日本興亜損害保険:日本火災保険の創立と関東大震災による打撃
1892年〜大阪共立銀行の株金で設立した資本金50万円の日本火災保険と、北前船主の日本海上保険
日本火災保険は、大阪財界の有力者が数度の会談を重ね、1892年2月24日に資本金50万円の設立案をまとめて動き出した。案は1万株・額面50円とし、払込金には大阪共立銀行の株金を減額して振り替える取り決め。大阪共立銀行は公称資本金50万円のうち40万円の払込みを終えながら資金を持て余し、行内には減資論もあった。損害保険は東京海上・東京火災・明治火災など東京を地盤とする会社がほぼ独占し、大阪財界は地元の会社を求めていた。会社は同年4月に大阪財界の有力者を発起人として資本金50万円で創立した。銀行の遊休資本を保険会社の資本に移し、倉庫の担保品に保険を付ける取引までを大阪財界の内で完結させる狙いがあったとみられる。
- 日本火災海上保険70年史〔本編〕(1964)「第一編」
- [1]1892年2月24日、大阪財界有力者の会談で資本金50万円・1万株・払込金を大阪共立銀行株金の減額分から振り替える設立案を決定。背景に共立銀行の資金余裕と減資論、東京系損保の独占、倉庫担保品への附保の必要
- [2]1892年2月24日、大阪財界有力者の会談で資本金50万円・1万株・払込金を大阪共立銀行株金の減額分から振り替える設立案を決定。背景に共立銀行の資金余裕と減資論、東京系損保の独占、倉庫担保品への附保の必要
- [3]1892年2月24日、大阪財界有力者の会談で資本金50万円・1万株・払込金を大阪共立銀行株金の減額分から振り替える設立案を決定。背景に共立銀行の資金余裕と減資論、東京系損保の独占、倉庫担保品への附保の必要
- [4]1892年2月24日、大阪財界有力者の会談で資本金50万円・1万株・払込金を大阪共立銀行株金の減額分から振り替える設立案を決定。背景に共立銀行の資金余裕と減資論、東京系損保の独占、倉庫担保品への附保の必要
- 会社銀行八十年史(1955)「日本火災海上」
- [5]旧日本火災は1892年4月、大阪財界有力者を発起人に資本金50万円で創立
日本火災保険は1892年6月25日、大阪倉庫の事務所の一室を借りて開業した。同年5月の創業株主総会は、両替商の千種屋の主人だった平瀬亀之輔氏を社長に選んだ。開業公告の掲載は大阪・東京・京都・神戸の新聞8紙で計31回に及ぶ。市民には宣伝ビラ3万5,000枚を目抜き通りの店先に張り出し、株主の店頭には看板を掲げた。同年9月には大阪倉庫・大阪共立銀行と取り決めを結び、保険を付けた預かり貨物には銀行が貸付利子を下げる仕組みを整えた。日本火災保険は以後、火災保険を営業の主力とする。倉庫の荷主にとって保険を付けるほど借入れの費用が下がる仕組みは、契約を継続して得る足場になったと推察される。
- 日本火災海上保険70年史〔本編〕(1964)「第一編」
- [6]1892年6月25日、大阪倉庫事務所の一室を借りて開業。5月27日の創業株主総会で平瀬亀之輔を社長に選出。開業公告を大阪・東京・京都・神戸の8紙に掲載、宣伝ビラ3万5千枚。同年9月、大阪倉庫預託貨物の附保契約で共立銀行が利子を低減する取決め
- [7]1892年6月25日、大阪倉庫事務所の一室を借りて開業。5月27日の創業株主総会で平瀬亀之輔を社長に選出。開業公告を大阪・東京・京都・神戸の8紙に掲載、宣伝ビラ3万5千枚。同年9月、大阪倉庫預託貨物の附保契約で共立銀行が利子を低減する取決め
- [8]1892年6月25日、大阪倉庫事務所の一室を借りて開業。5月27日の創業株主総会で平瀬亀之輔を社長に選出。開業公告を大阪・東京・京都・神戸の8紙に掲載、宣伝ビラ3万5千枚。同年9月、大阪倉庫預託貨物の附保契約で共立銀行が利子を低減する取決め
- [9]1892年6月25日、大阪倉庫事務所の一室を借りて開業。5月27日の創業株主総会で平瀬亀之輔を社長に選出。開業公告を大阪・東京・京都・神戸の8紙に掲載、宣伝ビラ3万5千枚。同年9月、大阪倉庫預託貨物の附保契約で共立銀行が利子を低減する取決め
- [10]1892年6月25日、大阪倉庫事務所の一室を借りて開業。5月27日の創業株主総会で平瀬亀之輔を社長に選出。開業公告を大阪・東京・京都・神戸の8紙に掲載、宣伝ビラ3万5千枚。同年9月、大阪倉庫預託貨物の附保契約で共立銀行が利子を低減する取決め
- 会社銀行八十年史(1955)「日本火災海上」
- [11]旧日本火災の営業の主力は火災保険
日本海上保険は1896年3月、浅野総一郎氏・広海二三郎氏・右近権左衛門氏ら有力海運業者の計画により資本金300万円で発足した。母体は1893年に浅野総一郎氏らが結成した日本海運業同盟会で、日本郵船・大阪商船に対抗する社外船主の集まりである。北前船主は1880年代後半から蒸気船を購入し、自己運送から他人運送へ移りつつあった。日清戦争の後、既存の海上保険3社は御用船の任を解かれた船を排斥し、高率の割増保険料を求めた。1895年11月の同盟会総会は、3社の船体保険の大半が同盟会の船だとして、新会社の設立を全員一致で決めた。発起人は自らの保険物を新会社に申し込むと盟約した。保険を掛ける船主自身が引受け手となり、既存3社への依存を断とうとしたのだろう。
