1919年 大和運輸株式会社を創業

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小倉康臣が、1919年11月に東京市京橋区で資本金10万円・トラック4台の大和運輸を設立。1923年の関東大震災で三越呉服店の配送を獲得、1929年に東京-横浜間で日本初の路線トラック「大和便」を運行、1976年1月に2代目・小倉昌男が宅急便で個人宅配市場を創出した。

創業〜設立から上場前後までどのようにして経営を軌道に乗せたのか?

  • 1919年11月、小倉康臣が東京市京橋区で資本金10万円・車両4台の大和運輸株式会社を設立した。当時の都心貨物は荷馬車・大八車が主流で、自動車運送は事業として未確立であり、京橋・日本橋・銀座の商業集積に隣接した立地で、呉服店・水産仲卸・問屋を相手にした都心法人配送に特化して出発した。
  • 1923年の関東大震災を契機に三越呉服店の配送を請け負い、デパート配送という安定した法人受注を獲得した。1929年4月には東京-横浜間で「大和便」を運行し、有価証券報告書が「日本最初の路線トラック事業」と記録する定期便を立ち上げ、戦前は日本一のトラック会社(日経ビジネス 1978/7/19)と評される位置に到達した。
  • 戦後1949年5月に東京証券取引所に上場し、1950年代に通運・航空貨物・海上貨物・美術品梱包へ事業を広げたが、1960年代の長距離路線参入では日本通運・西濃運輸に5年遅れて三番手に甘んじた。1971年に2代目社長へ就いた小倉昌男が1976年1月20日に宅急便を始動し、個人宅配市場の創出者へ転じる経営転換が始まった。
創業
上場
経営方針 何を目指していたか?

創業期は都心の法人配送に特化した貨物自動車事業として発足し、1929年の大和便で定期路線便へ進化、戦後は通運・航空・海上・美術品梱包へ多角化したが長距離路線で三番手に甘んじ、1971年に2代目社長の小倉昌男が個人小口宅配への戦略転換を構想して1976年1月の宅急便始動へ結実させた。

1919.11 自動車運送業として発足
1929.4 定期路線便への進化
1960 長距離路線への参入
1971 小倉昌男が2代目社長に就任
1976.1 宅急便始動による経営転換
資金調達 どう資金を工面したか?

1919年11月に資本金10万円・車両4台で発足、関東大震災後の三越配送獲得で都心配送の足場を固め、戦時下の統制を経て1949年5月に東京証券取引所へ上場し公開企業の資金調達基盤を確立、戦後の通運・航空貨物・海上貨物への多角化と長距離路線参入の設備投資を支えた。

1919.11 資本金10万円で発足
1949.5 東京証券取引所に上場
製品サービス 何を作って売ったか?

店舗向け貨物自動車輸送から発進し、1929年の東京-横浜大和便で日本初の路線トラック定期便を実現、戦後は通運(1950)・航空貨物代理店(1951・1958)・海上貨物(1952)・美術品梱包輸送(1958)と業務範囲を広げ、1976年1月の宅急便で個人小口宅配という新カテゴリーを創出した。

1919.11 都心商業貨物の自動車輸送
1929.4 大和便(東京-横浜)運行開始
1950.3 通運事業を開始
1951.1 航空貨物取扱を開始
1952.1 海上貨物取扱を開始
1958.6 美術品梱包輸送事業を開始
1958.8 国内航空貨物の取扱を開始
1976.1 宅急便のサービスを開始
主要顧客 誰に売ったか?

創業期から三越呉服店・日本橋魚河岸・銀座の商業者など都心の法人荷主に特化、関東大震災後にデパート配送が安定受注の柱となり、戦後は長距離路線で全国の製造業荷主獲得を狙ったが日通・西濃の後塵を拝し、1976年から個人荷主という未開拓の市場へ顧客基盤を反転させた。

1919 京橋・日本橋の商業者
1923 三越呉服店
1960 全国の製造業荷主(長距離路線)
1976.1 個人荷主(宅急便)
従業員数 誰と作っていたか?

1919年の創業時はトラック4台を稼働させる体制で出発、関東大震災後のデパート配送拡大と1929年の大和便運行で都心の運転手・荷扱い人員を増強、戦後の上場と多角化を経て1976年の宅急便始動時にはヤマトグループ全体で1万人を超える総合輸送業者の規模へ到達していた。

1919 創業時の少数体制
1929 大和便運行体制
1976 1万人規模のグループ体制
設備投資 どこで作っていたか?

