1932年に設立された岩手殖産銀行が起源。
1941年に陸中銀行、1943年に岩手貯蓄銀行を合併して県内の銀行をまとめ、1977年に全店総合オンラインシステムを完成させた。
岩手県を地盤とする地方銀行で、1993年には釜石信用金庫の営業を譲り受けた。
岩手殖産銀行は1932年5月2日、資本金210万円で設立された。前年1931年の暮れに盛岡・(旧)岩手・第九十の盛岡3行が休業し、県内の金融機能はほぼ停止した。3行の派閥の対立で合同の話がまとまらず、大蔵省と岩手県当局は旧銀行の合同案を改めて新銀行を創立する方針に切り替えた。1932年3月の「岩手県下銀行安定策」は、新銀行が旧銀行の資産の資金化を助け、旧銀行は新規取引をやめて整理に専念すると定めた。資本金は第九十・第八十八両行が参加しなかったため210万円にとどめ、県が147万5,000円、盛岡・(旧)岩手両行が現物出資で各30万円を出資した。旧銀行どうしの合同では信用を取り戻せず、県が過半を出資する新銀行で預金者の不安を鎮める設計を選んだとみられる。
初代頭取は、前日本勧業銀行奈良支店長の進藤正十氏。新銀行の設立が具体化すると、大蔵省は日本勧業銀行に、不動産に精通した人物を頭取に推薦するよう依頼した。旧銀行の資産の多くは、すぐには資金化できない不動産担保の貸出であった。安定策は役員の人選を大蔵省に一任し、県内の派閥と無縁の新しい人物を探すよう求めた。取締役には進藤正十氏のほか、前日本勧業銀行盛岡支店主事の渡辺栄次郎氏と前大蔵省銀行検査官補の安彦要氏が推薦された。進藤正十氏は「協力一致」を掲げ、創立後の第3期決算で業績を黒字に転換させた。不動産担保の評価と整理の経験を、頭取の人選の第一の条件に置いたと推察される。
岩手殖産銀行は、休業銀行の預金の払い戻しを資金面から支えた。旧銀行の債権を引き受けて払い戻しの原資を渡し、債務者には急な取り立てをしない方針をとった。1932年中に創立時に予定した20カ所の支店設置を終え、休業銀行預金の整理は同年11月末までに89%まで進んだ。1933年8月30日に進藤正十氏が辞職を願い出ると、同年9月に日本勧業銀行京都支店長の板井賛次郎氏が第2代頭取に就任した。板井賛次郎氏は日本勧業銀行盛岡支店の初代支店長で、1931年の県内金融恐慌にも支店長として対応した人物である。1936年8月には、整理の途上にあった盛岡銀行から建物と債権を引き取り、同行の後始末を後押しした。
岩手殖産銀行は1941年8月16日、陸中銀行の資産と負債の一切を譲り受けて買収合併した。陸中銀行は、1938年3月に(旧)岩手・第八十八・第九十の3行が合併して発足した銀行。発足から1940年12月末までに預金を154万円から573万9,000円に増やし、(旧)岩手・第九十両行の年賦別口預金112万3,000円を整理し終えた。1941年に入ると、国債の消化と軍需の資金統制を進めるため、1県1行主義のもとで銀行合同が推進された。岩手殖産銀行は7月3日に仮契約を結び、譲受代金159万5,000円と暖簾料10万円を支払い、陸中銀行の行員全員を採用した。合併によって岩手殖産銀行は、1県1行の「県民銀行」として県内金融を担う体制になった。預金整理を終えた陸中銀行には、単独で残る理由が乏しかったのだろう。
1943年8月2日、岩手殖産銀行は岩手貯蓄銀行の業務一切を譲り受け、職員もそのまま採用した。その前提は、同年3月に公布された兼営法で、普通銀行にも貯蓄銀行業務の兼営が認められたことにあった。法律の狙いは、大衆預金と長期の貯蓄性預金を吸収して国民貯蓄を増やすこと。両行は政府の勧奨に従って5月17日に合併契約を結び、岩手殖産銀行は譲受代金104万6,310円46銭と暖簾料20万円の支出を決めた。7月15日付で兼営の認可を得て、岩手貯蓄銀行の本店は岩手殖産銀行の盛岡支店となった。この合併で岩手殖産銀行は県内唯一の普通銀行となり、休業3行の整理から始まった統合は1行にまとまった。
敗戦の日の1945年8月15日、岩手殖産銀行は頭取通達で、預貯金の支払いを止めないという政府の方針を行内に示した。預金の払い戻しは一時増えたものの、請求に応じ続けたため、月末までに平静に戻った。1946年3月の金融緊急措置令と日本銀行券預入令に続き、同年8月の金融機関経理応急措置法で新旧勘定が分離された。同年10月公布の金融機関再建整備法のもとで、戦時補償の打ち切りなどで生じた特別損失を処理した。資本金は210万円から21万円に減資し、1948年3月31日に旧勘定の最終処理を終えた。損失を旧勘定に寄せたことで、新勘定の預金と貸出は止めずに営業を続けられたと考えられる。
1947年10月28日の株主総会で板井賛次郎氏が頭取を辞任し、岩手県出納長の雫石隆孝氏が頭取に就任した。板井賛次郎氏は1933年9月から14年間頭取を務め、戦中から戦後にかけて業容の拡大を担った。雫石隆孝氏の下で岩手殖産銀行は、県と役員に限っていた株式を一般に公募することを決めた。増資の募集には96万5,800株の申し込みがあり、1948年9月29日に資本金4,850万円への増資を完了した。株主の大半は県民で占められ、増資の完了は東北地方の各行に先駆けるものであった。役員にも県内各地区の有力者を迎え、県立銀行の性格から県民銀行への転換を進めた。県の出納長を頭取に迎えた人事は、県の出資で生まれた銀行を県民の株主に引き渡す移行を見越したものと思われる。
1957年5月2日に創立25年を迎えると、雫石隆孝氏は5月4日の支店長会議で経営3カ年計画の策定を通達した。計画は3年間で預金を100億円増やし、1959年下期に預金275億円と純益2億円を達成し、経営効率を地方銀行の平均に引き上げる目標を掲げた。1953年度からは総合予算制度を導入し、店ごとの資金計画と損益計画を実績と突き合わせる運営に移った。長期計画の前提には県内金融の変化があり、1949年11月に池田蔵相が1県1行主義の是正を表明すると、岩手県でも新銀行設立の動きが生じた。1950年11月に東北銀行が発足し、同年12月に岩手県は通産省から総合開発のモデル県に指定された。県内唯一の地方銀行の立場が崩れたことが、計画による業容の拡大と次の商号変更を促したと推測される。
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事実根拠:出所(岩手銀行)