- 会社銀行八十年史(1955)「日本火災海上」
- [12]旧日本海上は1896年3月、浅野総一郎・広海二三郎・右近権左衛門ら有力海運業者の計画で資本金300万円で発足
- 日本火災海上保険70年史〔本編〕(1964)「第二編」
- [13]日本海運業同盟会(1893年結成、浅野・馬場・広海ら社外船主)を母体に、日清戦後の既存海上3社の解役船排斥・高率割増への反感から、1895年11月総会で資本金300万円の新会社設立を決議。発起人は自社の保険物を新会社に付す盟約
- [14]日本海運業同盟会(1893年結成、浅野・馬場・広海ら社外船主)を母体に、日清戦後の既存海上3社の解役船排斥・高率割増への反感から、1895年11月総会で資本金300万円の新会社設立を決議。発起人は自社の保険物を新会社に付す盟約
- [15]日本海運業同盟会(1893年結成、浅野・馬場・広海ら社外船主)を母体に、日清戦後の既存海上3社の解役船排斥・高率割増への反感から、1895年11月総会で資本金300万円の新会社設立を決議。発起人は自社の保険物を新会社に付す盟約
- [16]日本海運業同盟会(1893年結成、浅野・馬場・広海ら社外船主)を母体に、日清戦後の既存海上3社の解役船排斥・高率割増への反感から、1895年11月総会で資本金300万円の新会社設立を決議。発起人は自社の保険物を新会社に付す盟約
- [17]日本海運業同盟会(1893年結成、浅野・馬場・広海ら社外船主)を母体に、日清戦後の既存海上3社の解役船排斥・高率割増への反感から、1895年11月総会で資本金300万円の新会社設立を決議。発起人は自社の保険物を新会社に付す盟約
参考文献[1]-[17]
- 日本火災海上保険70年史〔本編〕(1964)「第一編」
- [1]1892年2月24日、大阪財界有力者の会談で資本金50万円・1万株・払込金を大阪共立銀行株金の減額分から振り替える設立案を決定。背景に共立銀行の資金余裕と減資論、東京系損保の独占、倉庫担保品への附保の必要
- [2]1892年2月24日、大阪財界有力者の会談で資本金50万円・1万株・払込金を大阪共立銀行株金の減額分から振り替える設立案を決定。背景に共立銀行の資金余裕と減資論、東京系損保の独占、倉庫担保品への附保の必要
- [3]1892年2月24日、大阪財界有力者の会談で資本金50万円・1万株・払込金を大阪共立銀行株金の減額分から振り替える設立案を決定。背景に共立銀行の資金余裕と減資論、東京系損保の独占、倉庫担保品への附保の必要
- [4]1892年2月24日、大阪財界有力者の会談で資本金50万円・1万株・払込金を大阪共立銀行株金の減額分から振り替える設立案を決定。背景に共立銀行の資金余裕と減資論、東京系損保の独占、倉庫担保品への附保の必要
- [6]1892年6月25日、大阪倉庫事務所の一室を借りて開業。5月27日の創業株主総会で平瀬亀之輔を社長に選出。開業公告を大阪・東京・京都・神戸の8紙に掲載、宣伝ビラ3万5千枚。同年9月、大阪倉庫預託貨物の附保契約で共立銀行が利子を低減する取決め
- [7]1892年6月25日、大阪倉庫事務所の一室を借りて開業。5月27日の創業株主総会で平瀬亀之輔を社長に選出。開業公告を大阪・東京・京都・神戸の8紙に掲載、宣伝ビラ3万5千枚。同年9月、大阪倉庫預託貨物の附保契約で共立銀行が利子を低減する取決め
- [8]1892年6月25日、大阪倉庫事務所の一室を借りて開業。5月27日の創業株主総会で平瀬亀之輔を社長に選出。開業公告を大阪・東京・京都・神戸の8紙に掲載、宣伝ビラ3万5千枚。同年9月、大阪倉庫預託貨物の附保契約で共立銀行が利子を低減する取決め
- [9]1892年6月25日、大阪倉庫事務所の一室を借りて開業。5月27日の創業株主総会で平瀬亀之輔を社長に選出。開業公告を大阪・東京・京都・神戸の8紙に掲載、宣伝ビラ3万5千枚。同年9月、大阪倉庫預託貨物の附保契約で共立銀行が利子を低減する取決め
- [10]1892年6月25日、大阪倉庫事務所の一室を借りて開業。5月27日の創業株主総会で平瀬亀之輔を社長に選出。開業公告を大阪・東京・京都・神戸の8紙に掲載、宣伝ビラ3万5千枚。同年9月、大阪倉庫預託貨物の附保契約で共立銀行が利子を低減する取決め
- 会社銀行八十年史(1955)「日本火災海上」
- [5]旧日本火災は1892年4月、大阪財界有力者を発起人に資本金50万円で創立
- [11]旧日本火災の営業の主力は火災保険
- [12]旧日本海上は1896年3月、浅野総一郎・広海二三郎・右近権左衛門ら有力海運業者の計画で資本金300万円で発足
- 日本火災海上保険70年史〔本編〕(1964)「第二編」
- [13]日本海運業同盟会(1893年結成、浅野・馬場・広海ら社外船主)を母体に、日清戦後の既存海上3社の解役船排斥・高率割増への反感から、1895年11月総会で資本金300万円の新会社設立を決議。発起人は自社の保険物を新会社に付す盟約
