志摩スペイン村への投資と実質撤退

鉄道の伸び悩みを補う「第二の収益柱」構想は、なぜ9年でリゾート法第一号の解体を迫られたか

更新:

時期 1990年12月
意思決定者 金森茂一郎 近畿日本鉄道 社長
論点 リゾート新規事業投資の採算と、鉄道事業に次ぐ収益源の確保
概要
近畿日本鉄道は1990年12月、金森茂一郎社長のもとで三重県志摩半島に第三セクター方式のテーマパーク「志摩スペイン村」を建設すると発表し、1994年4月に開業させたが、来場者数の漸減から2002〜2003年にかけて施設の全額評価減と特別損失計上に踏み切り、リゾート投資の実質的な整理に至った経営判断。
背景
志摩半島は基幹産業だった真珠養殖が1965年ごろから韓国産に押されて衰退し、近鉄は1965年の三重電鉄買収以降、地域の観光開発と鉄道輸送を一体で担う立場にあった。1987年制定のリゾート法のもとで三重県が適用第1号となり、鉄道事業の伸び悩みを補う新規事業として大型リゾート投資の機運が高まった。
内容
1990年12月、近鉄40%・関連会社30%・三重県や磯部町など30%出資の第三セクターを通じ総額600億円を投じる計画を発表。1992年に着工し、1994年4月にテーマパーク「パルケエスパーニャ」とホテル志摩スペイン村を開業させた。
含意
開業初年度は計画を上回る集客を記録したが、その後は一貫して来場者数が減り、2001年の資産売却・金融支援でも底打ちせず、2002年の新グループ経営改善計画で建物を全額評価減した。リゾート法適用第1号ゆえに簡単には撤退できない構造のなか、評価損を計上して実質整理に踏み切った点が、以後の近鉄の観光戦略にとって大きな教訓となった。
筆者の見解

第二の収益柱は、なぜ整理に9年を要したか

鉄道事業の伸び悩みを見据えた金森社長の問題意識そのものは、的外れではなかったとみることができる。関西圏の人口増加が鈍るなかで沿線の保有地を生かす発想は、近鉄がもともと得意としてきた鉄道・不動産・観光の垂直統合モデルの延長にあった。だが、テーマパーク事業は開業後も陳腐化を防ぐための追加投資を要する性質を持ち、単なる沿線開発とは異なる継続的な資本負担を伴う。志摩半島の雇用維持という地域振興の役割を負わされた第三セクター方式は、経営判断としての撤退の自由度を狭める要因にもなったとうかがえる。

実際、志摩スペイン村は債務超過に陥ってからも170億円規模の金融支援を重ねており、抜本的な整理は2002年の建物全額評価減までずれ込んだ。リゾート法適用第1号という看板と地元自治体の共同出資という枠組みが、経営として損切りする決断を遅らせた面は否めない。それでも建物を評価減して身軽になった志摩半島の観光資産は、後年のあべのハルカスや観光特急しまかぜへの経営資源の再配分につながる転機になったとみられ、鉄道会社にとって沿線観光投資の限界と再設計の必要性を示す事例として今日にも問いを投げかけている。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

真珠産業の衰退と観光私鉄への転換

志摩半島の基幹産業であった真珠養殖は、1965年ごろから安価な韓国・巨済島産の真珠に市場を奪われて衰退に向かった。近鉄は同じ1965年に地元の弱小私鉄・三重電鉄を買収して鳥羽〜賢島間の路線を取得し、名阪間のビジネス輸送で新幹線に主役を譲った鉄道網を、大阪・名古屋から伊勢志摩へ観光客を運ぶ路線へと切り替えた。真珠産業に代わる雇用の受け皿を求める地元の要請と、観光私鉄として生き残る近鉄の事情が、伊勢志摩を舞台に重なり合っていた[1]

志摩半島での観光開発では、近鉄より先にヤマハが名乗りを上げていた。ヤマハは1967年、志摩地方の奥志摩・大崎半島にレジャー施設「合歓の郷」を開業し、川上源一社長はこれを道楽半分の取り組みだと語っていた。近鉄にとっては、鉄道輸送に加えて宿泊・観光施設を自ら経営する垂直統合の型がすでに沿線各地にあり、志摩半島での大型リゾート投資も、この延長線上で構想された[2]

リゾート法とバブル期多角化のなかの「第二の収益柱」

1987年に総合保養地域整備法(リゾート法)が制定されると、基幹産業を失った地域が雇用確保のため娯楽施設の誘致に動き、真珠産業が衰退した三重県も名乗りを上げて適用第1号となった。同じころの近鉄は、東大阪線の相互直通運転開始やアーバンライナー投入など鉄道路線への投資を続ける一方、鉄道・不動産・百貨店・ホテル・国際物流の5領域で同時に事業を広げるバブル期特有の多角化を進めていた。オリエンタルランドを率いた高橋政知氏が地方進出に否定的な立場を示し都市近郊立地の優位性を語ったのとは対照的に、近鉄は広域観光地への鉄道アクセスを軸に据える多角化を選んでいた[3][4]

金森茂一郎社長は1989年、鉄道を経営の柱とする方針は今後も変わらないとしつつ、関西圏の人口増加率の鈍化を踏まえ副業としての収益源開拓が必要だと述べ、志摩半島・学研都市・上野新都市といった沿線の保有地を念頭に自治体と協力した開発を進める考えを示した。鉄道を経営の柱と位置づけながらも、それだけに頼らない収益源を沿線に求める発想であり、志摩スペイン村構想はこの延長線上に固まっていった[5]

