野で菱電サービスと業務提携
- [40]1983年3月、東京都公安委員会による警備業認定証(第1号)を取得
- [41]1984年9月、警備用機器の設置工事を行う綜警電気工事を設立
- [47]1988年4月、一般家庭向け機械警備「タクルス」を開発、発売
- 日経ビジネス 1986年11月24日号(藤田俊一)
- [42]村井恒夫は昭和16年(1941年)2月10日、東京生まれ
- [43]1964年3月に慶応義塾大学商学部を卒業し、同年4月に日本勧業銀行へ入行
- [44]銀行を選んだのは「生きた日本経済を自分の目で見てみたかったから」
- ALSOK 有価証券報告書【役員の状況】
- [45]1968年8月に当社取締役就任、1970年8月に常務取締役、1980年11月に取締役副社長、1982年9月に代表取締役副社長
- [46]村井恒夫は1986年9月に代表取締役社長に就任
- Softnomics 2000年「トップに訊け 綜合警備保障株式会社 代表取締役副社長 村井温氏」
- [48]村井温副社長は、ホームセキュリティの日本での普及率は全警備会社を含めても1%にも達していないと述べた
筆者考察
分社は組織図の書き換えではなく、資本をどこに置くかを決める作業だった。綜合警備保障が地域会社へ渡したのは、人を配置すれば成り立つ常駐警備であり、本社に残したのは、センサーと監視装置を買い揃えなければ動かない機械警備である。前者は赤字になりにくく、後者は投資を回収するまで赤字を出す。32社すべてが黒字だったという1980年の数字は、地域会社の経営が優れていた証明ではなく、赤字の出る部分を本社が引き受けた結果でもあった。村井順社長が、常駐警備で体力をつけてから機械警備へ出て来ればよいと言ったのは、順番の指定であって、地域会社を常駐だけの会社に留めるという意味ではない。
人そのものが商品になる会社は、人を安く使うか、辞めさせないかのどちらかを選ぶ。綜合警備保障は後者を採り、新人へ5泊6日50時間の教育を当て、10段階の資格と合格率20%前後の試験を置き、高卒の定着率を85%まで上げた。業界平均の70%との15ポイントの差は、毎年採り直す人数の差であり、採用と初期教育に掛ける費用の差でもある。学歴を外して高卒の生え抜きを本社の総務部長に、30代の若手を山口綜合警備保障の社長に据えたのは、公平のためというより、辞めない理由を社内に作るためだった。1988年に家庭向けのタクルスを出せたのは、機械を買う資金と、その機械の先で処置に走る人の両方が本社に揃っていたからである。
出典・参考
5件
- ALSOK 有価証券報告書【沿革】
- ALSOK 有価証券報告書【役員の状況】
- 日経ビジネス 1980年4月21日号(須藤公明)
- 日経ビジネス 1986年11月24日号(藤田俊一)
- Softnomics 2000年「トップに訊け 綜合警備保障株式会社 代表取締役副社長 村井温氏」