- [14]日本海運業同盟会(1893年結成、浅野・馬場・広海ら社外船主)を母体に、日清戦後の既存海上3社の解役船排斥・高率割増への反感から、1895年11月総会で資本金300万円の新会社設立を決議。発起人は自社の保険物を新会社に付す盟約
- [15]日本海運業同盟会(1893年結成、浅野・馬場・広海ら社外船主)を母体に、日清戦後の既存海上3社の解役船排斥・高率割増への反感から、1895年11月総会で資本金300万円の新会社設立を決議。発起人は自社の保険物を新会社に付す盟約
- [16]日本海運業同盟会(1893年結成、浅野・馬場・広海ら社外船主)を母体に、日清戦後の既存海上3社の解役船排斥・高率割増への反感から、1895年11月総会で資本金300万円の新会社設立を決議。発起人は自社の保険物を新会社に付す盟約
- [17]日本海運業同盟会(1893年結成、浅野・馬場・広海ら社外船主)を母体に、日清戦後の既存海上3社の解役船排斥・高率割増への反感から、1895年11月総会で資本金300万円の新会社設立を決議。発起人は自社の保険物を新会社に付す盟約
1897年〜公有物件で手を組んだ火災保険の大手4社と、川崎家が本社を東京へ移転した日本火災
日本火災保険は1901年12月、東京火災・明治火災・横浜火災と京阪神3市の最低料率を協定した。日清戦争後の不況で金融恐慌が広がり、保険金額1,000円につき2円という料率まで現れていた。翌1902年8月、2代社長の藤本一二氏は他の3社の首脳と連名で、府県に公有物件への火災保険の利用を勧めた。連名には東京火災社長の武井守正氏、明治火災会長の阿部泰蔵氏、横浜火災社長の富田鉄之助氏が加わった。府県有の建物の罹災が増え、地方財政を圧迫していた。日本火災保険にとって、火災保険は営業の主力である。料率の値崩れを止めたい4社にとって、同じ条件で府県の大口契約を獲得することは競り合いを避ける手だてだったと思われる。
- 日本火災海上保険70年史〔本編〕(1964)「第二編」
- [18]1901年12月、日本・東京・明治・横浜火災の4社が京阪神3市の最低料率を協定(日清戦後不況で千円につき2円の低料率も出現)。1902年8月、藤本一二ら4社首脳が連名で公有物件(府県有建造物)の火災保険勧誘状を発出
- [19]1901年12月、日本・東京・明治・横浜火災の4社が京阪神3市の最低料率を協定(日清戦後不況で千円につき2円の低料率も出現)。1902年8月、藤本一二ら4社首脳が連名で公有物件(府県有建造物)の火災保険勧誘状を発出
- [20]1901年12月、日本・東京・明治・横浜火災の4社が京阪神3市の最低料率を協定(日清戦後不況で千円につき2円の低料率も出現)。1902年8月、藤本一二ら4社首脳が連名で公有物件(府県有建造物)の火災保険勧誘状を発出
- [21]1901年12月、日本・東京・明治・横浜火災の4社が京阪神3市の最低料率を協定(日清戦後不況で千円につき2円の低料率も出現)。1902年8月、藤本一二ら4社首脳が連名で公有物件(府県有建造物)の火災保険勧誘状を発出
- [22]1901年12月、日本・東京・明治・横浜火災の4社が京阪神3市の最低料率を協定(日清戦後不況で千円につき2円の低料率も出現)。1902年8月、藤本一二ら4社首脳が連名で公有物件(府県有建造物)の火災保険勧誘状を発出
- 会社銀行八十年史(1955)「日本火災海上」
- [23]旧日本火災の営業の主力は火災保険
川崎家は1902年までに日本酒造火災の株式の大半を取得し、役員を送り込んで経営の実権を握った。川崎金三郎氏(のちの2代川崎八右衛門氏)は、川崎銀行を強くする手段として保険会社の経営を考えていた。相談を受けた郷誠之助氏は数学者や法学者に意見を求め、1年契約で毎年更新する火災保険は生命保険より危険が少ないと判断した。日本酒造火災は1896年度から1901年度まで2期を除いて無配が続き、不景気も重なって株主の保有意欲は大きく低下していた。郷誠之助氏が1900年に取締役となり、1902年には川崎金三郎氏と飯村丈三郎氏も取締役に入った。日本酒造火災はのちの1906年、日本火災保険に合併された。
- 日本火災海上保険70年史〔本編〕(1964)「第三編」
- [24]川崎金三郎(2代川崎八右衛門)が川崎銀行強化策として保険経営を構想。郷誠之助が火災保険の有利を具申。無配続きの日本酒造火災株を買い集め1902年に大半を取得、郷(1900年)・川崎金三郎・飯村丈三郎(1902年)が取締役に
- [25]川崎金三郎(2代川崎八右衛門)が川崎銀行強化策として保険経営を構想。郷誠之助が火災保険の有利を具申。無配続きの日本酒造火災株を買い集め1902年に大半を取得、郷(1900年)・川崎金三郎・飯村丈三郎(1902年)が取締役に
- [26]川崎金三郎(2代川崎八右衛門)が川崎銀行強化策として保険経営を構想。郷誠之助が火災保険の有利を具申。無配続きの日本酒造火災株を買い集め1902年に大半を取得、郷(1900年)・川崎金三郎・飯村丈三郎(1902年)が取締役に