創業地は東京市京橋区、輸入トラック4台を初期車両として配備、戦後は東京銀座への本社移転を経て通運・航空・海上の各事業拠点と全国営業所網を順次整備、1976年の宅急便始動に向けてはハブ・アンド・スポーク型の集配ターミナルと街の酒屋・米屋を取扱店として組み込む流通網設計へ進んだ。

1919.11 京橋の車庫と輸入トラック4台
1929.4 東京-横浜路線の中継拠点
1957.10 大和商事(現ヤマトオートワークス)設立
1976.1 宅急便の集配ネットワーク

ヤマトホールディングス 創業地の主な拠点一都三県 の地理(大和運輸 本社 → 宅急便 始動拠点)

日本地図 1919年 大和運輸 本社 東京市京橋区(現 東京都中央区京橋) 創業地(東京市京橋区) 1957年 ヤマト運輸 本社 東京都中央区銀座 戦後本社(東京銀座、現 東京都中央区銀座) 1976年 宅急便 始動拠点 関東一円 関東一円で宅急便サービス開始

創業時のエピソード人物・ブランド・資金調達の細部

1919年 なぜ1919年に小倉康臣はトラック運送会社を東京京橋で起こしたのか?

第一次大戦後の都心商業貨物は荷馬車と人力車が主流で、自動車輸送はまだ事業として確立していなかった。康臣は輸入トラック4台を揃え、京橋・日本橋の商家筋に近い立地で都心配送に特化した事業として立ち上げた。

1919年11月、小倉康臣は東京市京橋区で大和運輸株式会社を設立した。資本金は10万円、車両は輸入トラック4台のみで、当時の都心の貨物輸送は荷馬車・大八車・人力車が主流であり、自動車運送業は事業の形そのものがまだ確立していない時期にあたる。京橋区は日本橋魚河岸・三越呉服店本店・銀座の商業集積に隣接し、商家の店舗配送と問屋間輸送の需要が集中する立地だった。

康臣は法人荷主の店舗配送を主軸に据え、貨物自動車の機動力で荷馬車運送の代替を狙った。創業地を京橋に置いた理由は、得意先となる呉服店・水産仲卸・銀座の商業者群への距離の近さで、4台の車両を昼夜稼働させる前提の配送ロジスティクスでは、車庫から得意先までの空走距離が採算を直接左右した。

1923年 なぜ三越呉服店との取引が1923年に始まったのか?

関東大震災で日本橋・京橋の商業地が壊滅的被害を受け、復興期の店舗配送と物資搬送に貨物自動車の需要が一気に立ち上がった。創業4年目の大和運輸は三越の配送を請け負う体制に入った。

小倉昌男は後年の取材で「三越さんには大正12年から仕事をやらしていただいて、もう足を向けては寝られない恩義のある会社でした」(日経ビジネス 1981/04/20)と述べている。大正12年は1923年で、9月の関東大震災により日本橋・京橋一帯の商業地は焼失し、復興期に入ると店舗の再建と商品搬送に貨物自動車の需要が一斉に高まった。

震災復興は荷馬車から貨物自動車への切り替えを加速させた局面で、創業4年目の大和運輸は三越呉服店の配送に組み込まれ、デパート配送という安定した法人受注の足場を獲得した。三越の配送は繁忙期に出荷量が平月の10倍以上に膨れ上がる季節性を持ち、平月の設備過剰という採算上の難題を抱えていたが、この経験が後年の宅急便構想で需要平準化を採算の核に据える判断の素地となった。

1929年 なぜ1929年に東京-横浜間で日本初の路線トラック便を開始できたのか?

都心の店舗配送で蓄積した車両運用ノウハウを定期長距離便へ転用し、東京-横浜という工業地帯間の貨物需要に応えた。発地・着地・出発時刻を固定した定期運行は日本初の路線トラック事業として記録されている。

1929年4月、大和運輸は東京-横浜間で「大和便」と呼ぶ定期路線便の運行を開始した。発時刻・着時刻・経路を固定した定期便は、当時の貨物自動車運送が随時の貸切便しか想定していなかった業態を更新するものであり、有価証券報告書は「日本最初の路線トラック事業」として記録している。

路線便は車両1台あたりの貨物積載率を高め、定時運行で複数荷主の小口貨物を1便に統合する仕組みで、1台ごとの採算性を引き上げた。創業から10年で、トラック運送は貸切便から定期路線便へと事業形態を進化させ、戦後の高速道路時代に長距離路線へ参入する技術的・組織的な素地は、この大和便で築かれた。

1960年代 なぜ戦後の長距離路線参入で日通・西濃に5年遅れたのか?