決断

志摩スペイン村建設の発表と着工

1990年12月、金森社長は三重県志摩半島に大規模リゾート「志摩スペイン村」を建設すると発表した。近鉄40%・近鉄関連会社30%・三重県や磯部町など30%が出資する第三セクター方式を採り、総額600億円を投じる計画であった。計画に先立ち金森社長がスペイン大使館へ協力を要請するなど、単なる遊園地ではなくスペインの街並みと文化を再現するテーマパークとして構想が練られた点に、当時のリゾート開発ブームの色が濃く表れていた[6]

1992年に着工すると、日経新聞は伊勢志摩を大阪・名古屋からの鉄道路線が集まる要衝とみてリゾート開発を手がけると報じ、近鉄が志摩スペイン村建設を機に地域の「リゾート再構築」を狙っていると伝えた。東京ディズニーランドに代表される「アトラクション型」と長崎オランダ村のような「文化型」の両方の要素を備える点を、パルケエスパーニャの売り物として紹介した。年間観光客数が1300万人前後で伸び悩んでいた伊勢志摩地域にとって、志摩スペイン村は既存の観光需要を押し上げる起爆剤の役割を担っていた[7]

開業と強気の展望

1994年4月22日、テーマパーク「パルケエスパーニャ」とホテル志摩スペイン村が開業した。着工に際して金森社長は、伊勢志摩を近鉄グループ発展のカギを握る地域だと確信していると述べ、開発計画を変更する考えはないと明言した。想定来場者300万人のうち2割を伊勢志摩を訪れたことのない若年層が占めるとの見込みについても、厳しく査定したうえでの控えめな数字だとして集客への自信を示していた。開業初年度の入場者数は376万人に達し、当初の事業計画を大きく上回る滑り出しとなった[8][9]

もっとも、開業直後から慎重な見方も存在した。日経新聞は、滑り出しは順調でも開業時の物珍しさが薄れた後に客足が遠のけば期待される地域振興も崩れかねないと指摘し、志摩スペイン村を含む当時のテーマパーク開発を、東京ディズニーランドの登場に刺激されて計画された一連の施設の一つだと伝えた。地域振興と企業採算という二つの物差しを同時に満たす難しさは、1994年の開業当初からすでに指摘されていた[10]

結果

来場者数の漸減と2001年の金融支援

開業初年度をピークに志摩スペイン村の入場者数は年々減り、2000年度には192万人まで落ち込んだ。近鉄は2001年2月末、スペイン村が保有するアトラクション施設や店舗設備など資産の一部を簿価167億円で購入し、スペイン村はその売却代金を約440億円に上る借入金の返済に充てた。年間利用者300万人を前提とした事業計画に対し、初年度こそ計画の約1.3倍にあたる380万人を集めたものの、その後はほぼ一貫して減り続け、累積損失160億円・債務超過110億円という状態に陥っていた[11][12]

2002年にはユニバーサル・スタジオ・ジャパンの開業が関西のテーマパーク市場を塗り替え、志摩スペイン村の2002年2月期の入場者数は前期比19%減の156万人まで沈んだ。近鉄はこの前年にも170億円の金融支援を実施していたが、決算発表の場で永井充副社長は抜本的な対応に否定的な考えを示すにとどまり、志摩スペイン村の処遇は先送りされていた[13][14]

建物の全額評価減と実質撤退

近鉄グループは不動産事業の含み損処理などで2002年3月期まで3期連続の連結最終赤字(345億円)に陥っており、経営再建の対応は資金支援から破綻処理へと転じていた。2002年6月27日に発表した新グループ経営改善計画では、志摩スペイン村の建物を全額評価減し、以後は新規の施設投資をいっさい行わない方針を打ち出した。ある近鉄幹部は、減価償却費がゼロになってもなお黒字化できなければ撤退せざるを得ないとの認識を示したと伝えられている[15][16]

この評価減を中心に、近鉄は2003年3月期に630億円の特別損失を計上し、4期連続の連結最終赤字となる見通しとなった。同じ2003年には長崎オランダ村を運営するハウステンボスも会社更生法の適用を申請し、日経新聞は第三セクター方式のテーマパークの不振が際立つと指摘し、志摩スペイン村や倉敷チボリ公園などをその例に挙げた。志摩スペイン村の入場者数は2003年度に183万人まで半減し、リゾート法適用第1号として簡単には撤退できない三セクの制約のなか、評価損を計上して実質的な整理を進めた[17][18]

出典・参考
  • 金森茂一郎「近鉄の歴史」(2017年)
  • ダイヤモンド(1988年)
  • 日経新聞 1989年10月16日朝刊「近畿日本鉄道、リゾート・新都市づくり」
  • 日経新聞 1992年6月7日中部朝刊「近鉄、リゾート路線走る」
  • 日経新聞 1994年5月16日朝刊「志摩スペイン村の通信簿」
  • 日経新聞 2003年2月27日朝刊「ハウステンボス更生法申請」
  • 週刊東洋経済 2001年3月17日号「苦況 近鉄が支援に動く三セク・志摩スペイン村 楽観できないその将来」
  • 週刊東洋経済 2002年6月22日号「テーマパーク 近鉄・スペイン村が一段と窮地 USJ独り勝ちが早める関西電鉄系遊園地の落日」
  • 週刊東洋経済 2002年7月20日号「大日本土木破綻 近鉄のグループ再建策が資金支援から破綻処理へ」
  • 志摩スペイン村 来園者5000万人達成資料(近鉄グループホールディングス)