- [27]川崎金三郎(2代川崎八右衛門)が川崎銀行強化策として保険経営を構想。郷誠之助が火災保険の有利を具申。無配続きの日本酒造火災株を買い集め1902年に大半を取得、郷(1900年)・川崎金三郎・飯村丈三郎(1902年)が取締役に
- [28]川崎金三郎(2代川崎八右衛門)が川崎銀行強化策として保険経営を構想。郷誠之助が火災保険の有利を具申。無配続きの日本酒造火災株を買い集め1902年に大半を取得、郷(1900年)・川崎金三郎・飯村丈三郎(1902年)が取締役に
- 会社銀行八十年史(1955)「日本火災海上」
- [29]旧日本火災は1906年に大阪の日本酒造火災を合併
日本火災保険は1906年に日本酒造火災を合併し、本社を東京へ移した。日本酒造火災は大手4社と小会社の間の中会社で、4社間の再保険交換に加われず、損害率も業界平均を上回った。日本火災保険の筆頭株主の田中家は日本綿花の増資資金を要し、北浜銀行も担保の日本火災株を現金化する必要があった。農商務次官の藤田四郎氏の紹介で交渉がまとまり、川崎家は12円50銭払込みの株を36円見当で取得した。合併の日付は1906年6月1日で、資本金は200万円から300万円となる。本社は1907年7月1日に京橋区銀座へ移り、手薄だった東京・関東・東北・北海道を開拓する拠点に据えた。川崎金三郎氏は1910年4月、新たに設けた会長に就任した。
- 会社銀行八十年史(1955)「日本火災海上」
- [30]旧日本火災は1906年に日本酒造火災を合併し本社を東京に移転
- 日本火災海上保険70年史〔本編〕(1964)「第三編」
- [31]中会社の日本酒造火災は再保険の道が閉ざされ損害率が高い。田中家は日本綿花増資資金、北浜銀行は担保株の流動化を要し、藤田四郎の紹介で川崎家が日本火災株を36円見当で取得。1906年6月1日合併・資本金300万円、1907年7月1日本社を東京銀座へ移転、1910年4月川崎金三郎が会長
- [32]中会社の日本酒造火災は再保険の道が閉ざされ損害率が高い。田中家は日本綿花増資資金、北浜銀行は担保株の流動化を要し、藤田四郎の紹介で川崎家が日本火災株を36円見当で取得。1906年6月1日合併・資本金300万円、1907年7月1日本社を東京銀座へ移転、1910年4月川崎金三郎が会長
- [33]中会社の日本酒造火災は再保険の道が閉ざされ損害率が高い。田中家は日本綿花増資資金、北浜銀行は担保株の流動化を要し、藤田四郎の紹介で川崎家が日本火災株を36円見当で取得。1906年6月1日合併・資本金300万円、1907年7月1日本社を東京銀座へ移転、1910年4月川崎金三郎が会長
- [34]中会社の日本酒造火災は再保険の道が閉ざされ損害率が高い。田中家は日本綿花増資資金、北浜銀行は担保株の流動化を要し、藤田四郎の紹介で川崎家が日本火災株を36円見当で取得。1906年6月1日合併・資本金300万円、1907年7月1日本社を東京銀座へ移転、1910年4月川崎金三郎が会長
- [35]中会社の日本酒造火災は再保険の道が閉ざされ損害率が高い。田中家は日本綿花増資資金、北浜銀行は担保株の流動化を要し、藤田四郎の紹介で川崎家が日本火災株を36円見当で取得。1906年6月1日合併・資本金300万円、1907年7月1日本社を東京銀座へ移転、1910年4月川崎金三郎が会長
- [36]中会社の日本酒造火災は再保険の道が閉ざされ損害率が高い。田中家は日本綿花増資資金、北浜銀行は担保株の流動化を要し、藤田四郎の紹介で川崎家が日本火災株を36円見当で取得。1906年6月1日合併・資本金300万円、1907年7月1日本社を東京銀座へ移転、1910年4月川崎金三郎が会長
参考文献[18]-[36]
- 日本火災海上保険70年史〔本編〕(1964)「第二編」
- [18]1901年12月、日本・東京・明治・横浜火災の4社が京阪神3市の最低料率を協定(日清戦後不況で千円につき2円の低料率も出現)。1902年8月、藤本一二ら4社首脳が連名で公有物件(府県有建造物)の火災保険勧誘状を発出
- [19]1901年12月、日本・東京・明治・横浜火災の4社が京阪神3市の最低料率を協定(日清戦後不況で千円につき2円の低料率も出現)。1902年8月、藤本一二ら4社首脳が連名で公有物件(府県有建造物)の火災保険勧誘状を発出
- [20]1901年12月、日本・東京・明治・横浜火災の4社が京阪神3市の最低料率を協定(日清戦後不況で千円につき2円の低料率も出現)。1902年8月、藤本一二ら4社首脳が連名で公有物件(府県有建造物)の火災保険勧誘状を発出
- [21]1901年12月、日本・東京・明治・横浜火災の4社が京阪神3市の最低料率を協定(日清戦後不況で千円につき2円の低料率も出現)。1902年8月、藤本一二ら4社首脳が連名で公有物件(府県有建造物)の火災保険勧誘状を発出
- [22]1901年12月、日本・東京・明治・横浜火災の4社が京阪神3市の最低料率を協定(日清戦後不況で千円につき2円の低料率も出現)。1902年8月、藤本一二ら4社首脳が連名で公有物件(府県有建造物)の火災保険勧誘状を発出