戦前から関東圏の都市配送と中距離路線で実績を築いた大和運輸は、戦後の長距離路線網拡張で関西圏の知名度不足に直面し、参入のタイミングが日本通運・西濃運輸より5年遅れた。荷主の囲い込みで後塵を拝した。

小倉昌男は後に「5年の遅れは痛かった。新規開業の挨拶に回っても、すでに主な荷主は同業者に抑えられ、貨物が集まらないのには頭を抱えてしまった。西濃運輸などに大きな差をつけられていた。本当に情けなかった」(小倉昌男『経営学』1999)と振り返っている。路線トラック事業は参入順に主要荷主を押さえた会社が有利な構造で、戦前は日本一のトラック会社(日経ビジネス 1978/7/19)と評された大和運輸も、戦後の長距離路線網では三番手から抜け出せなかった。

この三番手からの脱出という構想が、1971年に2代目社長へ就いた小倉昌男の経営課題となった。法人の大口荷物で日通・西濃を追うのではなく、誰も手をつけていない個人の小口荷物に活路を求める判断は、戦前から続く法人輸送の前提そのものを反転させる構想として温められていく。

1973〜1976年 なぜ1976年1月の宅急便開始は採算が成り立つと判断できたのか?

1973年のニューヨーク視察で UPS の小型トラックが1ブロックを1台で受け持つ集配モデルを目にし、個人宅配の需要は繁忙期と平月の格差が小さく、デパート配送のような過大な設備コストに悩まされないと見抜いたため。

小倉昌男は1973年のニューヨーク視察で UPS の集配モデルを観察し、個人向け小口宅配の採算性に確信を得た。後年「デパートの配送は、平月の10倍以上に膨れ上がる繁忙期の出荷量に対応するため、平月に過大な設備を抱え、コストが割高になっている。それに対し一般個人から個人への宅配需要はせいぜい2倍止まりだろうと推定されるから、過大な設備コストに悩まされることはないと思う」(小倉昌男『経営学』1999)と述べている。

1975年8月、社内に「宅急便開発要領」を発表し、ハブ・アンド・スポーク型の全国集配網と取扱店密度で採算を成り立たせる構想を示した。1976年1月20日、電話1本で集荷し翌日配達、運賃を画一化した宅急便を始動したが、初日の取扱個数は11個にとどまった。創業から57年目の判断は、康臣が築いた法人輸送の前提を、昌男が個人輸送へ反転させる経営転換であった。

歴史的証言当事者が何を考えていたか。その思想について

小倉昌男

1923年(大正12年)の関東大震災後に三越呉服店の配送を受注した経緯を、2代目社長が後年振り返った発言

「三越さんには大正12年から仕事をやらしていただいて、もう足を向けては寝られない恩義のある会社でした。岡田さんになるまでは、繁忙期が終わると「ご苦労様。今後もよろしく」と社長から声が掛かるぐらいのことはあった。」
小倉昌男

戦後の長距離路線参入で日通・西濃に5年遅れたことが、1971年の社長就任後の経営課題として残った経緯

「5年の遅れは痛かった。新規開業の挨拶に回っても、すでに主な荷主は同業者に抑えられ、貨物が集まらないのには頭を抱えてしまった。西濃運輸などに大きな差をつけられていた。本当に情けなかった」
小倉昌男

1973年のニューヨーク視察を経て、個人向け宅配の需要平準化が採算性の核心であると見抜いた発言

「デパートの配送は、平月の10倍以上に膨れ上がる繁忙期の出荷量に対応するため、平月に過大な設備を抱え、コストが割高になっている。それに対し一般個人から個人への宅配需要はせいぜい2倍止まりだろうと推定されるから、過大な設備コストに悩まされることはないと思う」
小倉昌男

1976年の宅急便始動の動機を、2代目社長が後年自ら語った発言

「路線トラックというのは近距離小口貨物をないがしろにしてはいけないと思ってたんです。遠距離貨物は国鉄でもやれるけど、近距離小口はそうはいかない。個人的にも、親戚に子供のいらなくなった本など小さな荷物を送りたくても送る方法がない、という経験をしまして、これはやはり、何とかやらねばいかん。トラックがやらなかった誰がやるんだと痛感したんです。」
紙面論評

大和便運行から戦前期にかけての大和運輸の業界内位置付けに関する紙面論評

「戦前は日本一のトラック会社」
紙面論評

2005年の小倉昌男死去に際し、宅急便が戦後日本の消費者向け流通サービス業に与えた位置付けを評した紙面論評

「小倉昌男氏が創った「宅急便」はセブン―イレブン・ジャパンのコンビニエンスストアと並び、戦後日本が生み出した消費者向け流通サービス業の金字塔といえよう」

参考文献

  • 有価証券報告書
  • 日経ビジネス 1978/7/19
  • 日経ビジネス 1981/04/20
  • 小倉昌男『経営学』1999
  • 日経ビジネス 1987/11/9
  • 日経MJ 2005/7/4