- 会社銀行八十年史(1955)「日本火災海上」
- [23]旧日本火災の営業の主力は火災保険
- [29]旧日本火災は1906年に大阪の日本酒造火災を合併
- [30]旧日本火災は1906年に日本酒造火災を合併し本社を東京に移転
- 日本火災海上保険70年史〔本編〕(1964)「第三編」
- [24]川崎金三郎(2代川崎八右衛門)が川崎銀行強化策として保険経営を構想。郷誠之助が火災保険の有利を具申。無配続きの日本酒造火災株を買い集め1902年に大半を取得、郷(1900年)・川崎金三郎・飯村丈三郎(1902年)が取締役に
- [25]川崎金三郎(2代川崎八右衛門)が川崎銀行強化策として保険経営を構想。郷誠之助が火災保険の有利を具申。無配続きの日本酒造火災株を買い集め1902年に大半を取得、郷(1900年)・川崎金三郎・飯村丈三郎(1902年)が取締役に
- [26]川崎金三郎(2代川崎八右衛門)が川崎銀行強化策として保険経営を構想。郷誠之助が火災保険の有利を具申。無配続きの日本酒造火災株を買い集め1902年に大半を取得、郷(1900年)・川崎金三郎・飯村丈三郎(1902年)が取締役に
- [27]川崎金三郎(2代川崎八右衛門)が川崎銀行強化策として保険経営を構想。郷誠之助が火災保険の有利を具申。無配続きの日本酒造火災株を買い集め1902年に大半を取得、郷(1900年)・川崎金三郎・飯村丈三郎(1902年)が取締役に
- [28]川崎金三郎(2代川崎八右衛門)が川崎銀行強化策として保険経営を構想。郷誠之助が火災保険の有利を具申。無配続きの日本酒造火災株を買い集め1902年に大半を取得、郷(1900年)・川崎金三郎・飯村丈三郎(1902年)が取締役に
- [31]中会社の日本酒造火災は再保険の道が閉ざされ損害率が高い。田中家は日本綿花増資資金、北浜銀行は担保株の流動化を要し、藤田四郎の紹介で川崎家が日本火災株を36円見当で取得。1906年6月1日合併・資本金300万円、1907年7月1日本社を東京銀座へ移転、1910年4月川崎金三郎が会長
- [32]中会社の日本酒造火災は再保険の道が閉ざされ損害率が高い。田中家は日本綿花増資資金、北浜銀行は担保株の流動化を要し、藤田四郎の紹介で川崎家が日本火災株を36円見当で取得。1906年6月1日合併・資本金300万円、1907年7月1日本社を東京銀座へ移転、1910年4月川崎金三郎が会長
- [33]中会社の日本酒造火災は再保険の道が閉ざされ損害率が高い。田中家は日本綿花増資資金、北浜銀行は担保株の流動化を要し、藤田四郎の紹介で川崎家が日本火災株を36円見当で取得。1906年6月1日合併・資本金300万円、1907年7月1日本社を東京銀座へ移転、1910年4月川崎金三郎が会長
- [34]中会社の日本酒造火災は再保険の道が閉ざされ損害率が高い。田中家は日本綿花増資資金、北浜銀行は担保株の流動化を要し、藤田四郎の紹介で川崎家が日本火災株を36円見当で取得。1906年6月1日合併・資本金300万円、1907年7月1日本社を東京銀座へ移転、1910年4月川崎金三郎が会長
- [35]中会社の日本酒造火災は再保険の道が閉ざされ損害率が高い。田中家は日本綿花増資資金、北浜銀行は担保株の流動化を要し、藤田四郎の紹介で川崎家が日本火災株を36円見当で取得。1906年6月1日合併・資本金300万円、1907年7月1日本社を東京銀座へ移転、1910年4月川崎金三郎が会長
- [36]中会社の日本酒造火災は再保険の道が閉ざされ損害率が高い。田中家は日本綿花増資資金、北浜銀行は担保株の流動化を要し、藤田四郎の紹介で川崎家が日本火災株を36円見当で取得。1906年6月1日合併・資本金300万円、1907年7月1日本社を東京銀座へ移転、1910年4月川崎金三郎が会長
1914年〜欧州大戦の海運好況と、正味財産の6倍を超えた関東大震災の罹災契約高
第1次世界大戦期の貿易・海運の活況で、海上保険の収入保険料は火災保険を上回る。1917年から1919年中ごろに海上保険の会社が13社設立され、日本火災保険も海上保険の兼営に参入した。日本海上保険は欧州大戦後の海運好況を受けて業績が大きく伸びた。戦後は貿易・海運が不振に転じ、新設会社の増加も重なって料率競争が激化した。各社は船体の約8割、積荷の約6割をロンドンへ出再しており、料率低下で利益の余地を失った。1920年4月に日本海上保険協会が設立されたものの、効果はすぐには上がらなかった。日本海上保険も1920年以降、火災保険の兼営に参入した。海上保険の各社が流れ込んだ結果、火災保険の市場は50社近くが競い合う状態となった。
- 日本火災海上保険70年史〔本編〕(1964)「第四編」
- [37]第1次大戦期に海上収入保険料が火災を上回り、1917〜19年に海上保険会社13社が新設、日本火災も海上兼営。戦後は料率競争が激化し、船体約8割・積荷約6割をロンドンへ出再。1920年4月日本海上保険協会設立も効果は限定的。1920年以降、日本海上など海上各社が火災兼営へ、火災保険は50社近くの競争に
- [38]第1次大戦期に海上収入保険料が火災を上回り、1917〜19年に海上保険会社13社が新設、日本火災も海上兼営。戦後は料率競争が激化し、船体約8割・積荷約6割をロンドンへ出再。1920年4月日本海上保険協会設立も効果は限定的。1920年以降、日本海上など海上各社が火災兼営へ、火災保険は50社近くの競争に
- [40]第1次大戦期に海上収入保険料が火災を上回り、1917〜19年に海上保険会社13社が新設、日本火災も海上兼営。戦後は料率競争が激化し、船体約8割・積荷約6割をロンドンへ出再。1920年4月日本海上保険協会設立も効果は限定的。1920年以降、日本海上など海上各社が火災兼営へ、火災保険は50社近くの競争に
- [41]第1次大戦期に海上収入保険料が火災を上回り、1917〜19年に海上保険会社13社が新設、日本火災も海上兼営。戦後は料率競争が激化し、船体約8割・積荷約6割をロンドンへ出再。1920年4月日本海上保険協会設立も効果は限定的。1920年以降、日本海上など海上各社が火災兼営へ、火災保険は50社近くの競争に
- [42]第1次大戦期に海上収入保険料が火災を上回り、1917〜19年に海上保険会社13社が新設、日本火災も海上兼営。戦後は料率競争が激化し、船体約8割・積荷約6割をロンドンへ出再。1920年4月日本海上保険協会設立も効果は限定的。1920年以降、日本海上など海上各社が火災兼営へ、火災保険は50社近くの競争に
- [43]第1次大戦期に海上収入保険料が火災を上回り、1917〜19年に海上保険会社13社が新設、日本火災も海上兼営。戦後は料率競争が激化し、船体約8割・積荷約6割をロンドンへ出再。1920年4月日本海上保険協会設立も効果は限定的。1920年以降、日本海上など海上各社が火災兼営へ、火災保険は50社近くの競争に
- [44]第1次大戦期に海上収入保険料が火災を上回り、1917〜19年に海上保険会社13社が新設、日本火災も海上兼営。戦後は料率競争が激化し、船体約8割・積荷約6割をロンドンへ出再。1920年4月日本海上保険協会設立も効果は限定的。1920年以降、日本海上など海上各社が火災兼営へ、火災保険は50社近くの競争に
- 会社銀行八十年史(1955)「日本火災海上」
- [39]旧日本海上は欧州大戦を経て海運界好況で業績を大きく伸ばした
関東大震災は1923年9月1日午前11時58分に起き、東京・横浜で大規模な火災を引き起こした。当時の火災保険約款第17条は、地震による火災とその延焼の損害を保険者の免責と定める。政府の告諭や東京市会の決議を受け、罹災契約者は見舞金でなく保険金の全額支払いを求める運動を起こした。業界の対応は大日本聯合火災保険協会会長の各務鎌吉氏に一任され、補佐役は日本火災保険社長の川崎肇氏ら3人。各社の答申で、内国38社の正味財産は約2億3,200万円、罹災元受火災保険契約高は14億9,400万余円と判明した。日本火災保険は火災保険が営業の主力だったため、震災で大きな損害を被る。罹災契約高は正味財産のおよそ6倍に当たり、全額を払えば各社の存続が成り立たなかったと考えられる。
- 日本火災海上保険70年史〔本編〕(1964)「第五編」
- [45]1923年9月1日11時58分発震。火災保険約款第17条で地震火災は免責。世論・東京市会が全額支払いを要求。交渉は各務鎌吉(協会会長)に一任、川崎肇(日本火災社長)ら3長老が援助。内国38社の正味財産約2億3,200万円に対し罹災元受契約高14億9,400万余円(総資産は罹災契約高の15%強)
- [46]1923年9月1日11時58分発震。火災保険約款第17条で地震火災は免責。世論・東京市会が全額支払いを要求。交渉は各務鎌吉(協会会長)に一任、川崎肇(日本火災社長)ら3長老が援助。内国38社の正味財産約2億3,200万円に対し罹災元受契約高14億9,400万余円(総資産は罹災契約高の15%強)
- [47]1923年9月1日11時58分発震。火災保険約款第17条で地震火災は免責。世論・東京市会が全額支払いを要求。交渉は各務鎌吉(協会会長)に一任、川崎肇(日本火災社長)ら3長老が援助。内国38社の正味財産約2億3,200万円に対し罹災元受契約高14億9,400万余円(総資産は罹災契約高の15%強)
- [48]1923年9月1日11時58分発震。火災保険約款第17条で地震火災は免責。世論・東京市会が全額支払いを要求。交渉は各務鎌吉(協会会長)に一任、川崎肇(日本火災社長)ら3長老が援助。内国38社の正味財産約2億3,200万円に対し罹災元受契約高14億9,400万余円(総資産は罹災契約高の15%強)
- [49]1923年9月1日11時58分発震。火災保険約款第17条で地震火災は免責。世論・東京市会が全額支払いを要求。交渉は各務鎌吉(協会会長)に一任、川崎肇(日本火災社長)ら3長老が援助。内国38社の正味財産約2億3,200万円に対し罹災元受契約高14億9,400万余円(総資産は罹災契約高の15%強)
- 会社銀行八十年史(1955)「日本火災海上」
- [50]旧日本火災は営業の主力が火災保険であったため関東大震災で大損害
業界は1923年9月30日に資力の許す範囲で犠牲を提供すると決議し、10月25日には罹災契約高の1割を見舞金とする方針でそろった。政府資金の借り方では東西が割れ、日本海上保険は社団法人を通じて借り入れる関西側6社の案を支持した。政府の貸付法案は12月の臨時議会で成立せず、山本内閣も虎の門事件で総辞職する。清浦内閣では農商務大臣の前田利定氏が交渉に当たり、政府は1924年3月7日に国庫剰余金から8,000万円の貸付けを決めた。各社は5月5日から支払いを始め、借り入れた助成金6,300余万円には元利約1億4,200万円の返済が残った。日本海上保険は震災後、火災保険にも営業を広げた。
- 日本火災海上保険70年史〔本編〕(1964)「第五編」
- [51]1923年9月30日犠牲提供決議、10月25日1割見舞金で一致。資金借入方式で東西対立し日本海上は関西側社団法人案を支持。貸付法案は臨時議会で不成立。清浦内閣の前田利定農相のもと1924年3月7日国庫剰余金から8,000万円貸付を決定、5月5日支払開始。助成金6,300余万円に元利約1億4,200万円の返済
- [52]1923年9月30日犠牲提供決議、10月25日1割見舞金で一致。資金借入方式で東西対立し日本海上は関西側社団法人案を支持。貸付法案は臨時議会で不成立。清浦内閣の前田利定農相のもと1924年3月7日国庫剰余金から8,000万円貸付を決定、5月5日支払開始。助成金6,300余万円に元利約1億4,200万円の返済
- [53]1923年9月30日犠牲提供決議、10月25日1割見舞金で一致。資金借入方式で東西対立し日本海上は関西側社団法人案を支持。貸付法案は臨時議会で不成立。清浦内閣の前田利定農相のもと1924年3月7日国庫剰余金から8,000万円貸付を決定、5月5日支払開始。助成金6,300余万円に元利約1億4,200万円の返済
- [54]1923年9月30日犠牲提供決議、10月25日1割見舞金で一致。資金借入方式で東西対立し日本海上は関西側社団法人案を支持。貸付法案は臨時議会で不成立。清浦内閣の前田利定農相のもと1924年3月7日国庫剰余金から8,000万円貸付を決定、5月5日支払開始。助成金6,300余万円に元利約1億4,200万円の返済
- [55]1923年9月30日犠牲提供決議、10月25日1割見舞金で一致。資金借入方式で東西対立し日本海上は関西側社団法人案を支持。貸付法案は臨時議会で不成立。清浦内閣の前田利定農相のもと1924年3月7日国庫剰余金から8,000万円貸付を決定、5月5日支払開始。助成金6,300余万円に元利約1億4,200万円の返済
- 会社銀行八十年史(1955)「日本火災海上」
- [56]旧日本海上は関東大震災後、火災保険にも参入した
参考文献[37]-[56]
- 日本火災海上保険70年史〔本編〕(1964)「第四編」
- [37]第1次大戦期に海上収入保険料が火災を上回り、1917〜19年に海上保険会社13社が新設、日本火災も海上兼営。戦後は料率競争が激化し、船体約8割・積荷約6割をロンドンへ出再。1920年4月日本海上保険協会設立も効果は限定的。1920年以降、日本海上など海上各社が火災兼営へ、火災保険は50社近くの競争に
- [38]第1次大戦期に海上収入保険料が火災を上回り、1917〜19年に海上保険会社13社が新設、日本火災も海上兼営。戦後は料率競争が激化し、船体約8割・積荷約6割をロンドンへ出再。1920年4月日本海上保険協会設立も効果は限定的。1920年以降、日本海上など海上各社が火災兼営へ、火災保険は50社近くの競争に
- [40]第1次大戦期に海上収入保険料が火災を上回り、1917〜19年に海上保険会社13社が新設、日本火災も海上兼営。戦後は料率競争が激化し、船体約8割・積荷約6割をロンドンへ出再。1920年4月日本海上保険協会設立も効果は限定的。1920年以降、日本海上など海上各社が火災兼営へ、火災保険は50社近くの競争に
- [41]第1次大戦期に海上収入保険料が火災を上回り、1917〜19年に海上保険会社13社が新設、日本火災も海上兼営。戦後は料率競争が激化し、船体約8割・積荷約6割をロンドンへ出再。1920年4月日本海上保険協会設立も効果は限定的。1920年以降、日本海上など海上各社が火災兼営へ、火災保険は50社近くの競争に
- [42]第1次大戦期に海上収入保険料が火災を上回り、1917〜19年に海上保険会社13社が新設、日本火災も海上兼営。戦後は料率競争が激化し、船体約8割・積荷約6割をロンドンへ出再。1920年4月日本海上保険協会設立も効果は限定的。1920年以降、日本海上など海上各社が火災兼営へ、火災保険は50社近くの競争に
- [43]第1次大戦期に海上収入保険料が火災を上回り、1917〜19年に海上保険会社13社が新設、日本火災も海上兼営。戦後は料率競争が激化し、船体約8割・積荷約6割をロンドンへ出再。1920年4月日本海上保険協会設立も効果は限定的。1920年以降、日本海上など海上各社が火災兼営へ、火災保険は50社近くの競争に
- [44]第1次大戦期に海上収入保険料が火災を上回り、1917〜19年に海上保険会社13社が新設、日本火災も海上兼営。戦後は料率競争が激化し、船体約8割・積荷約6割をロンドンへ出再。1920年4月日本海上保険協会設立も効果は限定的。1920年以降、日本海上など海上各社が火災兼営へ、火災保険は50社近くの競争に
- 会社銀行八十年史(1955)「日本火災海上」
- [39]旧日本海上は欧州大戦を経て海運界好況で業績を大きく伸ばした
- [50]旧日本火災は営業の主力が火災保険であったため関東大震災で大損害
- [56]旧日本海上は関東大震災後、火災保険にも参入した
- 日本火災海上保険70年史〔本編〕(1964)「第五編」
- [45]1923年9月1日11時58分発震。火災保険約款第17条で地震火災は免責。世論・東京市会が全額支払いを要求。交渉は各務鎌吉(協会会長)に一任、川崎肇(日本火災社長)ら3長老が援助。内国38社の正味財産約2億3,200万円に対し罹災元受契約高14億9,400万余円(総資産は罹災契約高の15%強)
- [46]1923年9月1日11時58分発震。火災保険約款第17条で地震火災は免責。世論・東京市会が全額支払いを要求。交渉は各務鎌吉(協会会長)に一任、川崎肇(日本火災社長)ら3長老が援助。内国38社の正味財産約2億3,200万円に対し罹災元受契約高14億9,400万余円(総資産は罹災契約高の15%強)
- [47]1923年9月1日11時58分発震。火災保険約款第17条で地震火災は免責。世論・東京市会が全額支払いを要求。交渉は各務鎌吉(協会会長)に一任、川崎肇(日本火災社長)ら3長老が援助。内国38社の正味財産約2億3,200万円に対し罹災元受契約高14億9,400万余円(総資産は罹災契約高の15%強)
- [48]1923年9月1日11時58分発震。火災保険約款第17条で地震火災は免責。世論・東京市会が全額支払いを要求。交渉は各務鎌吉(協会会長)に一任、川崎肇(日本火災社長)ら3長老が援助。内国38社の正味財産約2億3,200万円に対し罹災元受契約高14億9,400万余円(総資産は罹災契約高の15%強)
- [49]1923年9月1日11時58分発震。火災保険約款第17条で地震火災は免責。世論・東京市会が全額支払いを要求。交渉は各務鎌吉(協会会長)に一任、川崎肇(日本火災社長)ら3長老が援助。内国38社の正味財産約2億3,200万円に対し罹災元受契約高14億9,400万余円(総資産は罹災契約高の15%強)
- [51]1923年9月30日犠牲提供決議、10月25日1割見舞金で一致。資金借入方式で東西対立し日本海上は関西側社団法人案を支持。貸付法案は臨時議会で不成立。清浦内閣の前田利定農相のもと1924年3月7日国庫剰余金から8,000万円貸付を決定、5月5日支払開始。助成金6,300余万円に元利約1億4,200万円の返済
- [52]1923年9月30日犠牲提供決議、10月25日1割見舞金で一致。資金借入方式で東西対立し日本海上は関西側社団法人案を支持。貸付法案は臨時議会で不成立。清浦内閣の前田利定農相のもと1924年3月7日国庫剰余金から8,000万円貸付を決定、5月5日支払開始。助成金6,300余万円に元利約1億4,200万円の返済
- [53]1923年9月30日犠牲提供決議、10月25日1割見舞金で一致。資金借入方式で東西対立し日本海上は関西側社団法人案を支持。貸付法案は臨時議会で不成立。清浦内閣の前田利定農相のもと1924年3月7日国庫剰余金から8,000万円貸付を決定、5月5日支払開始。助成金6,300余万円に元利約1億4,200万円の返済
- [54]1923年9月30日犠牲提供決議、10月25日1割見舞金で一致。資金借入方式で東西対立し日本海上は関西側社団法人案を支持。貸付法案は臨時議会で不成立。清浦内閣の前田利定農相のもと1924年3月7日国庫剰余金から8,000万円貸付を決定、5月5日支払開始。助成金6,300余万円に元利約1億4,200万円の返済
- [55]1923年9月30日犠牲提供決議、10月25日1割見舞金で一致。資金借入方式で東西対立し日本海上は関西側社団法人案を支持。貸付法案は臨時議会で不成立。清浦内閣の前田利定農相のもと1924年3月7日国庫剰余金から8,000万円貸付を決定、5月5日支払開始。助成金6,300余万円に元利約1億4,200万円の返済
出典・参考
6件
- 日本火災海上保険70年史〔本編〕(1964)「第一編」
- 日本火災海上保険70年史〔本編〕(1964)「第二編」
- 日本火災海上保険70年史〔本編〕(1964)「第三編」
- 日本火災海上保険70年史〔本編〕(1964)「第四編」
- 日本火災海上保険70年史〔本編〕(1964)「第五編」
- 会社銀行八十年史(1955)「日本火災海上」